自民党の研究 動乱の保守政治に迫る 第四回

高市政権と昭和保守の終焉 自民党はどこへ向かうのか

森 功

高市政権の誕生によって、いま日本政治はどこへ向かおうとしているのか。政治と権力の核心を追及し続けてきたノンフィクション作家・森功氏による注目の連載「自民党の研究」の第四回。衆院選大勝の熱狂の裏側で、自民党内では「55年体制」の終焉を見据えた危機感が静かに広がっている。石破「少数与党」政権時代への反動、中道保守の失速、そしてネット世論が攪乱する新たな政治潮流――。古川禎久幹事長代理は、自民党がもはや従来型の「国民政党」でいられなくなった現実を語り始めた。さらに山崎拓元自民党副総裁が、炭鉱、玄洋社、右翼、そして中曽根政治へと連なる自民党保守の源流を辿り直す。高市政権の背後で進む「戦後保守の変質」とは何か。自民党政治の「歴史的転換点」とは――。

数与党の反動が生んだ“高市旋風”

 終わりの始まりという酷評があれば、意外によくやっていると庇う声もある。
「国論を二分する政策に果敢に挑む」
 そうしきりに訴える高市早苗政権の発足から半年が経過し、賛否が真二つに分かれている。なぜここまで評価が割れるか、といえば、その要素はさまざまであろう。インターネット空間のSNS(ソーシャル・メディア・ネットワーク)が、新聞やテレビ、雑誌といったオールドメディアにとって代わり、1億総国民が誰でも自らの考えを発信できるようになった。高市人気がネット空間に支えられている側面は否めない。反面、そのSNSの意見は危うさを孕む。自民党に限らず、日本の政党政治そのものが、激しく遷りゆくそうした情勢の変化についていけなくなっていると感じる。
 唐突な衆院の解散から2月の総選挙で大勝した結果、高市独裁の空気が自民党内に充満する裏では、政権の歪みを指摘する所属議員の批判や陰口が絶えない。党の選挙対策委員長代理や広報戦略局長、副幹事長、青年局長などを歴任し、高市政権でも幹事長代理を務める元法務大臣の古川禎久(60)は今の自民党をどう見るか。

古川禎久衆議院議員 撮影:御舘彩

「自民党は一昨年の衆議院選挙に続き昨年の参議院選挙でも大敗して1年半ぐらい前から少数与党に転落しました。少数与党として予算はもちろんのこと、法案一つ通すにしても野党の力を借りなければなりませんでした。すると野党は、協力する代わりにこれを呑め、あれを呑め、と条件を出してくる。それでいて財源はこっちで考えろと。
 私自身政治改革特別委員会の筆頭理事でしたので、複雑な国会運営の現場からすると、ものすごく苦しい思いをしてきました。政治改革では政治資金にまつわる問題もあったし、あとになって定数削減の話も出てきた。国会ではそれぞれの委員会で与野党間の駆け引きをしなければならなりません。そんな苦しい状況で衆議院が大勝した。少数与党の苦しさを身に染みて感じる者としては、数はありがたいと率直にそう思います。選挙に勝ったんだから、ある種の勢いが党内に出てきたのは間違いありません」
 古川は今度の総選挙大勝について一定の理解を示すが、もとよりそれで満足しているわけではない。高市は自らの衆院解散のせいで予算の今年度内成立が難しくなり、さらにそこを批判されることを嫌った。そして案の定、結果的に予算の成立は新年度にずれ込んだ。そもそも古川自身は通常国会の冒頭というこのタイミングでの衆院解散、総選挙に懐疑的ではなかったか。
「物価高で切実な思いをしている人たちがいます。そこに政策を届けるという文脈で議論を重ねてきました。政権を預かる与党としては国民生活や自治体に迷惑をかけちゃいかん。だから普通に考えれば、まずは新年度の予算を上げることに専念するものと思ってきました。そんなところへ解散ですから、驚きました。
 加えて仮に総選挙で勝っても、参議院はいまだ少数なんです。予算は年度をまたいで成立したけれど、衆議院の数で無理押しこみしたって政策を実現できない。衆議院と参議院でねじれている国会の足下でいえば、政権政党として税制をはじめ国民に必要な法案を成立させなければならない。数におごっているように思われないよう議論を尽くす姿を国民に見せていかなければなりません。それが国民に対する責任であり、国民に信頼されるかどうかは、これからの話なのです」

