睡眠を哲学する 第4回

画一化される睡眠―眠りと照明の歴史

伊藤潤一郎

1.一日に何度もの朝を

 いま多くのひとは、一日に一回まとまった時間に眠っている。眠るのが夜であれ昼であれ、細切れに睡眠を取っているひとは現代ではあまりいない。NHK放送文化研究所が実施している生活時間調査のような平均睡眠時間を問うアンケートに対して、たとえば「7時間」と答えたとしたら、回答者の大多数はまとめて7時間寝ているはずだ。3時間+4時間に分割して合計7時間睡眠だとするひとは圧倒的に少数派だろう。

 もちろん、一日に複数回の睡眠時間を設けていた人々もいる。メイソン・カリーが『天才たちの日課:クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』(金原瑞人・石田文子 訳、フィルムアート社、2014年)で面白おかしく書いているが、作家のバルザックは午後6時に夜ごはんを食べてすぐに眠り、午前1時に起きてすぐに7時間ぶっ通しで執筆し、朝8時から1時間半眠って、9時半からまた夕方4時まで仕事をしていたという。バルザックも7時間ほどは寝ていたようだが、睡眠を二度に分けるという変則的な生活リズムにどうしても目が行ってしまう。だが、『天才たちの日課』を読むと、そのような作家やアーティストは思いのほか多く、目覚めた後のすっきりした頭が一日に一回ではもったいないという気持ちが見え隠れしている。日本ではどうやら福沢諭吉が細切れ睡眠をしていたようだ。福沢は若き日々の睡眠についてこう振り返っている。

これまで倉屋敷に一年ばかりいたがついぞ枕をしたことがない、というのは時は何時(なんどき)でもかまわぬ、ほとんど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わずしきりに書を読んでいる。読書にくたびれ眠くなってくれば、机の上に突っ臥して眠るか、あるいは床の間の床側(とこぶち)を枕にして眠るか、ついぞほんとうに蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということはただの一度もしたことがない。〔…〕

 それから緒方の塾にはいってからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分にもし酒があれば酒を飲んで初更(よい)に寝る。一寝(ひとね)して目が覚るというのが今でいえば十時か十時過ぎ、それからヒョイと起きて書を読む。夜明けまで書を読んでいて、台所の方で塾の飯炊がコトコト飯をたく仕度をする音が聞えると、それを合図にまた寝る。寝てちょうど飯のできあがった頃起きて、そのまま湯屋に行って朝湯にはいって、それから塾に帰って朝飯を食べてまた書を読むというのが、たいてい緒方の塾にいる間ほとんど常極(じょうきま)りであった。

(福沢諭吉『新版 福翁自伝』昆野和七 校訂、角川ソフィア文庫、2008年)

 思想家や作家にとって、頭が明晰に働くかは生命線である。眠気を抱えたぼんやりした頭では、本を読むにしても、何かを書くにしてもおぼつかない。それゆえ、眠いと思いながら仕事をするよりは、一度眠って頭をすっきりさせたほうが仕事の効率が上がると考えてしまうのも無理はないだろう。バルザックや福沢は睡眠を一度に取らずに分割することで、一日に何度も「朝」をやって来させようとしていたのかもしれない。

 しかし、いささか常軌を逸したようにも思えるこうした分割睡眠は、じつのところ一部の奇人たちに特有のものではまったくなく、よく考えてみると誰にとっても馴染み深いものなのだ。

2. 居眠りと睡眠の効率化

 たとえば、子育てをしていると睡眠時間が大幅に減少するとよくいわれるが、その際に指摘されるのが、睡眠時間が減るだけでなく細切れになるということだ。まとまった睡眠時間を取れないのは、もちろん乳児に頻繁に授乳したりする必要があるからだが、もとをただせば赤ちゃん自身の眠りが大人の眠りと大きくちがうために、育児中の大人は寝不足になってしまうのである。

 乳児の睡眠時間は一日の三分の二にあたる16時間ほどといわれる。しかも2時間から6時間おきに目覚め、そこに昼夜の区別はないため、一日中均等に満遍なく睡眠時間がやってくる。赤ちゃんに典型的なこのような眠り方は「多相性睡眠」と呼ばれ、成長するにつれて夜の睡眠時間+昼寝の「二相性睡眠」となり、六歳頃には夜にだけまとまって睡眠を取る「単相性睡眠」に移行するとされる。「二相性睡眠」は、幼稚園や保育所で昼寝の時間が設けられていることを思い出すとイメージしやすいだろう。

