「公式」の研究 第5回

暴走する当事者性/公式はオールドメディアを「殺す」のか②

稲田豊史

お笑いは当事者以外が「批評」できない

 前回、「経験したことのない者に何がわかるのだ」といった現場至上主義がきわめて日本特有であり、ひいては大本営発表や高校野球にも通じる“空気”の醸成にもつながっていることを指摘した。

 その、「当事者しか語る資格なし」の空気がとりわけ強い界隈がある。お笑いだ。

 2008年頃より「おわライター」と名乗り、現在もお笑い評論家として活動するラリー遠田は、2025年2月、ピン芸人・みなみかわのYouTubeチャンネルに出演した。遠田はその中で、みなみかわから「昔は芸人の心をえぐっていたが、昨今褒めてばかり」「あの時のラリーさんどこ行ったの?」などと指摘され、みなみかわと以下のような会話を交わしている。

遠田「僕も含めて一般の方が、素人がお笑いについて何か言うと、芸人さんはめちゃくちゃ怒るじゃないですか。[…]素人に何がわかるんだとか、だったらお前がやってみろよとか、すごい言いがちじゃないですか」

みなみかわ「だったらお前がやってみろよかとは、言ったらアカン言葉ですよね」

遠田「僕はそう思うんですけど……。でもすごい言うなあと思って」

(NANSE channel「芸人の心をえぐるライターのストレスを抜いてあげたい」2025年2月9日配信/文字起こしにあたって若干の修正を施した)

 企画上の「ノリ」が加味されている点は割り引く必要があるが、少なくともみなみかわが、「昔は歯に衣着せぬ批評をかましていた遠田が、最近はそういう批評をしにくい状況にある」「芸人がSNS上で非芸人のお笑い評につっかかるムーブがある」ことを肌で感じていたであろうことは、やり取りから感じ取れた。

M-1審査員は全員が現役お笑い芸人 

 「舞台に立っている/立っていた人間」以外によるお笑い批評が、公の、特にマスメディアで支持を集めにくい空気は、確かにある。今、お笑いの良し悪しを大手を振って論じることが認められているのは、事実上、お笑いの当事者だけではないか。

 実際、国内最大の漫才コンテンストにして、今や我が国の年末大型番組として完全に定着した「M-1グランプリ」の審査員は、直近の2025年では全員が現役漫才師だった。国内最大のコントのコンテストである「キングオブコント」の審査員も、コントを得手とする現役の売れっ子芸人たちだ。

 お笑いコンビXXCLUBのボケ担当で、YouTubeで映画やドラマ評を精力的に発信する大島育宙は、批評誌「ユリイカ」への寄稿でこのことに言及した。

「二〇〇一年開始当初の『M-1グランプリ』には青島幸男、鴻上尚史といった非芸人の審査員がいて、観客投票もあった。それが二〇年を経て『賞レースの審査員は戦いの痛みがわかる経験者であるべき』論が当たり前になり、『キングオブコント』は松本人志の活動休止でついに五分の五、全員歴代王者による審査となった」(「ユリイカ」2024年12月号 特集=お笑いと批評「芸人ヤクザ論」)

 「戦いの痛みがわかる経験者であるべき」は、「経験したことのない者に何がわかるのだ」が象徴する現場至上主義そのものだ。大島は同寄稿において、お笑い批評が「閉じている」ことを指摘する。

「批評の役割は、当たり前と思われている事象に新しい切り口や解釈を与えることだが、今それが許されているのは『ネタ』や『関係性』の中に閉じた細部の『考察』か、芸人村内で権威をクリアした人の発言だけだ。松本人志がお笑いをわかっている村外の人間としてナンシー関やみうらじゅんを慕ったような外向性や他ジャンルとの緊張関係は、膨張を続けるお笑い帝国の周辺には、今はもうない」(同前)

