睡眠を哲学する 第3回

睡眠学習は何を目指していたのか?

伊藤潤一郎

1.      24時間眠らなくてすむ薬――ひみつ道具「ハツラツン」

 ドラえもんの「ひみつ道具」といえば、すぐに思い浮かぶのは「どこでもドア」や「タケコプター」、あるいは「タイムふろしき」といった超有名どころだろう。「ひみつ道具」を集成した、その名も『ドラえもん最新ひみつ道具大事典』(藤子・F・不二雄 監修、小学館、2008年)を開いてみると、「ひみつ道具」のバラエティの豊富さにあらためて驚いてしまうが、この大事典を丁寧に読んでいくと、眠りに関する道具が数多く登場していることに気がつく。

 たとえば、てんとう虫コミックスの『ドラえもん』第6巻に登場する「ハツラツン」。一粒飲むだけで24時間眠くならないといういわば最強のエナジードリンクのようなものだが、この道具がドラえもんのポケットから登場するまでののび太の言葉がとてもよいのだ。少し長くなるが、のび太の言い分を聞いてみよう。

のび太

学校から帰るだろ。つかれているから、ひるねするだろ。

友だちと遊ぶと、また、つかれてねるだろ。

夕食のあとは、テレビを見るだろ。

終わるころにはがっくりしてねるだろ。

これじゃ、勉強の時間がないのもあたりまえだ。

ドラえもん

いや、そのりくつはおかしい。

のび太

まあ、まてよ。

そこで、ぼくは考えた。

ようするに、ぼくはねすぎる。24時間の半分、ねてる。

ねてる間は、死んでるのと同じことだ。

もしも、この時間を全部おきて使えたら、

ぼくは、2倍生きることになる。

でも、まさかそんなくすりないよねえ。

 のび太はとにかくよく寝る。なんといっても特技は昼寝であるし、どうやら1日の睡眠時間は12時間らしい。おまけに、眠りが死と同じだという非常に含蓄のあることまで言っている。ちなみに、哲学者たちもしばしば眠りと死を結びつけてきたのだが、そのあたりの事情についてはもう少しあとの回で詳しく見ていくことにしよう。

 のび太が言うように、眠りと死が同じようなものである以上は、眠っている人間は何もすることができない。この連載の最初に確認したように、眠っているあいだの人間は基本的に生産も消費もできないのである。もちろん勉強や宿題もできない。だからこそのび太は、睡眠時間を削って勉強時間に回せば学校の成績もよくなるだろうと考えるわけだ。

安直といえば安直な発想だが、睡眠時間が長いひとにとって、寝ている時間を減らしてほかの活動に充てたいと思うのはきわめて自然なことだろう。かく言う私も毎日8時間以上は寝ないとベストコンディションにならないのだが、どうしても仕事のために睡眠時間を削ってしまうし、そもそもなぜこれほどまでエナジードリンクが広まっているのかを考えても、いまや「ハツラツン」は現代社会のありふれた日常となっているのかもしれない。

だが、前回見たように、睡眠時間を少しでも「生産的」なものに転換する方法は、睡眠時間を削るほかに少なくとも二つある。ひとつは、睡眠の質を向上させることで、こちらについては、連載第2回で西野精治『スタンフォード式 最高の睡眠』(サンマーク出版、2017年)を通してその問題点を確認したが、今回はもうひとつの方法である「ながら睡眠」に焦点を絞っていこう。つまり、「寝ながら何かをしたい」という少々怪しげな欲望について、その元祖ともいえる「睡眠学習」を例に考えていきたい。

《ドラえもんのうた》の歌詞のとおり、ドラえもんの「ひみつ道具」は人間のさまざまな欲望を叶えてくれる。実際、「ながら睡眠」もまた、ドラえもんが実現してくれているのだ。

2.      ながら睡眠――ひみつ道具「小人ばこ」

 「ながら睡眠」の夢をかなえてくれる「ひみつ道具」は、てんとう虫コミックスの『ドラえもん』第7巻に登場する。その名も「小人ばこ」。

 いつものように、のび太は宿題もせず昼寝をしている。いつでもどこでも眠れると豪語するのび太だが、ご存知のように学校の勉強は大の苦手なため、ドラえもんにこんな相談をもちかける。「ねてるまにしごとしてくれる機械って、ないものかなあ」。

 そこでドラえもんのポケットから登場するのが「小人ばこ」だ。頼みごとをしてから眠ると、寝ているあいだに箱から小人が出てきて、代わりに頼んだことをしておいてくれるというなんとも便利な道具である。

