「公式」の研究 第3回

「公式」とファンは結託する

稲田豊史

officialとformula

 我々は公式に何を求めているのか。どうあってほしいと願っているのか。公式に求める機能とは何か。

 それを突き詰めるために、連載第1回で引用した広辞苑 第七版における「公式」の説明を、もう一度確認してみよう。

①おおおやけに定めた方式。おもてむきの儀式。

②数や式の間に成り立つ関係あるいは法則を表した式。

 注目すべきは①だ。漢字の「式」が1文字で持つ「決まり。一定の作法で行われるやり方」の意味に引っ張られた語義といえるが、要は英語で言うところのformulaである。formulaとは「規格」「常套手段」「定型句」「式辞」「調合法・製法」のこと。モータースポーツのF-1(Formula One)は、すべての参加車両が準拠しなければならない「規定」を意味している。

 一方、本連載で取り上げている「公式」について、多くの人が直感的に抱くイメージはformulaではなくofficialだろう。「当局の、正式な」といったニュアンスだ。

 実は現代的な用法としての公式という概念は、official的性質だけでなくformula的性質も視野に入れたほうが、その本質を捉えやすい。

 formula的性質とは、「決まりと手続きの重視」だ。

 公式はある種の概念なので、その役務従事者を「誰」とは具体的に指し示せず、顔が見えない。担当者が変わることも、もちろんある。だからこそ公式は、属人性(特定個人にしかその業務ができない状態)が排された業務設計を必要とする。

 属人性を排するために、いの一番でやらなければならないこと。それこそが、決まりの遵守と手続きの徹底だ。ややこしいファンからややこしい問い合わせを受けたとき、あるいは目に余る二次創作者に注意勧告を与える際、誰が窓口であっても、ガイドラインとマニュアルにさえ従えば(=決まりと手続きさえ重視すれば)、同じジャッジを同じ品質で下すことができる。

 公式の存在意義は、この公平性にある。

公式という「法律」

 決まりと手続き、そしてジャッジ(judgment:判断、審判、裁判)。そこから連想するものはひとつしかない。法律だ。

 犯罪の認定にしろ、裁判にしろ、役所への申請にしろ、選挙にしろ、法律を根拠に行われる法治国家の諸活動というものは例外なく、厳密な決まりと手続きによって実行される。でなければ公平性が担保されないからだ。

 法律を扱う者がもっとも大事にしなければならないのは、真実の発見や正義の行使ではない。決まりに従った、正当な手続きが踏まれているかどうかだ。真実や正義はその後に付帯する話であって、先に来る話ではない。究極、法律家に寄せられる信用やお墨付きは、真実や正義に紐づいたものではなく、手続きが正しいかどうかに拠(よ)る。公式に寄せられるそれと同じだ。

 実際、最近の公式は法律家と同じ機能を期待されている。

 ゲームソフトメーカーのスパイク・チュンソフトは、同社が知的財産権を有するキャラクターやシナリオを使った二次創作のルールを定めた「二次創作ガイドライン」をホームページ上に公開している。

 ここでは、グッズ・立体作品の頒布については、「1アイテムの製造数量の総累計数が100個以内であること」「売上予定額(販売価格×製造数)が10万円以下であること」などと細かく“規定”し、明文化している。ほとんど法律の条文だ。

 ファンはこの決まりと手続きにさえ則っていれば、安心して二次創作に勤しむことができる。これは法治国家において、法律さえ守っていればある種の権利や安全が保障されることと、そっくりだ。

公式の自我が邪魔くさい

 決まりと手続きの利点は、そこに個人の情緒的判断が挟まれる余地がないことだ。

 役所の窓口の信用を担保しているのは、補助金や公的支援金の申請者がどんな風貌であっても、どんなに態度が横柄で心象が悪くても、資格さえ有していれば申請が通る点にある。窓口担当者の気分や好みによって受理と却下が決まるわけではない。窓口担当者が拠り所にしているのは、目の前に訪れた申請者の個人的な印象ではなく、厳密に定められ明文化された決まりと手続きなのだ。

