フランスの大学院で哲学を学ぶ森野咲が、現地での最新の研究や報道の成果をもとに、極右の成長、定着の背景やメカニズムを明らかにする連載の第10回。
前回は、近代批判や資本主義批判などを入口として、「極右のエコロジー化」が起こるメカニズムを明らかにした。一方で、「エコロジーの極右化」という真逆の現象も起こりうる。環境危機を語る言葉が、なぜ「誰を守り、誰を切り捨てるのか」という「選別の政治」につながるのか、明らかにする。
なぜエコロジストも極右になるのか
ここまで見てきたのは、「極右のエコロジー化」、すなわち極右がエコロジーの言葉を取り込み、自分たちの政治に組み込んでいく流れである。しかしこれと反対に、エコロジーの側が極右的な方向へ引き寄せられていく逆の流れも存在する。いわば「エコロジーの極右化」である。エコロジーの言葉は、社会正義や民主主義、連帯と結びつきうるが、同時に、人口管理や文明崩壊後の選別、閉じた共同体、権威主義、生命の序列化とも結びつきうる。つまり、環境危機を語る言葉が、「ともに生きるための政治」ではなく、「誰を守り、誰を切り捨てるのか」という選別の政治へ向かうことがあるのである。
エコロジーの極右化の一例として、生態学者ギャレット・ハーディンが提唱した「コモンズの悲劇」という、共有資源をめぐる古典的な議論を挙げることができる。ハーディンによれば、牧草地のような共有資源を不特定多数の人々が自由に利用できる場合、それぞれが自分の利益を最大化しようとするため、資源は過剰に利用され、最終的には枯渇してしまう。しかし、この議論には大きな問題がある。第一に、この議論は、共有資源の共同管理を必然的に環境破壊をもたらすものとして単純化している。共有資源は地域社会のルールや相互監視、協力の仕組みなどによって持続的に管理される場合もあるにもかかわらず、ハーディンの議論では、共同管理そのものが失敗の原因であるかのように描かれてしまうのだ。
さらに深刻なのは、ハーディン自身の環境論が、白人ナショナリズムや反移民の思想と結びついていたということである。彼にとって、人口増加や資源不足の問題は、しばしば移民の制限や「望ましくない」人々の排除を正当化する議論と結びついていた。このように、エコロジーはかならずしも左派的な政治に向かうわけではない。以下では、極右化しやすい三つの主要テーマ――人口、文明の崩壊、脱成長――を通して、エコロジーと極右の接点を見ていこう。
①人口論
「地球の人口が多すぎる」という説明は、1960年代以降の環境論のなかで大きな影響力をもってきた。IPAT方程式(*1)、茅方程式(*2)、環境収容力(*3)、エコロジカル・フットプリント(*4)といった考え方とも結びつきながら、環境危機を人口問題として語る枠組みをつくってきたのである。
しかし、この語り方には注意が必要である。環境危機を「どのような社会構造が環境負荷を生んでいるのか」という問題としてではなく、「地球上に人間が多すぎる」という問題として語るとき、エコロジーは人口管理や生命の選別を正当化する思想へと傾きかねない。
人口論の問題は、人々を均質な数として扱ってしまう点にある。つまり誰がどれだけ消費しているのか、また、どのような階級関係、地域格差、産業構造、植民地主義的構造のもとで環境負荷が生み出されているのかを、見えにくくするのである。たとえば、環境収容力は生態学では有効な概念だが、それを人間社会にそのまま当てはめると、人間を同じ環境負荷をもつ個体の集合として捉えることになる。その結果、社会的不平等や植民地主義の歴史が無視され、「人口を減らせばよい」という発想へ向かってしまうのだ。
もちろん、人口について語ることそのものが、すぐにエコファシズムになるわけではない。問題は、それが「どの人口が過剰なのか」という問いへ変わるときである。そのとき、移民、グローバル・サウス、非白人、貧困層などが環境危機の原因として名指されれば、過剰人口論からネオ・マルサス主義(*5)へ、さらに生命の序列化や差別的政策へと論理が飛躍してしまうのである。つまり、エコロジーにおける人口論の極右化とは、環境問題を生産や消費、資本主義の問題としてではなく、「存在してよい人口」と「多すぎる人口」の問題へ変えてしまうことと言えるだろう。
