生成AIの登場によって、人類はより情報や知識にアクセスしやすくなった。それゆえ、「知識があるだけの人間は意味がない」「いっぱいものを知っていることより、創造的なアイデアを持っている人のほうがいい」といった言説も流通し始めている。人間にとって「知る」ことの意味とは何か。そして、現代の「知る」ことの困難とは何か。
哲学・批評・クイズ・ビジネスの領域で活動し続ける田村正資氏が、さまざまな分野を横断しながら、「知る」ことの過程をひもといていく。
■ 灰色の世界に色を塗ること
あなたはいま、とんでもなく広い会場で催された同人誌即売会に来ている。見渡す限りに小さなブースがひしめき、ブースからブースへと無数の人々が行き交う。ちょっと見渡しただけでも、メジャーなものからまったく聞いたことのないニッチなものまで、いろんなジャンルの同人誌が並んでいる。そんな会場の真ん中に、あなたはぽつんと立っている。どうして同人誌即売会に参加しているのか、どうやってここまで来たのかは思い出せない。物心がついたときには、もうここにいたのだ。
すぐ目の前のブースでは、出店者と客が楽しそうに話している。彼らの会話に耳をそばだててみると、「オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットする」[1]といった具合に、意味の取れない言葉が飛び交っていて、会話の内容がまったく掴めない。あなたはそのブースを後にして、会場をあてもなくさまよう。自分はどうしてこんなところに来てしまったのだろう、と思い悩み始めたとき、視界の端になにかがよぎった。気になって振り返ってみると、この前あなたが□□した□□□□のイラストが描かれた小さな本が置かれていた。広い会場のなかで初めて見つけた、親しみの持てるもの。あなたは思わず手に取って開く。そこには、あなたが知っているものの知らないことがたくさん書かれている。こちらをじっと見つめていた出店者に「これください」と言って、本をもらったあなたはブースを後にする。すると、いま本を買ったブースの近くには、同じとは言えないまでも似通ったテーマのブースがたくさん並んでいることに気づく。あっちへこっちへとさまよっていたあなたの視線は、ひとつひとつのブースにじっくりと注がれるようになって、周囲を覆っているコンクリートの壁のように灰色だった会場が、ところどころ色づき始める。
これは「知ること」についてのひとつの寓話である。同人誌即売会に行ったことがない人は、ひとりで初めて訪れた土地のことや、誰も知り合いがいないクラスに初めて登校した日のことに思いを馳せてみて欲しい。新鮮ではあるが馴染みのない情報があふれすぎていて、どうしたらいいのかまったくわからない。ツルツルの岩を登れと言われたロッククライマーのような気分で、あなたは世界の表面を少しずつなぞっていく。「これだ!」と指が引っかけられそうな場所には、あなたが「知っている」ものがあるはずだ。そこを起点にすることで、のっぺりとしていた世界に起伏が生まれる。「ここ」からいろんなところに行けるようになって、「いま」は過去への追憶と未来への期待によって縁取られていく。何かを「知ること」はこんなふうに私たちの経験をかたちづくっている。
「知ること」は、情報であふれた灰色の世界に色を塗ることだ。それは、まったく予期せぬ仕方であなたの世界を変える。
これが、この連載を通じてあの手この手で伝えたいテーゼだ。色を塗るという比喩が気に入らなければ、手触りを与えていくとか、味付けするとか好きなイメージで受け取ってもらえればいい。もし僕の想像の範囲を越えた読者がいるなら、視覚でも聴覚でも触覚でも嗅覚でも味覚でもない、新たな感覚のグラデーションを世界に与えていくことだと捉えて欲しい。とにかく、知ることは僕たちが「いま」「ここ」から世界を生きていくためのとっかかりをもたらすもので、それは予期せぬかたちであなたの世界を変えてしまうのだ。そこに、知ることの悦びと悲哀がある。
■ いまさら「知ること」について知る必要があるのか?
