対談

第2回 「正しさ」だけでは、社会は息苦しくなる

「バラバラな世界で共に生きるための公共訴訟」
亀石倫子×朱喜哲

タトゥー、クラブ、ストリップ劇場――。「そんなものはなくてもいい」と切り捨てられがちな存在や文化の自由を、公共訴訟はなぜ守ろうとするのか。『はじめての公共訴訟 社会を動かす、私たちのツール』の著者のひとりで弁護士の亀石倫子氏と、『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』の著者で哲学者の朱喜哲氏が、「正しさ」だけでは息苦しくなる社会について語り合う。全3回の第2回。

構成:稲垣收 写真:CALL4、集英社新書編集部

*本記事は2026年6月3日、MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店で行われたトークを編集、採録したものです。

亀石倫子氏と朱喜哲氏

「正しくなさ」を「無い」ことにしてはダメなんだ

 公共訴訟の中には、公害の話とか、ある意味、非の打ちどころなく、本当に何の落ち度もない被害者で、皆に同情されやすいケースもある一方で、「タトゥー訴訟」のように、「タトゥーなんか入れなきゃいいじゃん、私は入れないし」とか、クラブ風営法違反訴訟のように「夜にクラブなんか行かなきゃいいじゃん」なんて言われかねないことがあり得るじゃないですか。

亀石 そうですね、はい。

 でも、タトゥーとか入れ墨って私たちの社会にずっとあったし、クラブに行くという行動も選択肢としてあり得るし、「私がそれをやってもいいんだ」という自由の範疇なわけですよね。公共訴訟がそういうことのためにも闘ってくれている、という点がすごく大事で。

 公共訴訟のような社会的な関心をもつ弁護士の先生というと、いわゆる「正義の味方」というか「清廉潔白」で「まったく後ろ暗いところがない正しさ」みたいなものを背負っている、と思う人もいるかもしれませんが、私たちの社会というのは、もちろんそれだけでやっていけるわけではない。

 これはまさに私の研究しているリチャード・ローティが言っていることでもあるんです。公共の場である市場「バザール」では、どんな人がいるか分からないから、お互い発言に気をつけたりしなきゃいけない。お互い気を遣い合うんだ、と。でも、それだけだとやっぱり人間社会って、ちょっと息が詰まったりする。

 公共の場ではないことにされている、人の何か後ろ暗い部分とか、欲望とかもあるかもしれない。それを「無い」ことにしてしまうと、どこかで噴き出してしまうかもしれないから、そういう、いわゆる「正しくなさ」を無いことにしてはダメなんだ、という観点がローティの面白いところで。それらを無視したり抑圧したりすると、むしろしっぺ返しが来るんだ、と彼は言っているんですね。

亀石 そうですね。

 それがローティの有名な主張です。「トランプ現象を予言した」と、彼の死後に言われるんですが……。

「正しさが振りかざされてしまう社会が続くと、やっぱりどこかで、正しくないことを大声で叫んでくれる政治家とかが、ある種、逆説的に支持を集めてしまう」と。つまり「俺たちが言えない本音を言ってくれた!」みたいになってしまう。そういうストロングマン、強い男みたいなのが現れてしまうよ、というのがローティの当時の予言だったんです。

亀石 なるほどね。

 その処方箋というわけじゃないんですけれど、ローティは言うんです。人間社会はバザールだけじゃなくて、クラブみたいな、ちょっと暗がりがあって。このクラブといわゆるナイトクラブとはちょっと意味が違いますけど、でもやっぱり「暗がり」があったり、メンバーシップがあったり。あるいはナイトクラブにおいても、確かに大事な側面かもしれないですね。その場の人がお互い、音楽を楽しみに来ているという「共通感」があったり、その中でちょっとリラックスして、昼間のグチが言えるかもしれない、とか、昼間のストレスを発散できるかもしれない。そういう場所があるからこそ、私たちの社会は何とか回っていくんだよ、と。「明るいバザール」と、「ちょっと暗がりがあるクラブ」と。

いかがわしいものを含めて社会なんだ

亀石 コロナ禍での国の休業要請で、いろんなお店が休業した中に性風俗店などもあったんですけど、持続化給付金とか家賃支援給付金を、国は性風俗事業者にだけは払わなかったということがあって。「これは職業差別じゃないか」という裁判を私は担当したんですよね。持続化給付金とかが払われなかった性風俗事業者の中には、ストリップ劇場も入っていたんですよ。大阪の、この辺だったら、東洋ショー劇場というのが、天満にあるんですけど、行ったことある人いますか。あります?