 歌人の井口可奈は同じく同誌への寄稿で、ファンの側も芸人すなわち当事者の言葉にしか耳を傾けない状況を指摘した。

「批評家・ライターよりも芸人の発言を信頼しがちであるというのがお笑いファンの方に多い傾向のようです。プレイヤーに対する信仰がお笑いファンの中には強くありそうで、わたしも例に漏れず、芸人という立場にいる人物の発言を強く受け止める傾向にあります」(「ユリイカ」2024年12月号 特集=お笑いと批評「ファンダムのなかとそとから」)

 当事者によって語られる言葉を前にすれば、少なくとも「板の上」を経験していない批評家・ライターの旗色は悪いと言わざるをえない。

「M-1答え合わせ!」と「お笑いを存分に語れるBAR」

 お笑いは「演者=公式」。これは本連載の第2回に登場したお笑いファンEさん(30代女性)の持論だ。曰く、「お笑いにおける公式は、基本的に本人でしかありえない。当人が言ったことしか信じません」

 そもそも「トーク」に長けているのが多くの芸人の職能であるがゆえ、自分の考えや今後の活動方針を自分の言葉で語るのはお手の物。ファンは通り一遍の事務所公式発表よりずっと情報源として重きを置くことになる。

 たしかに、昨今のお笑い芸人は個人のSNSやYouTubeチャンネル、ラジオやポッドキャストなどで、芸事論をしばしば積極的に語るが、そこに事務所管理の影は見えない。昨今では芸事論だけでなく、大御所芸人の性加害報道や芸人界が男社会であることについての見解を大手ウェブメディアで堂々と述べるヤーレンズ(M-1グランプリ2023、2024、2025でファイナリスト)のようなコンビもいる。

 Eさんは、現役の芸人が芸のことを公の場で語る端緒となった出来事をふたつ挙げた。

 ひとつは、2018年に『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』でNON STYLEのボケ・石田明による「M-1答え合わせ!」が始まったこと。もうひとつが、2019年に『ゴッドタン』(テレビ東京)で「お笑いを存分に語れるBAR」という企画が始まったことだ。

 「M-1答え合わせ!」は、NON STYLEとしてM-1での優勝経験もある石田が、毎年12月に開催される「M-1グランプリ」の結果を振り返り、ナイナイの岡村に向けて石田なりの視点で解説するもの。石田の語る漫才論やM-1論には、経験と実績に支えられた高い説得力がある。

 「お笑いを存分に語れるBAR」は、最前線の芸人たちが直近のお笑いニュースに絡めて、熱いお笑い論や芯を食ったお笑い潮流の分析を行うもの。不定期ながら2026年6月時点で15回も放送されている人気企画だ。

「芸人が自分の芸だけでなく他人の芸について、ネタ単位で具体的かつ分析的に語りはじめたのがこの時期(2018〜19年頃)だと記憶しています。一昔前は『そんなことをするのは野暮』という空気が支配的だったのが、“あり”になった。時期を同じくして、芸人の高学歴化というか、大学のお笑いサークル出身の芸人さんが出てきたことも大きいんじゃないでしょうか。お笑いをロジックで分析したり言語化したりする能力を持ち、それに抵抗がない人たちが台頭した」(Eさん)

 2019年には、2018年からM-1審査員を務めるナイツのボケ・塙宣之が漫才を詳細に分析した『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』(集英社新書)を刊行。以降、実績のある現役芸人が、お笑いを精神論ではなく技術論や批評的アプローチで綴る書籍の刊行が相次いだ。

 石田も2024年に、漫才論、M-1論、芸人論などを綴った著書『答え合わせ』(マガジンハウス新書)を刊行。同年、M-1で2年連続優勝を果たした令和ロマンのボケ・髙比良くるまは『漫才過剰考察』(辰巳出版)を刊行し、芸人自身によるお笑い批評は行き着く所まで行き着いた感がある。

 日本一を決める漫才コンテストの優勝者が漫才について語ること以上に説得力のある「批評」など、一体誰ができようか? ましてや舞台に立ったこともない人間が?

