孤独社会ニッポンの行方 〈つながり〉と〈孤立〉の人類学 第3回

『ONE PIECE』の海賊旗を掲げ“解放”を叫ぶデモ隊。呼びかける「仲間」の力とは。

 
小澤デシルバ慈子

全世界6億部を突破した人気漫画『ONE PIECE』。3月10日にはNetflixで配信された実写版が世界1位¹をとるなど人気はとまらない。
そんななか、近年、麦わらの一味の海賊旗を抱え、抗議デモが各国で広がっている。海賊旗をとおして彼らは何を求めているのか。この現象を人類学の視点で読み解いていく。

イタリア・ミラノにある米国領事館の前で、パレスチナ支援を訴えるプロパル(親パレスチナ)による集会が行われた。日本のアニメ『ONE PIECE』に登場する海賊旗をあしらったパレスチナ国旗。 
写真提供:Newscom/ユニフォトプレス

“解放”を求め、掲げる海賊旗

 何のために「クルー・仲間」が必要なのか? それはあらゆることのためであり、そこには革命を起こすことも含まれる。

 昨年の9月26日、ニューヨークの国連本部前で行われた人権・環境問題に対する抗議行動の最中、ある奇妙なシンボルが現れた。麦わら帽子をかぶった『ONE PIECE』のドクロが描かれた黒い旗である²。

 これは単発的な出来事ではなかった。ここ数ヶ月、ネパールでは燃え盛る宮殿の門に同じ旗が掲げられ、インドネシアでは政府の命令に反抗してこの旗が翻った³。パリからジャカルタに至るまで、日本の漫画『ONE PIECE』に由来するこのエンブレムは、若者が主導する抗議活動の世界的シンボルとなっているのである²。

 海外ジャーナリストたちの記事は、この旗が腐敗した権威主義的な権力との戦いを象徴していると指摘している。ニューヨークのあるデモ参加者は、この旗を掲げた理由を「世界的な運動との連帯」を示すためだと明言した⁴⁵。

 しかし、『ONE PIECE』の旗の象徴するものは「権威への戦い、闘争」だけなのか?何かこの旗のシンボルで見落としていることがあるのではないだろうか。『ONE PIECE』におそらく詳しくなく、もっと言うと日本文化に詳しくない海外のジャーナリストたちがこの旗に真の力を与えている一番大切な概念を見落としているのは驚くことではない。

 『ONE PIECE』の作者である尾田栄一郎は、漫画家である彼を小説家扱いした場合、人類史上8番目⁶に売れている作家であり、その発行部数は6億部⁷を突破した。1000話を超える『ONE PIECE』の壮大な物語には、最初から最後まで一貫した中心的テーマがある。それは英語には完全には翻訳できない言葉、「仲間(nakama)」である。

 そこで、この問題を通して新しい形の親密さについて考察してみたい。はじめに、連帯感、仲間意識(comradeship)にも似た日本語の「仲間」という概念を、社会的なつながりの独特な形態として探求しよう。私が主張したいのは、「仲間」とは単なる友情ではなく、共有された目標の上に築かれる親密さであり、それが世界的な社会運動を理解するための、そして後述するように、深刻な社会的孤立に対処するための極めて重要なツールになり得るということだ。「仲間」とは連帯であり、困難に立ち向かい、互いに助け合うことであり、たとえ相手のことを個人的には好ましく思っていなくても成立するものである。それは単なる愛着の感情に基づくアイデンティティではなく、立ち位置(ポジショナリティ)と共同行為に基づくアイデンティティなのだ。

 面白いことに、日本だとまず誰でも気軽に使う「仲間」に当たる英語は存在しない。アメリカのエモリー大学のクラスでアニメを教えるたびにまず、「仲間」が何を意味するのかを1クラス丸々使ってアメリカの学生たちに説明しないといけない。このクラスを受講する学生たちは日本のアニメファンが多いのにもかかわらず、「仲間」という概念はまず誰も知らない。英語だとサブタイトル及び吹き替えで「友達」と訳されがちなので皆いかにワンピースのルフィが常に「お前は俺の仲間だ!」とか「仲間にならないか?」と言っていることに気づかない。

 「仲間」は、companionship(付き合い)、allies(同盟)、comradeship(同志)、teammate(チームメイト)、crewmate(乗組員)、gang member(ギャングの一員)、work colleague(同僚)など、様々な方法で翻訳されうる。友人が「仲間」になること、逆に仲間の間で「友人」になることもあるが、この「仲間」と「友人」は全く別のものである。「仲間」は、共有された目標に向けた共同行為への従事によって定義される。それは愛着の感情よりも、相互依存と共通性を意味する。友情がしばしば非道具的(non-instrumental)であると見なされるのに対し、「仲間」は明らかにに道具的(instrumental)である。しかし、「仲間」には共感が伴う。共同行為を促進するのは共感、すなわち相互利益のために共に働くという共有された理解なのである。

