国鉄改革、電電公社民営化、規制緩和……。中曽根康弘は強い政治力で構造改革を牽引したが、それはリクルート事件に象徴される新たな利権を生み、政治とカネの問題をより複雑にした。その功罪は、小泉純一郎、安倍晋三に受け継がれる。戦後政治の焦点としての中曽根時代、終生のライバル・田中角榮との対立、北朝鮮との国交正常化構想、そして高市早苗政権に至る自民党保守の変質を、山崎拓元副総裁の証言から読み解く。
「官から民へ」が変えた日本
中曽根康弘は米大統領のロナルド・レーガンが進めた行政の民間企業開放政策に追従し、英首相だったマーガレット・サッチャーの提唱した原理的な市場競争を歓迎し てきたといわれる。小さな政府への転換を訴えるその規制改革は、小泉純一郎や安倍晋三に引き継がれ、あたかも日本社会が成長するために必要不可欠な政策であるかのように受け止められてきた。2009年に自民党から政権を奪取した民主党も「官から民へ」というキャッチフレーズの下、行政の規制撤廃へと突き進んだ。その後、民間による市場競争原理主義ははやがて弱肉強食の色合いの濃い新自由主義政策として批判の対象になる反面、日本の為政者の多くは今も規制緩和が足りないと主張する。
三公社五現業の解体を進めた中曽根は、そんな現在の日本社会の原型をつくったといえる。国鉄や日本航空の改革しかり、日本電電公社や日本専売公社の民営化しかりだ。
一方、田中角榮は米英追従の市場開放政策にあらがおうとする。田中は日本最大の労働組合として聞こえた国鉄労働組合(国労)本部中央委員の細井宗一の戦友だった。二人はともに新潟県出身で生まれ年も同じである。太平洋戦争当時、大日本帝国陸軍騎兵第3旅団第24連隊の士官候補生だった細井は、たまたま徴兵で入隊してきた田中と出会い、軍隊生活の面倒を見たといわれる。
その二人の道は終戦を迎えて分かれた。田中は自民党入りし、細井は国鉄に入社して国労を統率するようになる。高度経済成長を経て先進国の仲間入りを果たし、保革の対立した1955年政治体制にあってなお、二人の仲は変わらず続いた。田中は労働組合問題で細井に相談し、細井は目白の田中邸にフリーパスで出入りしてきたという。自民党族議員の象徴のような田中が、今なおバランス感覚のある穏健保守のように評価されるのは、欧米一辺倒ではないアジア外交に重きをおいたからかもしれない。

田中角榮が止めようとした国鉄改革
そんな田中の率いた自民党最大派閥という巨大な壁は、米国の開放圧力に押されて欧米流の市場開放路線に乗ろうとした中曽根内閣に立ちはだかった。1982年11月に発足した中曽根内閣は、首相を退任した闇将軍の田中に支配され、田中曽根内閣と揶揄されるほど、田中の影響下にあったといえる。最もわかりやすい例が国鉄の分割民営化だ。田中は自民党内の運輸族議員を束ね、国鉄分割論に反対してきた。
しかし折しも、竹下登、金丸信という田中派の腹心たちの造反により、政界の潮目が変わる。ロッキード事件のあと、日本古来の業界や行政との癒着がもたらしてきた金権政治への反発が高まっていた渦中の出来事である。腹心の造反にショックを受けた田中は脳梗塞に倒れ、中曽根はようやく田中支配から逃れた。国鉄は87年4月に分割民営化され、国労は事実上解体された。ここから官公労を支持母体にする日本社会党も衰退していく。日本の労働組合が一大転機を迎えた瞬間といえる。
表向き保革勢力が対峙したとされる55年体制はその実、従来の行政や労働組合の利権を背にした馴れ合い政治にすぎなかった。その現実がこのあたりから明らかになる。前回に書いたように、保革の馴れ合いを象徴するのが90年の金丸訪朝であろう。
田中と中曽根はある意味、自民党保守を背負った対照的な政治家だったといえる。田中は労働組合などのリベラル勢力に理解を示しながら組織・団体や行政の利権を分け合い、中曽根は市場競争経済の導入という旗印を掲げたが、そこには規制緩和という新たな利権が生まれた。日本に限らず先進諸国がこの30年数年来、この二つの対照的な政治の狭間で揺れ動いてきたといえる。この間、自らの世界観で国の舵を取る気概のある大物政治家がいなくなった。田中角榮師事を公言する石破茂は胆力に欠け、自らの政治姿勢が定まらずに1年で政権の座から降りたというほかない。
