自民党の研究 動乱の保守政治に迫る 第六回

自民党の変質 リクルート事件が壊した「55年体制」

森 功

高市早苗政権に陰りが見え始めた。ネガティブキャンペーン疑惑や物価高の対策に追われるなか、自民党内では「ポスト高市」をめぐる思惑も交錯する。その光景は、リクルート事件後に短命政権が続き、政界再編へと雪崩れ込んだ平成初頭とどこか重なる。宇野宗佑、海部俊樹、細川護熙、羽田孜――。相次ぐ政権交代と自民党の変質の過程をたどりながら、高市早苗という政治家の意外な原点を探る。

撮影:内藤サトル

高市政権を覆う「ネガキャン疑惑」

 短命内閣に終わるか、長期政権を築けるか――。高市早苗にとっては、今がその境かもしれない。大きな壁の一つが選挙の動画問題だ。高市陣営は昨年秋の自民党総裁選と今年2月の衆議院議員選挙で政策秘書が動画作成業者と打ち合わせたうえで、敵対候補を貶めるネガキャン(ネガティブキャンペーン)を繰り返してきたという。そう告発する動画作成業者の松井健に対し、高市事務所の政策秘書の木下剛志は松井と面識すらないと言い張ってきた。告発を報じた週刊文春側は早くからLINEやメールのやりとりを公表し、さらにオンラインで打ち合わせしていたZoom音声まで持ちだした。防戦一方に見える高市本人は国会答弁がコロコロ変わり、秘書の音声には違和感があると言い訳した挙句、オンラインでの打ち合わせを認めた。かと思えば、告発者の一部動画偽造まで飛び出し、レベルの低い争いを演じている。
 もとより高市にとって頭痛のタネは、それだけではない。通常国会の終盤に差し掛かり、物価高対策をはじめ安保・防衛に関する政策の馬脚が見え隠れしてきた。この先、国民が期待値の高かった高市政権をどう評価するか。そこが大きな焦点だ。
 先の総選挙で圧倒的な衆議院の議席を手にした高市政権において、あからさまに批判する自民党議員は数少ない。閣内にいる自民党中枢幹部たちも政権の危うさを感じていながら、表向き閣内や党内の不一致を避け、これからも政権を支えると言い続ける。ポスト高市と目される実力者たちはひょっとすると首相の墜落を待っているのではないか、とも囁かれる。彼らの高市政権に対する高い評価は本音と思えないだけに、政権内に薄気味悪い空気が流れている。

ポスト高市は動き始めているのか

 そんな自民党内でポスト高市に最も近い人物とされる政務調査会長の小林鷹之に会った。なんとなく疲れているようにも感じた。
「疲れてはいません。ひたすら物事に追われるのでエネルギーは使いますけれど、大丈夫ですよ」