 この三分類にあてはめれば、バルザックの眠り方は「二相性睡眠」であり、福沢は「多相性睡眠」である。人間誰しもが、成長するにつれて〈多相→二相→単相〉と睡眠の取り方を変化させてきたのだから、ある意味では、一風変わった人々の眠り方もじつは誰もが子どもの頃に経験してきたものだといえる。もちろん、大人になってからも子どものような眠り方をしているがゆえに、バルザックや福沢は奇人に見えるわけだが、思想家や作家は「大人の世界」とは異なる眠り方をするからこそ、常識に染まらない豊かな創造力を発揮できるのかもしれない。

 いずれにしても、発達段階による睡眠の取り方の変化は、乳児のような眠り方をする大人がほぼいないように、ある程度までは普遍的なものである。ただし注意したいのは、「単相性睡眠」が世界中どこでもおこなわれているわけではないということだ。まとまった昼寝を取るスペインのシエスタを考えてみても、眠り方は文化によって大きく異なっている。現代の日本は夜に一度だけ眠る「単相性睡眠」が主流の社会だと思えるが、文化人類学者のブリギッテ・シテーガは「居眠り」の習慣に注目し、日本は必ずしも単相性の睡眠文化圏ではないと指摘している。電車のなかや会議中に居眠りをすることが多い日本社会は、夜間以外の仮眠が習慣化しているというのだ。シテーガによる「居眠り」の定義を見てみよう。

居眠りしている当人は「睡眠とは異なる状況」において「社会に参加しながら」眠っているのであり、まさに文字どおり「居+眠り」しているのである。

(ブリギッテ・シテーガ『世界が認めたニッポンの居眠り:通勤電車のウトウトにも意味があった!』畔上司 訳、阪急コミュニケーションズ、2013年)

 このような眠りとは、前回までこの連載で「ながら睡眠」と呼んできた眠り方に近い。ヨーロッパに行くと電車のなかで寝ているひとをほとんど見かけないが、日本では通勤電車に乗りながら眠るひとはかなり多い。シテーガの言うように、居眠りはたしかに日本独特の睡眠習慣なのかもしれない。しかし、そのような眠り方は、眠りに効率を求めることと紙一重である。何かをしながら眠れば、睡眠時間を無駄にしなくてすむというわけだ。実際、シテーガの本がドイツで出版された際には、著者の意図に反して効率化を追求する「睡眠法」としても受け止められてしまっている。

 では、居眠りのような「二相性睡眠」や「多相性睡眠」はすべてが睡眠の効率化へとつながっていくのだろうか。歴史を遡ってみると、そこには効率化とはまったく異なる睡眠の世界が広がっていたようだ。ここで産業革命以前のヨーロッパへと目を向けてみよう。

3. 失われた眠り――ヨーロッパにおける二相性睡眠

 睡眠の形態は人間の発達段階に応じて変化するだけでなく、地域ごとにも大きく異なり、さらには時代によってもかなりのちがいがある。睡眠の地域差については、文化人類学を中心に研究が蓄積されており、たとえば『眠りの文化論』(吉田集而 編、平凡社、2001年)を開いてみると、睡眠と一口に言っても地域によってあまりに多様な眠り方があることに驚かされる。たとえば、シベリアではテントのなかにテントを張って二重テントで寝ていたらしい。

 では、睡眠の歴史研究についてはどうかというと、こちらもあるにはあるが、地域差よりも研究は進んでいない。例外は睡眠のための道具の歴史で、枕の歴史やベッドの歴史に関する書籍はいくつも刊行されている。この分野の古典ともいえる小川光暘『寝所と寝具の歴史』(雄山閣出版、1973年)や矢野憲一『枕の文化史』(講談社、1985年)は、読み物としても非常におもしろい。

 だが、モノとして残っている道具ではなく、人間がどのように眠っていたかという点になると、途端に研究が少なくなってしまう。人間が死んだ後も枕やベッドなどの寝具は残る可能性があるが、それを使ってどのように人間が寝ていたかということは、書き残された日記や文学作品などから類推するしかない。しかも、睡眠は毎日くりかえされる日常であり、特別な出来事ではないため日記などに書き残されにくいという事情もある。