“中道保守”は国民に届かなかった

 異論はないが、現実の政治ではなかなかそうはいかない。今度の総選挙では、国民受けしそうな中道保守の旗を掲げて結成された中道改革連合が惨敗した。古川も日頃から中道保守の必要性を訴えている。衆院小選挙区の宮崎3区で9回の当選を重ねてきた古川は元来選挙に強く、今回の衆院選も圧勝だった。古川の唱える中道と新党の旗印の中道ではどこが違うのか。
「たしかに言葉は共通しているけれども、必ずしも一致している話ではありません。今の時代の瞬間的な国民の評価としては、中道というワードそのものが国民に受け入れられなかったという気はします。これはしっかり分析してみないとわからない。保守中道勢力の人たちが党派を超え、場面場面で力を合わせていく考えは今も変わりません。しかし、選挙ではそうならなかった。私の肌感覚からすると、これまでの国会では、熟議が深まったという評価がある反面、国民には国会議員たちが手柄争いをやっているように映ったのではないか。それが政党政治に対する不信感として広がったのではないでしょうか。少数与党政治に対する反動批判とでもいえばいいでしょうか。それが今回の選挙に関する私の分析です」
 古川は自民と社会の二大政党が対峙してきた保革の1955年体制モデルを変えなければならない、という持論を展開する。極端な右傾化に警鐘を鳴らす穏健保守の論客として永田町で知られる。
「今は政党政治のありようそのものが変わってきています。一昨年来、自民党が選挙で大敗してきた理由の一つが、従来の自民党モデルが崩れているからだと感じます。自民党が謳ってきた国民政党は何か。それは、国民の多様な声や要望を聞いてそれを政策に反映させていくことだと思います。それができなくなっている。
 昭和から平成、令和と時代が移り、家族のあり方や働き方、社会の構成にいたるまで国民の価値観がずい分変化してきました。いわゆる55年モデルの政党政治は終わったんだけれど、そういう政治スタイルが続いている。自民党は人口もどんどん増えて経済が成長していく右肩上がりの昭和の時代の成功体験を引きずったまま、時代の変化をキャッチアップできていない。そこに対する国民の不満が向けられているのではないでしょうか。結果、国民民主党や参政党、れいわ新選組に対する支持につながっている。時代が動いているなかで政党政治や議会政治が変わっていかなければならないのだけれど、そうなっていません」
 安倍・菅政権の一強政治から岸田政権を経て石破政権に替わり、昨秋には高市政権が誕生した。石破政権時代の選挙では、まさに旧来の自民党政治そのものがもう終わりを告げているかのような結果だった。反面、現在の高市政権になり、そこから再び日本の政治が逆戻りしているように見える。そこをどう見るか。
「時代の車輪が大きく回り始めたのは間違いありません。この時代の水は激流で、渦を巻いたり、逆流したり、溢れ出たりする。歴史的に見ても、今はそういう過渡期ではないでしょうか。時代はスーッと一直線に流れていくものではないから、何が時代の本流なのか、それを見極める必要があるでしょう。前から言っているように、今は極右や極左という極端な主張ではない保守中道勢力が国民に受け入れられやすい。というより極右や極左による政権運営だと、結果的に国民はひどい目に遭う。
 政策論的には、格差の広がりや分断が起き、政治が不安定化した挙句、ポピュリズムや排外主義につながっている。そうならないような内政が必要であり、政策的に落とし込むとすれば、所得の再分配機能をもっと働かせる必要があるでしょう。穏健な保守が力を合わせて国政を運営していくことが最もいいと思います。それは歴史が証明しています」