 逆にいえば、権威や権力を有する組織体のふるまいの中でもっとも信用を失うのは、個人を行使すること。あるいは自我を出すことである。

 要するに、公式に「キャラ」はいらないのだ。

 公式あるいは公式が運営するSNSアカウントに漏れ出た自我が邪魔くさい、という声は、そこここで聞かれる。連載第2回で登場した某男性アイドルグループファンのDさんも、そのひとりだ。

「Xの公式アカウントが自我めいたつぶやきをすると、『告知だけやっとけ』みたいな反発が起こりがちです。私が追いかけていた推しのSNSは運営者、つまり〈中の人〉が女性と思しき人なんですが、自我を出しすぎてうんざりなんですよね。『みなさん、今日も頑張っていきましょう』とか、全然いらない。私と彼の世界に入ってこないでください、ってやつです」(Dさん)

 同じく連載第2回で登場したB氏(アニメ製作会社で作品公式Xのアカウント運用を担当)は、「ファンは公式に人格を求めていないと強く感じる」という。理由は、特権を濫用しているように見えるから。

「公式の<中の人>って、ある種の特権を持ってるじゃないですか。版権(作品)にいちばん近い場所にいる、つまりファンにとっては欲しくて欲しくて仕方がないものに近いから、その状況を誇示するような言い方をしたり、〈自分のもの〉のように扱ったりした瞬間、嫌われる。実際は私物化しているわけではないけど、私物化しているように見える。だから作品やそれに関わっている作り手への愛は示しつつ、特権は濫用していませんよ感、ファンの皆さんと同じ目線ですよ感を出さなければなりません」(B氏)

 連載第1回で紹介した「『ぼっち・ざ・ろっく!』脚本家炎上問題」も、このあたりが核心だ。

 原作からの変更は脚本を担当した吉田恵里香氏の独断で行われたわけではない。にもかかわらず、一部ファンからの怒りは公式にではなく、吉田氏に向けられた。イベント内での発言が記事化されたことで、吉田氏が脚本担当という特権によって原作を私物化し、脚本の改変に自我を行使したように“見えてしまった”人がいた、ということだ。

 無用の騒動を防ぎたいなら、公式は「自我を感じさせない」に限る。

 博報堂 メディア環境研究所が2025年3月に発表した「推し生態系で楽しむ生活者」は、推しを持つ生活者を5つの特徴的な集団に分類した。その中でも「コミュニケーション積極志向で、対象とは距離を取る」に分類された集団(「活民」と命名された)が嫌うものとして挙がっていたのが、「運営の私的感情が見える発言」である。やはり、公式の自我は邪魔なのだ。

 ちなみに「活民」が同様に嫌うものとして「特定のファン層を排除するような発言」もあるが、これは「窓口担当者の気分や好みの発露」に近い。ファンが公式に対し、厳密な「決まりと手続き」を求める態度がここに現れている。

公式最大のミッション:世界観の構築と整備

 「公式の自我が邪魔くさい」に関しては、部外者からすれば、もっと寛容になれないのか……と言いたいところだが、そうとも言い切れない。彼らが公式の自我を嫌うことには、それなりの正当性がある。

 世界観が壊れるのだ。

 世界観とは何か。Dさんの言葉を引こう。

「私たちは、推しの風貌や言動、彼が今までに歩んできた道や叶えたい夢に魅了され、それに賛同して彼のファンをやっています。前者はキャラ、後者は物語。合わせて世界観とでも呼べるものですね」(Dさん)

 これは男性アイドル界隈の話だが、女性アイドル界隈やアニメ界隈でも同じだろう。アイドルもアニメも、ファンは熱中・没頭するに値する魅力的な世界観に金を払っている。

 昨今のヒットコンテンツが「完成物を発表して終わり」ではなく、発表後のイベント開催や追加コンテンツの投下など、継続的・長期的展開を視野に入れてコンテンツを「運営」することに多くのリソースを割いているのは、そのためだ。人がある世界観に浸るためには、そのコンテンツが今この瞬間も生き物のように息づき、進化や変化を続けているという時間的継続性が必要である。

