メディアが公式に従わざるをえないアニメ業界
本連載の第1回で、アニメ専門誌に対する原稿“監修”問題に言及した。クリエイターのインタビュー原稿などを、言い回しや語尾に至るまで公式(製作委員会)が非常に細かくチェック・修正し、それを“監修”と呼ぶ、国内アニメ業界独特の習慣についてだ。
若かりし頃の筆者も、その洗礼を幾度か受けている。原稿が原型を留めないほどの大量修正を食らったのだ。しかもその修正は、誤字脱字や事実誤認の指摘、「この言い回しのほうが、ニュアンスが正確に伝わる」といった類いに限らない。むしろ、実際の発言を「波紋を呼ばない、当たりさわりのない表現」に丸める修正のほうが分量としてはずっと多かった。
口惜しかったのは、現場で直に聞いた話のほうが批評性に富み、皮肉や諧謔に満ち、鋭く本質を突いていたにもかかわらず、修正によって明らかに――筆者からすれば――「つまらなく」なっていたことだ。
声優インタビューは特に顕著だった。人柄がにじみ出るプライベートでの仰天エピソード。魅力的なユーモアや毒舌。出演した作品に対する、批判的ではあるが建設的な指摘。言葉選びのセンスから匂い立つ知性や感性。それらは、彼あるいは彼女がタレントとして打ち出している「色」や、作品で演じているキャラクターからイメージが大きく乖離しない範囲においてしか、原稿に残すことが許されない。もっと言えば、製作委員会が策定した宣伝方針にそぐう要素しか、「公式発言」には含められない。
結果、尖った物言いは容赦なく削除され、読む者をドキドキさせる力強い断定は「…という考え方もありますよね」などと角を落とされ、あるいは無難な形容詞に書き換えられ、置きにいった陳腐ワードが整然と並んだ、通り一遍のクリシェ(使い古された常套句)に整形される。雑誌だろうがムックだろうがウェブ記事だろうが、メディアの別は関係ない。
新作レビュー(ここでは作品紹介と評論の中間くらいの読み物記事をイメージしてほしい)もそうだ。数年前のこと。アニメ専門誌ではない一般誌の編集部から、ある劇場用アニメ作品の署名付きレビューを依頼されたので、執筆した。
すると、原稿を読んだ公式(宣伝担当)から編集部宛てに膨大な修正が入ってきた。修正というより、ほぼ全面改訂だった。
酷評したわけではない。やや変化球気味に「こういう見立てもある」とコラムっぽく書いたと記憶している。しかしそのアプローチ自体、つまり筆者の個人的な“解釈”が、公式として打ち出したい作品の方向性と合わなかったらしい。原稿が、後述する「世界観」にフィットしなかったのだ。
そもそも、なぜ掲載前の原稿を製作委員会に見せる必要があるのかといえば、そうしないと雑誌掲載用の絵素材(場面写真など)を借りられないからだ。そこに交渉の余地はない。一介のライターが「表現の自由が」などとゴネて編集部を困らせたところで誰も幸せにならないのは、よく理解していた。
なので、修正をすべて受け入れたうえで、原稿から署名を外してもらった。「文・編集部」としてもらったのだ。
公式の“お願い”を律儀に守る
公式がメディアに「このように書いてほしい」と事実上の依頼を行うケースは、アニメ業界ほどではないが映画業界にもある。
試写会場で配られる作品資料一式の中に、「◎月◎日までは、この人物が△△という行動を起こしたことは書かないでください」といった注意書きの紙片が挟まっていることがある。明らかにホラー映画なのに「ホラーという言葉を使わないでください」という“お願い”が来ることがある。
気持ちはわかる。公開前のあまり早い段階でストーリーの細部を明かしたくないのだろう。紹介記事で「ホラー」と謳った瞬間に観客層が狭まるのを避けたいのだろう。
しかし、それは公式側の事情にすぎない。
公式が策定した宣伝方針を守らなければならないのは、配給会社の宣伝部や宣伝を請け負う宣伝会社、あるいは有償PR案件として稼働するインフルエンサーや著名人であって、映画メディアや映画ライターといった「報じたり論じたりする人たち」ではない。
ないはずだが、メディアやライターのほとんどはこういう注意やお願いを従順に守る。なぜなら、映画系メディアは公式から絵素材を提供してもらえなければ記事を作ることができず、映画ライターは業界内で「言うことを聞かない面倒な奴」だという悪評が立つと仕事がやりづらくなるからだ。この点はアニメ業界と同じ。商業メディアである以上、自分たちの飯の種をハンドリングしている「お上(公式)」に反抗して良いことなど、何もない。