山崎拓を形づくった炭鉱と玄洋社

 55年体制を紐解くにあたり、建設大臣や自民党政調会長、幹事長、副総裁を務めてきた長老の山崎拓にも聞いた。戦前の関東州(現中国大連市)に生まれ、終戦を待たず6歳で福岡県に引き揚げてきた山崎は、今年12月に卒寿を迎える。柔道六段、1964年の東京五輪柔道重量級で金メダルに輝いた猪熊功と互角の闘いをしたという逸話もある。今も日本武道館の全日本柔道選手権などを観戦するという。

山崎拓元自民党副総裁 撮影:内藤サトル

「あれ(猪熊との試合)は全日本選手権とかそんな大会ではなく、毎月初段から四段までが参加してきた講道館の月次試合というのがありましてね、そこで彼とあたっただけの話なんです。今でも柔道観戦だけでなく、月に2回は福岡から東京に出てきて政界関係者や旧知のマスコミの方と会っています。人と会うのが仕事ですから」
 山崎は小学3年生の少年時代に隻眼となるも、国立の福岡教育大附属福岡中学校から江戸時代の黒田藩校を起源とする福岡県立修猷館高校を経て早大第一商学部に進んだ。高校、大学時代を通じて柔道部に所属し、各種大会に出場してきた。学生としては最高段位の四段になった。早大を卒業したあとは県内久留米市発祥のタイヤメーカー「ブリヂストン」に5年勤務して政界入りする。政治の出発点は1967年の福岡県議会議員選挙だ。
「同じ昭和11(1936)年生まれに日高康という福岡県議会議員がいましてね。私は修猷館と早大で柔道をやっていて、日高は北九州市にある同じ県立の東筑高校と明治大学で野球をしていました。日高の高校時代はのちに西鉄ライオンズの2塁手として活躍した仰木彬が1年上にいてピッチャー、日高はレフトを守って甲子園にも出ました。私のあとから日高も県議になり、柔道と野球というスポーツだけでなく、彼の家が伊藤伝右衛門に連なる炭鉱を経営していた。私の祖父も、父方・母方ともに炭鉱の経営者だったこともあり、とても親しくしてきました。私は2年間だけ県議を務め、そこから中曽根康弘さんに薦められて(1969年の)衆院選に出て落選しました」
 ちなみに日高は映画俳優の高倉健の従弟であり、福岡県議を経て高倉プロモーションの専務となる。柳原白蓮の夫として名高い伊藤伝右衛門の近縁にあたり、高倉健の実父も伊藤系列の炭鉱で現場監督をしてきた。
 中曽根康弘に見出されて国政を目指した山崎は、3年の浪人生活を経て1972年12月に衆議院に初当選する。折しも第一次田中角榮内閣で日中国交回復がなされたあとの11月の衆院解散は「日中解散」と称された。自民党の当選同期には小泉純一郎と加藤紘一がおり、のちに3人は互いの頭文字をとってYKKと呼ばれる盟友関係になる。他の同期当選議員には三塚博や石原慎太郎、村岡兼造や瓦力、保岡興治、越智通雄、野田毅、深谷隆司など、錚々たる顔ぶれが並ぶ。初当選組のうち山崎、石原、保岡は無所属だったが、選挙後はみな自民党に入り、中曽根に見初められた山崎は中曽根派の新政同志会に加わった。
 三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘それぞれが派閥を率いた「三角大福中」時代の総裁争いの真っただなか、中曽根は福田から田中に支持を乗り換え、田中が首相に就いた。山崎はその中曽根派で世襲でないたたき上げ国会議員として頭角を現わしていく。ただし自民党内で出世できた裏には、別の理由もあったようだ。
 山崎の祖父は父方、母方ともに石炭の鉱山を切り拓いた炭鉱の大物経営者だった。父方の祖父は山崎和三郎といい、筑豊地域の飯塚炭鉱、母方の祖父である山口慶八は山口鉱山を経営し、佐賀県多久市の小城炭鉱をはじめ幾つもの鉱山を開発した。山崎が解説する。
「簡単にいえば、炭鉱屋同士の親が息子と娘を結婚させたのです。どちらも名の知れた炭鉱で、なかでもいちばん大きかったのが母方の祖父が開発した小城炭鉱でした。もう一方の父方の祖父である和三郎はあの玄洋社の幹部であり、頭山の盟友であった中村徳松がオーナーである飯塚炭鉱の石炭が玄洋社の資金源になっていたと聞いています」
 繰り返すまでもなく、玄洋社は頭山満らが結成した日本の右翼団体のルーツである。明治維新後、西郷隆盛や板垣退助に私淑した右翼の巨魁、頭山は、西南の役における西郷の死を獄中で知り、衝撃を受けたとされる。山崎和三郎は玄洋社の幹部社員として石炭利権を支えただけでなく、1892(明治25)年5月、読売新聞主筆から衆議院議員に転じた高田早苗を仕込み杖で襲い、警察に出頭する。