 のび太はまず、宿題を代わりにやってもらう前に小人の力を試してみる。くつみがき、しずかちゃんの家の草むしり、スネ夫の家の車の修理など、さまざまな頼まれごとを寝ているだけで解決していく。その結果、自分の宿題を小人に代わりにしてもらおうとしたら、昼間寝すぎたせいで眠れず、自力でするはめになるというオチがついてくるのだが、いずれにしても「小人ばこ」が叶えてくれるのは、寝ているあいだに何かをしたいという欲望にほかならない。

 もともと「小人ばこ」はグリム童話の「小人の靴屋」から着想を得ている道具だが、『ドラえもん』と童話を比べてみると、のび太が怠け者であるところが重要なポイントになっているのがわかる。「小人の靴屋」では、夜中になると小人が現れて靴を作り、それによって貧しい靴屋が助けられるわけだが、靴屋の夫婦は裸の小人のために服を仕立ててあげるように、非常にまじめで心優しい人物として描かれている。小人は勤勉で善良な夫婦の苦境を助けにやってくるのだ。それに対しのび太はどうかといえば、宿題を自分でしたくない、寝ているあいだに代わりにやってもらいたい、簡単にいえば怠けたいという願いから「小人ばこ」を使っている。ある意味でのび太の動機は不純であり、道徳的な教訓にはならないだろう(もちろんそこがのび太のいいところだ)。

 眠りながら何かをしたい、睡眠中に自分がすべきことを誰かに代わりに終わらせておいてほしい――このような「ながら睡眠」の欲望は、のび太が体現しているように、怠けたいという思いと表裏一体のものでありうる。もちろん、これはのび太の話であって、現在私たちが生きている社会における「ながら睡眠」への欲望は、怠けたいからではなく、より時間を効率的に使いたいという別の理由を背景としているだろう。前の晩に十分な睡眠時間がとれなくても、通勤の電車のなかで眠れば大丈夫と考えるとしたら、それは眠りながら移動するという立派な「ながら睡眠」である。だが、移動中の睡眠には、のび太のような怠惰な心は見る影もない。あるのはただ仕事による睡眠不足を補おうという気持ちだけだろう。

 いまや、のび太のような怠惰な心は「役立たず」として社会から追放されつつある。哲学者のビョンチョル・ハンによれば、つねに能力の発揮を求められる現代社会において考えるべき課題は「疲労」だという(『疲労社会』横山陸 訳、花伝社、2021年)。たしかに、みずからの能力を証明しつづけなければならない社会はあまりにも疲れる。「私はこんなことができます」と言いつづけなければならない社会には、怠惰が入り込むすき間はもはやない。通勤電車で座席を奪い合い、わずかな時間でも睡眠を取ろうとする都会の生活において、のび太がのびのびと生きるスペースはもはやなく、「ながら睡眠」の欲望だけが残っている。怠惰から生まれた「ながら睡眠」は、いまでは効率よく睡眠をとりたいという欲望から生まれるものになってしまったのだ。

3.      怠惰に忍び寄る労働

 とはいえ、のび太にもどこか効率性の論理が忍び込んでいないだろうか。『ドラえもん』からさらに時間を遡り、もう少しだけ怠け心について考えてみよう。

 「小人ばこ」が登場する「小人ロボット」の回が掲載されたのは、『小学二年生』の1973年5月号だった。約半世紀前のことである。歴史的にみれば、古くは19世紀のポール・ラファルグ『怠ける権利』(田淵晉也 訳、平凡社ライブラリー、2008年)をはじめ、怠けや怠惰は労働への抵抗として受け継がれてきたテーマだった。しかし最近では一部のアナキストを除いて、怠けることを賛美し、ひたすら眠ることを良しとするひとはほとんどいなくなってしまっているのが現状だろう。

 このような歴史的な変化を、数年前に話題となった梅崎春生『怠惰の美徳』(荻原魚雷 編、中公文庫、2018年)に収められたエッセイを読みながらみてみよう。「私は怠けものです」という一文からはじまる「蝙蝠の姿勢」(初出1949年)で、梅崎はみずからについてこう語っている。

私は毎日、夜は十時間余り眠り、昼寝を二時間ほどします。覚めている時間は十二時間足らずです。起きているときは、食事をしたり、本を読んだり、街をあるいたり、その余暇でもって僅かな量の仕事をします。

(梅崎春生「蝙蝠の姿勢」、『怠惰の美徳』所収)