公式しか語る資格なし

 「素人がお笑いについて何か言うと、なんかめちゃくちゃ怒る」(ラリー遠田)に関しては、お笑い芸人自身から興味深い解説が寄せられている。2021年1月、Twitter(現X)にライター・伊藤聡が以下のポストをした。

「お笑い芸人さんの多くは、批評されるのを嫌う傾向がありますよね。映画批評、文芸批評などは創作と相互補完的で、作者からもおおむね歓迎され、不可欠になっているのに、なぜお笑い批評は当事者から(ほとんど生理的な嫌悪感をともなって)拒否されるのか。理由が知りたいです」

(@campintheairによる2021年1月10日のポスト)

 これに対し、エル上田(お笑いコンビ、エル・カブキのツッコミ)は引用リプライで以下のような見解を示した。

「お笑いが一番お客のリアクションが早く、その場で可視化されるからではないでしょうか?ウケたらその場で分かる、スベってもその場で分かる。その場で全て完結できる。[…]」(@el_uedaによる2021年1月12日のポスト)

 無論、演劇や音楽ライブも客のリアクションはその場で可視化される。しかし芸としてのお笑いは、喚起される感情の大半が「笑い」という外部からも観察されやすいものであることから、「その場で起こった笑いの総量=評価の指標」とみなされやすい。

 「受けたから正解、受けなかったら間違い。結論は現場で出ているのだから、それ以上でもそれ以下でもない。そのことは演者である自分が一番肌で感じている」。板の上で奮闘している芸人であればこそ、その思いは強くなる。第三者による批評を嫌う理由としては十分だ。「知らんくせに言うな」「やったこともない奴が語るな」というやつである。

 極論すれば、芸の良し悪しは、その芸が披露された場の空気を吸った者以外に語る資格がない、ということ。「当事者しか語る資格なし」の現場至上主義そのものである。

 Eさんの「お笑いにおける公式は、基本的に本人でしかありえない」を踏まえるなら、ことお笑い界隈において「当事者しか語る資格なし」は、ニアリーイコール「公式しか語る資格なし」であるとも言えよう。

エビデンス主義の蔓延

 「知らんくせに言うな」「やったこともない奴が語るな」に現れる、専門家や当事者以外は語る資格なしという“空気”。それが充満しているのは、お笑い界隈に限らない。

 SUPER EIGHT(旧関ジャニ∞)の音楽バラエティ『EIGHT-JAM』(テレビ朝日系、旧番組名『関ジャム 完全燃SHOW』)が支持を集めるのは、視聴者が推すアーティストの楽曲の何がすごいかを、同業者である別のアーティストや音楽プロデューサーが言語化してくれるからだ。アーティストや音楽プロデューサー、いずれも「知ってる奴」「やったことのある奴」だ。彼らも専門家であり当事者である。

 歴史考証にわずかでも言及する大河ドラマ批評は、歴史研究を職業とするアカデミシャン以外には語りにくい空気がある。新型コロナ関連については医療関係者以外には語りにくい空気がある。いずれも、語る資格を認められているのは専門家であり当事者だ。

 門外漢による語りが軽い所感や感想レベルであっても、SNSに発信した瞬間、専門的な見地からの考査、修正勧告、なんなら謝罪要請が容赦なく飛んでくる。嘲笑や罵倒もついてくる。おちおち気軽な感想もつぶやけない。

 もはやSNS、特にXは、何者でもない一般人の思いつきを無邪気に語れる場所ではなくなった。少なくとも「議論」には、なにか権威性のあるエキスパートでなければ参加できないハードルの高さがセットでついてくる。議論の参戦にあたっては、エビデンスという名の鎧を着込む必要があるからだ。

「エビデンス(証拠、根拠、裏付け)を出せ」は、数年来のインターネット定石ムーブにして、ビジネス界隈の基本的な挨拶言葉だ。根拠が怪しい主張には、どこかの誰かがダウトを投げかける。それがXなら、引用リプで数々のツッコミやコミュニティノートがつく。現代人は、その私的検閲から逃れることができない。

