豊後水道に通じる山口県周防灘にも軍港呉や軍都広島と深く関わる「本土決戦」への動きがあった。2025年の年の瀬に『陸戦隊と暁部隊』(集英社新書)を上梓した。本連載
では、生死の境をくぐり抜けながら海難事故で逝った暁部隊の元陸軍中尉、77年ぶりに暁部隊の元見習士官の遺品と分かった周防灘の島に眠る「兵隊さんの行李」など、積み残した周防灘をめぐる幾つかの物語をお届けしてきた。第4話では「船隠し」の謎に迫る。
「付近海面警備」が任務
『紅の血は燃えて』に手記を寄せた福岡県大牟田市出身の二期生高畠順一は機動輸送隊補充隊の戦車輸送揚陸舟艇(SB艇)要員として1945年2月に因島(現在は広島県尾道市)の造船所でSB艇を受け取り、乗船して櫛浜に帰隊した。この艇にいずれは乗るのだと思うと感慨深かったそうだが、これが見納めだったのだ。
やがて米軍の硫黄島上陸に続いて東京大空襲――。「演習も海上訓練は殆どなくなり、陸上における肉薄攻撃訓練あるいは紅白(両軍)に分かれて、夜間斬込み訓練等が多くなった。夜間演習の前には、闇の中でも見えるようになるという薬を飲まされたが、あまり効果はなかったように思う」(『紅の血は燃えて』)。『陸戦隊と暁部隊』第六章の証言にも出てきた「み号剤」だろう。武器らしきものがない肉弾戦の訓練とは海軍の陸戦隊と同じか。
高畠は8月7日に船舶司令部の命によりトラックで焦土の広島に救援に入った。5日には上官に同行して司令部に出張し、空き時間に市内をぶらついたばかり。「雑炊の行列が並んでいた福屋デパートが、残がいとして建っており、それによって確かに広島市だと確認できる程の被災ぶりであった」と回想し、人の運命は紙一重であることが身に染みたという。
田中茂は1945年5月には「海上駆逐第二大隊」(本人履歴申立書)に配属されて「付近海面警備」に任じられ、本人履歴では「警備第六号艇艇長を命じられる」とある。敗戦後の8月18日に復員下令、24日に原隊復帰。本人の履歴によると原隊は海上駆逐隊補充隊を指す。笠戸島の国民学校や土本家などの民家に寝泊まりしていたのは櫛浜の暁部隊だったことが茂の軍歴から裏付けられた。マルレ特攻の第十教育隊や海上挺進戦隊に派遣された形跡はないため、別の舟艇による笠戸湾の守備が任務だったと考えられる。
また軍歴には記載がないが、焦土の広島への出動を命じられた、あるいは瀕死の被爆者の受け入れに当たった、どちらかの可能性も捨てきれない。高畠の手記を読むと、敗戦の年に櫛浜の暁部隊の一員である限り、原爆と無縁だったとは思えない。
下松市内には被爆して重傷を負った軍人が収容された記録がある。1975年6月14日付の中国新聞は、推定200体の遺体が広島第一陸軍病院櫛浜分院跡の市営住宅付近や付近の山野に仮埋葬されたまま放置されていることが、山口県原爆被爆者福祉会館「ゆだ苑」(当時)などの調査で明らかになった、と報じている。この記事には直ちに反響があって、国鉄岩徳線で運ばれてきた軍人の多くは半裸でやけどがひどく9月末までに50人近くがばたばた死んでいった、自分が火葬したが全ての遺骨を拾うことはできなかった、といった証言が寄せられた。
櫛浜といっても花岡八幡宮の門前町として栄えた地域に近い内陸部。現地には「ここ緑ヶ丘周辺に、旧陸軍病院分院として病舎が急造拡張されていた。8月6日に被爆された方々207名が11日に収容され、49名の方がこの地で客死されている。この史実を後世に残すために建立されたものである」と刻まれた碑がある。被爆から実に55年の歳月を経た2000年の建立である。
木下忠司の島の思い出
手掛かりの乏しい櫛浜の暁部隊だが、意外な著名人の手記を土本に教えてもらった。映画「喜びも悲しみも幾年月」やテレビドラマ「水戸黄門」の主題歌などで知られる作曲家木下忠司である。兄は映画監督の惠介。TBSのドラマシリーズ「木下恵介アワー」を記憶している人は僕を含めてシニア世代ではなかろうか。