大本営と公式
「こう書いてほしい」という依頼がなくとも、メディア側が進んで、公式発表をそのまま、疑うことなく、無批判に掲載するケースは少なくない。
『ハリウッド映画の終焉』(集英社新書)などの著書がある映画・音楽ジャーナリストの宇野維正は、2024年に刊行した『映画興業分析』(blueprint)の巻末で、00年代以降の映画ジャーナリズムについて以下のように書いた。
「各映画ウェブメディアでは、興行通信社が一般向けに公開しているその作品の興行にとってマイナスとなる情報を周到に排除したテキストや、文字通りの『大本営発表』である配給会社からのプレスリリースをそのまま書き写したような興行関連の記事が溢れるようになった。」(宇野維正『映画興行分析』)
大本営発表。言い得て妙だ。
戦時中の日本に設置された陸海軍の最高統帥機関である大本営。その報道部が一元的に作成・承認した戦況情報、およびそれを新聞などがそのまま掲載・放送する仕組みを指して、大本営発表と呼ぶ。特に1941(昭和16)年に勃発した太平洋戦争の中期以降は、日本が敗色濃厚にもかかわらず、さも戦況が有利であるかのような「嘘」が頻繁に報道された。
辻田真佐憲・著『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』 (幻冬舎新書) には、「今日『大本営発表』というと、『あてにならない当局の発表』と同時に、『それを無批判に垂れ流すマスコミの報道』が連想される」とある。『映画興行分析』の記述に倣うなら、「あてにならない」かどうかは別として、「当局」を「作品公式たる配給会社」に置き換えても意味は通じそうだ。
原稿チェックという名の言い換え
アニメ界隈にしろ映画界隈にしろ、メディアが従順に公式の言うことを守り、公式の言う通りに書く構図は、大本営発表を取り巻く状況を彷彿とさせる。
「(大本営報道部の)報道部員たちは、大本営発表のあと、その補足説明や資料の配布を行った。新聞記事はこうした説明や資料にもとづいて書かれるため、これは世論を誘導するうえで重要な仕事だった。こうして大本営報道部は大本営発表の解説や解釈にまで介入し、紙面を完全にコントロールしたのである」(『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』)
『映画興行分析』の「プレスリリースをそのまま書き写し」そのものだ。
さらに、大本営発表の名物と言えば表現の言い換えである。よく知られているのが、「転進」と「玉砕」だ。
「『撤退』や『全滅』をありのままに発表すれば、国民の戦意が萎えてしまうかもしれない。(中略)そこで思い悩んだ大本営は、特殊な話法を編み出した。
すなわち、日本軍は撤退したのではない。作戦目的を達成したので、方向を転じて別の方面に進んでいるのだ。あるいは、日本軍は無策によって全滅したのではない。積極的な攻撃によって玉のように美しく砕け散ったのだ――と」(同前)
先述した、公式(製作委員会)がインタビュー記事の表現を「波紋を呼ばない、当たりさわりのない表現」に丸めるのと同じだ。
大本営の発表文は往々にして読みにくい悪文になる、という点も挙げておこう。大本営報道部は陸海軍からの情報を取りまとめる組織なので、作成した文章の表現について、軍をはじめ様々な方面からあれこれ注文をつけられる。「転進」や「玉砕」への言い換えも、そのプロセスで生まれた。『大本営発表』では、実際のある発表文に対して以下のような著者の所感が述べられている。
「それにしても、発表文は一文一文がきわめて入り組んでおり、たいへんな悪文である。おそらく『転進』の箇所以外にも様々な部署から口を出され、修正を積み重ねるうちに、こうした文章に成り果てたものと思われる」(同前)
「修正を積み重ねるうちに、こうした文章に成り果てた」のくだりには、個人的に激しく膝を打ち鳴らさざるをえない。出版社時代の筆者は、アニメ作品の公式が原稿に入れてくる修正の「整合性のなさ」にさんざん悩まされたからだ。