そこかしこに情報が溢れている。都市空間においてなんの情報も記されていない空白は経済的な損失とみなされ、発見されればすぐに駐車場かカフェか広告に置き換えられる。スマートフォンには通知がひっきりなしに届き、友人がいま何をしているのか、日経平均がどれくらい乱高下しているのかを教えてくれる。SNSには、読点と改行を小賢しく使い回してほどよく密度を薄めたティップスと、誰かにとっては決して許すことのできない行いを咎める最新炎上トピックが「あなたも知るべき情報」という顔をして流れてくる。隙間という隙間に情報が流し込まれて窒息しそうになる。にもかかわらず、僕たちは手持ち無沙汰になればすぐにスマホに手を伸ばしてしまう。沈黙よりも、空欄よりも、とにかく無いよりも有るほうが気楽なのかもしれない。それほどまでに情報にどっぷりと浸かり、実際にこの指で情報に触れ続けている僕たちが、いまさら「知ること」について何か知るべきことがあるだろうか? そんなことよりも、何かを知ったほうがいいじゃないか。
しかしながら、「知ること」がどういうことなのか僕たちが十分に知っているとは言い難い。この事実は、知識や情報の海にどっぷりと浸かっているとすぐに見えなくなってしまう。たとえば、世界史の年号と出来事の対応のような知識で頭のなかを満たすことが知るということなのだろうか。たしかにそれは知ることのひとつの側面ではあるけれども、知ることを「頭のなか」で生じる出来事として捉えている限り、その面白さや奥深さ——あるいはその恐ろしさには、決して辿り着けないように思う。
僕自身が何かを知ることそれ自体について深く考えるようになったきっかけは、高校の部活動でクイズに打ち込んだことだった。クイズといえば、世界史の年号と出来事の対応をひたすら覚えていくようなイメージを持たれるだろうし、僕も当初はそう思っていた。ところが、そんなことはなかった。たとえば、高校生でクイズを始めたての頃、こんな問題に出会った。
「日本の総理大臣を五〇音順に並べたとき、最初に来るのは芦田均(あしだ・ひとし)ですが、最後に来るのは誰でしょう?」
正解は若槻禮次郎(わかつき・れいじろう)だ。第一次世界大戦と第二次世界大戦の狭間の期間、二度にわたり総理大臣を務めた人物である。ところが、問題文はもはやそういった業績とは何も関係がない視点で作られている。そこにあるのは、僕たちの知識に対する固定観念をあざ笑うような、クイズのための視点、クイズのためのクイズだ。日本史の教科書には決して登録されたことのないタイプの知識が、クイズの視点によって生み出されていると僕は感じた。
僕たちはたくさんのことを知っているようでいて、知っていること同士の関係にはまったく無頓着だったりする。知識と知識のネットワークは、僕たちがなんらかの視点を持ち込むことによって、いかようにでも複雑になる。大学を始めとする研究機関では学際的な取り組みの重要性が叫ばれて久しいけれど、これも人類が知っていることをただそのままにするのではなく、互いにいろんな視点で結びつけてみる試みだ。そういった試みが必要なのは、つまるところ僕たちが何かを知るそのたびごとに、それが知識のネットワークにどんな影響を及ぼすのかという未知の探索領域が立ち現れてくるからなのである。
知識で頭を満たすことは、何かの終着点ではない。知ることは、それによって新しい探索領域がぽっと出現して、世界の様相が変わってしまうような出来事なのだ。かつて『ユリイカ』という文芸誌でクイズの特集が組まれたとき、テレビのクイズ番組で活躍するタレントの宮崎美子は寄稿したエッセイのなかで次のように書いていた。
勉強をするなかで、人間の文明の歴史というのは、有形無形すべてのものに名前をつけてきた歴史なんだということがわかりました。そして、そうした研究を続けている研究者の凄さを知りました。なんだか知という海の波打ち際で貝殻を一つ拾ったように思います。[2]
宮崎は、僕たちが何かを知ることの悦びとその先に垣間見える恐ろしさに触れている。彼女は、何かを知れば知るほど、その奥にはまだ知らないものがたくさん控えていること、そしてそのさらに奥にはいまだ名前すらもついていない——それゆえ、クイズ番組には決して出題されることのない——領域が広がっていることを「知という海の波打ち際」に立つというイメージで印象的に表現している。知ることは、未知の領域が絶対に克服できないものであると思い知らされることだと言えるだろう。