 そのような悪条件のなか、産業革命以前のヨーロッパの人々の睡眠がどのようなものであったかを明らかにしたのが、ロジャー・イーカーチの名著『失われた夜の歴史』(樋口幸子・片柳佐智子・三宅真砂子 訳、インターシフト、2015年)である。この本によれば、産業革命以前の西ヨーロッパの人々の眠りは二相性睡眠だった。ただし、子どものように昼寝をしていたわけでも、日本の居眠りのような眠り方をしていたわけでもない。ヨーロッパの人々は、驚くべきことに夜の睡眠を二つに分割していたのである。イーカーチの説明を聞いてみよう。

近世の終わりまでは、西ヨーロッパの人はたいてい毎晩、一時間あまり覚醒したまま静かに過ごす合間をはさんで、まとまった時間の睡眠を二回取っていたのだ。十分な記述が残されていないため、いくつかの異なる言語で記された公文書や日記から空想文学まで、さまざまな情報源から得る断片的な記述が、この不可解な睡眠パターンの基本的特徴を探る手がかりとなる。一回目のひとまとまりの睡眠(睡眠相)は、ふつう「第一の眠り(first sleep)」と呼ばれていた。〔…〕二回目のひとまとまりの睡眠は「第二の眠り(second sleep)」または「朝の眠り(morning sleep)」と呼ばれた。〔…〕

 どちらの睡眠相も持続時間はほぼ同じで、真夜中を少し過ぎた頃一度目覚めて再び眠りに入る。

(イーカーチ『失われた夜の歴史』)

 一度寝入ったあとに必ず途中で目覚め、しかも一時間も覚醒したまま過ごしたあとに、もう一度眠る。現在の視点からすると非常に不思議な眠り方に見えるが、かつてはこうした二相性の睡眠が一般的だったとイーカーチは強調している。

 なぜヨーロッパでは分割睡眠が広くおこなわれていたのだろうか。『失われた夜の歴史』でひとつの仮説として検討されているのがキリスト教の影響である。たしかに、キリスト教世界において夜は、労働から解放された時間であると同時に祈りの時間でもあった。キリスト教の文脈で「徹夜(vigilia)」といえば、祝祭日の前夜に夜通しおこなわれる祈りを指すし、修道院では真夜中や早朝に祈りを捧げることが多い。それゆえ、祈りの習慣によって睡眠が二分割されるようになったのではないかという考え方は一見すると説得力があるが、イーカーチはこの説を退けている。というのも、キリスト教の誕生以前の文学作品、たとえばウェルギリウスの『アエネーイス』にすでに分割睡眠の記述があるというのだ。ただし、私自身が『アエネーイス』の該当箇所に遡ってみたかぎりでは、二相性の睡眠が描かれているようには読めず、分割睡眠の起源を突き止めるのはやはり難しいと思わざるをえない。

 そのはじまりや原因は定かでないとしても、夜間の分割睡眠の特徴が何よりも二つの睡眠のあいだのインターヴァルにあることはまちがいない。一時間ほどとされる睡眠と睡眠のあいだの時間に、人々は何をしていたのだろうか。実際にはとくに突飛なことはされておらず、トイレに行き、会話を交わし、ちょっとした家事をして、ときには瞑想やセックスをしていたとされるが、ひとつだけおもしろいのは夢のリアリティが現代人とは異なっていたということだ。現在のような夜にまとめて眠る単相性睡眠の場合、朝起きたらすぐに活動時間がはじまってしまう。起床後すぐに朝食を作り、家事をこなし、仕事に行く準備をするといった朝のタスクが待ち構えており、布団のなかから出たくなくても、出勤時間が迫ってくればそう長くはとどまっていられない。多くの現代人にとって朝はつねに時間がなく切迫されているわけだが、このような状況ではさっきまで見ていた夢を思い返す余裕はほとんどないだろう。朝の活動が夢を消し去ってしまうのが単相性睡眠の特徴なのである。それに対し、夜間の分割睡眠の場合は、睡眠と睡眠のあいだの時間に「第一の眠り」で見た夢をゆっくりと思い返すことができる。じっくりと夢について考える時間をもてた人々にとって、夢は現代とはまったくちがったリアリティをもっていたのである。

では、夜を二つに分けて眠る睡眠のかたちは、どのようにして消え、単相性睡眠に変化していったのだろうか。現代までつづく睡眠習慣が誕生するきっかけとなったものこそ、私たちにとってあまりにも身近な電灯などの人工照明だった。