 つまり公式が担う最大のミッションとは、ファンが望む世界観を構築し、それを丁寧に整備し続けることだ。正確で網羅的な情報出しやさまざまなJudgmentはすべて、世界観を常に完璧な状態にしておくという大目的に帰する、個別のメンテ項目である。

 その世界観を壊してしまうものの筆頭が、公式の自我だ。

 推しや作品が展開されているフィールド上で、公式が人格をもって何かを主張してしまうのは、小説内でその作者がいちいち解説やツッコミや所感を入れてしまう行為にも等しい。端的に言って、ノイズだ。メタ描写を売りにしている作品ならまだしも、多くのフィクションにとってそれは不要であろう。「小説の表紙に作者の写真をオビで巻くな」勢が本読みの中に一定数いる理由と同じである。

没頭の邪魔になるノイズの排除

 公式の自我以外にも、世界観を壊す邪魔要素はある。

 特に男性アイドル界隈の場合、「『私と彼だけの世界』に限りなく近いほうがいいので、たとえ公式側の関係者であっても、視界に女性が入ってくると嫉妬のような感情が起こる」(Dさん)。先ほどのDさんが「うんざり」と言っていたSNS担当者が“女性と思しき人”であったことは、それを端的に示している。

 Dさんによれば、旧ジャニーズはコンサートのバックヤード映像やPV撮影の舞台裏に公式のカメラが入る際にも、女性のスタッフが極力写り込まない配慮が徹底していたそうだ。男性アイドルが女性ヘアメイクと仲良くしている場面も映さない。

 筆者が別で聞いた話では、男性プロレスラーのグラビア撮影時、その現場にプロモーション動画用のカメラが入ったが、カメラが回っている最中に関係者女性の笑い声が入ったので、「控えるように」と注意が入ったそうだ。

 事例として並べるのはやや不謹慎かもしれないが、男性用アダルト動画のカラミシーンで、男優側の表情を極力映さないようなアングルで撮影する“配慮”を連想する。男性用アダルトゲームで、男性キャラの前髪を長くして目を描かないようにする、といったトリッキーな“配慮”も同様。いずれもプレイヤーの自己投影を妨げないための設計だ。

 “没頭”の邪魔になるノイズは、公式側が徹底的に排除する義務を負い、ファンもそれを求めるのである。

世界観から逸脱した本音は叩かれる

 ファンは、世界観を破壊する者を許さない。たとえ、それが推し自身であっても。

 アイドル界隈には、時折不思議なことが起こる。たとえば、こんなことだ。

 ある男性アイドルが、動画メディアなりSNSなり雑誌のインタビューなりで自分の本心を赤裸々に述べたところ、ファンの間で炎上した。その理由は「◯◯君には、そんなこと言ってほしくなかった」。なお、社会倫理上許されないような発言ではない。

 推しの発言はすべて尊重して受け入れる。それが彼の本心ならば、理解に努める。それがファンというものなのではないか? と部外者は思う。しかし、そうとは限らない。Dさんはそのあたりの心情を解説してくれた。

「それは言ってほしくなかったよ、ってやつです。本人が心からそう思っていたとしても、彼にはそんなこと言ってほしくない、こう思っていてほしい、こう思ってるに違いない、という自分たちの願望のほうが上回る。いびつだし、倒錯してるとも思います。自分たちの期待どおりじゃないというだけで批判し、炎上させる。アイドルファンのエゴを感じます。

でも、仕方ないんです。アイドル界隈の『正解』は世界観なので。本人の本音であっても、私たちが求めてる世界観から逸脱した本音は叩かれます。

それに、私たちも頑張って推しを支えるためにお金を捻出してるのに、その推しが世界観を守れなかったら、もう許せないんですよね」(Dさん)