■ 知ろうとすることをやめれば、世界は「似たもの」で溢れていく
知識で「頭のなか」を満たすことに囚われてしまうと、自分が「知らない」という状態を正しく認識することはできなくなる。そうなると、世界は、ふたたび灰色に戻るのだろうか? いや、事態はもう少し複雑で、もっと厄介だ。
「知ること」を軽視した人間にとって、世界は「似ているもの」で溢れかえることになる。
以前、ある合唱のコンサートを観に行ったときのことだ。ステージ上では数十人からなる合唱団が声を合わせ、美しいハーモニーを奏でている。観客はおおかた合唱団メンバーの家族や友人なのだろう。そんな会場を見渡しながら、僕はふと思いついたことを隣に座っていた妻に漏らした。「どこの界隈も、似たような顔の配合で構成されているよね。」ステージで歌っている会社の同僚と隣に座っている友人を除けば、二〇〇人ばかりはいるだろう他の人たちはみな赤の他人だ。当然、彼らの顔も初めて見る。しかしながら、そのなかの誰の顔を見ても、これまで見てきた友人・知人の誰かしらに顔が似ているように思えた。そうした感覚をもとに、僕は乱暴な仮説を立てる。人間の顔のかたちには、実はそんなにバリエーションなどなくて、数百人くらいの集団を作ればだいたいどのバリエーションの顔も含まれたグループになる。誕生日と同じだ。だから、知らない人の顔を見たときにだいたい「あ、この人は友人の○○に似ているな」と自分の知っているバリエーションに結びつけることができてしまうのだ、と。
僕の洞察を聞いた妻は怪訝な顔をして、「それって、知らない人を自分の知ってる基準に当てはめたくなってるんじゃないの?」と返してくる。うわー、そうかもしれない。得意げに披露した仮説を一瞬で——道徳的にも——粉砕された僕は、おとなしくコンサートを楽しむことにした。
僕たちは日々、情報の濁流に晒されている。そのすべてにいちいち立ち止まって、新規性や独自性を見極めようとしていたら、いくら時間があっても足りない。だから、僕たちの脳は省エネをしようとする。目の前で起こっていることを、すでに知っているもののどれかに当てはめて、「ああ、あれに似ているね」「要するに○○系ね」とラベルを貼って処理済みボックスに放り込んでいく。これは僕たちの生物としての生存戦略でもあるのだからいたしかたない面もあるのだが、それに任せて「知ろうとすること」をサボり始めたとき、世界は「似ているもの」で埋め尽くされてグラデーションを失い始める。それは一見、あらゆるものをクリアカットに理解できる居心地の良い空間にいるようでいて、実は認識のエコーチェンバーに閉じ込められているだけだ。
何かと何かが「似ている」と評してふんぞり返るのは、単なる知的怠慢に他ならない。新しく登場してきたものに対して、「要するに○○と同じだね」と評価してそれで終わり。それは対象を見ているようでいて、自分の記憶の引き出しを眺めているに過ぎない。「知ること」「知ろうとすること」とは、この引力に抗うことなのだ。「似ている」というのは、認識の終着点、結論ではない。それは認識のとっかかりであり、出発点なのだ。似ているもののあいだに、決定的な違いを見出していくこと。テキトーな名前で括ってしまいたくなるその瞬間に、「いや、ここは違うぞ」と踏みとどまって、現象に固有の凹凸に指をかけること。そうやって自分の身体で登ってみて初めて、世界は似たものの反復であることをやめる。知ることは、世界のなかにあるひとつひとつの事象に固有性を取り戻していく作業でもあるのだ。
■ 旅のガイドマップ——これから考えていくいくつかのこと
「知ること」は、情報であふれた灰色の世界に色を塗ることだ。それは、まったく予期せぬ仕方であなたの世界を変える。
「知ること」についてのテーゼをこのように掲げながら、この連載では実際に「知ること」がどんなふうに僕たちの世界を変えているのかについて論じていく。ひとつひとつのトピックを通じて、読者とともに「知ること」について知っていく試みだ。