小林鷹之自民党政務調査会長  撮影:内藤サトル

 笑顔をつくる小林にストレートに高市の政策について尋ねた。たとえば5月に立ち上がった高市政策支援グループ「国力研究会」は麻生太郎、茂木敏充、加藤勝信、西村康稔、萩生田光一、小泉進次郎、小林鷹之、中曽根弘文、松山政司、有村治子、山谷えり子の11議員が発起人となり、417人いる自民党国会議員の8割が集う。小林自身、発起人になっている。どのような経緯があったのか。
「国力研究会の事務局長に就任された山田宏参議院議員が3月頃、ここ(政調会長室)にいらっしゃって『今回高市政権の政策をバックアップしていく国力研究会を立ち上げることになったので、発起人になってほしい』と伝えられたのです。私自身、党として高市政権の政策を推進している立場ですから、発起人を快諾いたしました。けれど、どのようにしてメンバーを集めていたのか、詳細は知らないんです。加藤さんが会長で、萩生田さんが幹事長になっていますが、そうした人選についても私はぜんぜん存じあげません。
 山田さんからは他の発起人として麻生副総裁と茂木外務大臣、萩生田さんの名前をうかがいましたけれど、それ以外の方の記憶はありません。そもそも国力研究会は単なる勉強会で、取り沙汰されているような政治戦略的な集団とは見ていません。自民党の政務調査会が中心になって高市政権の柱となる政策を後押しする議員連盟みたいな位置付けでしょうか。それはありがたい話なので参加したに過ぎません」
 まるで他人事のような言いぶりなのだ。もっとも国力研究会の発起人には重量級の岸田文雄や林芳正などの名前がない。彼らを外したのは、会の中心人物である麻生の指図だともいわれる。
 国力研究会は自民党の8割が参加するオール自民の集まりといわれ、高市政権の一大政策集団をつくる動きではないか、と指摘されている。反面、石破茂や村上誠一郎といったいわゆる高市政権から外されている議員たちは参加してない。また独自に旧二階派の議員に声をかけて勉強会を立ち上げた武田良太は、駆け込みで会に加わっている。それはポスト高市を睨んで政権の動きをけん制しようとする抱き着き作戦ではないか、ともいわれた。こうした政界の声は気にならないか、と問うたが、小林は優等生回答を繰り返すばかりだ。
「この間、いろいろな報道に接してきましたが、そういうのは気にはしていません。結果として会の人数が多くなりましたから、オール自民とか抱き着き集団なんていわれますけれど、そうではありません。たとえば議員連盟は国ごとのそれがあったり、政策ごとにつくられたり、無数にあります。そこに入る入らないは本人の判断なので、それ以上でもそれ以下でもありません。私には党の政務調査会長という立場があるので、とにかく責任を持って政策を進めなければならないと思っているだけです」
 もっともポスト高市を含め、政権周辺ではさまざまに取り沙汰されてきた。前に本稿に書いた会員制情報誌『選択』4月号の特集記事『高市が「退陣」を口にした夜』などはその一つに違いない。記事では、高市がホルムズ海峡の自衛隊派兵を巡って内閣官房参与の今井尚哉とやり合い、それ以来、今井が高市と距離を置くようになったと書く。そこでは小林のことにも触れている。
〈自衛隊派遣に執着する高市に、正面から反発したのは自民党政調会長・小林鷹之だった。政府・与党の連絡会議の席上、安保法制の基準が揺らぐことの非を鳴らした。会議は気まずく短時間で終わり、自らの政調会長人事を悔いている様子の高市に、幹事長の鈴木俊一が「彼には将来がある」と取りなしたほどだ〉
 記事にあるように高市と距離を置き始めているのか。記事を読んだ感想は?
「今井さんのことは存じあげません。もともと記事を読んでいたわけじゃないですけれど、メディアを含め関係者から問い合わせがあったので読みました。よくこういう面白い記事をつくられるなっていうのが率直なところです。私のことだけじゃなく、自民党本部と官邸に隙間風が吹いているような記事が最近目立つんですけれど、そんなことはまったくありません。『選択』には、たしか私と高市総理が政府与党連絡会議でぶつかり、その後鈴木幹事長が取りなしたみたいに書いてありましたけれど、あのとき政府与党連絡会議はやっていません。昼食を食べながら(高市と)情報共有したような形はありましたけれど、あんなふうな議論になんかなっていません。こういうふうに風説がつくられるんだな、とある意味で興味深かったです。高市総理とは毎週定期的に面会していますし、最近は政府与党連絡会議もやっています。その中で党の状況や私自身が考えていることなどをストレートに総理に伝えています。総理は懐広く構えてくれ、私が怒られたことなんて一度もありません」
 小林は高市政権における自民党と官邸との関係について、非常に円滑だと強調する。
「いま国民の関心事は、石油高騰による物価高であったり、物資が足りなかったりすることでしょう。それらが党から政調会にあがってきて、総理に伝えます。中東情勢絡みでいえば、自民党として2月の終わりから2回の緊急提言をまとめてきました。直近はGWの大型連休直前で、物価の高騰、あるいは物資の安定供給の課題について、党として高市総理に直接伝え、政策提言しています。先に高市総理が会見で補正予算に言及されたときも、われわれの提言を踏まえ、政府としてこう動くと繰り返しおっしゃっておられました。だから党と官邸、政府との関係はまったく問題ありません」