山崎拓(89)は、そんな対照的な自民党保守政治を率いてきた田中と中曽根という二人の政治家を目のあたりにしてきた。とりわけ中曽根との縁が深い。首相となった中曽根は1983年5月に米国のウィリアムズバーグ・サミットで初めて英首相のサッチャーと会談し、以来、二人は何度も首脳会談を重ねてきた。山崎が中曽根とサッチャーのエピソードについて明かす。
「レーガンとの首脳会談のときは外相の安倍晋太郎氏をはじめ他の人も加わっていましたが、中曽根・サッチャー会談では『中曽根と二人だけで話したい』と言っていたサッチャーに対し、中曽根さんが『この男は私の後継者だから勉強させたい』と懇願し、私だけが同席を許されました。通訳も入れない。なので会話はすべて英語です。おまけにサッチャーはテイクノートも許さなかった。レーガンとの会談のテーマはもっぱら冷戦時の安全保障問題でしたけれど、サッチャーは構造改革の話ばかりしていました。こっちは二人の話を聞き洩らさないよう必死でした。中曽根さんの話すのは昔の東大英語ですから、大体わかるんです。けれど、サッチャーは典型的なKing’s Englishだから、いま一つよく聞き取れない。正直なところ、ところどころ意味不明でしたけれど、私なりに必死に記憶し、会談の様子をあとで記者会見しました」

北朝鮮との「たすきがけ承認」構想
田中角榮は共産主義から戦前に国粋主義に転じた田中清玄をパイプ役とする中東の石油利権にも、首を突っ込んでいた。一方、市場開放路線に乗った中曽根は英米外交に軸をおきながら、前回に書いたような北朝鮮との国交回復交渉の絵も描いたようだ。日本と北朝鮮、韓国と中国がそれぞれ国交を結ぶ「たすきがけ承認」外交である。北朝鮮と国交を結ぼうとした中曽根の狙いは何だったのか。
「中曽根さんがたすきがけ承認を提唱したときは、まだ田中角榮氏が倒れる前の田中曽根内閣時代でしたので、田中さんの影響も大きかったと思います。中曽根内閣の官房長官は後藤田正晴さんで、田中派の重鎮でしたから。今の対イランと同じで、北朝鮮に核開発をやめさせようとしたのです。そのため、向こうに日本の大使館を置き、さらには米国とも国交を結んで大使を派遣しようとしました。
要するに、中曽根さんは外交によって北朝鮮の核開発を止めようとしたのですが、これは日本と北朝鮮だけの問題ではありません。なので、たすきがけ承認構想はこのあと中曽根さんから中国の曽慶紅国家副主席らに伝えられ、そのずっと後の小泉政権時代に六者協議になりました。六者とはアメリカ、中国、南北の朝鮮、ロシア、そして日本です」
田中支配から脱した中曽根は1987(昭和62)年11月、総裁候補に挙がっていた竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一の自民党ニューリーダー3人のうち、竹下を後継指名して政権を譲る。いわゆる「中曽根裁定」の結果だ。これは竹下と金丸が経世会を発足させた直後でもあり、ここから中曽根の影響力が増したといえる。そうして金丸訪朝へとつながるという。
「このたすきがけ承認構想は小泉政権で拉致問題が発覚して立ち消えになりましたけれど、それまではずっと引き継がれてきました。中曽根さんのあとが竹下登政権で、90年の金丸訪朝もその流れで実現したものです。言ってみれば、世界平和の実現のためにこうした大構想を描いて取り組んできた。それが中曽根さんでした。そのために世界平和研究所を創設しました。あれは竹下さんに資金を捻出させて設立したもので、今でも健在です」
事実、財団法人「世界平和研究所」は1988年6月、中曽根の後継指名により誕生した竹下登内閣の閣議了解を経て設立された。公益財団法人の導入に伴い、2018年1月に「中曽根康弘世界平和研究所」と名称を変えて今にいたっている。現在の会長は麻生太郎だ。ウエブサイトの沿革には次のように記されている。
〈創設者・初代会長中曽根康弘は、総理時代、日本には政治経済の調査や政策立案を行う有力な公益法人が少ないことを痛感し、外国の代表的な機関に遜色のない研究所の設立を決心しました〉
平たくいえば、竹下内閣は脱田中を目論む中曽根と竹下の合作で誕生し、竹下はそれゆえ首相退陣の花道として世界平和研究所を用意したのかもしれない。安全保障と外交を自らの政治命題に定めた中曽根は、今の自民党にない世界的な視野で政治をおこなってきたのも事実であろうが、集団的自衛権行使容認を訴えるなど、自民党タカ派の支柱にもなってきた。