 はい、大阪に来たばかりの頃に連れて行っていただいたことがあります。

亀石 私、すごく好きで、もう何回も行っているんですけど。いろんなストリップ劇場に、その裁判をやった御縁で行って、踊り子さんの話を聞いたりして。

 国はやっぱりああいうのを「いかがわしいものだ」と。何だったら「街の中からなくなってほしいものだ」と位置づけているわけです。大阪万博が始まる前に、東洋ショー劇場が摘発されて、一定期間、営業できない状態になって。これは「万博やっている間だけでも閉めといてくれ」ということだと思うんですよ。だって、東洋ショーはずっと毎日毎日営業しているんだから。それまでだって、いつでも摘発しようと思えばできるのに、していなくて。万博が始まるタイミングで摘発したわけです。さじ加減一つですよね。

 何かそういうふうに、ちょっとでもいかがわしいものとかを、街の中から排除していく。

 だけど、私が踊り子さんに話を聞いたときに、

「いかがわしいものとか、いろんなものを含めて人間だし、それが街を作っているし、それが社会なんだから、そういうのを全部排除する、真っ白に漂白されたようなことにするのは、何かおかしいと思う」っておっしゃっていて。「自分はやっぱり、そういういかがわしさも含めた人間として表現をしたいんだ」と。

 私、すごく共感したし、何か感動するんですよ、ストリップを見ると。

 最近、ストリップに女性のお客さんもすごく多いんですけど、ステージを見て、感動して泣いたりしているんですよ。私も初めて見たとき、けっこう感動して泣きそうになったんですよね。

 というのは、「何かエロいものだ」と思って行ったんだけど……素っ裸で踊るわけだから、たしかにエロいんですけど。「エロい気持ちにさせなきゃいけない」というのも、踊り子さんは思っているんですけど、ただそれだけじゃないんですよね。

 何かもう、アスリートのようでもあり、美しくもあり、本当にすごい、見たこともないような表現なんです。その表現力とかに私は本当に感動しました。「自分の体一つで闘っている感じ」というか、女の人だったら、きっと分かってもらえるんじゃないかと思うんですけど。そういうのがあったんです。

 少し話がズレてしまいましたが、でも何か、そういうのも含めて社会だという感じがするんです。

 そうなんですよね。まさに、ローティという哲学者が考えていた社会のバランスと、合致することがたくさんあって。今回『はじめての公共訴訟』の帯文に書かせてもらったこともそうでしたし、書評も書かせていただいたんですけど、そういうことって、実はすごく大事で。

 司法は英語で言うとjustice(ジャスティス)ですよね。ジャスティスってやっぱり、「正義」「正しいこと」という意味と直結されて使われがちですが、「それだけじゃない」ということは、すごく大事なんです。

「正しい」というのは「いいこと」と結び付けられて、「道徳的に正しい」とか「モラルがある」というのと直結されがちですけれど、justiceって、語源的な話からしても、字面もそうですけど、just(ジャスト)と同じですから、「バランスが取れている」とか「釣り合っている」とか、そういう状態を指すものなんですよね。

 だから、司法の象徴である、擬人化された「テミス」という女神は、目隠しをして天秤を持っている姿です。「主観が入らない」ということと「釣り合いを取る」ということですね。だから、「正しさ」を背負って裁くという――。

「裁く」という意味合いも、「責める」とか「滅ぼす」みたいなことじゃなくて「釣り合いを取る」という、ここがすごく大事ですし、「目隠しする」というのも、自分の主観じゃないんだ、ということで。もちろんそれは難しくて常にできることではないんですが、ジャスティスの理念には、それが入っている。そこがすごく大事だと思います。

 そのときに、こういった公共訴訟を中心とした司法の今のあり方に「どうやって市民が参加しながら、みんなのための司法をやるのか」ということを実践していらっしゃるCALL4という公共訴訟の支援プラットフォーム(これは日本初で、今のところ唯一です)とか、そのための弁護士の集団であるLEDGEという取り組みって、これまでの人権派弁護士、社会派弁護士とは、けっこう違うものだと私は思っているんです。

