フランスの大学院で哲学を学ぶ森野咲が、現地での最新の研究や報道の成果をもとに、極右の成長、定着の背景やメカニズムを明らかにする連載の第8回。
近年のヨーロッパ極右政党については、女性政治家の活動も目立つと同時に、女性の支持者も増加している。極右は、男性中心的で女性を“従属的な存在”として扱うにもかかわらず、このような現象が生じるのはなぜなのか。「再生産保護主義」というキーワードを提示した前回に続き、極右とフェミニズムが“不幸な結婚”へと向かっていった過程を明らかにする。
同性婚反対運動と「保守女性運動」の高まり
2013年、フランスでは同性カップルに結婚を認めるトビラ法、「みんなのための結婚」が成立した。これに対して大規模な反対運動を展開したのが、「みんなのためのデモ(La Manif pour tous)」である。「みんなのためのデモ」は露骨な同性愛嫌悪を避けつつ、同性婚を家族、子ども、性差、さらには文明秩序の「危機」として描き出した。そこで前面に出されたのは、「子ども」や「父と母からなる家族」、そして「社会の根本的秩序」を守るという語りである。こうして同性婚への反対は、差別の主張としてではなく、「保護」の言語を通じて正当化されたのだ。

さらに、「みんなのためのデモ」 は、フランス右派における保守勢力と女性の関係を再編する重要な契機にもなった。この運動では、女性が組織運営やメディア上の表象において存在感を発揮した。母であり、女性であり、子どもを守る存在であるというイメージが、運動の正当性を支える装置として機能したのである。同性婚反対運動をきっかけに、女性を中心とする抗議形態や、極右に近接する女性集団が新たに形成された。
この運動はフランスにおける「反ジェンダー運動」の重要な転機となった。争点は同性婚だけにとどまらず、性教育、ジェンダー平等教育、トランスジェンダーの権利、生殖補助医療などが、次々と攻撃の対象となった。これらは、個別の政策や権利要求としてではなく、社会全体の秩序を破壊するものとして描かれた。
すなわち、同性婚反対運動は、ジェンダーやセクシュアリティをめぐる一種のモラル・パニックを引き起こしたのである。モラル・パニックとは、本来は限定的な社会現象や少数派の権利要求が、社会全体の価値、秩序、未来を脅かすものとして過剰に構築される政治的・メディア的反応を指す。2013年当時の国民戦線(現・国民連合)は、「みんなのためのデモ」への公式な賛同には慎重な姿勢を示しながらも、党の議員は実質的に同デモへ参加していた。マリーヌ・ルペンもまた、成立済みの同性婚には一定の留保を示しつつ、政権を取れば同性婚法を廃止すると述べていた。国民戦線は、同性婚反対をめぐるモラル・パニックを、自らの政治的資源として取り込もうとしたのである。
ナショナリズムとジェンダー
国民国家において、家族は単なる私的領域ではなく、国民を再生産する場として位置づけられてきた。そのなかで女性には、二重の再生産の役割が割り当てられる。
第一に、生物学的再生産である。女性は「子どもを産む性」として、人口の再生産を担うものとみなされる。第二に、文化的再生産である。女性は、言語、文化、宗教、価値観、民族性、国民性を次世代へ伝える役割を負わされる。だからこそ、女性の身体や家族のあり方は、ナショナリズムにとって重要な政治的争点となる。
同性婚反対運動もまた、「国民を再生産する家族」という枠組みや、女性を「再生産の担い手」とする価値観と深く結びついていた。「みんなのためのデモ」以降の右派運動は、アイデンティタリアン右派(*1)、伝統主義カトリック、ナショナリスト系の運動とも結びつきながら、母性、自然な性差、女性性を強調することで女性を取り込んでいった。そこでは女性は、「子どもを守る存在」「家庭を守る存在」「文化や国民性を継承する存在」として称揚された。しかし、これは必ずしも女性の解放を意味しない。女性は、自律的な主体としてではなく、母性や家庭内役割を担い、保護を必要とする脆弱な存在と位置付けられた。つまり、フェミニズム的な解放要求は、「女性を守る」という保護要求へと変換されたのである。
女性が、「再生産」を担わされるという構造に異議申し立てをするのではなく、むしろその構造の中で与えられた役割を保持しようとして反同性婚デモに参加する——この矛盾した事態を考えるうえで、アンドレア・ドウォーキンの議論は示唆的である。彼女は1983年の時点で、著作『右翼の女たち』において、なぜ一部の女性が自分たちを従属させるはずの保守的・家父長的な政治に加担するのかを問いている。ドウォーキンの答えは、それが一種の生存戦略である、というものだった。抑圧的な家父長制のなかで、女性たちは「正しい側」に立つことを選ぶ。すなわち女性は、男性的、あるいは国民的な保護の約束と引き換えに、服従を受け入れるのである。