後手に回るナフサ由来石油製品の供給難、物価高対策への不満

 一方、高市政権は打ち出す政策が遅すぎるという批判があがっている。6月に入り中東情勢による物価高対応としてようやく補正予算を組んだが、野党は早くからその必要性を訴えてきた。今になって高市は、5月のGW前から政府に補正予算を検討するよう指示していたと言い出している。それなどは、いかにも信じがたい。小林は折しもこの頃に自民党として物価高対応などの提言をしたという。仮にそうだとすると、自民党のなかでも補正予算が議論されていたことになるのではないか。
「党と政府は違いますが、党としては大型連休の直前に政府に政策提言しました。その要望書には補正(予算の編成)こそ書いてないですけれど、中東情勢を踏まえ手を打つべきだというメニューを伝えています。政府がそれをどう受け止めて実行していくかは、まさに総理を含めた政府の判断です。こちらの要望を受けて総理が具体的に何を言ったかについては申しあげられません。ただ、数多くのボリュームある提言を受け取り、目を通されて『方向は同じだよね』というような発言はありました」
 小林の発言を整理すると、自民党政調会長として中東情勢の対策メニューを示し、それを受けた首相の高市がその具体的な政策として補正予算を検討するよう政府の関係各所に指示を出したことになる。本当にそんな事実があったのか、にわかには信じがたい。
 食料品の大幅値上げにしろ、ナフサ由来の石油製品の枯渇にしろ、高市政権はあまりに対応が遅い。おまけにようやく補正予算案が国会に出てきたか、と思ったら、具体的な予算の支出項目はなく、3.1兆円の補正予算の大半は政府が国会承認をえずに使える予備費なのである。国民の受け止め方は正反対で、政策がすべて後手に回っているようにしか受け取れない。
「後手かどうかは、国民、メディアの皆さん、それぞれ見方が異なるでしょう。しかし中東情勢がどう展開していくのか、いつ終わるのか、誰も確たることは言えない。いろいろな展開が考えられるなか、高市総理は状況を見極めながら、ベストの選択をしていると思います。国のリーダーとして発言のインパクトは大きいので、そこは誰より考えられています。たとえば石油製品の目詰まりについて党内には、もっと国民に寄り添う形で危機感のあるメッセージを強く打ち出したほうがいい、という意見もあります。しかし私たちは政権与党なので、必要以上に危機感を煽る結果となってしまったら、逆に目詰まりを悪化させることになりかねない。したがってそこは慎重にならざるをえません。総理が補正をいつ決断されたかについては総理にしかわからないですけれど、総理自身はいろいろなシナリオを考えて国会審議に臨んでおられます」
 少なくとも国民にはそうとは映っていないのではないか。高市政権では、中東情勢についての見解が甘く、本当に深刻にとらえているかどうか。なにより国民が先行きの不安を抱いているのではないか。そう聞くと小林は目をむいて反論する。
「総理も複雑な中東情勢を重々承知の上で、政策を実行しています。真剣に考えていますよ、間違いなく。大型連休期間だって、政府の関係ラインの方たちは休み返上で寝る時間を削りながら、国民生活を守るために動いているわけです。政権は結果に対してすべての責任を負わなければいけないけれど、国民の皆さんが日々の不安を感じておられるのは事実なので、そこに120パーセントの力を尽くすという以外にありません」
 残念ながら小林の口からは、高市政権の危うさを払しょくできるような話は聞けなかった。中東対応やネガキャン動画問題で野党に国会で追及され、右往左往する高市早苗の姿には、一国のリーダーとしての重みを感じない軽佻浮薄な発言が繰り返されている。自民党総裁はいつからこうなったのか。ジャパン・イズ・バックを標榜する高市が心酔する安倍晋三もまた、過去の自民党総裁に比べると政治家としての奥行きを感じなかった。
 リクルート事件以降、政治権力の地図が塗り替えられ、自民党の立ち位置が大きく変わった。永田町の予想に反し、運が開いて首相に昇り詰めた自民党議員も少なくない。

リクルート事件が変えた自民党

 かつて小泉純一郎には「変人宰相」という異名があった。山崎拓、加藤紘一のYKKの三番手と見られ、首相に昇り詰めるとは思われていなかった。だが「自民党をぶっ壊す」というワンフレーズが国民受けし、長期政権を築いた。変人宰相の誕生はそれまで自民党を支えてきた族議員を中心とする利権構造の崩壊を意味すると同時に、ポピュリズム政治の始まりでもあったといえる。