リクルート事件は“構造改革利権”の始まりだった
もっとも竹下政権は長続きせず、短命に終わった。原因は政治とカネ問題である。平成の幕が開いたばかりの1989年2月、東京地検特捜部は前年から取り沙汰されていたリクルートグループ株を使った賄賂工作の本格捜査に乗り出した。リクルート事件が竹下政権を直撃し、この年の6月、首相の竹下は内閣総辞職に追い込まれる。株式上場を前にした不動産業のリクルートコスモスの未公開株が、政官界のみならず経済界やマスコミにまで大掛かりにばら撒かれ、ロッキード事件以来の一大疑獄に発展したのである。
東京地検の最終ターゲットが中曽根とされ、中曽根政権で官房長官を務めた藤波孝生をはじめ、12人が逮捕されて有罪となった。逮捕こそされていないが、コスモス株が渡った議員をざっと挙げると、中曽根本人のほか、竹下登や安倍晋太郎、宮澤喜一といったニューリーダー、渡辺美智雄や森喜朗、小沢一郎といった大物議員のオールキャストだった。
リクルート事件は未公開株の譲渡を新手の賄賂と見なした点が画期的だと評価されたが、構造的には従来の政治とカネを巡る汚職事件と変わらない。
ただし、旧来の贈収賄事件と異なる点もある。贈賄側のリクルート創業者の江副浩正は、中曽根が生み出した規制緩和という利権に食い込もうと電電公社から民営化されたNTTに接近した。ごく簡単にいえば、通信の自由化によって生まれたビジネスチャンスに目をつけ、賄賂攻勢をかけていたのである。
規制緩和、構造改革という見栄えのいい政策にも利権が発生し、営利企業がそこに食いつく。それは自然の流れでもあった。ビジネスの世界で新参者だった江副が新たな利権に一枚噛もうとして賄賂を使った。それがリクルート事件の本質ではないだろうか。
そして、この政治とカネ問題は現在もなお尾を引き、ほとんど解決できていない。未公開株は自民党の派閥領袖クラスや野党幹部にも行きわたり、ロッキード事件以来の衝撃が政界に走り、自民党は政治改革大綱なる改革案をまとめた。そこで自民党は派閥の解消を目指した。だが、なし崩しになる。リクルート事件の摘発から30年以上経た2022年11月、日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」の報道から火のついた派閥の裏金問題もまた、高市早苗政権の今なお燻り続けている。まさしく歴史は繰り返してきたといえる。
湾岸戦争と高市政権――繰り返される“対米追従”
ウラジーミル・プーチンによるロシアのウクライナ侵攻を皮切りに、目下、世界中で戦争が起きている。ベネズエラのニコラス・マドゥロ政権の転覆に味をしめた米大統領のドナルド・トランプがイラン攻撃に踏み切り、ペルシャ湾岸地域の戦況が泥沼化している。世界中がホルムズ海峡封鎖の影響を受け、戦争終結の道筋も見えない。
もっとも石油問題を巡る中東の紛争は今に始まったことではない。1973年の第一次オイルショックのことがしばしば取り沙汰されるが、世界の安全保障という観点からすれば、90年代に起きた湾岸戦争が現状に近いかもしれない。ペルシャ湾問題で何一つ対処できない現高市政権とは裏腹に、90年の湾岸戦争のときも日本の役割が問われ、対応に迫られた。

もともとペルシャ湾岸では、シーア派でペルシャ人のイランとスンニ派でアラブ人のイラクという民族対立から互いの軍備増強を競ってきた。結果、どちらも経済的に疲弊し、サダム・フセイン率いるイラク共和国防衛隊が1990年8月2日、米国を後ろ盾に債務返済を迫ったクウェートに軍事侵攻し、翌1991年1月に湾岸戦争の幕が開く。折しも、日本の政界がリクルート事件による政治とカネ問題で揺れていたさなかの出来事だ。山崎拓は、このときの状況が今と似ていると言う。
「湾岸戦争のときも米国から自衛隊の掃海艇派遣を要請する構想が持ち上がりました。そのときの部隊長の父親が、太平洋戦争の沖縄戦で有名になった大田實海軍司令官。海軍の地上部隊を率いで『沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』と電文し、命を絶った方です。湾岸戦争のときの掃海艇の部隊長はその三男だから、戦争の悲惨さを知っていたのだと思います。後藤田さんが猛烈に反対し、結局、自衛隊の掃海艇は湾岸戦争が終わったあとの派遣になりました。今回のイラン戦争でも同じように掃海艇の派遣を米側から要請され、高市首相は派遣しようとした。しかし、そこでも反対が起きましたよね」