「みんなのためのデモ」以降、フランス右派・極右においても、女性が政治の前面に現れる機会は増えた。しかし重要なのは、女性が政治の場に現れたという事実そのものではなく、その現れ方である。彼女たちは「解放を求める女性」としてではなく、「守られるべき女性」として表象された。この構図は、次に見るように、「女性の安全」をめぐる右派・極右の言説のなかで、次第に排外主義的な意味を帯びていく。
*1 アイデンティタリアンとは、1990年代以降フランスの極右・新右翼圏で形成され、2000年代以降欧州各地に広がった運動である。彼らは「アイデンティティ」の防衛を掲げるが、その実質は白人/ヨーロッパ文明を移民、多文化主義、イスラーム、混血化から守るという思想であり、非ヨーロッパ系住民の排除や「再移民」を正当化する白人ナショナリズムないし白人至上主義的傾向をもつ。
「女性の安全」と排外主義
2015年の大晦日にドイツで発生した「ケルン事件」は、極右勢力によるフェミニズムの取り込みを考えるうえで、重要な事例である。事件の発端は、2015年の大晦日にケルン中央駅周辺にいた多数の女性が、性被害や窃盗被害を訴えたことにあった。当時のドイツでは難民受け入れが大きく拡大していたこともあり、事件直後、警察やメディアは加害者像を「アラブ系男性」と結びつけるかたちで報じた。こうした報道は広く拡散し、アラブ系男性の移民・難民全体が「ドイツ人女性に対する潜在的脅威」として急速にスティグマ化された。その結果、社会はモラル・パニックとも呼べる状況に陥った。

写真:ロイター/アフロ
しかし捜査が進むと、事件に関連して刑事手続で立件・処罰に至った事例の多くは窃盗・盗品関係であり、性的強要で有罪となったのは2人にとどまった。また容疑者の国籍も一様ではなく、極右勢力が流布したような「2015年に入国したシリア難民による組織的性暴力」といったナラティブは、実態とは大きく乖離していた。
さらに、大規模イベントにおける性暴力は、ケルン事件以前から存在していた。たとえば、毎年開催されるオクトーバーフェストでは、届け出のないレイプが200件以上発生していると推計されている。それにもかかわらず、ケルン事件だけが国際的スキャンダルとして大きく扱われたのは、加害者像が「アラブ系男性」として選択的に可視化されたためである。
ケルン事件は、女性に対する暴力という深刻な社会問題が、いかにして政治的資源として道具化されうるのかを示している。フランスでも、この事件を受けてマリーヌ・ルペンは、自身の政党を「女性の安全を守る政党」として強調した。通常、極右政治においてはほとんど見られないフェミニスト的言説が、このときには人種差別的主張を正当化するために用いられたのである。その結果、議論の焦点は性暴力そのものよりも、「非白人男性が性犯罪者である」という表象へと移されていくこととなる。
フェモナショナリズム
ケルン事件のように、女性の権利や男女平等の名のもとで人種差別的・排外主義的な言説が正当化される現象を、イギリスの社会学者サラ・ファリスは「フェモナショナリズム」と呼んだ。これは、フェミニズムの要求が国家主義的・治安的言説に取り込まれ、「女性を守る」という名目でムスリム男性や人種化された男性を危険な存在として標的化し、排外主義を正当化する構図を指す。この構図において、女性は自ら権利を求めて闘う主体ではなく、国家によって保護されるべき受動的な犠牲者として描かれる。同時に、国家は「女性を守る」秩序の担い手として自己を正当化する。つまり、女性の安全や権利を語る言説が、国家権力の強化や排外主義的政策を支える役割を果たしてしまうのである。
さらに、この言説は「西洋=進歩的」「イスラーム=女性差別的」という植民地主義的な図式を再生産する。ジェンダー平等は西洋社会の優位性を示す証拠として利用され、イスラームや移民社会は、遅れたもの、女性を抑圧するものとして表象される。こうして、ジェンダー不平等は西欧社会全体の構造的問題としてではなく、「移民の問題」として外在化されてしまう。その結果、西欧社会内部にも存在する格差や構造的な性差別は不可視化され、フェミニズムが本来持っていた家族、性別、国家秩序への批判力は弱められてしまうのだ。
女性に対する性暴力は、特定の文化や民族に固有の問題ではない。だからこそ、性暴力批判のためにレイシズムを許容することも、反対に、レイシズムを批判するために女性に対する性暴力の問題に目を瞑ることもすべきではない。性差別と人種差別は相互に結びつき、互いを強化しあうため、どちらか一方を犠牲にして他方に対抗することはできないからである。