孤独な少年が仲間を増やし、目標に向かって突き進む物語

『孤独社会: 現代日本の〈つながり〉と〈孤立〉の人類学』を出版した後、私の現在の研究テーマは、米国と日本における日本のマンガとアニメのトランスナショナルな研究である。

 4年間、日本とアメリカでのフィールドワークを通して、日本のマンガとアニメが若者たちにどのような影響を与えているのか。特に、機能不全におちいる国際的な危機にあるこの時代で「大人になる」とはどういうことなのか、一部の世代がいかに大人の目の届かない場所で「レジリエンス(回復力)」を見出し、それが親密さや孤独といった社会的「つながり」にどう影響を与えるのかに焦点をあてている。

 孤独の裏返しは親密さであり孤独とは親密さの欠如とも言える。仲間は友情とはまた違った親密さの社会的繋がりであり、日本のアニメ、漫画(特に少年漫画)において「友情」、「仲間」というテーマは、『ONE PIECE』のような少年漫画において遍在している。

 これらのシリーズの主人公は、ほとんどの場合、父親がいないなど孤独な生い立ちであったり、どこかに孤独の要素が含まれた設定の事が多い。『鋼の錬金術師』などに代表されるように主人公はえてして背が低いなど身体的にもコンプレックスがある場合が多い。彼らは少年(子供)として物語を始める。しかし、やがて他者と出会い、「仲間」を形成し、共有された目標に向かって共に働く。彼らの「仲間」は、成長するという最大の冒険に従事するために必要なサポートネットワークを提供するという、特定の目標に奉仕するものである。したがって、これらの物語において、「仲間」は道徳的な形成(moral becoming)のプロセスと不可分であり、自己は「仲間」という社会的文脈の中で、子供から大人へと発達的に移行していくのである。

 このプロセスは、典型的には思春期中期から後期にアニメやマンガに出会うファン自身の経験にも反映される。以下は、私がインタビューした20歳のファンが、バレーボール漫画『ハイキュー!!』のシャイな女子マネキャラクター、谷地仁花について語った言葉である。

 「谷地というキャラクターを見たとき……自分はチームにふさわしくないという彼女の思い、疑い、ためらい……そのすべてがあまりにも共感できて、心が痛むほどでした……。谷地というキャラクターのおかげで、私は自分自身について、そして人として本当に成長するために何を変える必要があるのかを多く気づかされました……変化は怖いけれど、同時に救いでもあるという事実に慰められたのです」

 このファンの経験は、メディアがいかにして強力で実感の伴うつながりの感覚、すなわち共有された闘争と目的による親密さを生み出し得るかを示している。

友達と仲間の違いはなにか

 さて、この「仲間」という新しい理解を持って、『ONE PIECE』の旗と抗議活動の話に戻ろう。海外ジャーナリストたちが見落としているのは、あの旗が、抗議者たちが「何に反対しているか」のシンボルではなく、彼らが「誰と共にいるか」のシンボルだという点である。彼らは単に旗を掲げているのではない。彼らは自分たちが「クルー」の一部であることを示しているのだ。そして、そのクルーの一部であることによって、彼らは連帯の中で形成された道徳的アイデンティティを持ち、それを表現することができる。実のところ、それは「仲間」という社会的文脈の中でしか発展し、存在し得ないものなのである。

 『Ethos:心理人類学雑誌』に掲載予定の論文において、私はアニメファンが物語のキャラクターと「仲間」になり、4段階のプロセスを経て進んでいくことを示した。

 このプロセスは、(1) 物語への没入(Immersion)から始まり、(2) 他者への共感(Empathy for the Other)へとつながる。そこでファンはキャラクターの苦闘や勝利と深くつながる。重要なのは、これが内面へと向き直り、(3) 自己への共感(Empathy Towards the Self)となることだ。これにより、ファンは物語の中に自分自身の人生が反映されているのを見て、より深い自己理解を育む。最後の段階は (4) 応用と個人的成長(Application and Personal Growth)であり、これらの洞察が現実世界の行動や倫理的選択へと変換される。この共感の旅路は、ファンが受動的な消費者ではないことを示している。彼らは、架空のキャラクターとのパラソーシャルな関係(疑似的な社会関係)を、自分自身の発達上の課題を乗り越え、道徳的アイデンティティを形成するための強力なツールとして能動的に利用しているのである。

 「仲間」は友情とよく似ているように見えることがある。実際、アニメやマンガで「仲間」が英語に翻訳される際、最も一般的な訳語は「Friend(友達)」である。これは、子供たちはみな友達であるべきだというアメリカ的な考え方が、日本的なニュアンスと競合し、それを消し去っている一例かもしれない。