亀石 確かにそうですね。もし私が「人権派弁護士」と言われたら、ちょっと自分で違和感があります。

 そうかもしれないですね。

亀石 あと、いわゆるポリコレ(ポリティカリー・コレクト、政治的に正しい)みたいなものとも、すごく違う感じがしますね。

 もちろん、「人権」のような重要な価値を守るべく「絶対この一線を譲らない」ということの大切さもあることを大前提としながら、こうした「正しさ」を掲げるだけではバランスが難しいときもあるんですよね。「正しくないことまで含めて、私たちの自由のために闘うんだ」ということをやってくださっていることが、すごく画期的なことだと思います。

「いかに伝えるか」に力を注ぎ、少しずつ連帯を広げていく

 そのために、チラシとかデザインワークとか、様々なものを駆使して、私たちに届くようにやってくれているということも画期的だと思うんです。

亀石 それは本当に、朱さんの『バラバラな世界で共に生きる』の中に、そういう「連帯」ということについて書かれているところがあって、「われわれ」は小さくて断片的なところからはじまる、という項がありましたね。「ローティの言う『連帯』とは『われわれ』の拡張でした」と(第4章p125~126)。

 はい。

亀石 「『同じ人間』だから連帯できるのではない。むしろ『われわれ』とはもっとずっと小さくて断片的なところから始まる」と続いて。

 私、まさにそうだなと思って。

 私たちがこういう裁判をするときに、当事者の方々の言葉をどういうふうに、ナラティブとかを伝えていくかを、すごく工夫しているんです。

 そのためにキャンペーナーの人がいて、デザインだったりコピーだったり、言葉とか、SNSとか、いろんなツールを使って、「いかに届けるか」ということに、すごく苦心してやってくださっているんです。そういうことによって、ちょっとずつちょっとずつ連帯が生まれてきて、初めて法廷に足を運んでくださった方とか、千円寄附してくれた方とか、ちょっとずつ連帯が広がっていくんですよね。

 それがすごく私たちの力になっている、ということがあります。

 それに法廷で、裁判官を説得するための理屈とかデータとか、エビデンスだとかをどんなに出しても、それだけではたぶんダメなんです。クラブの裁判をやったときもそうだったんですが、いかにして法廷の外にいる人たちの心を動かすかとか、裁判官の心を動かすか、とかが重要になってくる。

 また、議員連盟というのができて、けっきょく法改正につながったんですけど、いかにして議員の心を動かすか、だったり。

 署名が16万筆集まったんですが、署名してもらうために、人の心をいかに動かすか、とか。けっきょく大切なのは、「人の心をどれだけ動かせるか」です。そのときに、やっぱり言葉というものがすごく大事だ、ということなんですよね。

朱 デザインも、きっとそうですよね。

亀石 本当にそうなんですよ。そういうことを、クラブの裁判のときに、私はすごく学ばせてもらったなと思います。

 確かに。まさにデザインワークのかっこよさとか、コピーワークのよさもそうですよね。同性婚訴訟も、「結婚の自由をすべての人に」訴訟、というタイトルでやっていて。「こういうネーミングで我々は打ち出していますよ」というふうに、ちゃんとリリースを出されてやっているじゃないですか。

亀石 そうですね。

 デザインワークもそうで、さっき、「この共著者4名はすごいオールスターキャストなんだ」という話をしましたけど、さっき言及しませんでしたが、実はCALL4の共同代表のお一人がまさにクリエイターなんですよね。

亀石 そうそうそう。丸山央里絵()さん。

 『はじめての公共訴訟』の著者の一人でもある丸山央里絵さんがクリエイティブ・ディレクターとして、表現まわりとか言葉まわりについてのプロフェッショナルとしてずっと並走されている。その方が弁護士さんたちと並んでCALL4の共同代表に入っているということも、すごく大事で画期的だなと。

亀石 はい。新しいですね。

 そうですよね。「まず本質的なことがあって、そのあとで、見てくれとかくるんだ」というんじゃなくて、「デザインワークとか言葉選びとか自体も本質なんだ」と考えていらっしゃって、こうした考え方って実は、まさにローティと同じなんですよね。