原稿チェック(≒監修)から戻ってきた原稿が、全体として非常にちぐはぐで、トンマナがバラバラで、同一原稿内で矛盾が生じていることは日常茶飯事だった。推測するに、たくさんの部署――監督やプロデューサー、声優事務所、個別の宣伝担当者など――の間で回し読みされ、各々から個別に修正が入ったのだろう。
これをきちんとした原稿に整えるわけだが、公式からの修正を完全に生かすことを優先すれば、原稿はどうしても一定以上に美しくならない。これがたまらなく歯がゆかった。
インタビュー記事は「方向性」の提示
大本営と公式は似ている。ひとつは、ここまで述べたように、原稿への関与という点において。
もうひとつは、実態と乖離した記述を信じさせようとする意思のありようにおいて。本連載の過去回にたびたび登場している某男性アイドルグループファンのDさんは、そこに抵抗する。ファンの公式盲信についても、やや冷笑的だ。
なぜなら彼女の職業は編集者であり、アイドルのインタビュー記事がいかに「実際にしゃべったまま」ではないかを知っているからだ。
「ドル誌(アイドル誌)のインタビューも公式扱いなので、大半のファンはそこに載っている言葉を一言一句信じています。でも、私自身が編集者として取材に立ち会ったこともあるので言えますが、タレントがたいして内容のあること言っていなくても、ライターさんが全部それっぽい言葉に言い換えて原稿を作ることはよくありますし、言葉や語尾もかなり変えている。さらにその原稿を、事務所が鬼のように直します。
だから、推しのインタビュー記事は方向性の確認のために読むものだと思ってます。ああ、公式(事務所)は、この推しをこういう方向性で売っていきたいのね、というような。
写真のキャプション(横に添える小さな文字の短文)なんて、ほとんど編集者の創作だったりするじゃないですか。グループアイドルで言えば、◯◯君と△△君がわちゃわちゃしてて、とか。それ全部嘘じゃん(笑)。読者サービス的な側面が強いですよね。たしかにそういう空気はあっただろうけど、大袈裟に書いてるだけ。あくまで方向性の記述です」(Dさん)
Dさんの発言は、すべての「アイドルのインタビュー記事」がこのように作られていることを裏付けるものではない。ただ、タレント本人が何を発言したかという事実ではなく、公式がそのタレントを「どう売っていきたいか」の方針確認として読むのが、Dさんのスタイルだ。
政治家に例えるなら、本人の街頭演説の文字起こしとしてではなく、党が作成した政策綱領として読むようなものか。
「でも、ファンの多くは丸々信じてますよね。『わちゃわちゃしてるふたり』みたいなキャプションを読んで、『わあー、公式やばーい』って喜んだりして。つくづくアイドルファンって馬鹿だなと思います。嘘だということに薄々気づいているのかもしれないけど、自分たちは夢を見てるんだという自覚もあるので、そこは目をつぶる。お金を払ってるんだから、自分の見たいものを見ていいはずだと、自分を納得させてる」(Dさん)
誰が書いたかなんて、誰も気にしてない?
アニメ専門誌はどうか。「アニメ専門誌の原稿“監修”問題」について筆者は、“監修”が明るみに出たことを読者がことさら騒ぎ立てなかった点に違和感を抱いた。「俺たちが今まで読んでたのは、ここまで改変された原稿だったのか!」「監督の本当の発言はどうだったんだ!?」といった類いの疑問や不信が沸き起こってもよさそうなものだが、特に騒動にはならなかった。
この件を、30年近くにわたってアニメ制作畑を歩み、ときに公式側の人間として原稿の“監修”にも関わってきたプロデューサーC氏(アニメ制作スタジオ代表)に差し向けると、拍子抜けする答えが返ってきた。
「その文章を誰が書いたとか誰が改変したとかなんて、今のアニメ専門誌を読んでる人は誰も気にしてないんじゃないですか? 最近、監督名で映画を観ないとか、面白い作品を見ても誰が監督かを知りたい、みたいにならないって話をよく聞きますけど、それと同じだと思います。情報として取ってるだけだから、文責が誰とか、細かい言い回しがどうとかに、そもそも関心がない。『未監修の記事が載ってしまいました』という報道にも、特に何も思わない。そこらへんのネット記事と同じ扱いなんだと思います。彼らにとっては」(C氏)
アニメ専門誌は「準公式」
では、アニメ専門誌の読者はアニメ専門誌に何を求めているのか?
