フランスの大学院で哲学を学ぶ森野咲が、現地での最新の研究や報道の成果をもとに、極右の成長、定着の背景やメカニズムを明らかにする連載の第9回。
「反エコロジー」というイメージを持たれがちな極右だが、近年この図式にあてはまらないような事例も散見する。ナショナリズムや伝統主義、反移民などと結びついた、独自の「極右エコロジー」思想とは何か。2回にわたり迫る。
極右の奇妙なエコロジー
2025年の参議院選で参政党が躍進したことは、気候危機対策を重視する人たちにとっては憂慮すべき結果だったに違いない。海外の多くの極右政党と同様、参政党は典型的な気候変動懐疑の立場をとっていたからである。参政党は「地球温暖化には科学的な議論の余地がある」と言いながら国際的な気候変動対策の枠組みからの離脱を訴え、メガソーラーによる自然破壊や電気料金の負担を強調することで脱炭素や再生可能エネルギー政策を後退させようとしていた。神谷代表が「CO2で気候変動、言っているのは日本だけ」と発言したことも記憶に新しい。
しかし不思議なことに、そこには一見すると「反エコロジー」とは矛盾するような主張も含まれている。参政党はあらゆる気候変動対策に消極的な一方で、「日本の恵まれた自然環境や生態系を守る」と主張しているのだ。さらに、脱炭素や国際的な気候政策に反対する一方で、ローカルな食や土地、農業に関しては「地球との調和的な共存」を訴えてもいる。つまり、そこには気候変動懐疑主義をオーガニックの語彙で包むような両義性があるのだ。
この「奇妙さ」を理解するには、極右エコロジーの世界観を知る必要があるだろう。現代の極右は、環境問題をただ否定しているわけではない。もちろん、その主流を占めるのは今なお、化石燃料に依存した生活様式を守ろうとする気候変動懐疑主義である。しかし、極右の内部には、環境問題を独自のやり方で「真剣に」取り込もうとする少数派も存在する。この二つの潮流が結びつくことで、参政党の環境言説に見られるような「奇妙さ」が生まれるのだ。極右のエコロジーを検討することは、その環境政策がもつ両義性を正確に捉えるために欠かせない。
極右=反エコロジーという定説
極右は反エコロジー的である――直感的にこう感じる人は少なくないだろう。トランプ政権が行った政策を思い出してみよう。同政権は気候変動を否定し、パリ協定からの離脱やグリーン政策への攻撃を進め、電気自動車や再生可能エネルギーに反発し、化石燃料産業を支援した。さらにストローなどのプラスチック製品の使用再開を象徴的にかかげることで、「環境規制からこれまでの消費生活や産業利益を守る」姿勢をアピールした。トランプ政権のもとでは、環境政策は未来のための公共政策というよりも、「普通の人々の生活や自由を脅かすもの」として描かれていた。
フランスの極右も同様に、長い間「反エコロジー」であった。国民戦線(現国民連合)は、移民や治安、国民的アイデンティティを主要な争点とし、環境問題に対しては無関心であるか、しばしば攻撃的でさえあった。2010年に国民戦線が開催した気候変動に関するシンポジウムでは、「気候変動は社会主義者や環境主義者によって作り出された詐欺である」と主張された。こうした陰謀論的世界観において、気候危機は左翼が増税を正当化し、国境開放を進めて気候難民の受け入れを促進し、白人や先進国を世界の不幸の責任者として描き出すための口実にすぎない、とされていた。こうした極右の「反エコロジー」的態度は、21世紀初頭にひろく見られた。フランスに限らず、気候変動を疑うこと、あるいは否定することは、極右においてほとんど標準的な立場であった。
極右が環境問題にかかわるとき、それはしばしば気候変動懐疑論とともに、「化石燃料資本主義の擁護」というかたちをとる。なぜなら、極右にとって重要なのは化石燃料に支えられてきた西洋的生活様式を守ることであり、化石資本にとって重要なのは石油・ガス・石炭から得られる経済的利益を守ることだからだ。このように、極右と化石資本の利害が結びつく現象は「カーボファシズム」と呼ばれる。こうしたカーボファシズム的傾向は、ブラジルのボルソナロ政権やハンガリーのオルバン政権にも現れていた。極右は環境政策を「懲罰的」「エリート主義的」「普通の生活を脅かすもの」として描き、「エコロジストから車や芝生、バーベキューのある生活を守る」と訴えることで有権者を動員してきたのだった。