頭山満(1855~1944) 写真:アフロ

「玄洋社の来島恒喜が大隈重信を襲って自害したあと、私の祖父山崎和三郎が高田早苗を襲ったのです。高田は大隈が早大の初代総長になったときの学長で、そのあと高田が三代目総長になりました。高田は(第二次)大隈内閣で文部大臣に起用されたほどで、二人はいわゆる兄弟分でした。同じように玄洋社の来島恒喜と山崎和三郎も兄弟分でしたから、祖父さんは高田を襲ったのでしょう」
 高田襲撃は明治維新後の動乱の事件であり、山崎和三郎は物騒なテロリストとして後世にその名を刻んだ。高田は大隈の率いる立憲改進党(のちの進歩党)の国会議員であった。だが、改進党は維新後に自由民権運動を唱えた自由党の板垣退助とたびたび対立していた。そこでこのような事件に発展したのであろう。もとより自民党はまだ影も形もないが、自由党は今の自民党の源流といわれる。玄洋社の頭山が西郷や板垣に心服していたのは先に書いたとおりで、この頃の政党には明治維新や玄洋社の尊王、右翼思想も息づいていた。
 1936年生まれの山崎はむろん、祖父たちの引き起こした事件についてあとから見聞きしただけにすぎない。その実、本人はのちに自民党という日本の政党政治の中核に座るようになる。明治の古い出来事もまた自民党をさかのぼるうえで不可欠な要素といえる。少なくとも山崎の目にはそう映っていると感じた。
 右翼団体の玄洋社が石炭利権で潤う一方、山崎の母方の祖父山口家もまた繁栄した。炭鉱王だった山口慶八の邸宅は福岡市内の古小烏というところに所在し6000坪の敷地に建ち、延べ床面積が300坪もあった。孫は大連生まれだが、拓という名の由来は「福岡県柳川市開村に着炭した日に生まれたこと」に由来するといい、両親とともに中国から引き揚げてきたあとはここで育っている。屋敷の母屋はのちに九州電力が買い取って高級料亭さながらの接待施設に使ってきたという。
 山崎の実父である進は1908年8月に生まれ、東大経済学部に進んで炭鉱経営のあとを継いだ。そこから転じて経済学者となるのだが、山崎は実父の進について、右翼の和三郎とは真逆の思想の持ち主だったと振り返る。
「つまり私は玄洋社の資金源であった炭鉱屋のあとを継いだ両親のあいだに生まれたわけですが、父は左翼系でした。祖父が筑豊で飯塚炭鉱を経営し、父は地元の嘉穂中学に通って旧制一高を経て東大に入っています。嘉穂中から一高、東大に行ったのは珍しい。父の嘉穂中時代の友人が元経団連副会長の花村仁八郎さんでした。父は東大経済学部で有澤廣巳教授のゼミに所属し、弟子になってマルクス・エンゲルスを学んだ口でした。それで(商社の東洋棉花を経て1936年4月に)南満洲鉄道に入社したのです。マル経学生だから左翼運動をやって警察につかまったりしたので、有澤教授が満鉄に避難させたらしい。あの頃の満鉄調査部にはそうした左翼系の共産主義者学生が多く、父も官憲から免れるために逃げ込んだのでしょう。そして父は満鉄調査部の大連支局から上海支局に転じて、戦後に引き揚げてきて炭鉱経営に加わったわけです。母方の杵島炭鉱や小城炭鉱、父方の飯塚炭鉱は合わせると麻生炭鉱よりずっと大きかった」