ところが、フェモナショナリズムは、社会に存在する怒りや不満を、構造的な家父長制や性差別そのものではなく、移民やムスリムといった周縁化された集団へと向けてしまう。この点は、先に見たジェンダー・ギャップの宗教的要因にも関わっている。女性の権利の名のもとでイスラームや移民への警戒が語られることで、移民やイスラームへの反発は道徳的に正当化されるようになり、その結果、かつて女性たちを極右から遠ざけていた宗教的な防波堤も弱められたのである。
近年の国民連合は、こうしたフェモナショナリズム的言説を積極的に取り入れている。そのことを象徴的に示しているのが、2024年の国民議会選挙直前にYouTubeに投稿された、国民連合の若き党首ジョルダン・バルデラの演説である。「フランスのすべての女性たちに呼びかけたい」と題されたバルデラの演説動画は、「女性の権利」がいかにして極右の言説に取り込まれていくのかを端的に示していた。
まず強調されたのは「男女平等」、とりわけ「服装の自由」である。ここで主な標的として暗に想定されているのはイスラームであり、とりわけヴェールをめぐる議論である。次に、女性器切除への対策強化も掲げられるが、そこにはとくにアフリカ系移民を意識した排外主義的な含意が見られる。「女性の安全」を守るという主張も、移民や非白人男性を危険視する治安強化の言説と結びついている。また、子宮内膜症や乳がんへの医療支援は語られるものの、それは主に「産む性」としての女性を前提にした生政治的な関心にとどまっている。賃金不平等やセクシュアル・ハラスメントといった、女性が日常的に直面する構造的な問題は、ほとんど扱われていない。つまり、この演説における「女性の権利」は、女性の解放そのものよりも、イスラームや移民を問題化し、排外主義を正当化するための言説として機能しているのである。

極右フェミニスト集団、Némésis
フェモナショナリズムは、政党レベルにとどまらず、近年の極右系社会運動のなかにも顕著に見出される。とりわけ注目されるのが、ケルン事件を一つの媒介として2019年に設立された「アイデンティティ主義フェミニスト」集団、Némésis(ネメジス)である。
Némésisは「フェミニスト」を名乗りながらも、フェミニズムを女性の解放や構造的な男女不平等への批判ではなく、民族主義的・人種差別的な政治の道具として再構成している。彼女たちは性暴力を中心的な争点に据えながらも、「外国人レイプ犯は出て行け」といったスローガンを通じて、性暴力を移民男性、あるいは移民系男性に特有の問題として表象し、それを反移民・反イスラーム的な政治言説へと接続している。
ここ10年ほど、フランスの極右勢力は、女性の権利、とくに性暴力対策の擁護者を自称するようになった。これは、女性を主に「産む性」として位置づけてきた従来の家父長制的な立場からの転換である。しかし、そこで語られる「女性の安全」は、フランス社会に根づく性差別を問うものではない。極右の世界観において、女性を危険にさらすものは、社会の内側にある男性支配ではなく、外から来た文化や宗教、とりわけアラブ系、アフリカ系の移民男性や、イスラーム教徒の女性のヴェールに投影される「外部の家父長制」である。かつて前面にあったのは、「国民を外国人から守る」という構図だった。だが近年では、そこに「女性解放を体現する西洋文明を、外から来た家父長制、とりわけイスラーム教から守る」という語りが重ねられているのである。
Némésisはこの語り口を社会運動の側から巧みに展開している。同団体は、左派やフェミニストの集会に入り込み、反移民・反イスラーム的なスローガンを掲げる「突撃型」のアクションや、ニカブ(女性のイスラーム教徒が着用する丈の長い衣服) を脱ぎ捨てるパフォーマンスなどによって注目を集めてきた。さらに、Némésisは国民連合や再征服といった極右政党との関係も深めており、選挙では投票を呼びかけてもいる。彼女たちは、政党の外部にある社会運動でありながら、極右政党のフェモナショナリズム的言説を補完し、拡散する役割を果たしているのである。
しかし、Némésisの性暴力をめぐる言説には大きな偏りがある。同団体は、被害者や事件を選別し、治安強化や反移民のアジェンダに沿う形で利用する傾向が強い。その結果、性暴力の加害者がしばしば被害者の身近な人物であるという現実は後景に退けられる。偏った数字や限定的なサンプルを用いることで、外国人による性暴力の比率が過度に強調される一方で、レイプの91%は知人によって、45%は配偶者や元パートナーによって行われるという基本的な事実は十分には扱われない。また、Némésisが取り上げるフェミニズムの争点はきわめて限定的で、性暴力以外の問題、たとえば賃金格差、家事分担、中絶といったフェミニズムが本来扱ってきた幅広い課題に踏み込むことはない。