気候変動懐疑主義2.0
しかし今日、「極右=反エコロジー」という従来の単純な図式が崩れ始めている。かつての大きな対立軸は、世界が気候変動に直面していることを認めるか否かであった。ところが気候危機が深刻化し、環境問題が政治全体の中心的テーマとして定着したことで、この争点は変化した。現在では、危機の存在を前提にしたうえで、それにどのように対応するのかが争われるようになっているのである。
こうした変化を受けて、フランスの極右もまた、単なる「反エコロジー」政党ではいられなくなった。2010年代末頃から、フランス極右は、気候変動否定を主たる戦術とすることを放棄し、綱領のなかに環境やエコロジーに関する項目を盛り込むようになった。国民連合が政権獲得を目指す以上、環境、エネルギー、農業、気候といった問題に対して、何らかの立場を示さなければならなくなったのである。
こうした極右の変化の具体例として、国民戦線が「愛国的エコロジーのために」というスローガンのもと、2014年に立ち上げた「新しいエコロジー(Nouvelle Écologie)」という団体が挙げられる。これは極右が自分たちを「環境に配慮する政党」として、環境問題に関心を持つ一部の有権者に向けてアピールするグリーンウォッシング的な試みのはじまりであった。さらに、2017年の大統領選では、マリーヌ・ルペンは、「国内生産を重視する保護主義こそが温室効果ガスの削減になる」と語るようになった。彼女は、父ジャン=マリー・ルペンの時代のように温暖化否定を前面に出すのではなく、「グローバリゼーションからフランス経済を切り離すことが、環境保護にもなる」という論理へと移行しているのだ。
このような極右の言説の変化をどのように捉えるべきだろうか。重要なのは、極右の立場が気候変動に対する「単純な否定」から「対策の妨害」――すなわち「気候変動懐疑主義2.0」に変化しているということだ。つまり、それは温暖化そのものを完全に否定するのではなく、環境規制、税制、科学的合意、国際協力、気候適応策といった具体的な対策を個別に攻撃することで、気候変動への対策を骨抜きにしていくかたちの否定である。
しかも、そこで科学は単に否定されるだけではない。「気候変動懐疑主義2.0」において、極右は時に「科学的理性」を守るふりをしながら気候学者を攻撃するなど、科学を偽装的に利用することもある。その上で、論点をずらし、気候問題を細かな技術論へと分解することで、極右は気候変動に関する政治的決定を先送りさせるのである。現代の気候変動否認は、科学を正面から拒絶する言説というよりも、科学の権威を選択的に利用しながら、そこから導かれる政治的帰結を無効化する言説として捉える必要がある。
さらに、極右は「懐疑主義2.0」にとどまらず、ナショナリズムや伝統主義、反移民など、極右と親和性の高いテーマとエコロジーを巧みに結びつけ、独自の「極右エコロジー」思想を生み出している。一般的には左派的なテーマだと思われているエコロジーだが、なぜこのような思想上の操作が可能になるのだろうか。そして、その思想的源流はどこにあるのだろうか。
エコロジーは「自然に左翼」ではない
エコロジーは、しばしば左派の独占領域であるかのように思われている。事実、フランス語圏におけるエコロジー運動は、1968年5月以後の社会運動、軍事演習場の拡大に反対した1970年代のラルザック闘争、非党派的なアソシエーション、ソ連に批判的な非正統派のマルクス主義などと結びつきながら形成され、歴史的に左派的、社会主義的、反資本主義的な色彩を強く帯びていた。
フランス語圏の初期エコロジー思想の特徴は、いわゆる資本主義社会だけでなく、ソ連型の共産主義国家による環境破壊にも批判的であった点にある。彼らは生産手段の所有関係にとどまらず、生産の拡大を進歩とみなし、人間による自然の支配を当然視する発想そのものを問題視した。フランスのエコロジー運動は、人間社会内部の支配関係の解消という問題意識を、自然環境を含む生命全体へと拡張した。つまり、人間集団どうしの支配をなくすことと、自然への支配を問い直すことは、切り離せないものとして考えられたのである。