 周知のように花村仁八郎も山崎進と同じ1908年の3月に福岡県飯塚市に生まれ、嘉穂中から山口高校(いずれも旧制)、東大経済学部に進んだ。福岡少年院教官から戦中に企業の雇用問題を扱う重要産業協議会に入り、ここが終戦後の1946年8月に日本商工経済会や日本経済連盟会などを統合して経済団体連合会(経団連)となる。2002年5月に経団連に日本経営者団体連盟(日経連)が加わり、現在の形になる。
 経団連会長が財界総理と異名をとり、自民党と密接につながってきたのは言うまでもない。なかでも花村は1954年の造船疑獄事件を機に、自民党に対する個別の企業献金を廃止し、団体献金に改めた〝功労者〟とされる。経団連では事務総長と副会長を兼務し、「財界総理」と称されるようになり、日本航空会長に招聘された財界人だ。
 なお山崎の言った麻生炭鉱とは、飯塚にあった麻生太郎の実父である麻生太賀吉が経営した石炭鉱山であり、こちらも麻生コンツェルンの要となった。犬猿の仲とされる山崎と麻生のライバル関係は、こうした二人の生い立ちが影を落としているのかもしれない。
 もっとも周知のように九州の石炭事業は1950年代半ば以降、斜陽産業となって炭鉱も次々と廃鉱の憂き目に遭う。すると山崎進は炭鉱経営を離れ、1955年に民間の日本生産性本部が設立されると参事になり、1960年1月には消費者教育室初代室長に就任した。進は恩師の有澤とともに渡米し、生産性本部の経済学者として政府の経済政策にかかわっていく。経済界、労働界、学識者から構成される生産性本部はのちに公益財団法人に改組されるが、設立当初から政府と連携して終戦後の高度経済復興のために活動してきた。
 そして進の息子の拓が政治を志して自民党入りした。山崎が自民党で存在感を示すようになったのも、こうした生い立ちと無縁ではあるまい。
 保革が相対した55年体制の高度経済成長を経てバブル景気を経験した日本社会は目下、長い成熟期に入っているといわれる。そんな現在の国の形をつくった自民党政治は、田中角栄と中曽根康弘という二人の稀有な政治家抜きには語れない。よくも悪くも今なお日本社会は田中や中曽根時代の政治を引きずっていると言い換えてもいい。中曽根派の自民党議員だった山崎は、自らの体験が今の政治状況に通じると次のように語った。
「私の父の一高東大時代の同級生には、橋本龍太郎さんの父親である橋本龍伍さんや齋藤邦吉さんもいました。二人とも非常に勉強ができ、1番、2番の成績を競っていたそうです。齋藤邦吉さんは自民党幹事長になり、足が悪くて運動ができなかった橋本龍伍さんは厚生大臣を務めました。それで、息子の龍太郎さんも厚生大臣をやったんです。龍太郎さんが大臣のとき親父同士が同級生っていうことで、私を政務次官にしてくれました。
 橋本龍太郎さんは私より一つ歳下ですけれど、1963年11月に26歳で初当選していますから、私が当選1回目のときはすでに5回生でした。私の初当選時、彼はボーイスカウト議員連盟の会長でした。お父さんがボーイスカウト運動を支援していて、息子が個人主義者にならないようにそこに入れたそうです。で、私はボーイスカウト議連の事務局長になってくれと頼まれたので、それ以来私もボーイスカウトにかかわるようになりました。それから彼が自民党総裁になった1995年9月に私は政調会長になり、幹事長が加藤紘一。翌96年1月からスタートした橋本政権では3年間ずっと党役員のその顔ぶれは変わらなかった。それは父親同士の関係でもあったわけです」