 1989年4月25日、竹下登総理大臣の辞任会見。写真:AP/アフロ

 1989年1月の平成の幕開けとともに、東京地検特捜部がリクルート事件捜査に本格着手し、竹下登政権を追い詰めた。ポスト竹下の一番手と目されていた安倍晋太郎をはじめ、宮澤喜一や渡辺美智雄といった派閥の領袖クラスも事件の関与が取り沙汰される。そこで中曽根の側近だった宇野宗佑が後継内閣を託された。宇野は中曽根政権で通産大臣、竹下政権で外務大臣を歴任し、ピンチヒッターとしてはうってつけだったとされる。89年6月、中曽根派のナンバー2として自民党総裁に就き、そのまま首相の椅子に座った。
 ところが、ほどなく元神楽坂芸者による告発記事が世に出る。毎日新聞の『サンデー毎日』6月18日号で報じた『宇野新首相の「醜聞」スクープ 「月三〇万円」で買われたOLの告発』がそれだ。この年の7月におこなわれた参議院選挙敗北の引責が表向きの首相の辞任理由だが、実際は不倫記事がときの首相を追い込んだ。タイトルにあるとおり当時、芸者時代に宇野に誘われて関係をもったというOLがサンデー毎日に告発し、「3本指で失脚」と騒がれたものである。
 ここからピンチヒッター内閣が続く。宇野の後継首相になったのが海部俊樹だった。三木派、河本派と小派閥に所属してきた海部を首相に据えたのが、自民党最大派閥を率いる竹下だといわれる。事実、海部は党内基盤が脆弱で、竹下派の顔色をうかがわざるをえなかった。竹下にとって海部は早大雄弁会の後輩にあたる。
 もっとも別の動きもあった。竹下派内には早くからプリンスと呼ばれた橋本龍太郎がいた。田中角栄の秘蔵っ子である小沢一郎にとっての強力なライバルだ。互いに将来の首相候補とされ、実際、派内の勢力は竹下に近い橋本グループと金丸信が可愛がっている小沢グループに色分けされた。竹下派七奉行と呼ばれた派内の実力者でいえば、橋本グループは筆頭格の橋本をはじめ梶山静六や小渕恵三、金丸グループは小沢のほか羽田孜、渡部恒三、奥田敬和といった顔ぶれがいた。橋本と小沢という自民党最大派閥の跡目争いは「一龍戦争」と称され、1990年代の日本政治を彩った。海部政権の誕生もそのなかの出来事だといえる。
 宇野のあとに誰を推すか。そこで竹下派はいったんプリンスの橋本でまとまろうとする。そこには中曽根の意向が働いたフシもある。橋本は中曽根の進めた三公社五現業の民営化という行政改革において、運輸大臣を拝命し国鉄の分割・民営化を成し遂げる。その後の宇野政権で自民党幹事長に就き、首相の座を目の前にしていた。宇野辞任後は梶山も橋本を推し、いっときは橋本首相の実現が固まったように見えた。
 だが、そこへ女性スキャンダルが襲う。もともと愛人の噂が絶えない橋本は金丸から諭され、このときの首相就任をあきらめたとも伝えられる。事実、90年に銀座のクラブホステスが自ら一夜妻だったと暴露したことまであったが、女性スキャンダルは対中外交でも影を落とした。田中角栄が首相として中国と国交を回復し、竹下登が対中政策を引き継いだ。竹下派のプリンスと呼ばれた橋本はいわばそのラインに乗り、対中政策を進めたといえる。厚生大臣経験者の厚生族議員として医療問題に精通し、中国から漢方薬の輸入などを進めた。日本国際貿易促進協会会長を務め、中国に対するODA事業にも取り組んだが、その一方でハニートラップ騒動も取り沙汰される。相手は訪中時に使ってきた中国語の女性通訳とされた。
 女性スキャンダルは橋本が首相になったあとも尾を引き、国会で取り上げられたほどだ。心あたりのある橋本としたら、それらが金丸に伝わり、宇野の後継首相をあきらめざるをえなかったのかもしれない。この間、金丸が可愛がってきた小沢グループが巻き返し、竹下派内が海部首相擁立で一本化された。
 こうしてわずか2カ月あまりの短命に終わった宇野政権に代わって1989年8月、海部政権が誕生する。太平洋戦争後の短命政権ランキングでいえば、終戦直後の東久邇宮稔彦内閣の54日を筆頭に、羽田孜内閣の64日、石橋湛山内閣の65日の順で、その次が69日の宇野宗佑内閣だ。宇野政権がつぶれて海部政権を生んだこのときの一龍戦争は、いわば痛み分けといったところだろうか。橋本は海部内閣で大蔵大臣という重要閣僚ポストを得て次をうかがう地盤を固め、ライバルの小沢は政権ナンバー2である念願の自民党幹事長を射止めた。どちらも自らの政治基盤や勢力を温存している。
 その海部政権は91年11月末まで続いた。先に書いたように、海部政権は89年7月の参議院選挙惨敗を受けて誕生したものだ。自民党はリクルート事件や消費税導入問題、3本指の醜聞がたたって大敗し、土井たか子委員長の率いる日本社会党が「マドンナ旋風」を起こして獲得議席数で自民党を逆転した。このとき選挙責任者である幹事長が橋本であり、思わずチキショーと吐き捨てて悔しがる場面が何度もテレビ画面に流れた。橋本がいったん首相をあきらめたのは、参議院選挙の影響もあったに違いない。
 その海部政権下、年が明けた90年2月の衆議院選挙では全512議席のうち、自民党が295議席から275議席と20議席減らして辛うじて安定多数を維持したものの、社会党は83議席から136議席となって53議席も上乗せした。ここまでは大きな自民党と小さな社会党という1対0.5の保革55年体制が続いていたといえる。前に書いた90年9月の金丸訪朝はまさにこの頃の出来事であり、社会党の勢いはまさにここがピークだった。92年7月の参議院選挙では現有議席にとどまり、土井たか子のマドンナブームはあっけなく終焉を迎える。