亀石 はい。

 だから、皆さんが思っている以上にすごく近しいというか。

 リチャード・ローティという人は、「私たち人間や社会とは、受肉したボキャブラリーだ」と言っているんです。

「受肉」ってちょっと難しい言葉ですが、キリスト教用語で、「神様とか精霊みたいな抽象的なものが具体的な姿形を取って人間として現れること」です。

 それから、同じように、「ボキャブラリー、言葉遣い」――ここでいう「ボキャブラリー」というのは、それこそデザインとかも入っているんですけど、「それらが具体的になったのが私たち人間だし、社会なんだよ」と。「だからこそ、言葉遣いが変われば、私たちも変わるし、社会も変わるんだよ」ということを言っている哲学者なんです。

 だから「本当の私がどこかにあって、それを表すには、どんな言葉を使おうか」みたいに、「本質を言語化する」みたいなことではなくて、「まさにどんな言葉を使えるかが、私自身なんだ」という発想なんです。

亀石 なるほど、なるほど。

 だから、「まさにデザインワークとかコピーワークって、ある意味、本質そのものでもある」と考えられると思うんです。

亀石 朱さんのこの本も、もしこの装丁じゃなくて、タイトルもこれじゃなかったら、絶対これほど売れてなくないですか?(笑)

 分かります、分かります。本当にそう、本当に。

亀石 本当にこれ、すごくいい。

朱 そうですね。だから、「デザイン言語」という言葉もありますけど、私はやっぱりデザインって見てくれとかだけじゃなくて、それ自体が雄弁なもの、意味を持っているものだと思うので、今回、これは本当に編集さんのご意向とかご配慮もあって、デザイナーさんとけっこうじかに絡ませていただいたんです。まさにCALL4の体制と、ある意味近いかもしれないですよね。

亀石 はい。

 外注するとか、おまかせとかじゃなくて、何度もディスカッションを重ねたり、会話を続けながら、「じゃあ、こういうことですかね?」と確認しながらやっていっていただいたので。その意味で、「単にかっこいい」とかだけじゃなく、かっこいいのも大事なんですけど、ちゃんと中身を含めて表現されている。

亀石 ちゃんと中身の世界観が表れていて。それがすごく好評な理由なんだなと思います。すばらしい。

 デザインの大事さということを、すごく訴えられるかもしれないですね。

亀石 はい。こういうカバー、NHK出版新書では初めてなんですって?

 これ、ちょっと確かにマニアックですが。まさに帯カバー自体を変えていただいているという意味では、ちょっと新しい種類ですね。

亀石 やっぱりホルムズ海峡封鎖でナフサが不足したら、これも白黒になる可能性がありますか?

 そうですね、白黒。本当に今、大変なことになっていますから。だからこそ今、そういうふうに「公共」ということについて、すごく考える機会があると私は思っています。今まさにそういうタイミングですし。

* CALL4共同代表、クリエイティブ・ディレクター。(株)リクルートで『ゼクシィ』の編集長、『ゼクシィアプリ』プロデューサーを歴任した。

「政治に参加する」方法は選挙だけではない

 『はじめての公共訴訟』の帯に書かせてもらって、書き足りなかったことを書評で書かせていただきましたが、それは無料で読めますので、もしよかったら。

亀石 ありがとうございます、本当に。

 その中で一つ書いたのが、今、皆さん、「公共に参加する」、つまり「政治に参加する」ということの回路を、選挙というものだけに強く捉えがちだと思うんですよね。

亀石 そうですね。

 どうしても「選挙で勝った、負けた」とか、「自分が推した候補が当選した、しなかった」、あるいは「過半数を取った、取らなかった」ということばかりにフォーカスしがちで。特に『はじめての公共訴訟』とか、私の本とかも手に取っていただくような方には、「やっぱり、どうせ変わらないでしょう」とか、「選挙で自分の推した候補が勝ったためしがない」みたいな思いがあるんじゃないかと思います。

亀石 そうですね。私も、投票した人が勝ったためしがないです。

 でも、そうやって「選挙だけが公共に参加する方法だ」と思ってしまうと、やっぱり「勝った、負けた」で終わりになってしまうと思うんですよね。

亀石 確かに。

 でも、実際に政治に参加するということは選挙だけじゃないんです。私たちは、国民であれば主権を持っていて、日本国籍を持っていなくて「日本国民」じゃないとしても、この社会に暮らす市民として、納税者であったり、何かしら地域社会の一員であったりするわけです。そして大げさに言えば、あらゆることが政治とつながっています。そして、たとえばデモに行くとか、公共訴訟で闘うこともまさに「政治に参加する」ということなんですよね。