 繊細で中性的なキャラクターを全面に出している推しには、オラついた発言はしてほしくない。クールな王子様キャラを打ち出しているなら、お笑い感の強い発言は控えてほしい。私たちが大切にしているイメージを、愛してやまない世界観を、どうか壊さないでほしい。そんな切実な願いが透けて見える。大昔に冗談交じりで言われた「アイドルはトイレに行かない」すら彷彿とさせる。

 連載第2回でDさんが、男性アイドルが自分の意思を事務所公式発表に預ける理由を「男性アイドルは言えることが少ないから」と説明したのは、ここにつながる。世界観を壊すリスクを避けるには、当たり障りのないことをしゃべるしかない。

「事務所も本人もそのことをよくわかっているので、本人発信のSNSであっても非常に慎重に運用します。事務所が厳重に管理しているところも多い。当然ながら攻めた発言はできませんから、個人で言えることは少なくなる」(Dさん)

 推しが最初に設定した夢に乗っかったファンは、自分が乗っかった夢の形を後から変えてほしくはない。だから、推しが変えようとしたときに反発する。約束が違うじゃないかと意見する。変化を求めたのが当の推し本人だったとしても。

世界観ファーストで阻害される作者

 フィクション作品のファンも同じく、世界観を破壊する者を許さない。たとえそれが作者であってもだ。ライトノベルシリーズの最新刊を読んだ熱心なファンが「あのキャラは絶対こんなセリフを言いません」「その展開は違うと思います。次の巻では方向修正してください」などと作者に直接意見したりするムーブはその典型だ。

 部外者からすれば、作品は作者のものなのだから、それを受け入れるか、受け入れたくなければ黙って離脱すればそれでいいではないか?とも思うが、そうではない。

 実は公式(≒作者)が作った世界観に対する“注文”の歴史は古い。有名どころでは、シャーロック・ホームズ『最後の事件』のケースだ。

 1893年、既に大人気作家となっていたアーサー・コナン・ドイルが、シャーロック・ホームズシリーズ24番目の短編『最後の事件』を英「ストランド・マガジン」に発表すると、ドイルに抗議の手紙が殺到した。同作にホームズの死が描かれていたからだ。

 ドイルは読者や出版社(同誌はこのことで定期購読者を大幅に減らした)からホームズの復活を切望されたが応じず、1901年になってようやく重い腰を上げて、『最後の事件』の2年前という設定の長編『バスカヴィル家の犬』を執筆してホームズを登場させる。そして1903年、短編『空き家の冒険』で「実は『最後の事件』でホームズは死んでいなかった」ことを明かし、復活させたのだ。

 ファンが、自分たちの望む世界観ではなかったがゆえに、作者に「やり直し」を求め、結果的にそれが叶ったのだ。 見方によっては、公式がファンの要望によって「折れた」とも取れる。ファンの望む世界観ではなかったがゆえに、作者に「やり直し」を求め、作者がそれに応じたのだ。

 推しの炎上にしろ作者へのダメ出しにしろ、そこにあるのは過剰な世界観ファースト志向であり、その世界の中心的創作者であるはずの推しや作者が阻害されている、という奇妙な状況だ。

 世界観は作者の占有物ではない。公式は自ら構築した世界観にひざまずく。

公式とファンの連帯

 ファンがそこまで世界観に執着する理由として、Dさんは「ファンには、自分がそのプロジェクトに関与している意識がある」点を挙げた。

「今めちゃくちゃ売れている某男性グループアイドルは、当初その界隈ですごく嫌われていました。ビジュアルをディスられることが多かったし(笑)、プロデュースの経緯もあまり良く思われていなくて、アンチが結構いました。だけど、彼らがYouTubeでバラエティ的な企画を頑張り始めたら、再生数がかなり伸びて人気が出てきたんです。

 そのうち『メンバー同士でキツいツッコミを入れないでほしい』『親しき仲にも礼儀ありだ』みたいな、くだらないことで小さく炎上するようになったんですが、メンバーもそれをちゃんと学習したのか、キツいツッコミを控えていったんです。そういうことを繰り返し、調整を続けて、メンバーのキャラがみんなの理想通りになっていった。ファンがキャラを強制した、とも言えますが。その結果売れて、今のヒットがあります」(Dさん)