短命政権と政界再編の時代へ

1993年7月29日、細川護熙と小沢一郎。写真:毎日新聞社/アフロ

 そしていよいよここから政党勢力が溶解し、政界再編の幕が開く。現在にいたる新党ブームも、ここが始まりだと言っていい。主役は変わらず自民党を離党した小沢一郎と竹下派を束ねていた橋本龍太郎だ。
 宮澤喜一政権下の93年7月の衆議院議員選挙で、全511議席のうち自民党は222議席から223議席とほぼ横ばいだったのに対し、社会党は134議席から70議席と半減する。代わって大幅に議席を伸ばしたのが小沢の立ち上げた新生党(羽田党首)で、選挙前の36議席から55議席と1.5倍に躍進した。この一龍戦争では、いったん小沢に軍配が上がる。小沢が最初に政界再編を仕掛けたといっていい。
 このときの総選挙で注目されたもう一人のキーパーソンが、熊本県知事だった細川護熙である。細川は日本新党を旗揚げし、衆院に鞍替えして初当選すると、非自民・非共産連立政権を標榜して8党会派をまとめ、内閣総理大臣に首班指名された。
 8党会派の党首や成り立ちを改めて記すと、羽田の新生党、細川の日本新党、武村正義の新党さきがけ、村山富市の日本社会党、石田幸四郎の公明党、米沢隆の民社党に加え、江田五月や菅直人が社会党左派から枝分かれして立ち上げた社会民主連合、労働組合のナショナルセンターである日本労働組合総連合会(連合)をバックにした参議院院内会派の民主改革連合である。日本新党や新生党は元自民党議員が多く保守色が強い。反面、そこへ左右の社会党が合流して一堂に会した。8党会派は文字どおりの寄せ集め議員がいっしょに政権を運営するという建付けだから、うまくいくはずがない。バラバラの連立政権は「ガラス細工」と揶揄され、案の定、首相に就いた細川の佐川急便スキャンダルが浮上し、寄せ集め政権は1年足らずであっという間に瓦解した。
 このとき小沢は社会党を切り捨て、自民党の渡辺美智雄に集団離党を促したが、その工作も失敗に終わる。細川のあとに新生党党首の羽田孜が94年4月に新内閣を発足させたが、羽田政権は宇野政権以下の64日という超短命に終わった。
 と同時に小沢一郎の非自民政権の夢はここでいったん終わり、94年6月、自民を中心とする自社さの村山富市政権が誕生する。しょせんガラス細工政権では無理があったというほかない。このときは橋本が小沢に勝ったということであろう。だが、村山政権もまた似たような寄せ集めといえた。
 ちなみに小沢の率いた新生党は巻き返しを図ろうとこの年の12月に公明党と合流し、新進党に衣替えする。新進党の設立は立憲民主と公明が合流した現在の中道改革連合とよく似ているといわれる。新生、公明、民社といった政党が中心となって結成されたものの、主力である公明は一部しか合流しなかった。中道改革連合の結成時も、参院では立憲民主と公明が合流せず、いまだ調整中だ。当時の新進党でも同じように地方の公明組織などはそのまま残り、一枚岩にはなれなかった。
 この新進党では、自民党を離党して自由改革連合を結成した海部俊樹が新生党の羽田や民社党委員長の米沢隆と競って党首となり、そこへかつて渡辺美智雄を担いだリベラルズの柿澤弘治、さらには現首相の高市早苗まで加わっていた。高市は初めからゴリゴリの保守ではなくリベラルだったという説はここから由来する。