さらに見逃せないのが、Némésisとネオファシスト勢力とのつながりである。フランスの新聞『ユマニテ』が2025年2月に報じたスクープによれば、Némésisとネオファシスト活動家のメッセージのやり取りから、同団体が反ファシスト活動家を挑発して「誘き寄せ」、そこに極右活動家が暴力を加えるという作戦を企んでいたことが明らかになった。また、そのグループトーク内では女性蔑視や容姿への侮辱も飛び交っていたが、そうした発言は問題視されず放置されていた。この事例は、Némésisが一見フェミニズム的な語彙や行動様式を用いているにもかかわらず、その背後では女性蔑視的で暴力的な極右ネットワークと結びついていることを示している。
極右によるフェミニズムの取り込みと「免疫」
Némésisのような団体やフェモナショナリズムの高まりは、右派の女性運動が新たな段階に入ったことを示している。反同性婚運動で主体的に動いた女性たちは、ジェンダー平等や女性の権利を拒否し、伝統的な女性性や家庭内役割を重視するという意味で、あくまで「反フェミニスト」であった。これに対して、Némésisのような団体は、自らを「フェミニスト」と名乗っている。すなわち、右派・極右の女性運動は、もはやフェミニズムを正面から拒絶するだけではなく、その言葉を排外主義や性差本質主義に沿うかたちで、自らの政治のなかに取り込みはじめているのである。
なぜ極右は、フェミニズムのように本来は相容れない思想までも取り込むのか。この問いを考えるうえで、イタリアの政治学者ロベルト・エスポジトの「免疫」概念は有効である。エスポジトによると、免疫とは、共同体や国家が外部の危険から自らを守るために、その危険を完全に排除するのではなく、弱められたかたちで内部に取り込み管理する仕組みを指す。つまり、共同体はときに外部を制御可能な形で内部化することで、自己を維持し、強化するのである。つまり、極右は女性やマイノリティを単に排除するのではなく、無害化された形で取り込み、自らの秩序を補強するために利用することがあるのだ。
極右によるフェミニズムの利用も、この免疫化の一例として考えることができるのではないか。極右は、フェミニズムの語彙を都合よく取り込もうとする。女性の自己決定や選択をめぐる議論は、個人の自由や自己実現を強調する言説へと置き換えられることで、社会構造への批判を失った新自由主義的フェミニズムとして回収される。「女性を守る」という語りは、移民やムスリム、性的マイノリティを危険な存在として位置づけ、排外主義や差別を正当化するために用いられる。こうしてフェミニズムの批判的視座は弱められ、国家・人種・性の境界を守る道具へと作り替えられていく。
ただし、極右がフェミニズムを都合よく利用しているからといって、極右の女性たちを受動的な「被害者」であるかのように見ることもできない。一部の女性は、保守的、反動的、あるいはファシズム的な思想を積極的に引き受け、その担い手として主体的に行動するからだ。極右は、女性に従順さ、献身、礼儀正しさ、家庭への帰属を求める一方で、彼女たちに怒りや不満を表現する場も提供する。しかし、その怒りは男性中心の支配構造ではなく、移民、性的マイノリティ、宗教的マイノリティなど、より周縁化された集団へと向けられる。
極右の女性たちは、与えられた役割のなかで自らの位置を見出し、一定の発言力や優越感を得ようとする。つまり、ここで機能しているのは、既存の秩序を問い直すのではなく、その秩序の内部で、すでに周縁へと押しやられている人々を排除の対象とすることで、自分の位置を相対的に確保しようとするエージェンシー(行為主体性)なのである。
極右とフェミニズムの不幸な結婚
極右女性たちは、白人女性性、母性、家庭、教育、安全、子どもの保護といった価値を政治的資源として用いることで、共同体の「境界」を守る主要な政治的アクターとして承認される。しかし、その権力はあくまで、男性中心の極右秩序が許す範囲に限られている。若い女性はアイデンティティ運動の象徴として、母親は教育や道徳の番人として、女性政治家は国民の母として称揚される。だが、その称揚は彼女たちを解放するものではない。それはむしろ、既存の性別秩序を揺るがさない限りでのみ認められる、条件付きの承認なのである。
したがって、極右女性が得る権力は、断片的で、脆いものだ。彼女たちは他者を傷つける力を持つ一方で、自分たち自身もまた男性中心の秩序に監視され、役割から外れれば排除されうるような、不安定な立場に置かれている。ここに、極右の「女性化」が抱える根本的な矛盾がある。女性が前面に現れ、女性の権利や安全が語られるようになったとしても、それは必ずしも女性の解放を意味しない。極右における女性の可視化は、フェミニズムの勝利ではなく、フェミニズムの語彙が家父長制的・排外主義的秩序の維持のために取り込まれる過程なのである。