「私の意見になっちゃうんですけど」という予防線

 誰からも突っ込まれない鉄のエビデンスでディフェンスを固めていなければ、うかうか意見も言えない。そのことは、筆者が時折おこなっている大学生調査(匿名による対面グループインタビュー)でも確認できる。

 彼らに何かの質問をする。たとえば、「少子化が加速していますが、あなた自身は将来子供を持ちたいと思いますか?」とかなんとか。すると多くの大学生は、以下のような行儀のいい回答をまず返してくる。「家族のかたちも多様化していますし、共働き家庭も増えた一方、昔のように同居親が子供の面倒を見られない状況もあるので……」とかなんとか。生成AIに「日本の少子化の原因を300字で教えて」と聞いて返ってくるごときテンプレ感が凄まじい。

 しかし筆者が聞きたいのは、彼あるいは彼女自身が「子供を持ちたいかどうか」であって、少子化のもっともらしい(そして語られ尽くした)原因ではない。そこで「いや、あなた自身がどうなのかを聞きたい」と問いただすと、話し始めにこういう言葉を置いてくる学生がわりといる。

「私の意見になっちゃうんですけど」

 こちとら、はなからあなたの意見しか聞いていない。なのになぜ、そんな言い方をするのか。公の場で意見を述べる際には問答無用に強力なエビデンスを携えていないと、「それってあなたの感想ですよね」的な冷笑を浴びせられることを知っているからだ。そんな冷笑を浴びて傷つきたくないからだ。

 だから先回りして予防線を張る。「個人的な思いつきなので、どうか頭ごなしに否定したり攻撃したり貶めたりしないでくださいね」を短く言ったのが「私の意見になっちゃうんですけど」だ。ある種の世代的特性とも言えるが、若年層の世代的特性が往々にして時代のリトマス試験紙になっていることを忘れてはならない。今やあまねくすべての現代人に浸透したコスパ・タイパ志向を最初にインストールしたのは、数年前のZ世代だった。

 エビデンスがない状態が若年層にもたらす過剰な不安は、近い未来における現代人全体の傾向とも言えよう。

「物差しで測れる実績」がある者の言葉しか聞かれない

 当事者以外は批評すべからず。かつて出版社でサブカル系雑誌の編集に携わっていた編集者K氏(50代)によれば、そのような空気は少なくとも2010年代初頭から顕在化していた。

「雑誌のいち企画として、話題作に関して批評家が論じた原稿を載せ、それをWebに部分出しするじゃないですか。そうするとTwitterで『こいつは作り手でもないのに、何を偉そうにジャッジしてるんだ。文句言うならまずお前が作ってみろ』みたいな反応がすごく多くて、辟易していました。そう言ってくる人は全員、作り手でもなんでもない人なんですが。今や批評って誰からも好意的に思われていないんだなあ……と当時思い知りました」

 そもそも現代人に〈批評的なことば〉は求められているのか、ということにまで問いを広げると、「知らんくせに言うな」「やったこともない奴が語るな」の本質が見えてくる。哲学者の東浩紀は2025年1月、Xにこんなポストをした。

「[…]2020年代にはビジネスマンが批評を求めているという認識には同意するのだけど、彼らが求める批評とは経営者の言葉でしかないのではないかという気がする。結局そこに批評家は要らない。[…]」(@hazumaの2025年1月21日のポスト)

 東はそこで、経営者が動画で語る某ビジネスチャンネルを指し、嘆きとも苦笑とも取れるポストをつなげた。

「この番組では経営者がそのまま論客になってる。予告動画を見ると『総売上何百億』とか書いてある。批評家なんて入る隙がない。今後、論客として発言権を得るためには、本なんていくら出してもダメで、まずは起業して売上10億ぐらい立てないと認知すらされないという時代になるかもしれない。」(@hazumaの2025年1月21日のポスト)

 要するに、物差しで測ることのできる実績がある者の言葉には耳を傾けるが、実績がなければ傾けないということだ。その実績とは「肩書き」でもいいし、権威のお墨付きを得た「賞」でもいいし、数字で可視化される「売上」でもいい。