4. 照明の歴史―ガス灯と自由の喪失

 イーカーチの『失われた夜の歴史』では、アメリカでおこなわれた興味深い実験が紹介されている。数週間にわたって夜間に人工的な光を使えない状態に置かれると、人間は分割睡眠をするようになるというのだ。実験者たち自身は、睡眠パターンの変化の原因が人工光にあるとまでは言い切らない慎重な態度を示しているが、イーカーチは歴史学の見地から人工光が原因でまずまちがいないと主張している。というのも、人工光をふんだんに使えた上流階級が残した文書には分割睡眠についての記述はほとんど見当たらず、夜を二つに分けて寝ていたという記録はもっぱら夜を暗闇のなかで生きていた階級の人々のものだからだという。実際、蠟燭などを大量に消費して夜遅くまで起きていることは、ある時期までは富の象徴だった。

 そもそも、人間にとって五感のうち最も重要なのはふつう視覚だとされている。人間の嗅覚や聴覚は他の動物に比べれば圧倒的に精度が低く、触覚と味覚は対象に直に触れないかぎり働かない(ゼロ距離でないと機能しないのが触覚と味覚である)。人間にとって遠く離れたものを最も感度よく知覚できるのは視覚であり、遠くの危険を察知するには目で見るのが一番なのである。だからこそ、視覚の機能が大幅に低下する夜は、長らく人間にとって恐るべき時間だった。悪魔が支配し、魔女が活動するといった夜に対する恐怖は、視覚の剥奪と無関係ではない。

 視覚を機能不全にする夜の闇に対し、人間はさまざまな照明を発明することで対抗してきた。長らく人類の歴史のなかで最も重要なあかりだったのは蠟燭の焔だが、蛍光灯やLED照明に慣れた現在の目からすると、蠟燭の光はあまりにも弱々しい。しかし、夜闇に浮かび上がる蠟燭の焔は、視覚を回復させる貴重な手段であり、またガストン・バシュラールが「蠟燭の焔は賢者たちを思索させたものだった」(『蠟燭の焔』渋沢孝輔 訳、現代思潮社、1966年)と述べるように、人間が内面へと立ち返るきっかけでもあった。いまや多くの照明は明るすぎて直視しつづけることができないが、かつての人々は夜の闇のなかで蠟燭の適度な光を見つめながらさまざまなことに思いを巡らすことができた。

 そのような蠟燭の時代が長くつづいたあと、18世紀末頃から照明の歴史は急にテンポを変え、ガス灯が普及し、さらには電灯が広まってゆく。照明の歴史についての古典ともいうべきヴォルフガング・シヴェルブシュ『闇をひらく光:19世紀における照明の歴史』(小川さくえ 訳、法政大学出版局、1988年)によれば、19世紀前半に登場したガス灯の特徴は、それまでにない明るさ、炎が安定していること、炎の大きさを調節できる、という三つの点にあった。日本でも明治初年に導入され、いまでも各地に歴史的情緒を感じさせるものとして残されているガス灯だが、根本的な欠点もあった。ガスを燃焼させる過程で酸素を大量に消費するため、空気がどんどん悪くなるのである。屋外であればよいが、劇場などの屋内ではいくら換気をしても酸素が薄くなり、おまけに微量ながらアンモニアや硫黄まで発生させるので、人間が頭痛や吐き気を催したり、天井や壁が変色したりする事態が頻発したのだ。

 ガス灯のよいところはそのままに、欠点だけをなくして19世紀末に登場してきたのが電灯であり、その後の20世紀は電気照明の時代となってゆく。電灯が及ぼした影響については、『闇をひらく光』の続編であるシヴェルブシュの『光と影のドラマトゥルギー:20世紀における電気照明の登場』(小川さくえ 訳、法政大学出版局、1997年)に詳しいが、ここではガス灯と電灯に共通する重要なポイントを見ておこう。

 照明の歴史を振り返ると、蠟燭とガス灯のあいだに大きな分断があることがわかる。両者のあいだで、燃料がどこにあるかに大きなちがいが生まれたのだ。蠟燭の場合、燃えるための燃料である蠟は目に見えてすぐそこにある。灯油ランプでも同じで、灯油がなくなれば火は消えてしまう。しかし、ガス灯はどうだろうか。燃料であるガスは、パイプラインという供給システムを通って家庭のガス灯までやってくる。供給元や配管のどこかで問題が起こらないかぎり燃料は供給されつづけるわけだが、逆にいえばガス灯は蠟燭や灯油ランプのような家庭内で完結した自給自足の照明装置ではないということだ。つまり、ガス灯の登場は家庭内で照明をコントロールする自由の喪失を意味したのである。