 『ONE PIECE』の中で、ルフィは海賊王になるために、伝説の秘宝「ワンピース」を探している。自分のクルーに引き入れたい新しい人物に出会うと彼の提案は決まって、「お前、俺の仲間になれ!」である。これが米国の英語圏の子供たちのために「僕の友達になってくれないか?(Won’t you become my friend?)」と翻訳されるのは驚くことではないが、私は「仲間」と「友情」の区別こそが重要かつ有用であると主張したい。

 では、分析的に「仲間」と「友情」をどう区別できるだろうか? 私はこの2次元モデルを提案する。

著者作成

 縦軸は「情動的な好意(Affective Liking)」、横軸は「機能的または道具的必要性(Functional or Instrumental Need)」を測る。

 理想化された西洋のモデルでは、「友情」は「高い好意」と「低い道具的必要性」に位置する。私たちが友人であるのは、互いに好意を抱いているからで、何かの目標のために互いを必要としているからではない。

 下の方には、「同僚」や「同盟」があるかもしれない。「低い好意」と「高い道具的必要性」である。

 しかし、「仲間」はこの右側の空間全体を占める。「仲間」は「高い道具的必要性」によって定義される。共有された目標が不可欠なのだ。しかし、「情動的な好意」のレベルは低い場合もあれば高い場合もある。『ONE PIECE』の麦わらの一味は次第に親密になるが、彼らの絆はまず、生き残り、夢を達成するという共有された必要性によって築かれたものである。「仲間」とは、相互依存から生まれる親密さなのだ。

 友情は「僕・私のことが好きなのか?(Do you like me?)」と問う。

 仲間は「お前は僕・私と一緒にいるのか?(Are you with me?)」と問う。

 友情は愛着の親密さである。「仲間」は行為の親密さである。

 なぜこの区別がそれほど重要なのか。それは、私の近年のもう一つの主要な研究関心である、孤独の社会的・個人的経験によって明らかにされるかもしれない。

孤独からの脱却は友達づくりではない?

 孤独の研究者として私が痛感したのは、「自分なんか誰にとっても大切ではない、誰も自分を構う人はいない(I don’t matter)」という深刻な感覚に陥っている人に対して、「外に出て友達を作りなさい!」とは言えないということだ。10年以上にわたり、私は「自殺サイト」を訪問することで、自殺願望を持つ若者たちを研究してきた。彼らは皆、自分がいかに孤独か、いかに必要とされたいと願っているかを吐露したが、それでも他者とつながることができずにいた。友達を作ることは、「生きづらさ」――生きることの辛さ、痛み――に苦しむ、これら衰弱した日本の若者たちにとって選択肢にはなり得なかったのである。

 この痛みは、「普通」であれという浸透した圧力と結びついている。東京での「孤独社会」出版記念講演会で、私は規範から逸脱した人々に対する社会的受容の狭さを表現するために「ストライクゾーンが狭い」という表現を用いた。日本社会においては「普通である」と社会的許容範囲が他国に比べると非常に狭く、少しでもそこから外れると(海外に1年以上過ごした人々はすでにこのストライクゾーンから外れることを実感していると語るし、性的マイノリティー、大学を出て会社に就職できない人たちも同じように感じると語る)ちょっと変、とか多少差別された経験を持つ事が多い。今まで度々孤独、孤独社会について講演したが、日本で講演したこの時初めて観衆が涙するのを目の当たりにした。こんなに聴衆に感情的に強く響いたという事実は、多くの日本人が、自分たちの社会を「少しでも違う人」に対して不寛容であると認識しており、それが直接「生きづらさ」につながっていることを痛感させられた。

 孤独とは「社会的孤立の知覚、感じられる感覚」である。そして日本において、このつながりの危機は、最大150万人に影響を及ぼす「ひきこもり」という最も極端な形で現れている。ひきこもりの人々にとって、友情を築くことは不可能に近いほど高いハードルである。

 しかし、私のインターネット集団自殺に関する研究は、孤独な人々にとって友達を作ることは非常に困難である一方で、自殺を望む多くの個人が、他者と共にそうすることを望んでいることも明らかにした。共同行為と共感は、友情の領域に限られたものではない。人々は、たとえ耐え難い精神的苦痛の中にあったとしても、同じ状況にある他者との連帯を経験できるし、実際に経験しているのである。この共感は、感傷的な感情の共有ではない。それは、一人では達成が困難なことを共に達成しようとする、行動志向の実践なのだ。信じがたいことに、これは死ぬという行為においてさえ適用される。私の論文の一つは、「一緒に死んでくれる人」を求めていた、ある若い女性のオンライン上の投稿から、「一人で死ぬのはあまりにも寂しすぎる(Too lonely to die alone)」と題された。