 このような「大金を稼いだ、実績のある者の言葉しかまともに聞かれない」という状況は、「M-1で実績を残した現役漫才師の評論や審査しか認めない」と相似形だ。当事者性の偏重、あるいは暴走とでも呼ぶべき様相がここにある。

公式は本当のことを言っているのか問題

 エビデンスのない発言は無価値だという“空気”。 当事者ではない個人の「△△だと思う」を信用しない“空気”。連載第1回で紹介した「公式」という言葉の用例「公式はそんなこと言ってない」が想起される。

 作品の設定解釈やアーティストの意向などについて、推測に基づいた断定がSNS上に流通し始めると、ほぼ同時に「公式はそんなこと言ってない」という言葉が飛び交い始める。これは公式発表というエビデンスなしに推測でものを語るな、というファンダム内の牽制文句だが、ときにファンダム外にも牽制の矛先は向く。

 批評に対してだ。

 やや難解な映像作品について、批評家がある解釈を披露する。すると、エビデンス主義者からはきまってこんな声が上がる。

「そんなこと、監督はインタビューで言っていなかった」

「プロデューサーによるパンフレットへの寄稿には、それと違うことが書いてある」

 彼らはドヤ顔で、参照先の記事URLやスクショをXにポストする。勝ち誇った顔で。「はい論破」とでも言わんばかりに。

 しかし、そもそも作品の作り手が真意を述べている保証など、どこにもない。作り手が自作について何かを発言する際、何を明かし、何を明かさないかは作り手に委ねられており、その巧みな情報出しの取捨選択自体がひとつの表現であるとも言える。なんなら、自分の発言によって聴衆を煙に巻くことにカタルシスを感じるタイプの作り手すらいる。

 「作者に/本人に/公式に直接問い合わせれば、すべて解決」とエビデンス主義者は言う。しかし、世の中で自己PRほど信用できないものはないことは、就活生や転職活動経験者なら誰もが知っている。連載の前回に引き寄せて言うなら、「大本営に戦果を問い合わせれば、すべて解決」という発想がいかにナンセンスであることか。

 また、連載第3回で指摘したように、公式の義務はファンに快適な世界観を提供し、その整備を続けることであって、世界の真実を伝えることではない。オリエンタルランドは、ディズニーランドのキャスト専用通路の設計図をネットにアップする義務を負っていない。ホストは自分の太客に、「この関係は事実上の金銭契約に基づくものであること」や「恋愛感情を一切抱いていないこと」を書面で提示する義務を負っていない。

批評家は構造の外側にいる

 一方で批評家の仕事は、公式や作者が黙して語らないことを、公式や作者以外の情報源やさまざまな知的推察をもって引きずり出そうとすることだ。一見して継ぎ目なく整えられた世界観に虫眼鏡を当て、ほころびや不整合をわざわざ見つけ出し、そこに付箋を貼ることだ。公式が撮影を推奨していない角度から対象にカメラを向けたり、勝手に光を当ててその影の形をああだこうだと論じたりすることだ。

 批評は、公式とファンが協力して作り上げた世界観に含まれていない。構造の中にではなく、構造の外側にある。決して構造に組み込まれない。当然ながら、公式による原稿の“監修”など受けない。構造の冷徹な観察者こそが批評家だと言ってもいい。

 観察にあたっては、もちろん公式の許可など取らないし、了解も得ない。伝記映画である『ソーシャル・ネットワーク』(2010年、アメリカ)や『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』(2024年、アメリカ)の批評性を担保しているのは、マーク・ザッカーバーグやドナルド・トランプに許諾を得て作ったわけではない、という制作プロセスだ。

 このような批評行為は、公式にとってもファンにとっても、本来的にはノイズである。公式とファンが閉じた世界観の中で仲良くよろしくやっているのに、外からチクチク何かを言ってくる存在だからだ。ディズニーランドのパーク内でその世界観にうっとり浸っているとき、「ミッキーの中に入ってる人の時給知ってる?」などと話しかけてくる人種は、端的に邪魔だ。