世界観の共有だ。
ここで言う世界観とは、個々のアニメ作品を構成する要素群のこと。架空世界の設定詳細、物語の展開、演出方針、キャラクターのデザインやパーソナリティ、それを演じる声優、主題歌が醸す雰囲気、その作品を核に行われるイベント、発売されるグッズ、今後の展開方針。要するに、作品から生成されるコンテンツやイベントや商品はもちろん、それらが統一的にまとっている雰囲気やテイスト全部を指して「世界観」と呼ぶ。
本連載の第3回で、世界観の構築と整備こそが公式最大のミッションだと結論づけた。すなわちアニメ専門誌が担っている世界観の共有とは、「公式の意図を正確に伝達すること」に他ならない。
・公式最大のミッション:世界観の構築と整備
・アニメ専門誌最大のミッション:世界観の共有(公式の意図の正確な伝達)
であるからこそ、誌面に掲載される情報、すなわち世界観の諸要素の記述は正確を期さなければならず、必然的に公式による精密な“監修”を必要とする。当然ながら、原稿チェックは厳しい。その意味でアニメ専門誌は公式による作品情報出しの「手伝い」をする機関であり、「準公式」とでも呼べる存在なのかもしれない。
ジャーナリズムはアニメ誌の役割ではない
ここで、連載第1回で投げた問いを再掲する。
「短絡を承知で言うならば、果たしてここ(製作委員会が記事を“監修”すること)にジャーナリズムは存在するのか。アニメ業界において公式とは、媒体に対してこれほどまでに『強い』存在なのか」(「『公式』の研究」第1回より)
この文章には、メディアが持っているはずの編集権の侵害、ひいてはジャーナリズムがないがしろにされているのではないか?という示唆をあえて込めた。なおジャーナリズムとは、「新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどにより、時事的な問題の報道・解説・批評などを伝達する活動の総称。また、その機関」(デジタル大辞泉)のことだ。
答えは出ている。ジャーナリズムの中に「批評」が含まれている以上、そしてアニメ専門誌の担っている役割が「準公式」である以上、ジャーナリズムは存在するかという問いを立てることには意味がない。公式による作品情報出しの「手伝い」をするメディアが、その作品を本来的な意味で批評(客観的な根拠に基づいて評価)することは、原理上できないからだ。
そもそも、読者から批評が求められていない。そのことは、過去回に登場した業界関係者も口を揃える。
「アニメ専門誌の読者は批評も評論も求めていないと思います。新しいピンナップが付録についてるかなとか、監督なり声優なりのインタビューがあるかな、くらいじゃないでしょうか」(A氏/アニメ業界歴15年のプロデューサー)
「アニメ専門誌をジャーナリズムの枠で考えようとする人に、アニメ専門誌が担っている役割は理解できないでしょうね。ただ、アニメに批評性やジャーナリズムが求められていないのかといえば、そうではないと思いますし、僕自身も必要だと感じます。ただ、それらがアニメ専門誌の役割でないことは確か」(C氏)
ファンはアニメ専門誌に、ジャーナリズムよりも公式情報を求めている。自分の好きな作品や演者やクリエイターの公式情報を求めてアニメ専門誌を買っている。連載過去回に登場したB氏(アニメ製作会社で宣伝セクションに所属)の言葉は、そのことを決定づける。
「私としては、アニメ専門誌は〈公式グッズ〉のひとつだという認識です」(B氏)
大本営と公式に共通するもの
改めて、大本営(発表)と公式(発表)に共通する5つのイメージを整理しよう。
①歯向かえない「お上」
ひとつめは、「お上」の意向をメディアが疑ったり歯向かったりすることなく、あるいは疑ったり歯向かったりできない構造があり、そのまま報道する/せざるをえないという図式だ。
なぜ戦時中の新聞社は、大本営発表を疑ったり、疑ったとしても歯向かわなかったのか? 新聞をたくさん売るためだ。