後藤田正晴は戦前の1914(大正3)年8月、徳島県麻植郡東山村(現吉野川市美郷)に生まれ、東京帝大法学部を卒業した39(昭和14)年4月に内務省に入省する。まさしく戦中派の官僚代議士である。戦中は陸軍の徴兵に応じて二等兵からスタートして41年12月の太平洋戦争開戦時は陸軍主計少尉だった。終戦後に警察庁に移り、69年8月に警察庁長官に就任する。警察庁退官後、奇しくも田中角榮が自民党総裁として首相に昇りつめた72年7月の第一次田中内閣発足時、事務担当の内閣官房副長官に抜擢される。以来、田中の懐刀として霞が関の官僚組織に幅を利かせ、自らも政界に進出する。
後藤田の地元は田中のライバルでロッキード事件を追及してきた三木武夫の選挙区である。後藤田本人はそこで74年に参議院選挙に出馬した。だが、自民党公認を巡る保守分裂選挙となり、後藤田自身は三木派の候補者に敗れて落選する。のちに「阿波戦争」「三角代理戦争」と異名をとり、後藤田陣営に選挙違反者を出した凄絶な選挙戦である。後藤田は76年12月に衆議院議員に鞍替えして初当選し、ここから中選挙区制時代にずっと自民党内の派閥の領袖だった三木と選挙を争ってきた。
前に書いたように、米大統領のトランプは眼下のイラン戦争におけるホルムズ海峡の機雷除去について、高市政権に日本の自衛隊派遣を求めてきたといわれる。高市が先の日米首脳会談でそれに応じるのではないか、という懸念があり、内閣官房参与の今井尚哉が彼女を諫めたとされる。そこについて、山崎はこう語る。
「自衛隊の掃海艇派遣に反対した今井さんは、後藤田さんと同じ役割を果たしたことになります。それは湾岸戦争のときのことを念頭に置いていたはずです。彼は経産省の高官でもあったけれど、経団連会長だった今井敬(新日鉄元会長)の甥で優秀な人材です。今井さんは安倍政権を支えてきたので、今回もその役割を果たしたのでしょう。けれど、おかげで高市首相が気に入らず、二人のあいだにミゾができたようにも聞いています」
高市政権にはブレーンがいないといわれる。山崎はこう切って捨てる。
「高市政権では木原稔官房長官という側近がいます。けれど、残念ながら後藤田さんのような懐刀がいない。政治家でいえば時代とともに官邸のなかの人間が移り変わっていますが、ほとんどが二世や三世議員ばかりで、一代で議員になった政治家と比べると、スケールがどんどん小さくなっています。だからトランプ大統領などに対抗できないのです。議員本人に戦争体験がないということが、その一つの理由に挙げられるでしょう。乳母日傘で育ってきた二世や三世で、戦争の苦労を知らないから、人間的な魅力もありません」
実際、米国追従一辺倒の高市外交を見ていると、山崎の指摘は的を射ているように感じる。反面別の問題もある。自民党は議員個人の資質もさることながら、党員を含めた政党自体が変質しているのではないか。それは議員だけの問題でもなく、党のサポーターも含めた変化があるのではないか。
「要は自民党そのものが変わってきたということでしょう。これまで自民党を支えてきた地方の名士、名望家の人たちもいなくなっています。以前の自民党ならサポーターのなかに個人資本家がかなりいました。
やはり政治は経済と密着していて、終戦後はとくに経済が政治を支えてきました。私のささやかな体験でいえば、福岡県発祥のブリヂストンの石橋家と縁があり、同じ県内の石油の出光興産には私の親友がいましてね。出光といえば、1953年に日章丸事件が起きました。私の高校時代のことです。イラン革命が起きる前で、英国がイランの石油を支配していて輸出を止めた。そのとき出光の石油タンカーである日章丸が英国の監視をかいくぐって日本に石油を運んだのです。あのとき、ことの陣頭指揮を執ったのが創業者である出光佐三の弟さんでした。私は出光佐三氏に非常に世話になりました。自民党に入る前、無所属非公認で選挙に出たときなどは、そうした個人資本家にずい分応援してもらいました」