 公式は批評と、構造的かつ宿命的に相容れない。

「貶し愛」が成立しなくなった

 一方、前出の編集者K氏は、「貶(けな)し愛」が近年成立しなくなったことも、ファンに批評が好かれない理由に挙げた。

「レトリックを駆使した憎まれ口を叩くことで歪んだ愛を表明するディスり芸、いわば『貶し愛』みたいなものが、かつては二次元とかアイドルオタク界隈には結構あったんですよ。昔のサブカル誌にもそういうノリがありましたよね。でも2010年代前半にはそれが受けなくなった。先ほど、批評に対して『何を偉そうに』という反応が増えたと言いましたが、『辛辣すぎる』『愛がない』という反応も目につくようになりました。今はそれがもっと強まって、直接的な肯定愛しか受け取ってくれない」(K氏)

 2010年代前半、ある種の言説行為が、SNS(主に旧Twitter)上の短文高速レスバによって行われるようになったことも、貶し愛の不成立と無関係ではないだろう。文章による貶し愛の表明は、比喩や皮肉といったレトリックを駆使して行われるので、ある程度の文字量と相応に込み入った論旨展開を必要とするが、旧Twitterの文字数制限は、そのような回りくどい言説の披露や深度のある議論にまったく向かなかった。

 それゆえに、少ない文字数で直接的かつストレートに愛を表明するポストを「ネット上に物量として膨大に流通させること」が、愛の表明行為においては主流となった。TwitterがXになった現在もそうだ。推し行為としての動員とバズらせである。

 バズはなんやかんやと経済を動かす。すなわち公式が歓迎するタイプの愛情表明だ。この点において、動員力に乏しい批評とは対照的である。

「枠」が消滅した

 もうひとつ、かつて成立していたディスり芸が成立しなくなった理由として、K氏は「枠という制限がなくなったから」説を唱える。

「紙の雑誌って、ページ数に物理的な上限があるという意味で『枠』があったんですよね。毎月なり毎週なりの何百何十ページの『枠』に収めなきゃいけない。作品紹介は何作品まで、インタビューは何人まで。作品にしろ人物にしろ、その『枠』に入ったというだけで選ばれし者という名誉を得られました。取り上げられるだけでステータス。だから多少の貶し愛的な批評の洗礼を浴びたとしても、『枠』に入ったという名誉が帳消しにしていたと思います」(K氏)

 「権威ある文芸誌や論壇誌で、高名な批評家が作品について書く」だけでありがたがられた時代が、たしかにあった。

 しかし雑誌のメディアとしての影響力が低下し、SNSが隆盛を極め、noteなどの個人発信手段が充実すると、単に「取り上げる」ことだけなら、誰でもできるようになった。ネット上に「枠」の制限はないからだ。

 結果、雑誌で取り上げられることの特権性はなくなり、当事者でもない第三者のディスり芸を浴びてまで載りたい、載せてもらいたいとは、誰も思わなくなった。

 こうして「枠」は価値ごと消滅した。では何が価値を生むか。「本人が言っていること」だ。それはノイズ混じりのマスメディア経由ではなく、芸人個人のYouTubeチャンネルやポッドキャストやnoteへの寄稿により、高い精度と純度をもってファンに直接供給される。

 公式(本人)とファンによる、不純物が混じらない関係性の構築。それは外野の声に聞く耳を持とうとしないホスト(公式)と客(ファン)のありようにも近い。「あなたの言葉だけを信じてる」「私たちの関係に水を差さないで」。こうして公式とファンは、批評という名の外野の声を排除する。

 幻冬舎の編集者・箕輪厚介はXで「すべてのコンテンツはポルノか推し活か。つまり中毒か信仰か」とポストした(@minowanowaによる2026年5月6日のポスト)。中毒も信仰も、第三者の冷静な批評を排除する性質が強い。どちらも「自分の感じたことが真実」「外野の声は耳に入らない」をある種の理(ことわり)としており、閉じた世界観が徹底されている。公式とファンの妄信的な関係性を想起させるが、実際、熱狂的なファンダムというものは、おしなべて中毒性と信仰性が高い。