1931(昭和6)年の満州事変以降、各紙がスクープを狙うためには戦地に従軍記者を送る必要があり、軍部との良好な関係が必要不可欠だった。大衆がお金を払ってでも読みたいと思う紙面を作るためには、彼らの言うことを聞く必要があったのだ。さらに、1938(昭和13)年に軍部が「新聞用紙供給制限令」を制定したことも、新聞各社への牽制を強めた。歯向かえば紙の供給を絶たれるかもしれないという危惧が、軍部への従順を加速させた側面は大いにあるだろう。
軍部との関係が必要不可欠だった戦時中の新聞と、公式から作品素材を提供してもらわなければ誌面が作れないアニメ専門誌や映画メディアは、いずれも「お上」に経済的な勘所を握られているという点において、似ている。
②大衆を鼓舞して身銭を切らせる機能
ふたつめは、大衆を鼓舞する機能だ。大本営は景気のいい戦果を発表することで国民の戦意を高揚させようと、もしくは戦意喪失を阻止しようとした(実際にその効果があったのは戦争初期に限るが)。すなわち、ひとりでも多くの国民に国家を「推し」てもらい、戦争を「応援」するスタンスに誘導する情報出しをした、と見ることもできる。
公式の大目的は「ファンの満足度を最大化し、結果として1円でも多くの金を、気持ちよく落としてもらうこと」だが、これは「推しに没頭させ、自発的に身銭を切らせる」という意味において、大本営のそれに近い。公式はファンの推し熱を際限なく肥大化させるべく、どんな情報を、どんなタイミングで、どんな言い方で発表するかについて、常に戦略を練っている。
③大衆の顔色をうかがう性質
3つめが、大衆の顔色をうかがう性質だ。②で気持ちよく身銭を切らせるためには、大衆の機嫌を損ねてはいけない。実際、大本営を構成する陸海軍のうち特に陸軍は、世論対策にとても熱心だったという。
「陸軍というと無粋で武力一辺倒で、国民の意見など無視して強引に戦争を進めたという印象があるかもしれない。しかし、兵力の大部分を徴兵に依存する陸軍は世論の動向にとても敏感であり、実際は以上のような世論対策に腐心していたのである」(『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』)
公式も同じだ。ファンは今、何を求めているのか。何を嫌がるのか。推しや作品に、今後どうなってもらいたいと願っているのか。公式に対してどういう感情を抱いているのか。そういうことに、公式はとてつもなく敏感である。間違えばファンが離れ、ファンダムが瓦解し、公式の経済的基盤が揺らぐからだ。
「お上」が感情面で大衆を味方につけようとするのは、いつの世も変わらない。1877(明治10)年に勃発した西南戦争時もそうだった。
西南戦争は、西郷隆盛を指導者とする士族らが明治政府に起こした武力反乱にして日本最後の内戦だが、政府は世論の動向を大いに重視した。当時、国民はどちらかといえば西郷隆盛を支持していたからである。
「大西郷は、それまでに全国民的信望を担っていた人物である。従って西郷危うしとなれば、全国的騒乱になりかねない、否、『なりかねないという危惧』を明治政府の当局がもっていた戦争である」(山本七平『「空気」の研究』文藝春秋)
「元来日本の農民は、戦争は武士のやることで自分たちは無関係の態度(日清戦争時にすらこれがあった)だったのだが、農民徴募の兵士を使う官軍側は、この無関心層を、戦争に『心理的参加』させる必要があった。従って、戦意高揚記事が必要とされ、そのため官軍=正義・仁愛軍、賊軍=不義・残虐人間集団の図式化を行ない(以下略)」(同前)
上記で引用した『「空気」の研究』は日本人論の古典的名著として知られているが、「空気」も「公式」も日本人のパーソナリティを規定する重要な〈何か〉であるという点については、本連載の結論部で改めて論じることとしよう。
④情報を鵜呑みにしない層の存在
4つめは、出された情報に水増しや恣意が相当量含まれているかもしれないという疑念がつきまとう点だ。実は、戦時中の国民は一貫して大本営を盲信していたわけではない。大本営発表は太平洋戦争開戦の翌年、1942(昭和17)年の中頃から早くも国民に疑われはじめ、戦争末期には国民からほとんど信じられなくなっていたという(『大本営発表』より)。
「公式情報」を鵜呑みにしないという気運には、時代を超えた普遍性がある。