 たしかにこの経緯があれば、「このグループは自分たちが作り上げた」という共作者意識が芽生えても仕方がない。共作者ならば、世界観が変わっていくことに口を出す権利はある。

 世界観は公式とファンが連帯して作るものなのだ。

 『わたしの一番かわいいところ』などのヒット曲で知られる女性アイドルグループFRUITS ZIPPERは「バズ」を持続させるため、「ライブで一部の撮影・投稿を許可し、ファンがどこに着目するかを探る。そして反応を見ながら矢継ぎ早に追加コンテンツを投入する」方法をとった(「FRUITS ZIPPER東京ドーム公演 原宿発『KAWAII』で世界に」日本経済新聞、2026年2月14日)。調整を繰り返し、仕上げていったわけだ。

 昨今は、アイドルグループの誕生からファン予備軍を囲い込むスキームが確立されている。オーディション番組を立ち上げ、選抜の模様を追いかけ、ときに視聴者投票などの手段を講じることで、視聴者がそのグループのメンバリングやコンセプト策定に関与していると感じさせるのだ。

 現代のファンには、公式と一緒に世界観を作り上げる共作者的な性質がある。というより、共作者的な自意識を、公式側の設(しつら)えによって植え付けられている、とも言える。

 この状況はいわば、ものすごく多人数のプレイヤーが協力プレイで育てゲー(育成シミレーションゲーム)をし続けているようなもの。プレイヤーたちの愛着は深い。

 だからこそ、意図せぬ暴言を吐いた“子供”に、たくさんの“親”たちは苛立ちを向けてしまう。「お母さん、あなたをそんな風に育てた覚えはありません!」

 ファンが推しのパーソナリティを規定する。逆ではない。

自分のやりたいことではなく、「フォロワーさん」が喜ぶことをする

 アーティストなり演者なりコンテンツなりが、ファンが望む形を矢継ぎ早に受け入れることで、仕上がってゆく。これは非常に現代的、かつ主流となっている方法だ。

 YouTuberが人気を得る王道の方法は、「フォロワーさんが見たい企画」をやることであって、「自分がやりたい企画」をやることではない。Xで毎日定時に耳よりお得情報を流すポストは、極論すればそれを流したいからやっているわけではない。その情報に喜ぶ人たちの望みに答え、フォロワーになってもらいたいからやっている。フォロワー数が増えればアカウントの価値が上がる。十分に上がったところで、ビジネスに転用する。

 SNSで覇権を取るには、自分がなりたいキャラではなく、フォロワーが望むキャラにならなければならない。キャラのウェイトは外見や口調というより、思想・信条である。ある種のアカウントが、フォロワーが増えるにしたがってX上での物言いをどんどん過激化・先鋭化させていく理由は、フォロワーの望みを受け入れ続けたからだ。カスタマーニーズを誠実に汲み、サービス精神を最大限に発揮した結果、目を覆うような発言を繰り返すヘイター、外国人排斥者、陰謀論者などが誕生する。

 選挙ごとに主張がコロコロ変わる一部の政治家にも、近いものがある。彼らは選挙ごとに、なるべく多くの有権者が望んでいることを公約に掲げがちだ。そのほうが、当選確率が上がるからである。主張に一貫性のない彼らに本心はどこにあるのかと問うならば、「とにかく議員として当選し続けたい」が本心であろう。有権者はフォロワー、公約や主張はキャラ、本心は「YouTuberとしてサスティナブルに収益をあげ続けること」に対応する。

聖なるものとの一体化

 公式が運営する世界観の思想的基盤にファンのそれが相当量組み込まれているなら、「公式にファンが含まれている」という言い方もできるのではないか。公式とファンの心的な一体化。これはときに、ファンの意識を「公式の利益は自分の利益、公式の不利益は自分の不利益」といった状態にまで高める。