批評は「起こしにきた親」

 そもそも、批評の目的とは何なのか。ひとつ言えるのは、すぐれた批評は作り手が企図したこと以上のものを、作品から読み取るということではないか。

 オタキングこと評論家の岡田斗司夫は、2025年1 月に出演したYouTubeで、公式に作品の解釈を聞くことの無意味さを説く中、評論の役割について以下のように説明した。

「本質的に評論とは、作家が気づきたくない本音を探す仕事」

「(作家が)そんな風に見てほしくはないんだけど……を言うのが僕らの仕事の基本。そういう風に見ると作品が豊かになる」

(「バキ童チャンネル【ぐんぴぃ】」――「岡田斗司夫さんとバキ童の企画をやろう【ガチ考察】」2025年1月11日配信)

 文芸批評家の福嶋亮大は、作家が発表したテクストには、作家が考えていることより多くのものがあるという前提に立つ。

「批評の前提は、作家よりもテクストのほうがより多くを考えていると見なすところにあります。作家が自覚的に考えている以上のことまで――つまり作家にとっては盲点になっていることまで――テクストは語ってしまっている」(『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』星海社新書、2022年)

 文章による世界観構築物の代表格を小説とするなら、小説ほど作家の企図を超えた受け取られ方をするものはない。小説家の小川哲は、「小説とは何か」を突き詰めるメタ的な文章の中で、はっきりとそのことに言及している。

「読者が作品から何を感じ取るのかを、作者が完全にコントロールすることはできない。しばしば、読者は作者が想定していなかった要素と自分の人生を結びつけ、文章の意味を過剰に読み取ってしまう」(『言語化するための小説思考』講談社、2025年)

 ファンと共に完璧に構築した世界観に瑕(きず)ひとつつけたくない公式と、公式が想定した以上のものを世界観に読み込もうとする批評。これは一見して対立に見える。

 しかし、作り手の企図以上を読み込むとはすなわち、作品をより豊かで芳醇なものへと昇華・発展・深化させてくれる、ということでもある。つまり、もし公式やファンがアーティストや作品の存在を、今以上のさらなる高みに押し上げたいのなら、批評の手を借りるのも得策だ。

 とはいえ、公式やファンが現状に十分満足しているなら、その限りではない。冬の朝、暖かい布団で気持ち良く寝ているのに、怒号とともに叩き起こしに来る親は、快適なまどろみを妨げるという意味において完全に邪魔者である。学校に遅刻するという機会損失を阻止してくれた恩人だとは――少なくとも布団に入っている間は――思えない。

 公式やファンにとって、批評家は「起こしにきた親」と同じ扱いなのかもしれない。「うるさいなあ。もう少し寝かせてくれよ……」

(次回へつづく)

 第4回
「公式」の研究

推し活がビックビジネスになりつつある昨今。とりわけ、アニメ、アイドル、お笑い分野はかつてない活況を呈している。 それと同時に、かつては存在しなかった言葉がファンの間で流通し始めた。それが「公式」である。作品の制作者の意図、アイドルの世界観、番組の意図などその言葉の使われた方はさまざま。共通するのは「公式の判断が絶対視」されていることである。なぜユーザーたちは「公式」を絶対視するようになったのか? 日本のメディア・消費の変化の最前線を取材し続けてきた著者が、「正解」や「絶対者」を超えた欲望をあきらかにする。

関連書籍

プロフィール

稲田豊史

いなだとよし  1974年、愛知県生まれ。ノンフィクションライター、編集者。映画配給会社、出版社を経て、2013年に独立。著書『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ―コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)が新書大賞2023第2位。その他の著書に、『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『このドキュメンタリーはフィクションです』(光文社)、『ぼくたち、親になる』(太田出版)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『「こち亀」社会論 超一級の文化資料を読み解く』(イーストプレス)などがある。近著は『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中公新書ラクレ)。

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