1916年静岡県浜松市に生まれた忠司は中国戦線を経て、44年に28歳で櫛浜の海上駆逐隊補充隊に配属。さらに新たに編制された第二機動輸送隊に転じ、乗船する舟艇の修理が終わるのを待つため、金輪島の兵舎で兵隊たちと寝起きをともにしていたという。
忠司が後に静岡新聞に寄稿した手記には「任務は台湾付近の輸送船を護衛することでした。そして、そんな所へ行っていたら間違いなく死んでいたでしょうが」とある。受領した舟艇は長さ25メートル、幅4メートルの鋼鉄製で機関砲、旋回機関銃、爆雷などを装備し18人乗りだったという。一号艇から五号艇まであり、いずれも新造船ではなく改造された舟艇だった。
だが、意外にも当時の忠司の回想に緊迫感はない。訓練という名目で瀬戸内海の島々を巡れば、人々は親切であって子らは毎日遊びに来た――と記述し、幾つか歌も詠んでいる。次の歌は笠戸島本浦の光明寺を題材にしたという。
海寺にいつも夕べを来て遊ぶあの女の子何故に今日来ぬ
1945年4月には関門海峡を経由して唐津湾に向かうが、空襲による焼野原を目撃し、呼子(よぶこ・現佐賀県唐津市)で敗戦を迎える。後生大事にしてきた爆雷も不要になり、威力を知りたくなって玄界灘で試したものの不発だった。忠司は土本との縁で2017年に笠戸島を訪ねている。100歳を超えていたが、事前に周囲の人から「笠戸島」の名を告げられると「笠戸島!」と大きな声で復唱したという。
笠戸島のもう一つの謎は小深浦地区の笠戸湾に面して現存する10か所の人工洞窟、「船隠し」である。間口は2メートルから5メートル、奥行きは6メートルから19メートル、高さは2メートルから4メートル。いずれも未完成で不ぞろいであることが分かっている。土本正二や艦載機グラマンによる笠戸島空襲を証言する1937年生まれの郷土史家廣中勲の案内で僕も現地を踏んだが、その目的については解明されていない。
わずかながら『紅の血は燃えて』に証言が残る。櫛浜の海上駆逐隊補充隊に所属した高橋哲三(船舶特幹二期生)が「徳山港より数キロ離れたところの島(笠戸島と記憶があるが不明=本人注釈)にて私ら候補生数名(氏名、人員記憶なし=同)で舟艇の隠蔽作業に取り組む毎日だった」と手記を寄せる。時期は1945年の8月10日ごろ。程なく「連絡船」が「天皇陛下の重大放送」を告げにやって来る。この「隠蔽作業」が掘削作業なのか、舟艇の搬入作業なのかは不明だが、いずれにしても敗戦で打ち切られたのだ。
先の高畠の手記でも同年3月に「洞くつ作業」が何度か出てくる。現場がどこかは分からないが、「防空壕掘り」とは書き分けていることから舟艇の隠蔽作業だった可能性は残る。ちなみに手記には「挺進斬込」の字句もあり「夜挺進斬込の方向維持のため、五名一組にて荒神山の頂上へ行く」とある。「挺進」は「挺身」かもしれない。敵の上陸に備えた肉弾戦の訓練を意味しているのだろう。ろくな武器もないまま「本土決戦」に動員された候補生たちの最後の「手段」だった。

プロフィール

(さたお しんさく)
1957年、島根県出雲市生まれ。ジャーナリスト。大阪市立大学文学部卒業。
広島を拠点に取材活動45年。現在は中国新聞客員編集委員、日本ペンクラブ会員、宮本常一記念館運営協議会委員。
著書に『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』(集英社新書)
『宮本常一という世界』『風の人宮本常一』、共著に『われ、決起せず 聞書・カウラ捕虜暴動とハンセン病を生き抜いて』(いずれも、みずのわ出版)など。
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