 以前、知り合いの編集者が、某男性グループアイドルの評論ムックを制作した。著名な評論家やライターに楽曲のレビューを寄稿してもらうなど、かなり硬質な作りだったが、いわゆるオフィシャル本(公式にライセンス料を支払う出版物)ではない。とはいえ、著作権に抵触する素材はもちろん使用していない。

 ムックが刊行されると、喜んでくれる彼らのファンもいた。しかし編集者はそれ以上に、こんな声をよく耳にしたという。

「これを買ったところで、推しや公式には一銭も入らないからね……」

 出版物のクオリティ評価とはまったく別の判断軸を、ファンは持っている。自分は公式と同じ船に乗っている――という意識から来る判断軸だ。

 ただ、公式という大いなる存在と一体化したいという気持ちの表出は、それほど突飛なことではない。

 人が自分を超越した「聖なるもの」や「尊いもの」とひとつになりたいと願う心理は、古来より宗教の核心にあり、現代でも形を変えて私たちの日常に潜んでいる。

 心理学では、強烈な一体感は「個の孤独からの解放」として説明されるし、宗教学や神話学では、人間は「不完全な自分」から抜け出し、「完全な存在(聖なるもの)」に加わることで、生の意味を確認すると解釈する。……などと難しく考えずとも、誰だって、自分がカリスマ視している人の言動やファッションや持ち物やライフスタイルを真似するものだ。

 ただし、ファンが公式の一部になる、あるいは一体化すると、公式のチョンボを批判できなくなる。むしろ公式が犯した“間違い”を擁護すらしてしまう。公式のアイデンティティ否定は自分のアイデンティティ否定とイコールだからだ。

 ヒアリングの途上、男性アイドル界隈で知り合ったある30代女性は言った。

「ジャニーズの性加害問題が表面化したとき、声を上げた被害者を中傷したり事務所側を過剰に擁護したりと、絶対に非を認めないファンが結構いたじゃないですか。あれは多分、公式と自分が一体化してしまっている側面もあるからだと思います。ジャニーさんを神のように崇めてカリスマ視し、彼がプロデュースしたグループを長きにわたって愛し抜いた結果、自他境界が怪しくなってしまった人は少なくない気がします」

 若者のメディア接触事情や推し活事情に詳しい大手広告代理店マーケターのJ氏は、2023年に宝塚の劇団員が自死した事件を引き合いに出した。

「彼女が自死したとき、一部のファンが『そういうの(劇団内でのイジメ)に耐えられない子はトップになれない』みたいなことを言っていましたが、あれは完全に宝塚歌劇団側に立った発言でした。ファンが加害側に加担してしまった、ファンダム的には最悪のケースだったと思います」(J氏)

他人が作った世界観に浸る楽さ

 ところで、なぜ人は、人為的に作り上げた世界観にそこまで身を浸らせたいのだろうか?

 楽だからだ。

 ファンダム経済を題材とし、2026年の「本屋大賞」を受賞した朝井リョウの小説『イン・ザ・メガチャーチ』(日経BP、2025年)から、ある人物のセリフを引こう。あえてその人物の説明は省く。

「物語への没入というのは、手っ取り早く我を忘れるために有効な手段の一つなんですよね」(『イン・ザ・メガチャーチ』p.182)


「あるゲームのスタッフとして、プレイヤーがより没入度を高めるよう、より時間と資金をゲームに注ぎ込むよう、様々な施策を実行してきました。その中でつくづく感じたのは、決して少なくない人が、自ら何かの中毒に陥りたがっているということです」(同p.181)

 忘我や中毒を志向する理由など、説明するまでもない。現実がしんどいからだ。

 男性アイドルを推す女子高生を主人公とした宇佐見りんの芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』には、それが簡潔に言語化されている。

「自分ではないものに自分を仮託して、待っているのだ。何を? そうしないではとどまっていられないような、苦痛な時間の終わりを、だ。」(『推し、燃ゆ』文庫版p.151)