 梅崎ものび太と同じく1日の睡眠時間は12時間のようだ。しかし、梅崎とのび太のあいだには微妙だが大きな違いがある。

 重要なのは、梅崎は眠るときに睡眠以外のことは何もしようとしていないところである。仕事の疲れをとるために眠っているわけでもない。「余暇でもって僅かな量の仕事をします」とサラッと書かれているが、ふつうは仕事の余暇に遊びに行ったり旅行をしたりするのだから、この作家の生き方は世間一般とは明らかにずれている。梅崎の生活は労働や仕事を中心に回っていないのである。労働に価値を置く立場からみれば、たしかに梅崎の生活は「怠惰」であるが、その眠り方には労働や生産性という価値観に染まった睡眠とは異なる可能性があるようにも思える。もはや梅崎の睡眠は、「働くべきなのに働いていない」という意味での怠惰ではない。梅崎の怠惰は、労働を生活の中心軸から外すことなのである。

 それに対し、のび太はどうか。のび太もまた怠惰であり、「小人ばこ」も怠けたいという気持ちから出てきた道具だった。しかし、小人の力を借りて睡眠中に宿題をしたいと思っている以上、そこには仕事や労働の論理が入り込んできている。なぜのび太は心ゆくまで眠りに没頭しないのだろうか。眠っているあいだに宿題を終わらせたがってしまうのだろうか。もちろん、仕事と怠惰という落差のある組み合わせが同時に可能になるところに「小人ばこ」という道具のおもしろさがあることはまちがいない。だが、この半世紀の社会の変化をみれば、眠りながら何かをしたいという欲望は、怠惰という側面を消し去り、睡眠を労働生産性の論理に呑み込んでいってしまった。その先に現われてくるのが、前回見た『スタンフォード式 最高の睡眠』のような現代の睡眠科学言説だろう。

 つまり、『ドラえもん』の「小人ばこ」においては、梅崎春生が体現していた怠惰への意志と、睡眠と労働をセットで考える現代的な思考の双方が重なり合っているのである。怠惰であるがゆえに、睡眠中にほかのこともしたい。この欲望を証言している作家をもうひとりだけみておきたい。さくらももこである。

4.      睡眠学習枕――さくらももこ「明け方のつぶやき」

さくらももこの数あるエッセイのなかでも、『もものかんづめ』に収められている「明け方のつぶやき」は指折りの名作である。語られているのは、さくらももこが17歳のとき(1982年頃)に買った「睡眠学習枕」についてだ。

 睡眠学習枕とは、もちろん「眠りながら学習する」という「ながら睡眠」のための道具である。興味深いことに、さくらももこも「ながら睡眠」を怠けと結びつけている。

睡眠学習枕とは「眠りながら単語などの暗記ができる」という夢のような商品で、怠け者の私の心をガッチリ摑んで放さなかった。

(さくらももこ「明け方のつぶやき」、『もものかんづめ』集英社文庫、2001年所収)

 寝ているあいだに楽に勉強したい。そのように思う怠け者が手を伸ばしてしまうものとして「睡眠学習枕」は登場する。テープレコーダーが内蔵された枕に覚えたい単語やフレーズを吹き込んでおくと、眠っているあいだに再生されて、起きたときにはその言葉を覚えているという代物だが、実際にさくらももこがどのような言葉を吹き込んだかは、ぜひ「明け方のつぶやき」を読んでいただきたい(下手に要約すると、このエッセイのおもしろさが損なわれてしまうので)。

 『知恵蔵mini』の「睡眠学習」の項目によれば、この枕型の睡眠学習器は1960年代に発売され、1970年代にかけて売り上げを伸ばして「累計50万台以上売れたとされる」ヒット商品だが、もちろんいまでは効果がないものとされている(近年になって新たな科学的知見も出てきているようだが、売り文句のような効果は証明されていない)。

 このいかにも怪しい睡眠学習だが、1960年代から70年代にはその効果を説く本も出版されている。そのひとつが、D. カーチス『睡眠学習法』(大伴公馬・長谷俊彦 共訳、黎明書房、1965年)である。

 カーチスの本によれば、睡眠学習とは潜在意識への働きかけにほかならない。眠った状態は、記憶の貯蔵庫である潜在意識への扉が開いた状態であり、このときにテープレコーダーで録音された音声がくりかえし流れると、眠っているあいだに潜在意識のなかに音声の内容が貯まり、覚醒後もそれを思い出せるというのだ。人間が何かを学ぶときには、どこかで丸暗記をせざるをえない場面に出くわすが、そのような暗記を睡眠学習によってより効率よくしようというのがカーチスの提案である。

睡眠学習は、時間的な節約に、能率増進に、一般的な知識の増進に、大いに助けとなることはいうまでもない。

(D. カーチス『睡眠学習法』)