亀石 そうなんですよね。

 「政治に参加する、公共と私をつなぐ回路って、全然選挙だけじゃないんだよ」という話を、特に、選挙が無力に感じられたりする方が多い今の社会だからこそ、したいですし、この『はじめての公共訴訟』という本に書かれていることも、ぜひ知ってほしいと思います。

「被告」「身柄」など、言葉による「非‐人間化」に抗う

 「被告」という呼び名は、実は役割語ですよね。法廷の、ある種のゲームにおける役割語で、そのゲームから離れたら、別に「被告」という呼称とその人は、もう関係ないはずですが、報道関係者も含めて、つい、その人の属性であるかのように「被告」と呼んでしまう。

 その人がそうやって呼ばれているのを聞くと、一般の私たちも「やっぱり犯罪者なんだ」とか「罪人なんだ」というように、その人のある種の本質であるかのように考えたりしがちです。

亀石 そう。それは、まさにこの『バラバラな世界で共に生きる』に書いてある「ことばによる『非-人間化』」ですよね。第3章に出てくるんですけど、私は、これを読んだときに、まさに「被告」という言葉とか、よく警察用語やマスコミ用語で使われる「身柄」という言葉を思い出しました。

 「身柄を押さえる」とか。

亀石 ええ。「身柄を押さえる」とか、「身柄を移した」とか、ニュースなどでも言うじゃないですか。でも「身柄」という言葉は、法律には出てこないんですよ。まさにマスコミ用語だし、警察用語なんです。でも「身柄」って、人のことなのに、何か「物」みたいな印象を与えてしまう。

 そういうふうに刑事事件の客体になった人のことを、「物」扱いしているんです。「身柄」という言葉を使って。

 私は刑事弁護士になったときに先輩の弁護士たちから、すごく言葉の使い方について、注意されました。「安易に警察用語とかマスコミ用語を使ってはいけないよ」と。

「まず、身柄っていう言葉は、絶対に使っちゃいけない」と。

「法律には被疑者とか、被告人というふうに書いてあるし、私たちが実際接するときは、○○さんって、ちゃんと名前をさん付けで呼ぶように」ということを、何度も言われたんです。

 最近、刑務所とか拘置所とかで、収監とか拘置されている人を、これまでのように番号じゃなくて「○○さん」と名前で呼ぶようになった、というニュースがありました。これまでは、番号で呼んでいたんです。ひどいと思いませんか? 人間として見てないですよね。

 だけど、刑務所にいる人だって、多くはいつかはそこを出て社会に戻っていくわけです。更生のために刑務所の中でいろんな教育を受けたりしているわけですよね。

 それなのに、名前を呼ばず番号で呼んでいたら、そこで信頼関係もできないし、社会に出て更生する準備もできないと思うんです。

 それで、最近、呼び方を変えて、「○○さんと名前で呼ぶ」というふうになったんです。朱さんの本の第3章で「ことばによる『非-人間化』」という話が出てきますが、そこを読んで私、すごくそのことを思い出して。

 そうですね。その事例、すごく大事ですね。
(第3回に続く)

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関連書籍

プロフィール

亀石倫子

(かめいし みちこ)
弁護士。2009年大阪弁護士会に登録。刑事事件を中心に研鑽を積み、ダンス規制法の無罪判決(2016年)、令状なし GPS捜査の違法判決(2017年)、タトゥー事件無罪判決(2020年)をいずれも最高裁で勝ち取る。公共訴訟を 支える専門家集団『LEDGE』代表理事。共著に『刑事弁護人』(講談社現代新書)。2026年5月、共著『はじめての公共訴訟 社会を動かす、私たちのツール』(集英社新書)を刊行。

朱喜哲

(ちゅ ひちょる)
哲学者。1985年大阪生まれ。大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授。博士(文学)。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。著書に『人類の会話のための哲学』(よはく舎)、『〈公正(フェアネス)〉 を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス)。2026年5月、好評を博した『100分de名著 ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」』のテキストを大幅改稿した初の新書『バラバラな世界で共に生きる――リチャード・ローティの哲学』(NHK出版新書)を刊行。

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