山崎は早大卒業後、ブリヂストンに5年間勤務しており、選挙でも支援されたという。山崎の言った無所属の選挙とは、中曽根に勧められて初めて国政選挙に立候補した1969年12月の総選挙を指している。山崎は保守系無所属で出馬したが、あえなく落選し、72年12月に初当選するまで浪人生活を余儀なくされた。その間、企業の支援を仰いだ。山崎が言葉を補う。
「自民党にはそうした個人資本家のサポーターがたくさんいました。中曽根派では、三井財閥グループの大立者として名を成した北炭(北海道炭砿汽船)の萩原吉太郎さんや戦時下に日本の映画界をまとめ上げた大映の永田雅一さんなどの名前が浮かびます。中曽根さんの地元でいえば、群馬県出身の山種証券創業者の山崎種二さんなんかでしょうか」
山崎種二は中曽根をはじめ福田赳夫ら自民党大物議員のスポンサーとして知られる相場師である。カラ売りを得意とする「売りのヤマタネ」と異名をとって大正時代に米相場で財を成した。1936(昭和11)年2月の二・二六事件によって株価が大暴落した局面でも大儲けし、44年には証券会社4社を統合して山崎証券(現山種証券)を設立した。山崎は政官財界に閨閥を張り巡らせた。
中曽根と同じ群馬県出身の福田の妻は山崎夫人の従姉妹、現内閣官房参与の今井尚哉の叔父にあたる元通産事務次官の今井善衛は長女の夫にあたる。元運輸事務次官の住田正二は山崎の次女の夫であり、中曽根はその縁もあって国鉄民営化の際にJR東日本初代社長に抜擢したといわれる。
自民党と実業家とのつながりはさまざまに語られてきた。山崎拓の話した永田は大映社長として1950年8月、黒澤明監督映画の『羅生門』を公開して大ヒットさせたほか、プロ野球「大映スターズ(現千葉ロッテマリーンズ)」のオーナーでもあった。大風呂敷を広げる癖があって「永田ラッパ」と揶揄される反面、黒幕として映画界だけでなく政界にも力がおよんだ。また萩原は三大財閥の一角を占める三井合名に入社したあと、北炭に移籍して右翼の児玉誉士夫らの力を借り、終戦後に北海道における炭鉱開発や海運業で辣腕を発揮した。永田とも交流があり、日本プロレスリング協会を立ち上げ、横綱大鵬幸喜の後援会会長としても勇名を馳せた。政財官や芸能スポーツ、裏社会が深く結びつき、戦後復興や高度経済成長を成し遂げてきた日本社会にあって、彼らが黒幕として大きな役割を果たしてきた事実は否めない。
さらにいえば萩原は田中角榮が郵政大臣の頃、北海道放送に続く第二の民放局として事業認可を得て札幌テレビ放送の開局にかかわり、社長に就任した。それも自民党との結びつきを象徴する出来事といえる。田中が福田赳夫と総裁のポスト争いを演じて第一次内閣をつくった1972年、中曽根は田中に寝返った。このときの派閥工作資金を用意したのが、北炭の萩原だった、とのちに福田派の幹部が週刊新潮に暴露したこともある。山崎が言葉を付け加える。
「応援する実業家や資産家は、みなそれぞれに政治家や党に寄付してきたわけです。今はそれがなくなったので、誰もが政治資金に苦しんでいる。自民党に限らず、今回の総選挙で落選した中道改革連合の議員もそうでしょう。この人が落ちるのか、という大物がボロ負けした。新しい党首や幹事長は、彼ら落選議員をどうやって救済するか、頭を悩ませていることでしょう。企業・団体献金を禁止し、政治資金パーティだけなら解禁していい、というようにも言ってるけれど、それで乗り切れるかどうか」
かつての自民党では、個人の資産家や事業家の献金が政治活動を支えてきたというが、中選挙区制時代はその裏で、党内の派閥の議員が選挙区の公認候補をめぐって争い、選挙区が広いために多くの資金が必要となってきた。そこでリクルート事件を機に1994年から小選挙区比例代表並立制が導入された。小選挙区制の導入は米英のような政権交代可能な二大政党政治を目指したとされる。実際、この前年の93年8月に日本新党の細川護熙が首班指名された非自民の連立政権が組まれ、09年9月には民主党政権が誕生した。だが、どちらも政権を担う能力に欠けていたといわざるをえない。その反動により、自民党が復権し、2012年12月に第二次安倍晋三政権が生まれたと言っていい。
そして、その安倍派の足元で政治資金パーティによる裏金問題が起きたのは、周知のとおりである。古くは造船疑獄、さらにロッキードやリクルート事件を経てなお、政治とカネの問題は決着を見ていない。