 昨年、東京で私は、ひきこもりを研究している同僚の人類学者、堀口佐知子氏と自分の研究について議論していた。私が「仲間」と「友情」(「友達」や「友人」といった言葉)の区別を説明したとき、堀口さんは、ひきこもりの人々の間に社会的つながりを築くには、友情よりも「仲間」の方が効果的な方法かもしれないと示唆してくれた。

 孤立した個人に互いを好きになり、友達を求めるのではなく、共有された具体的な目標を中心にサポートグループを構成することができる。目標が相互作用のための構造を作り出すのだ。それは関係性を肯定的な形で道具化し、即時的な情動的親密さを要求するのではなく、相互依存を通じてつながりを育む。共に働くことを通じて、共感や、さらには好意さえもが有機的に芽生える可能性がある。それは「仲間」になることから始まるのである。

 孤独な人々にとって、友情は「目的地」になりうる。しかし、仲間は「道」である。「ストライクゾーンが狭い」社会において、「仲間」は居場所(belonging)の領域を広げてくれる。私たちはあまりにも頻繁に、孤独な人へ「友達を作れ」と言ってしまうが、彼らがまず必要としているのは、「クルー」を見つけることなのかもしれない。

生きづらさを乗り越えるヒントとは

 もう一度、海賊旗の話に戻ろう。ニューヨーク、ネパール、インドネシアの抗議者たちは、単に反乱を示唆しているのではなく、新しい共有されたアイデンティティを示しているのである。彼らは、しばしば自分たちを無力で孤独だと感じさせる世界において、共有された目的による親密さを示しているのだ。これは、対面(face-to-face)ではなく、共通の闘争に直面して肩を並べる(shoulder-to-shoulder)ことで見出される親密さの形を示唆している。

 「仲間」という概念は、違いを消し去るのではなく、共通の目的に向けて違いを活用することの上に築かれる親密さを私たちに示している。それは、私たちのロマンチックなつながりの概念に異議を唱え、最も強力な絆のいくつかは、単に愛情の温かさの中でだけでなく、共有された闘争という試練の中で鍛えられることを示唆しているのである。

 人類学にとって、「仲間」を用いて考えることは、オンラインやオフラインで現れつつある新しい社会性の形を見ることを可能にする。そして、深刻な「生きづらさ」を経験している人々にとって、それは極めて重要な提起となる。孤独から抜け出す道は、友達を作ることではなく、「クルー・仲間」を見つけることにあるかもしれない、と。

¹ONE PIECE.com「Netflixシリーズ実写ドラマ版『ONE PIECE』シーズン2がNetflix週間グローバルTOP10(英語シリーズ)で堂々の1位スタート!」2026年5月23日閲覧。

²NPR. “Why Gen Z protesters worldwide are flying an anime pirate flag.”2025年10月5日、2026年5月23日閲覧。

³CNN. “Gen Z protesters are uniting behind a manga pirate flag.”2025年9月19日、2026年5月23日閲覧。

⁴NMC NEWS. “Gen Z protesters united by an anime pirate flag are challenging governments around the world.” 2026年5月23日閲覧

⁵BBC. “How a cartoon skull became a symbol of defiance in Indonesia.”2025年8月6日、2026年5月23日閲覧。

⁶Netflix Junkie”One Piece Creator Eiichiro Oda Crowned Highest-Selling Single-Series Author in History”2026年5月29日閲覧。

⁷ONE PIECE.com「『ONE PIECE』コミックスの全世界累計発行部数が6億部突破!一大プロジェクトが始動!!」、2026年5月23日閲覧。 

 第2回
孤独社会ニッポンの行方 〈つながり〉と〈孤立〉の人類学

物理的に孤立しているわけではないにもかかわらず、ひとりぼっちだと感じてしまう。この“生きづらさ”や“居心地の悪さ”の正体とは何か。孤独を単に個人問題にとどまらず社会問題として扱い、いかに社会的な条件が人々を孤独へ向かわせているかについて人類学の視点で分析した『孤独社会: 現代日本の〈つながり〉と〈孤立〉の人類学』の著者が「孤独社会」(Lonely Society)ニッポンの問題を分析する。

関連書籍

プロフィール

小澤デシルバ慈子

(おざわ でしるば ちかこ)
医療人類学者。上智大学を卒業後、エセックス大学で文化社会学の修士号、オックスフォード大学で文化人類学の博士号を取得。ハーバード大学社会医学部客員研究員、シカゴ大学博士研究員、エモリー大学人類学部教授を経て、現在は当大学ロシアおよび東アジア言語文化学科教授。著書に“Psychotherapy and Religion in Japan: The Japanese Introspection Practice of Naikan”や“The Anatomy of Loneliness: Suicide, Social Connection and the Search for Relational Meaning in Contemporary Japan”、『孤独社会: 現代日本の〈つながり〉と〈孤立〉の人類学』(青土社)などがある。専門は医療人類学、社会人類学、日本研究。

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