しかし、こうした歴史的背景だけを根拠にして「エコロジーは本質的に左派である」と考えてしまうと、緑の資本主義や極右エコロジーのような、左派とは異なる政治的エコロジーの存在を覆い隠してしまう。たしかに、エコロジーは左派政党によって多く担われてきた。しかし、その思想的源泉や展開は左派だけに限定されない。
たとえば、フランス緑の党の初期の中心人物であったアントワーヌ・ヴェシュテルは、「エコロジーは右でも左でもない」という立場から、エコロジーを環境との関係や生産様式を根本的に変えるための新しい政治哲学と位置づけていた。また、イギリスの保守思想家ロジャー・スクルートンは、環境保護を国際主義や国家管理にもとづくものとしてではなく、故郷、地域、風景、共同体への愛着、つまり「郷土愛」にもとづくものとして考えていた。つまり、自然を守ることは、進歩や解放の政治というより、自分たちの身近な場所や暮らしを守ることとして語られていた。このように、エコロジー思想のなかには、進歩主義的な系譜だけでなく、ロマン主義、保守主義、反近代主義の系譜に位置づけられる「保守エコロジー」も存在するのである。 保守エコロジーには、多様な思想的系譜がある。そのルーツの一つに、第一次世界大戦後のワイマール期ドイツにおける「保守革命」と呼ばれる一連の右派思想がある。さらに、1970年代の左派エコロジー思想や、人間中心主義を批判し自然そのものの価値を重視する北米のディープエコロジー、バイオリージョナリズム(生態地域主義、詳細は後述)なども取り込まれてきた。こうした多様なルーツをもつ思想を、極右エコロジー思想として体系化した重要な思想家が、新右翼のアラン・ド・ブノワである。新右翼は、1970年代以降、左派知識人の語彙や参照先も取り込みながら、1980年代以降にはエコロジー思想を体系化し、それをほかの極右潮流へと広める媒介役を果たした。以下では、フランスの「新右翼」によって体系化された「極右エコロジー」思想をひもといていく。
極右エコロジーの三つの柱:民族・土地・自然
前述のように、フランス極右において、エコロジーを本格的に理論化したのは、国民戦線や国民連合ではなく、新右翼、とくにアラン・ド・ブノワである。その最大の特徴は、エコロジーを、リベラルな環境保護や普遍主義的な自然保護として考えるのではなく、文化的・民族的・地域的多様性の保存までを含むものとして捉える点にある。つまり、地域言語、生活様式、文化的固有性、社会的つながりの喪失をも「自然環境の破壊」と捉えるのである。これは、極右のレイシズムの「リベラル転換」において重要な役割を果たしている「民族多元主義」(第5回記事を参照) を、エコロジーに応用したものと考えることができる。
では、この「エコ差異主義」とも言える極右エコロジー思想は、具体的にどのようなものなのか。それは、民族・土地・自然という三つの柱を軸にすると見えてくる。以下では、この三つの柱を順に見ていこう。
①民族
極右エコロジーは、文化的・民族的な差異を、生態系の差異のように扱う点に特徴がある。それぞれの文化や民族は固有の土地に根ざしており、それらが混ざり合えば壊れる、と考えるのである。こうした発想の根底には、新右翼の民族多元主義がある。この民族多元主義がエコロジーと結びつくと、文化は生物多様性の一部のように語られるようになる。つまり、生物多様性を守るように文化的多様性も守らなければならず、各文化や各民族はそれぞれ固有の土地に根ざしているのだから、移民、混血、同化によってそれらが混ざりあうことはその固有性を壊すことになる、という論理が成立するのだ。ここでいう「多様性」は、多文化共生のことではない。それは、「それぞれの民族や文化を、それぞれの土地に分けて保存する」という分離の思想である。