たとえば、「知ること」はしばしば「体験すること」と対比される。映画鑑賞や美術鑑賞のような場面では、作家や作品についての背景情報を持っていることが鑑賞体験にどんな影響を及ぼすのかがよく議論になる。何も知らずに瑞々しい感性で作品を鑑賞したほうがよいのだとか、反対に、作品に込められたメッセージや技術をしっかりと受け取るためにはある程度の知識がなければいけないのだとか。異なる主張がぶつかり合って議論になるのは、作品や作家について知ることが作品の体験になにか影響を及ぼすであろうことに僕たちがなんとなく気づいているからだ。それが体験を「汚染」してしまうのか、それともアンプのように「増幅」させるのか、そういったテーマについても考えてみたい。
鑑賞体験をめぐるテーマとしては他にも「ネタバレ」の問題が挙げられる。背景知識以上に作品の体験そのものに決定的な影響を及ぼしてしまうであろうネタバレは忌避され、鑑賞前の人に不用意なネタバレをしたものはしばしば非難される。このとき、ネタバレは僕たちの世界をどんなふうに変えてしまっているのだろうか。この「どんなふうに」を考えるうえで有効なのは、ともするとスキャンダルとの対比ではないだろうか。有名なコンテンツのディレクターや出演者、そして制作過程のスキャンダルが明るみになったとき、それを知ることは作品の体験にどんな影響を及ぼすのだろうか。作品内の情報の先取り(ネタバレ)と、作品外の炎上(スキャンダル)を対比することで、鑑賞をするときに僕たちが実のところ何をしているのかについて明らかにできないだろうか。
より「知ること」についてメタ的に深めていこうとすれば、「知ること」の対極にある「知らないこと」についての理解を深めていく必要が出てくる。近年、「無知学(Agnotology)」と呼ばれる分野が興り、研究が進められているが、そうした研究成果から見えてくるのは、僕たちの「知ること/知らないこと」の枠組みが社会の在り方とも深く関係しているという事実であるだろう。
「知らないこと」についてのメタ的な考察は、僕たちの認知的な特性にも注意を促す。たとえば受験勉強やクイズ、そして陰謀論において、与えられた問いや疑問はすべて「すでに知っていること」によって説明できるのだと見なしてしまう——原理的に「知らないこと」を消去する——ことが、知的生産性=パフォーマンスを高めることに繫がってしまうという興味深い特性だ。出題者(陰謀の仕掛け人)の意図を汲みとれば、かならず自分たちが持っている知識で答えが出せるはずだ——こういったメタ的な想定を成立させる「出題空間」に閉じこもることで、僕たちは知的な生産性を上げることができる。このようなテクニックが、いかに「ハック」として機能し、そして同時に現実世界を歪めてしまっているのか。そういったこともこの連載ではテーマとして扱っていきたいと考えている。
いま挙げてみせたのは、想定しているテーマのほんの一部に過ぎない。「知ることはあなたの世界をどう変えるのか」。知ることについて知るための旅を、ここから始めようと思う。
(次回へつづく)
[1] エチオピアやエリトリアで主食として食べられる「インジェラ」という料理の制作プロセスを中途半端な日本語に翻訳したフレーズ。2019年9月17日に放送されたバラエティ番組「相席食堂」のなかに登場し、シュールな笑いを誘う映像とテロップの組み合わせがネットミーム化した。「読むことはできるがまったく意味の取れない解説」の例として使われることがある。
[2] 宮崎美子(二〇二〇)「知という海の波打ち際で」、 『ユリイカ』二〇二〇年七月号、 青土社、 六七。

生成AIの登場によって、人類はより情報や知識にアクセスしやすくなった。それゆえ、「知識があるだけの人間は意味がない」「いっぱいものを知っていることより、創造的なアイデアを持っている人のほうがいい」といった言説も流通し始めている。人間にとって「知る」ことの意味とは何か。そして、現代の「知る」ことの困難とは何か。 哲学・批評・クイズ・ビジネスの領域で活動し続ける田村正資氏が、さまざまな分野を横断しながら、「知る」ことの過程をひもといていく。
プロフィール

たむら ただし 哲学者。1992年生まれ。東京都出身。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は現象学とモーリス・メルロ゠ポンティ。著書に『問いが世界をつくりだす メルロ゠ポンティ 曖昧な世界の存在論』(青土社)、『独自性のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)など。


田村正資




松本 裕(まつもと ゆたか)×上谷 さくら(かみたに さくら)


大塚英志
石橋直樹