 やはりここでも「能率」が重視されており、1960年代からすでに睡眠学習が効率の向上を目指すものとみなされていたことがわかる。さらにおもしろいのは、のちに帝塚山短期大学の学長も務めた心理学者・大伴公馬による「訳者序」の次のような言葉だ。

問題にしようとすることは、われわれが物事を記憶するのに、なぜそれを面倒くさく感ずるか、ということなのである。

(大伴公馬「訳者序」、D. カーチス『睡眠学習法』所収、強調原著者)

 面倒くさい学習こそ、睡眠学習でしてしまえばよい。そう大伴は考えているようだが、いうまでもなくこれはのび太やさくらももこにも通じるマインドである。面倒くさいことはできるかぎりしたくないから、眠っているあいだに効率よく学んでしまおう。もっと明け透けにいえば、楽してライバルに差をつけよう。そのような怠けと効率化が交わるところに睡眠学習枕は登場したのである。

5.      睡眠学習と宮城音弥

 もちろん、睡眠学習は1960年代当時からうさんくさいものであっただろう。多くの学者が無視するなか、ここに果敢に飛び込んでいったのが心理学者の宮城音弥である。宮城は1977年に『眠りながら学ぶ法:その基礎理論』(レオ教育センター)という睡眠学習論を出版している。

 宮城音弥といえば、東京工業大学の教授を長年務め、岩波新書から心理学に関する本を数多く出版していることで知られる(哲学好きであれば、岩波文庫のカッシーラー『人間』の訳者としてその名を目にしたことがあるひとも多いかもしれない)。それと同時に宮城は、いわゆる「トンデモ系」の議論にも臆せず手を出す心理学者として有名である。『超能力の世界』(岩波新書、1985年)、『精神世界の謎に出会う本:死後、ひとの心は何処へ行くのか』(青春出版社、1997年)など、タイトルからして学問的な懸念を抱いてしまう本も多く、実際に読んでみると疑問符をつけざるをえないところもあるのだが、こと『眠りながら学ぶ法』に関していえば、宮城の態度はどこか慎重である。

 カーチスの『睡眠学習法』が、睡眠学習のポジティブな可能性を強く打ち出しているのに対し、宮城の本は、睡眠学習でできることとできないことを見極めるという態度で書かれている。

 学習は、けっして、意志的なものだけではないし、機械的な学習のほうがふつう` ` `なのである。注意を集中して、頭をつかって学習する学習もあるが、習慣的な行動をつくる学習には、意志的でないものが多い。

 眠りながら学ぶ場合の学習は、このような学習と同じ種類の学習である。

(宮城音弥『眠りながら学ぶ法』、強調原著者)

 ここで宮城は、睡眠学習が有効なのは機械的な学習のみであって、集中力を必要とする学習には効果がないと述べ、睡眠学習が効果をもつ範囲を区切っている。このような態度は一貫しており、「学習できるものと学習できないものがあることを知らねばならない」、「睡眠学習によってすべての学習ができるというのは錯覚であり、誤りである」といった言葉がくりかえしこの本には登場する。

 とはいえ、睡眠学習自体が否定されているわけではないところが重要だ。宮城の力点はあくまで睡眠学習の有効範囲の画定にあった。実際、宮城が編纂した『岩波心理学小辞典』(岩波書店、1979年)にも「睡眠学習」は立項されており、「睡眠中に、とくに言語などを学習すること」と説明されている。宮城自身は心理学者として誠実にふるまおうとしていたのだろうが、睡眠学習の効果を機械的な暗記に限定することによって、むしろ宮城の本は睡眠学習枕の効果にお墨付きを与えるものとなってしまっている。いま『眠りながら学ぶ法』を読むと、そのように思わざるをえない。

6.      睡眠学習のその後――自己啓発本、科学的睡眠本

もちろん現在では、睡眠学習の効果を信じているひとはほとんどいないだろう。では、睡眠学習とは時代の徒花だったのだろうか。睡眠学習のその後を追ってみよう。

 先にも見たように、睡眠学習理論を支えているのは潜在意識の存在である。潜在意識に効果的に働きかけることによって、眠りながら機械的な暗記をおこなおうというわけだが、これを暗記以外にも広げて自己啓発本にしたのが、第1回でも少し触れたジョセフ・マーフィー『眠りながら成功する:自己暗示と潜在意識の活用』である。大島淳一による日本語訳の最初の版が出版されたのは1968年のことであり、ちょうど睡眠学習が登場してきた時期にあたっている。マーフィーによれば、潜在意識への扉を意識することによって豊かになる道が開かれるというのだが、ここには明らかに睡眠学習と似たところがあるだろう。