こうした「エコ差異主義」は、近年の国民連合の言説にもあらわれている。2023年に、国民連合党首のジョルダン・バルデラは「国境は環境にとって最良の味方である」と述べた。ここでは、国境が単に治安や移民管理のためのものではなく、環境を守るためのものとして語られている。つまり、移民を止め、さらには送還・再移住させることこそが、環境保護の核心であると考えられているのだ。こうした「エコ国境主義」の論理のなかでは、非ヨーロッパ系移民は、たとえ明示的にそう呼ばれない場合でも、「侵略的外来種」のように想像される。こうして移民排斥は、アイデンティティの防衛であると同時に、生態学的な防衛であるかのように正当化されるのである。
②土地
極右エコロジーにおいて、土地は単なる自然環境ではない。それは同時に、民族、祖先、文化といった共同体秩序やアイデンティティの根拠として位置づけられる。ここで重要になるのが、「根づき」という概念だ。「根づき」とは、人間集団と土地のあいだに、切り離すことのできない本質的な結びつきがあると考える発想である。左派的、あるいはリベラル的な土地思想が「この土地で、どのように共に生きていくのか」を問うのに対して、極右的な土地思想は「誰がこの土地に本来属するのか」を問う。つまり、土地は共生の場というよりも、帰属を判定する場になる。土地に「根づいていない」と見なされる人々は、外部から来た存在として排除されるのだ。
したがって、極右的ローカリズムは、たんなる地域自治の思想ではない。それは、地域をアイデンティティ防衛の単位にする「閉鎖のローカリズム」として機能する。本来、バイオリージョナリズム(生態地域主義)とは、地域の自然生態系や生活圏を重視する思想であった。しかし、それが新右翼に取り込まれると、地域の生態系は、文化共同体や民族的帰属と結びつけられるようになる。これと同じことは、コモンという概念にも言えるだろう。コモンとは本来、左派的な文脈において、土地や水、エネルギーといった開かれた共有財を指すが、新右翼はそれを「民族共同体に属するもの」といった意味へと転用するのである。
③自然
極右にとって自然とは、単なる生態系や自然環境ではない。それは、何が「自然」で、何が「反自然」なのかを判断するための道徳的・政治的な基準でもある。極右はこの「自然な秩序」という言葉によって、家父長制や男性中心主義、人種・階層・性別にもとづくヒエラルキーを正当化してきた。
ここで重要になるのが、「限界」という語である。エコロジーにおける「限界」とは、人間活動が越えてはならないプラネタリー・バウンダリー、すなわち地球の居住可能性を維持するための惑星的限界を指す。しかし、科学的に限界が存在するという事実だけで、そこから導かれる政治の方向が決まるわけではない。左派のエコロジー政治は、地球の限界が存在するという事実から、地球規模での分かち合いや協力、気候正義の必要性を導き出す。しかし極右はこの「限界」を、フェミニズム、LGBTQ+の権利運動、反差別運動などが越えてはならない「社会的・道徳的な境界」へと読み替えてきた。つまり、エコロジー的な意味で守られるべきものが、地球環境そのものから、「自然な秩序」の名の下で語られる伝統的な家族、性別役割、民族的秩序に置き換えられるのである。 このように、極右がいう「自然」はきわめて選択的なものである。たとえば国民連合は、「自然の景観を守る」ことを理由に風力発電や太陽光発電に反対するが、原子力発電所のような別の環境負荷については問題にしない。つまり、彼らの「自然保護」は、科学的な気候変動対策と必ずしも一致しないのである。
極右エコロジーの反近代思想
極右エコロジーの根底にある大きなテーマが、「反近代」である。極右は気候危機を、近代文明が土地や共同体、精神性を含む自然秩序を壊してきた結果として語る。つまり、極右エコロジーは、なぜ人間が自然を支配し、管理し、利用する対象として見るようになったのか、という近代的な存在論そのものを批判するのだ。そのため、合理主義、技術信仰、進歩主義、自由主義といったあらゆる近代的な価値観が、自然破壊の原因として語られるようになる。