人々は、個人の自由が失われたのをはっきりと感じた。鉄道が、個人から、自分の乗り物を好きなように運転する自由を奪ったように、ガス灯も、個人が灯油ランプや蠟燭の「個人的」な焔を夢想にふけりながら見つめることを不可能にしてしまった。

(シヴェルブシュ『闇をひらく光』)

 当たり前だが、各家庭は自前でガスや電気を生産することができない。そのため、ガス灯や電灯の恩恵を受けようとするならば、それぞれの家はガスや電気を供給する巨大なネットワークの末端に組み込まれざるをえず、ガス管や電線を通じて否が応でも家の外へと門戸を開かなければならなくなった。ガス灯の出現以降、人間はエネルギー供給システムに依存し、自分自身で照明をコントロールするという自由を失ったのである。象徴的な言い方をすれば、蠟燭や灯油ランプの時代の夜の暗さと、大規模停電で地域一帯が真っ暗闇になった暗さとでは、その意味がまったくちがうということだ。そして、ガス灯の出現によるこうした個人の自由の喪失は、最終的に睡眠の画一化へとつながってゆく。家や工場にとめどなく供給されるガスの力によって、人々は夜に二度眠るという睡眠リズムを失ったのである。

5. 睡眠の画一化――照明と定時法

 19世紀に登場したガス灯や電灯は家庭内だけでなく、劇場などさまざまな場所に導入され、その結果、夜間の興行や飲食店の深夜営業が盛んにおこなわれるようになった。もちろん街灯としても用いられ、それまでせいぜいランタンが照らすだけだった薄暗い街路は格段に明るさを増し、夜の外出が容易になった人々のライフスタイルは大きく変化してゆく。人工照明によって夜にまとめて眠る単相性睡眠への変化が引き起こされたというイーカーチの説は、このような19世紀の照明の変化をふまえると非常に説得力がある。人工照明が人間の睡眠の画一化を生み出したわけだ。

 また、さらに重要なのは、ガス灯や電灯の普及によって、工場の二四時間操業がはじまったことである。マルクスは19世紀に現れた日勤と夜勤の交替制を資本主義の貪欲さを示すものとして批判したが、そうした働き方を可能にしたものこそ人工照明だった。

一日の全二四時間を通じて労働を占有することが、資本主義的生産の内在的衝動である。しかし、これは肉体的に不可能であるから、同じ労働力を昼も夜も、永続的に吸取りたいならば、肉体的障害を克服するために、昼間食いつくされる労働力と夜間食いつくされる労働力とのあいだの交替が必要である。

(マルクス『資本論(二)』エンゲルス 編、向坂逸郎 訳、岩波文庫、1969年)

 ガス灯や電灯がない時代には、工場を夜間に操業させることは明るさの面で難しかった。しかし、十分に明るい環境を整えられれば、夜のあいだ工場を止めておく理由はない。むしろ、夜間に操業しないことは損失となる。資本のこのような論理が生み出した日勤と夜勤の交替制に労働者が順応するためには、昼眠るか夜眠るかは別として睡眠時間を日に一度にまとめるほかなかっただろう。人工照明の普及を基盤として、労働という面からも睡眠は単相性へと画一化されていったのである。

 日本に関していえば、同じく19世紀に定時法が導入され時間についての考え方が大きく変わったことにも触れておかなければならない。江戸時代の日本の時刻制度は不定時法、すなわち日の出と日の入りという自然の変化に合わせて設定された時間だった。夜明けと日没を基準に昼の時間と夜の時間をそれぞれ六等分し、それを「一刻」と呼んでいたわけだが、当然、季節によって太陽が出る時刻や沈む時刻は異なるし、緯度によってもちがいが生じる。ということは、一刻の長さもまた一定ではない。夏は日が出ている時間が長いため、昼の一刻は長く、夜の一刻は短くなる。つまり、現在の定時法に換算すると一刻は時間の単位ではあるが、量的には不定なのである。それゆえ、不定時法に沿って生きる人々は、数分程度のちがいはまったく気にもとめない。一刻の長さが変化するのだから、小さな差異は意識されないのである。しかし、たとえば全国一律に分刻みで鉄道のダイヤを整備しようとするとき、そうしたアバウトな時間意識は障害になってしまう。そのため、日本では明治の初めに定時法が導入され、一日は二四時間、一時間は六〇分、一分は六〇秒という私たちの知る時刻制度が用いられるようになった。現代を生きる私たちにとってはあまりにも当たり前のことだが、定時法の特徴は何といっても時間を均質な量として計算できるところにある。不定時法で生きていたかつての人々の時間意識や、定時法が与えたインパクトについては、『遅刻の誕生:近代日本における時間意識の形成』(橋本毅彦・栗山茂久 編著、三元社、2001年)などさまざまな研究が積み重ねられてきたが、睡眠もまた例外ではない。明治時代に定時法が確立されたことにより、全国どこでも一律に時間という量によって睡眠を計測することができるようになったのである。この変化は、現在にまでいたる睡眠のあり方にとって決定的だった。