冷戦外交と“戦後保守”の終幕

 先述したように自民党は、頭山満の率いた玄洋社の流れを汲む保守右翼思想がその根っこにある。第二次大戦末期に中国・上海の児玉機関で荒稼ぎした児玉誉士夫、辻嘉六という二人の黒幕が、日本自由党の結党資金を出したという有名な話もある。児玉は頭山に私淑して書生となり、のちに自らの側近である太刀川恒夫を中曽根康弘事務所に送り込んだ。かたや辻は反東條英機内閣で干されていた鳩山一郎や三木武吉の後ろ盾として児玉とのパイプ役となった。二人は1955年の日本民主党と自由党の保守合同の自民党誕生にも尽力したといわれる。
 自民党に右翼思想が通底しているのは間違いない。しかしそれは現代のタカ派思想とも異なるように感じる。山崎はそこについてどうとらえているか。
「今の自民党と昔の自民党の違いは、戦争経験者が党内にいるかどうかです。戦争体験者である田中角栄さんは『戦争体験者がいなくなったときが怖い』と言っていました。田中さんはどちらかといえば保守のなかでも左派なんです。中曽根さんと田中さんは当選同期で年齢も同じですけれど、中曽根さんは右翼思想の持ち主でした。ただし、今の右翼とは違う。たとえば高市政権で非核三原則の見直し問題が浮上しています。たしかに中曽根さんは日の丸を大切にし、『憲法改正の歌』をつくったナショナリストではあったけれど、終生変わらず原子力の平和利用は推進すべきだが、非核三原則は厳守すべきだとも言い続けてきました。私はその中曽根さんの家来として、内閣の官房副長官もやったし、そばでそれを見てきました。
 中曽根さんは東西の冷戦構造解消をずっと追い求めていた。日米首脳会談に何回か同席し、米国大統領のロナルド・レーガンに提唱している姿を見てきました。それだけでなく、崩壊前のソ連のミハイル・ゴルバチョフがコンスタンティン・チェルネンコのあとに書記長に就任したときも、冷戦構造解消の必要性を訴えてきた。中曽根さんは決して戦争主義者ではありませんでした」
 もっとも中曽根には常に米国追従イメージが付きまとってきた。「ロン」「ヤス」と互いにファーストネームで呼び合う首脳外交は、現在のトランプと高市のあいだでも続いている。中曽根はそれでも米大統領と渡り合うことができたのか。