 他人の作ったウェルメイドで快適な世界観に「乗る」のは楽だ。なぜ楽なのか。そこで提供される物語や登場人物は、それを好きにならせる理由で埋め尽くされているからだ。好きになってもらうための要素を人為的にかき集めて作り上げられているからだ。好きになってもらうことだけを目的に、あらゆるノウハウと技術を総動員され、綿密な計画のもとに作り上げられている、自然界には存在しないものだからだ。

 少なくない数の現代人が口にする「好きになるものが欲しい」「没頭できる趣味が欲しい」といった切実な悩みは、この「追いかける目的を、追いかけられる側が進んで提供する」状況が解消する。公式は、ユーザー自身すら気づいていなかった「好き」と「没頭」を、ゼロイチで“開発”してくれる。

 そもそも趣味など、自然に湧き出た「好き」をきっかけに、能動的に「没頭」するものではないか?という問いは、多くの人にとって酷すぎる。好奇心や能動性は、すべての人間に平等に与えられた能力ではないからだ。

 公式はそこに目をつけた。凝縮された快適の塊を用意し、あとは身を任せるだけという状態を設えた。何かを追いかけたいが追いかけるものを見つけられない人たちに、追いかける対象と理由と目的を与えた。

 ファンが公式に「追いかける目的」を委ねている以上、ファンにとって公式は大いなる存在であればあるほど、そして権威的であればあるほど好ましい。揺るぎない安心が得られるからだ。自分が時間とお金を消費しているものが、時間とお金を消費するだけの価値があるのだというお墨付きを、その大いなる権威から得られれば、それほどの安らぎはなかろう。

「公式とファン」的なもの

 「公式とファン」の関係性を類推的に理解するため、この関係性に酷似した構図を3つ挙げて本稿の結びとしよう。

①ホストと客

 ホストは客に恋をさせることで金を受け取る。客は金を払うことで熱狂や陶酔を得、愛されているという感覚を得る。その感覚は基本的にほぼフィクション、疑似恋愛であり、ホストも客もそうしたことを了解したうえで、同じ夢を見る。

 虚構的世界観を客と共作しているホストは、売上アップという目的を設定し、その目的を客と共有し、半ば“同じ船に乗った者同士”として「その夢を一緒に叶えよう」と焚き付け、客に金を用意させる。客はそのために必死で金を調達する。「今月、売上△△千万出してお店のトップとろうよ! 一緒にバーイベ(バースデーイベント)頑張ろっ」は、「大好きなこの映画が興収100億達成するように、みんな友達連れてリピ(複数回鑑賞)頑張ろっ」とほぼ同じ。

 ときに客が借金や身売りをしてまでホストに貢ぐのは、嫌われたくないからだ。好意を人質にした搾取そのものだが、その精神的主従関係は、経済的主従関係では逆になる。最終的に、客が金を払わなければホストも困るからだ。

 関係はときに破綻する。客がホストに金を落とせなくなったとき、落としているのに快適な世界観を提供してくれなくなったとき、あるいは「私とあなた」で作り上げた世界観を第三者(という名の別の太客)に壊されたときだ。時折ニュースを賑わすホスト絡みの刃傷沙汰の典型である。先ほどのDさんの言葉ほど、この状況にぴったりハマるものはない。

「私たちも頑張って推しを支えるためにお金を捻出してるのに、その推しが世界観を守れなかったら、もう許せないんですよね」

ディズニーランドのキャストとゲスト

 ディズニーランドという夢の空間は、キャスト(従業員)とゲスト(来園者)が、唯一無二のファンタジー世界観を共同で作り上げることによって成り立っている。ゲストは職場や学校では絶対につけないであろう耳や尻尾を装着し、ポップコーンを首から下げ、パーク内では世界観の一部として従順に振る舞う。ゲストはディズニーランドという名の公式に金を払う客の立場だが、否、金を払っているがゆえに、自分が身を浸して安楽を得る世界観の整備には協力的だ。