 いまでも平均睡眠時間についての調査が頻繁におこなわれているように、現代社会では健康と睡眠時間は密接に結びけられている。しかし、そもそも誰にとっても同じ時間量という尺度が整備されていなければ、平均睡眠時間という発想そのものが成り立たない。共通の尺度がないところに存在するのは、個々ばらばらの各人の睡眠の経験だけである。逆にいえば、睡眠が時間という尺度で定量化されることによって、人それぞれまったく異なる睡眠の質は、睡眠時間として比較が可能になるということだ。ぐっすり眠れたと思っているひとの六時間も、悪夢にうなされたひとの六時間も、同じく六時間睡眠なのである。つまり、定時法の導入によって、睡眠は量によって画一化されたということだ。

 このように、19世紀以降の社会はさまざまな面で睡眠を画一化しようとしてきた。その背後には、同じような時間に寝て、同じような時間に起きる画一化された人間を生み出そうという国家や資本家の思惑が見え隠れしている。学校、企業、軍隊、病院など、起床時間にうるさい組織は、人工照明と定時法によって睡眠を画一化し、制服やスーツというユニフォームを着て似たような生活リズムで生きる人間を生み出すことに力を注いできたのである。逆にそこで消え去っていったのは、ヨーロッパであれば夜を二分割して眠るような二相性の睡眠であり、日本であれば自然のリズムに沿った不定時法に合わせた睡眠だった。

6. 睡眠の歴史から睡眠の哲学へ

 睡眠の歴史を振り返ってみると、19世紀の照明の発達が大きな転換点だったことがわかる。人工の光を夜間も浴びつづける生活は、スマートフォンが普及した現在さらに加速している。人工的な光を浴びつづける人間はいかに眠るべきなのだろうか。19世紀以降の睡眠の最大の問題は、これ以外にないと言っても過言ではない。すでに二世紀近くもつづいているこの異様な状況から抜け出すためにはどうすればよいのだろうか。かつての二相性睡眠が解決策になるかといえば、シテーガの本の受け止められ方に表れていたように、分割睡眠すらも効率のよい眠り方として資本主義の論理に吞み込まれてゆくにちがいない。

 歴史は現在の輪郭を鮮明にしてくれるが、過去に解決策はなさそうだ。スマホをしまって、離島で夜空の星を眺めたところで、日常に戻ればまたディスプレイを見つめる日々がはじまってしまう。いまさら自然のリズムに合わせた生活などできっこない。むしろ、そんなものが本当にできると思いこむほうが危険だろう。これからの睡眠のあるべき姿を考えるならば、人工照明の遍在を前提としたうえで、よい睡眠のあり方を探究しなければならない。そのための糸口をここからは哲学に求めていこう。哲学者たちは睡眠をどう捉えてきたのだろうか。

(次回へ続く)

 第3回
睡眠を哲学する

私たちの睡眠は、完全な休息とは切り離されはじめている? 哲学者の伊藤潤一郎が、さまざまな睡眠にまつわるトピックスを、哲学を通して分解する。

プロフィール

伊藤潤一郎

いとう じゅんいちろう

哲学者。1989年生まれ、千葉県出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、新潟県立大学国際地域学部講師。専門はフランス哲学。著書に『「誰でもよいあなた」へ:投壜通信』(講談社)、『ジャン゠リュック・ナンシーと不定の二人称』(人文書院)、翻訳にカトリーヌ・マラブー『泥棒!:アナキズムと哲学』(共訳、青土社)、ジャン゠リュック・ナンシー『アイデンティティ:断片、率直さ』(水声社)、同『あまりに人間的なウイルス:COVID-19の哲学』(勁草書房)、ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で:黙示録的理性批判』(共訳、法政大学出版局)など。

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画一化される睡眠―眠りと照明の歴史