前出Dさんの「『推しは事務所にそう言わされてるんだ』的な陰謀論がうずまくケースもある」という言葉(連載第2回)が思い出される。また、同じくアイドル界隈の別のファン(30代女性)は「私の性格の問題かもしれませんが、公式は盲信すべきではない、鵜呑みにすべきではない存在、というスタンスを取っている」と筆者に語った。
公式を盲信しない層は、どんなファンダム内にも一定数存在する。
⑤「隣組」的なものとの並走感
5つめは、「隣組」的な告げ口文化を生み出しやすい空気と親和性が高い側面だ。大本営が機能していた太平洋戦争中、町内には最末端の地域組織として隣組があり、配給・防災・防空・防諜などの業務を担っていたが、組員同士で監視し合い、不満や反対思想を持つ者を密告(告げ口)する機能も有していた。
ファンダム内にも、「公式に通報します」といった告げ口ムーブや、「それは不適切なふるまいだから、公式に何か言われる前に私が注意してあげる」といった相互監視ムーブが存在する。
昨今、隣組感の強い事件して思い出されるのが、某有名女性コスプレイヤーの炎上だろう。その女性の活動や行動のどこに問題があったか(あるいは問題などなかったか)はここで論じないが、炎上に率先して加担した中心層が「同じくコスプレを趣味とする同胞たち」だった点は興味深い。「私たちもあなたと同類とみなされるので、その行動を改めてほしい」というわけだ。実に隣組的、学級会的、そして日本人的である。
きわめて日本的なる現場至上主義
大本営発表に関しては、ひとつ留意しておくことがある。大本営報道部が虚偽の戦果を流さざるをえなかった背景のひとつに、強い現場至上主義があったという点だ。現場から上がってくる誤った報告(実際よりも高い戦果)を大本営報道部が仮に疑ったとしても、それを下方修正できない状況があった。
「大本営(特に作戦部)には現地部隊の報告を鵜呑みにする悪癖があった。また、報告を精査しようにも、大本営はそれを行うだけの十全な情報を持っていなかった。こんな状態で戦果を下方修正すれば、現地部隊から『われわれの苦労を無駄にするのか』と抗議を受ける恐れがあった」(『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』)
1941年から45年まで陸軍報道部に在籍した恒石重嗣中佐の回想にも、「恐れ」が見て取れる。
「恒石も、一度戦果を下方修正したことがあった。しかし、のちにそれが誤りだったことがわかり、『作戦部隊から厳重なる抗議を受けた』『生命をかけて戦っている戦闘部隊将兵に対し誠に申し訳ないことをしたわけで深く反省し、ただちに訂正の処置を講じた』という」(同前)
『踊る大捜査線 THE MOVIE』で主人公の青島が放った有名なセリフ「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」を思い出す。日本人はこの種の「現場で汗水垂らしている奴が一番尊い」「現場で頑張ってる奴のことを考えろ」的な美談が大好物だ。
「現場の声を尊重すべき、現場が決めるべき」の典型が、トヨタ自動車が考案し、今や世界中の共通語となったカイゼン(KAIZEN)だ。カイゼンとは生産現場や会社業務において、生産性や品質の向上を継続的に目指す活動のことだが、トップダウンの命令によって実行するのではなく、現場の作業者が自分で知恵を出して変えていく点が大きな特徴である。
これらの底にあるのは、「実情は現場で奮闘している人間にしかわからない。現場の人間の言うことがもっとも理に適っており、上はその言い分を聞き入れるべきある」という、一見して反論しようのない、なんなら人道的とすら形容できる現場至上主義の価値観だ。
ただし、過剰な現場至上主義はときに、高い視点からの大局的判断や冷静な中立的思考を妨げる。こんな経験がある人は多いのではないか。古い体質の会社で、「現場を知らないくせに、偉そうなことを言うな」と強弁する現場ベテラン社員の圧が強すぎるあまり、若手社員の革新的な事業提案や、トップの思い切った経営判断が妨げられるというブルシットが。