 “まともな”ゲストはパーク内のミッキーマウスに「中には誰が入っているのか」などと詰問しない。これは、“まともな”アイドルファンが推しに対して、真顔で交際相手の有無や性交経験の有無を聞かないのと同じ。“まともな”プロレスファンがレスラーに対して「ロープに投げたらどうして戻ってくるんですか?」と真顔で聞かないのと同じ。世界観の破壊は野暮の極み。誰も得しない。だから、そういうことはしない。

 先述した「作者の疎外」の比喩がばっちりハマるのが、パーク内のアトラクションだ。あれらは特定の作品なり、特定の場所や時代なりといった虚構的世界観に没頭するためのコンテンツだが、それらを設計・施工あるいは企画・演出した「作者」が気にされることはほとんどない。ゲストが最終的に求めているのは、ライドのギミックや機構上の完成度ではなく、アトラクションが醸す世界観だからだ。演劇における大道具のようなもの。客が見に来ているのは芝居であって、書割ではない。

 したがって、いくら完成度の高いアトラクションがオープンしたとしても、その建設に公式がGOを出していたとしても、ゲストの望むディズニーランドの世界観に合致していないと判定された途端、そのアトラクションは拒絶され、改修や廃棄を求められるだろう。

戦時中の政府・軍部と国民

 戦時中の日本政府や軍部は「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」といった、現在の感覚ではきわめてフィクショナルに思える世界観を作り出し、列強に打ち勝つべしという気分をさまざまな方法で煽って国民を鼓舞した。国と国民が共有する大目的として戦争の勝利を置き、人を連帯させ、まとめあげようとした。「みんなで一丸となって大きな夢を見よう」だ。

 言ってみれば、ひとりでも多くの国民に国家を「推し」てもらい、戦争参加を通じて「応援」するスタンスに誘導した、というわけだ。

 大前提として、当時の政府や軍部と国民は対等な関係だったとは言いがたい。国民は基本的に軍部から睨まれたくないと思っていた。その畏怖は、公式の目をかいくぐって二次創作を制作するファンの戦々恐々を、うっすら思わせる。

 ファンダム文脈において、イベントや新作映画などへの集客を人為的に積み上げることを「動員をかける」と言うが、「動員」とはもともと兵の召集を意味する軍事用語だった。戦時中の日本における国家総動員法(1938年施行)は、「国のために人的・物的資源を政府が統制運用できる旨に関する法律だ。

 ここで我々は、戦時中に軍部主導で発表された戦況情報のことを連想する。敗色濃厚にもかかわらず、さも戦況が有利であるかのような「嘘」をマスコミに提供し、国民にそのまま垂れ流されたその仕組み。

 そ大本営発表だ。

 次回は、この大本営発表を念頭に置きながら公式を論じる。題して「公式はジャーナリズムを殺すのか?」

(次回へつづく)

 第2回
「公式」の研究

推し活がビックビジネスになりつつある昨今。とりわけ、アニメ、アイドル、お笑い分野はかつてない活況を呈している。 それと同時に、かつては存在しなかった言葉がファンの間で流通し始めた。それが「公式」である。作品の制作者の意図、アイドルの世界観、番組の意図などその言葉の使われた方はさまざま。共通するのは「公式の判断が絶対視」されていることである。なぜユーザーたちは「公式」を絶対視するようになったのか? 日本のメディア・消費の変化の最前線を取材し続けてきた著者が、「正解」や「絶対者」を超えた欲望をあきらかにする。

関連書籍

本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形

プロフィール

稲田豊史

いなだとよし  1974年、愛知県生まれ。ノンフィクションライター、編集者。映画配給会社、出版社を経て、2013年に独立。著書『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ―コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)が新書大賞2023第2位。その他の著書に、『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『このドキュメンタリーはフィクションです』(光文社)、『ぼくたち、親になる』(太田出版)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『「こち亀」社会論 超一級の文化資料を読み解く』(イーストプレス)などがある。近著は『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中公新書ラクレ)。

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「公式」とファンは結託する

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