自民党の裏金問題は安倍・菅による一強政権の驕りが招いたと批判され、岸田文雄、石破茂と首相ポストが目まぐるしく移った。そこでは「いったい小選挙区制導入の意味は何だったのか」と非難され、政治改革議論の高まりと同時に、企業・団体献金の廃止問題が国会の与野党議論の焦点になる。挙句、政治資金はおろか、党内調整に右往左往して政治改革などに手をつけられない石破政権は選挙に負け続け、高市早苗に自民党総裁の椅子が転がり込んだ。結果、政治改革などどこ吹く風である。政治とカネ問題について山崎が嘆く。
「衆議院選挙が小選挙区制になり、前の中選挙区制時代に比べるとカネがかからなくなったのは事実です。小選挙区制になり、政党交付金という税金も配られるようになりました。けれど、それでもカネは必要です。個人の資産家がこれと見込んだ有望な国会議員を支援するのは、政治参加という観点からも一概に禁じるべきではないかもしれません。なにより仮に今のまま企業・団体献金を廃止すれば、大金持ちしか国会議員になれない恐れが出てきます。官僚派や党人派の多かった自民党内にも、以前から資産家の議員はいました。藤山コンツェルンの藤山愛一郎さんなんかが典型ですが、現役の議員でいえば麻生太郎氏でしょうか」
国会議員になるための条件として永田町に伝わる「地盤、看板、カバン」という言葉がある。そのうち、カバンはまさしく政治資金を指す。代々、選挙区を引き継いできた二世や三世議員は、この3条件を併せ持っているからこそ、自民党内の大半を占めているといえる。しかし資金力のないたたき上げや官僚派の国会議員がいなくなれば、政党政治の劣化を招く。

変質した自民党を支える『日本会議』党員
首相に昇りつめた高市自身はサラリーマン家庭に育ったたたき上げ議員として人気がある。昨年10月の自民党総裁選でも、老若男女問わずに好感度のある小泉進次郎を圧倒し、党員票で断トツのトップに立った。反面、非常に危うさを覚える。それは彼女の人気が右翼思想に偏った支持層に支えられているからではないか。自民党を支える党員やサポーターが変質してきたとは感じないか。山崎に尋ねた。
「この数年、自民党の党員の多くが日本会議の国会議員が集めてきた人たちになりました。日本会議の実態は神道政治連盟のメンバーで、徹底した天皇制護持を訴え、彼らが集めている党員なので必然的に右翼化しています。換言すれば、神道には信者がいるので、日本会議の議員たちには党員を集める能力があるともいえます。高市さんはその日本会議から強い推薦を受けているから、党員票でトップになるのは当たり前なのでしょう。一般的な国民人気がある小泉さんや石破さんが高市さんに党員投票で負けるのは、そういう理由でしょう。ただし、総裁選の党員票でいちばんになったということと一般的な国民的人気はイコールではなく、党員という限られた世界の票だということを忘れてはいけません」
高市内閣の支持率は、政権発足から半年以上経ってもさほど下がらない。その理由について、多くの識者は「高い支持率は日本初の女性宰相に対する期待値であり、政策はこれからだ」と口にする。もっとも、この数年の自民党総裁選の成り行きを見ていると、それだけではないように感じる。
安倍や菅から岸田、石破と政権が移っても自民党政治はいっこうに変わらない。いったんは石破に期待を寄せた自民党の党員や国会議員は、総裁選で高市に票を入れた。高市がこけたら次は小泉かもしれない。(敬称略 つづく)
プロフィール

(もり・いさお)
1961年、福岡県生まれ。ノンフィクション作家。2008年、2009年に「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」受賞。2018年『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』(文藝春秋)で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞。『魔窟 知られざる「日大帝国」興亡の歴史』(東洋経済新報社)、『国商 最後のフィクサー葛西敬之』『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『地面師vs.地面師 詐欺師たちの騙し合い』(講談社)他著作多数。
森 功





樋口恭介×中路隼輔

綿野恵太×西村章

西村章