極右は、女性を単に政治から排除するのではない。むしろ、女性を取り込み、声を与え、象徴として掲げることで、自らの運動をより穏健で、近代的で、正当なものに見せようとする。しかし、その声は、女性が既存の秩序に異議を唱えない限りでしか与えられない。認められるのは解放ではなく、管理された参加である。支配する側に近づくことで従属から逃れようとしても、その秩序は女性たちを完全な主体として迎え入れるわけではない。必要なかぎりで利用し、不要になれば切り捨てるだけである。女性たちは政治の前景に立つ。しかし、そこにあるのは真の解放ではない。差別と支配の秩序が、フェミニズムの語彙をまとって生き延びる光景なのである。
参考文献
鈴木彩加『女性たちの保守運動:右傾化する日本社会のジェンダー』人文書院、2019年。
ポリタスTV編、山口智美・斉藤正美著、津田大介解説『宗教右派とフェミニズム』青弓社、2023年。
菊地夏野『ポストフェミニズムの夢から醒めて』青土社、2025年。
森野咲「極右とフェミニズムの不幸な結婚」『ふぇみん』、2025年10月15日号(3432号)より月1回の連載 (2026年6月時点) 。
Léane Alestra, Les vigilantes: Surveillées et surveillantes, ces femmes au cœur de l’extrême droite, JC Lattès, 2025.
Magali Della Sudda, Les nouvelles femmes de droite, Hors d’atteinte, 2022.
Andrea Dworkin, Right-Wing Women: The Politics of Domesticated Females, Perigee Books, 1983.
Abdelkarim Amengay・Anja Durovic・Nonna Mayer, « L’impact du genre sur le vote Marine Le Pen », Revue française de science politique, 2017.
Christèle Marchand-Lagier, « Le vote des femmes pour Marine Le Pen », Travail, genre et sociétés, 2018.
Réjane Sénac・Maxime Parodi « “Gender gap à la française” : recomposition ou dépassement ? », Revue française de science politique, 2013.
Charlène Calderaro, « Le fémonationalisme du FN/RN : une appropriation du féminisme à des fins racistes », Contretemps, 2024.
Roberto Esposito, Immunitas: The Protection and Negation of Life, trans. Zakiya Hanafi, Cambridge: Polity Press, 2011.
Sara R. Farris, In the Name of Women’s Rights: The Rise of Femonationalism , Duke University Press, 2017.

昨今、日本では排外主義や自国第一主義を掲げる政党が選挙で議席を伸ばしている。ヨーロッパをはじめとする世界各地での極右政党躍進の流れが、いよいよ到来したとの見方もある。では、極右の「先進地」とも呼べるヨーロッパでは、極右はどのように勢力を拡大してきたのだろうか? フランスの大学院で哲学を学ぶ森野咲が、現地での最新の研究や報道の成果をもとに、極右の成長、定着の背景やメカニズムを明らかにする。
プロフィール

(もりの さき)
1996年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、大杉栄や石川三四郎に憧れて渡仏。パリ郊外サン=ドニにあるパリ第8大学哲学科の修士課程2年に在籍中。専門はフランス現代哲学。現在、『ふぇみん』に「極右とフェミニズムの不幸な結婚」を連載中のほか、自身のnoteで「極右の傾向と対策」と題したマガジンを発表している。
森野咲




速水健朗×福尾匠

樋口恭介×中路隼輔

綿野恵太×西村章
アレックス・カー