一方、トップダウン型マネジメントを是とする欧米では、現場社員の発言力はかなり小さい。通信・放送・デジタル分野の経営コンサルタントで米国在住者でもあるクロサカタツヤは、2025年の著書でこう書いている。
「米国の企業文化では、ホワイトカラーの現場社員が『現状より良いやり方』を思いついても、勝手に業務プロセスを変えることは難しい。業務プロセスの設計権限と結果責任は現場ではなくマネジメント側にあるからだ」(クロサカタツヤ『AIバブルの不都合な真実』日経BP)
少なくとも欧米との比較において、現場至上主義は非常に日本特有であり、日本人的な美徳と言ってよさそうだ。
「経験したことのない者に何がわかるのだ」
「現場の声」を最大限に尊重し、忖度し、その声にメディアすら萎縮する例として、日本が誇る学生スポーツの王様・高校野球も挙げておこう。今や酷暑の中で激しいスポーツをすることは医学的見地からも教育的見地からも明らかに「おかしい」が、甲子園球児たちの文字通り死に物狂いの練習風景は、あいもかわらずメディアが美談として報じ続けている。
元テレビ朝日プロデューサーの鎮目博道は、その理由を「現場経験者からの反発」と見る。
「甲子園に関する批判的な声を放送すると、OBからの激しいクレームが寄せられることがある。その中でよく聞かれるのが『経験したことのない者に何がわかるのだ』という趣旨の意見だ。
『甲子園は特別なもの。そこに出場経験のある高校球児以外に批判的なことを言われたくない』という主張が強硬になされることが多い。『経験したことのない者は黙れ』ということだろう」(鎮目博道「『ジャニーズのときと同じ』甲子園報道の限界 美談の裏に隠された真実『セクハラ被害』『クレーマーOB』」弁護士ドットコムニュース、2025年8月9日)
「経験したことのない者に何がわかるのだ」「戦地で戦う兵士たちの気持ちを考えろ」「現場を知らないくせに偉そうなことを言うな」「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」。これらのセリフは、すべて同じ線上にある。
大本営発表、『踊る大捜査線』、カイゼン、そして甲子園。いずれもきわめて日本的なるものであり、いずれも当事者しか語る資格なしという空気が醸成されがちだ。
当事者しか語ることが許されない空間。そこでは「批評」というものが成立しない。
次回は、公式による批評の排除について考える。
(次回へつづく)

推し活がビックビジネスになりつつある昨今。とりわけ、アニメ、アイドル、お笑い分野はかつてない活況を呈している。 それと同時に、かつては存在しなかった言葉がファンの間で流通し始めた。それが「公式」である。作品の制作者の意図、アイドルの世界観、番組の意図などその言葉の使われた方はさまざま。共通するのは「公式の判断が絶対視」されていることである。なぜユーザーたちは「公式」を絶対視するようになったのか? 日本のメディア・消費の変化の最前線を取材し続けてきた著者が、「正解」や「絶対者」を超えた欲望をあきらかにする。
プロフィール

いなだとよし 1974年、愛知県生まれ。ノンフィクションライター、編集者。映画配給会社、出版社を経て、2013年に独立。著書『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ―コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)が新書大賞2023第2位。その他の著書に、『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『このドキュメンタリーはフィクションです』(光文社)、『ぼくたち、親になる』(太田出版)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『「こち亀」社会論 超一級の文化資料を読み解く』(イーストプレス)などがある。近著は『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中公新書ラクレ)。
稲田豊史





樋口恭介×中路隼輔

綿野恵太×西村章

金子信久