ただし、新右翼が最初から近代に批判的だったわけではない。1970年代には、むしろ技術やヨーロッパ文明の力をたたえる傾向が強かった。しかし1980年代から1990年代にかけて、新右翼はテクノロジー批判や反啓蒙思想、農村共同体を重んじる思想などを取り込みながら、反近代的なエコロジー思想を組み立てていった。極右はエコロジーを、リベラリズムや啓蒙思想に近いものとしてではなく、ロマン主義的な土着の共同体を賛美する思想として取り込む。彼らにとって「自然を守る」ことは、未来へ進むことではなく、近代によって失われた土地や共同体、精神性を取り戻すことなのである。
新右翼のエコロジー思想は、キリスト教的一神教や近代合理主義こそが、自然を支配し、そこから「神聖さ」を奪った原因であると考えるため、これらに対して批判的だ。そして、多神教的・自然崇拝的なネオペイガニズム(*1)や、ヨーロッパ的精神性、さらには北米ディープエコロジー思想なども取り込みながら、自然と人間の神秘的な結びつきを取り戻そうとするのである。
*1 ネオペイガニズムとは、キリスト教以前のヨーロッパに存在した多神教的・土着的な宗教伝統を現代に復興・再構成しようとする宗教運動の総称である。自然崇拝や汎神論、反一神教的志向を特徴とするが、その政治的位置付けは一様ではなく、新右翼や極右と結びつく場合もあれば、エコロジーやフェミニズム、反権威主義的な対抗文化と結びつく場合もある。
反資本主義の極右?
極右エコロジーの近代批判は、時に資本主義批判にも接続される。極右は、左派のように階級支配や格差を中心に批判するのではなく、資本主義が世界を均質化し、人々を根なし草にしてしまうことを批判する。極右エコロジーにとって資本主義は、土地から人々を引きはがし、共同体を解体し、伝統や文化的差異を壊すものとして問題なのである。
そのため、極右エコロジーの反資本主義は、「根づいた共同体」への回帰をめざす。この発想には、すでにいくつかの前例がある。たとえば、ナチ党の指導者で、反資本主義的思想を持っていたグレゴール・シュトラッサーは、産業社会を解体して都市人口を農村へ移し、労働者、知識人、兵士を農民的な存在へと変える社会構想をもっていた。また、フランス緑の党の創立に関わった哲学者エドワード・ゴールドスミスも、資本主義批判や自主管理思想を、土地への愛や失われた純粋性への郷愁と結びつけたことで、その思想は極右からも参照されるようになった。そこでは、巨大都市や工業的農業、アメリカ的消費主義などが批判される一方で、地域経済、伝統的農村共同体、倹約的で半自給的な生活が称揚される。
ここで注目すべきなのは、極右エコロジーは資本主義を批判する際に、左派エコロジーとよく似た語彙を用いるようになるということである。地域主義、ローカリズム、反消費社会、反グローバリズム、脱成長といった言葉は、左派エコロジーにも極右エコロジーにも共通してあらわれる。このように、両者が近代批判や資本主義批判を共有することで、左派エコロジーと極右エコロジーのあいだに、ある種の思想的な「収斂」が生じることがある。そして、この重なりは、エコロジーの側から極右へと合流する回路を開く。すなわち、「極右のエコロジー化」とは反対の方向から、「エコロジーの極右化」という問題が生じるのである。
(後編に続く)

昨今、日本では排外主義や自国第一主義を掲げる政党が選挙で議席を伸ばしている。ヨーロッパをはじめとする世界各地での極右政党躍進の流れが、いよいよ到来したとの見方もある。では、極右の「先進地」とも呼べるヨーロッパでは、極右はどのように勢力を拡大してきたのだろうか? フランスの大学院で哲学を学ぶ森野咲が、現地での最新の研究や報道の成果をもとに、極右の成長、定着の背景やメカニズムを明らかにする。
プロフィール

(もりの さき)
1996年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、大杉栄や石川三四郎に憧れて渡仏。パリ郊外サン=ドニにあるパリ第8大学哲学科の修士課程2年に在籍中。専門はフランス現代哲学。現在、『ふぇみん』に「極右とフェミニズムの不幸な結婚」を連載中のほか、自身のnoteで「極右の傾向と対策」と題したマガジンを発表している。
森野咲




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