 夜、眠りにつくとき、次のテクニックを実行してください。静かにくつろぎ、実感を込めながら「富」という言葉を繰り返してください。子守唄のように何度も何度も繰り返し、「富」という一語とともに眠りにつきなさい。

 その結果、あなたはびっくりすることになるでしょう。富はなだれのごとく、ふんだんにあなたのもとに押し寄せてくるはずです。これもまた、潜在意識の魔術的な力の一例です。

(ジョセフ・マーフィー『眠りながら成功する』大島淳一 訳、産業能率大学出版部、2022年)

 どこからどう見てもうさんくさい。そう思うひとがほとんどだろうが、このうさんくささは明らかに睡眠学習の怪しさと通じている。宮城が睡眠学習の限界を強調したのもむなしく、マーフィーのこの本はロングセラーとなり、いまでも書店の棚に並んでいる。潜在意識を強調する睡眠学習の論理は、怪しげな自己啓発として1980年代以降も生き延びていったのである。

 もうひとつ、思いもかけぬところへと睡眠学習の「精神」は受け継がれている。さくらももこのエッセイに戻ってみれば、たしかに「明け方のつぶやき」は表面的にみれば怠け者の笑い話だろう。だが、カーチスの『睡眠学習法』が1965年に翻訳され(1977年には改訳版まで出版されている)、50万台以上の睡眠学習器が売れたという事実を踏まえれば、やはり睡眠学習には1960年代から80年代の人々を惹きつけるなにかがあったのだと考えるべきだろう。「明け方のつぶやき」では、怠け者というさくらももこの個人的な性格が前面に押し出されているが、その背後には「効率化」というきわめて冷淡な社会的要請があったのではないだろうか。さくらももこは「明け方のつぶやき」の後日譚として、次のような言葉を残している。

当時よく見かけた“睡眠学習枕”の広告も、最近は全く見かけなくなってしまった。あの商品はもう生産中止になったのであろうか。だとしたら、あの枕は70年代中期から80年代中期の遺産として貴重である。役に立つか立たないかは問題ではない。人類が考え出したバカらしい歩みとして、私はとっておきたいと思う。

(さくらももこ「その後の話」、『もものかんづめ』所収)

 実際、睡眠学習枕は姿を消した。科学的な根拠がなかったのだから淘汰されて当然だといえるかもしれないが、おそらく睡眠学習枕とともに消えていったのは怠惰な心だけだった。別の言い方をすれば、睡眠学習を支えていたもうひとつの欲望、「効率化」への意志は消え去らなかったということだ。むしろ、効率化を求める欲望はその激しさを増しながら現在までつづいている。睡眠に効率を求める論理が、近年の科学者による睡眠本を貫いていることは前回見たとおりである。

 それゆえ、睡眠の効率性、そしてそれと結びついた生産性という点でいえば、睡眠学習と現代の科学的睡眠本は地続きの関係にあるのだ。西野精治『スタンフォード式 最高の睡眠』に代表される科学者による現代の睡眠本は、まともな科学者であれば取り合わないトンデモ系の言説と一脈通じているといってもよい。両者に共通する効率性や生産性という地平から脱け出し、「バカらしい歩み」を止めること――いま睡眠を哲学する意味はまさにここにある。

 では、そのためにどうするか。今回は1960年代まで時計の針を巻き戻すことによって、睡眠に効率性を求める言説が半世紀以上つづくものであることをみたわけだが、次回以降はさらに歴史を遡ってみよう。そこには、梅崎春生の「怠惰」のような、現在の常識とは異なる睡眠の姿が眠っているかもしれない。

(次回へ続く)

 第2回
睡眠を哲学する

私たちの睡眠は、完全な休息とは切り離されはじめている? 哲学者の伊藤潤一郎が、さまざまな睡眠にまつわるトピックスを、哲学を通して分解する。

プロフィール

伊藤潤一郎

いとう じゅんいちろう

哲学者。1989年生まれ、千葉県出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、新潟県立大学国際地域学部講師。専門はフランス哲学。著書に『「誰でもよいあなた」へ:投壜通信』(講談社)、『ジャン゠リュック・ナンシーと不定の二人称』(人文書院)、翻訳にカトリーヌ・マラブー『泥棒!:アナキズムと哲学』(共訳、青土社)、ジャン゠リュック・ナンシー『アイデンティティ:断片、率直さ』(水声社)、同『あまりに人間的なウイルス:COVID-19の哲学』(勁草書房)、ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で:黙示録的理性批判』(共訳、法政大学出版局)など。

集英社新書公式Twitter 集英社新書Youtube公式チャンネル
プラスをSNSでも
Twitter, Youtube

睡眠学習は何を目指していたのか?