高市早苗はなぜ保守になったのか

 高市の国政初挑戦は参議院選挙だ。92年5月の参議院選挙で自民党公認争いに敗れて落選し、93年7月の衆議院議員選挙でも自民党公認に応募してきたが叶わず、奈良県全県区から無所属で出馬して初当選した。折しも政界再編の始まりの頃と重なる。
 無所属で当選した高市は、細川政権の崩壊した94年4月に小沢一郎が渡辺美智雄に自民党からの集団離党を呼びかけた政策集団「リベラルズ」に加わった。このときの首相首班指名で新生党の羽田に票を入れ、そのまま新進党に入ったのである。この頃の高市を知る実業家が打ち明ける。
「かつて世界救世教が金丸(信)さんを応援していて、私もそこに関係していました。その縁もあって田中角栄さんと面識をもちました。自民党と私との歴史は古く、そのあと中曽根康弘さんの頃にも付き合いがありましたけれど、民社党(元書記長)の中野寛成も応援してきたので、新進党の結成にも力を貸しました。新進党の結成時は海部さんが党首で、小沢さんが幹事長、中野さんが政策審議会長になった。高市さんはまだ衆議院議員の1期生でしたけれど、新進党に飛び込んできた。それ以来の付き合いです。高市さんは極右みたいな印象で語られるけれど、民主との付き合いもあって本当は中道だと思っています。そこが出発点ですから」

1996年3月4日、衆院予算委員会において新進党の議員が、住専予算採決をピケで阻止。前列向かって右端に新進党時代の高市早苗。写真:毎日新聞社/アフロ

 もともとリベラルズは渡辺美智雄の側近だった柿澤弘治がリクルート事件や東京佐川急便事件を機に、政治とカネの決別を訴えて旗を揚げた自民党の政策グループだった。細川が首相の退陣を表明した折、渡辺が小沢一郎による集団離党の誘いに乗り、そこに相乗りしたかっこうだ。結成当初のリベラルズのメンバーは柿澤のほか、太田誠一や新井将敬、佐藤静雄、山本拓で、自民党離党後に自由党をつくり、新進党に合流する。ちなみに自由党という党名は、戦前戦後問わず小沢が新進党を改組したものを含め最近にいたるまで日本にいくつも存在してきたため、柿澤自由党と別称されることもある。
 そしてこの自由党に米田建三、さらに高市が流れ込んだ。前述したように高市は参議院選挙に続き、初当選した93年の衆議院議員選挙のときも自民党公認を得られなかったが、細川政権誕生のときは自民党総裁の河野洋平に首班指名の票を投じている。つまり自民党に未練もあったのだろうが、新しい潮流に乗ろうとしたのだろう。リベラルズ改め自由党に合流した。なお、リベラルズのメンバーだった山本は現在の高市の夫である。
 リベラルズでは、肝心の渡辺が自民党総裁の河野洋平の慰留により、離党を断念して小沢の計画は宙に浮いた。結果、誕生したのが羽田政権であり、社会党が離脱したあとアテこんでいた自民党の大量脱藩はなかった。しょせん長く続くはずもなかった。少数与党政権に転落した羽田政権は、自民党から提出された内閣不信任決議案の採決直前に退陣表明し、非自民政権は終焉を迎える。先に書いたように戦後二番目の短命政権だ。
 そしてこの非自民政権に代わり、誕生したのが自社さの連立政権である。橋本や梶山、野中広務、亀井静香などがさきがけの武村らに声をかけ、社会党を引き入れたとされる。自民党に残った渡辺は、社会党の村山に対する首班指名に抵抗し、中曽根も反対した。だが、すでにどちらも政界における求心力を失っていた。
 政治とカネにクリーンなリベラルを謳った高市が強硬保守と呼ばれるようになったのはなぜか。理由については稿を改める。とどのつまり高市は単なる数合わせの勢力争いの流れに乗っただけなのであろう。ここから日本の政治そのものが迷走する。(敬称略 つづく)

 第五回

プロフィール

森 功

(もり・いさお)
1961年、福岡県生まれ。ノンフィクション作家。2008年、2009年に「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」受賞。2018年『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』(文藝春秋)で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞。『魔窟 知られざる「日大帝国」興亡の歴史』(東洋経済新報社)『国商 最後のフィクサー葛西敬之』『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『地面師vs.地面師 詐欺師たちの騙し合い』(講談社)他著作多数。

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