1987年4月30日、中曽根康弘 ロナルド・レーガン。写真:アフロ

「レーガンはアジアの地政学的な事情をよくわかっていませんでした。韓国は中国やソ連と国交がなく、北朝鮮は日本やアメリカと国交がなかった時代です。中曽根さんは旧西ドイツでおこなわれた1985年のボン・サミットのとき『たすきがけ承認をしましょう』とレーガンに迫りました。レーガンははじめその意味がよくわからなかったようですが、西側のわれわれが東側の北朝鮮と国交を結び、東側の中国やソ連が西側の韓国と国交を結ぶという提唱です。中曽根さんの提唱を受けたレーガンは会議を中断し、同行したシュルツ国務長官とワインバーガー国防長官、リーガン財務長官などとともに別室に下がって、たすきがけ承認について30分ぐらい協議していました。で、結果的に認めようとなりました。
 つまり当時の冷戦構造の象徴が朝鮮半島であり、東西ドイツのベルリンの壁でした。ベルリンの壁はNATO(北大西洋条約機構)の担当だから、NATOの盟主であるアメリカの方でやってくれ、その代わり朝鮮半島は日本の至近距離にあるから、日本が担当しようという話です。そうしてたすきがけ承認をレーガンと密約し、動くようになったのです」
 それが1990年9月の自民党と社会党の「金丸訪朝」として実現する。自民党の金丸信が中国に働きかけ、平壌で北朝鮮国家主席の金日成と会談した。山崎はその金丸訪朝にいたるまでの秘話を明かす。
「たすきがけ承認は日米の密約でした。官房副長官だった私は、報道記者に対するブリーフィングをしなければならない立場でもありました。しかし、あまりに機密の話なので発表すると計画が壊れる恐れがある。だから、伏せるべきだとして捨ておきました。その一方で中曽根さんは韓国大統領の全斗煥に連絡を入れていました。全斗煥もたすきがけ承認をOKし、1990年には韓国がソ連と、1992年には中国と国交正常化を果たしました。だから今度は日本が北朝鮮と国交正常化しなければならない。それで、金丸訪朝団を派遣したんです。あの訪朝、本当は中曽根さんが仕掛けてやったことなんです」
 中曽根は1987年11月に竹下登を後継指名し、首相の座から降りる。そのあと竹下から宇野宗佑、海部俊樹と政権が目まぐるしく移るなか、中曽根は自民党内で影響力を保ってきたという。
 しかし90年の金丸訪朝は「土下座外交」と批判を浴びた。金丸訪朝の裏では、88年に拉致被害者の石岡亨から欧州経由で送られた手紙が家族にもとに届き、家族が日本社会党委員長の土井たか子へ相談した。だが、彼女は事実上それを無視した。土井はこの年浮上したリクルート事件などでマドンナ旋風を巻き起こしたが、91年4月の統一地方選で惨敗し、田邊誠に委員長ポストを譲った経緯がある。山崎に聞いた。
「社会党の訪朝団には社会党の田邊誠副委員長も加わり、いっしょに行きました。土井たか子は金日成から拉致問題は存在しないと言われ、問題にしませんでした。だからあのときの訪朝では北朝鮮の拉致問題はまだ顕在化しておらず、わからなかったと言う以外にありません。日朝会談で金日成は開口いちばん『あなたの先祖はわが国の出身だ』と金丸に切り出した。 向こうはそれを調べてたんでしょうか。そのあと田邊を外し金丸と金日成の二人きりで会食し、先祖は共通している、と意気投合した。あのときはそれでうまくいったけれど、その後、拉致問題が露見したわけです」
 小泉純一郎訪朝団が北朝鮮総書記となった金正日のもとを訪ね、囁かれてきた日本人拉致という重大事件が判明したのは、金丸訪朝から12年も経った2002年9月のことだ。自民党副総裁の金丸と社会党委員長の田邊の二人は、文字どおり55年体制の時代の象徴でもあった。保革伯仲の対立といわれながら、実のところ双方が馴れ合ってきたにすぎない。
 自民党はリクルート事件以降、政治とカネで揺れ動いた。竹下、宇野、海部と移り変わった内閣は、微妙な権力バランスで成り立っていたといえる。この間、最大派閥を率いた経世会竹下派の威勢の下、金丸が訪朝したのだが、もともと竹下政権を生んだのは中曽根であり、竹下と中曽根の二人は脱田中支配という共通の利害があった。
 永田町で「風見鶏」と揶揄された中曽根康弘は、田中曽根内閣とも皮肉られた田中の傀儡政権であった。中曽根は田中後の自民党政治に大きな影をもたらす。(敬称略 つづく)

 第三回

プロフィール

森 功

(もり・いさお)
1961年、福岡県生まれ。ノンフィクション作家。2008年、2009年に「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」受賞。2018年『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』(文藝春秋)で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞。『魔窟 知られざる「日大帝国」興亡の歴史』(東洋経済新報社)『国商 最後のフィクサー葛西敬之』『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『地面師vs.地面師 詐欺師たちの騙し合い』(講談社)他著作多数。

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