*1 IPAT方程式とは、人間活動が環境に及ぼす影響を表す数式であり、環境負荷(impact)は人口(population)、豊かさ・消費水準(affluence)、技術(technology)の三要素の積によって決定されるとする。
*2 茅方程式とは、CO2排出量を人口、一人当たりGDP、エネルギー効率、炭素集約度の四要素に分解して表す恒等式。
*3 環境収容力とは、ある自然環境がその機能や資源を損なうことなく、持続的に支えることのできる生物個体数や人間活動の上限を指す概念。
*4 コロジカル・フットプリントとは、ある人口集団の消費活動を維持し、かつ廃棄物を吸収するために必要な陸域および海域の面積を測る指標である。
*5 ネオ・マルサス主義とは、人口増加を環境危機や資源不足の主要因とみなし、出生率の抑制によって環境負荷を軽減すべきであるとする思想である。
②文明の崩壊
環境危機が、「政治によって対処すべき構造的な問題」としてではなく、「近い将来、化石燃料に依存する産業文明は崩壊する」という避けられない終末シナリオとして語られるとき、エコロジーはサバイバリズム(*6)や例外状態の正当化へと接続されていく。
もちろん、文明崩壊論は、もともと左派的・エコロジー的な文脈でも広がってきた。しかし、環境危機による崩壊が、極右によって民族的・文明的な崩壊の物語へと読みかえられると、内戦的なサバイバリズムや、白人至上主義的な想像力と結びつけられる。すると、文明崩壊論の議論はサバイバリズムへ、サバイバリズムから反動的な閉じこもりへ、さらに環境危機を理由とする例外状態や権威主義の正当化へと向かう。つまり、文明崩壊論の極右化とは、環境危機を「どう公正に変革するか」という問いではなく、「崩壊後に誰が生き残るか」「誰を守り、誰を切り捨てるか」という問いへ変えてしまうことなのである。
文明崩壊論は、一見すると科学的な予測のように見える。しかしそれは、複雑な未来の可能性を、「崩壊後」というひとつのシナリオに閉じこめてしまうことで、環境危機をめぐる政治的な想像力を狭めてしまう。さらに問題なのは、そこに西洋中心主義が入りこみやすいことである。文明崩壊を「これから起こる一つの大事件」として描くことは、すでにグローバル・サウスで進行している災厄を見えにくくする。文明崩壊は未来の出来事として語られるが、実際には、すでに多くの場所で生活の基盤は壊されてきたのだ。
また、文明崩壊論が人口主義と結びつくと、より危険な方向へ向かう。文明の崩壊によって多くの人々が死ぬことが、まるで「よりエコロジカルな社会」を再建するための条件であるかのように受け入れられてしまうからである。さらにその犠牲は、すでに環境破壊の被害を受けているグローバル・サウスの人々に押しつけられやすい。また、エコスピリチュアリティと結びついた文明崩壊論では、崩壊が単なる悲劇ではなく、自然が近代的インフラや過剰人口を「取り除く」救済的な出来事として意味づけられることがある。まるで文明崩壊が、自然による人間社会の「浄化」であるかのように語られることで、反動的な想像力が入り込む余地が生まれるのである。
*6 サバイバリズムとは、社会秩序や文明の連続性が断たれるような局地的、または全体的な災害に備え、食料・武器・医療知識・避難場所・野外生活技術などを準備する実践である。この運動は、1970年代のアメリカで、ソ連との核戦争への恐怖や、1973年の石油危機後の社会崩壊不安を背景に発展した。2000年代以降、サバイバリズムは、冷戦型の備えからエコロジーを取り込んだ「ネオサバイバリズム」へ変化した。この新しい型では、経済システムへの依存を減らし、農村的で質素な生活、半自給、自然に近い暮らしを目指すという点で脱成長思想と似た面がある一方、軍事的・防衛的な要素が加わっている点に独自性がある。
③脱成長
脱成長は、「有限な惑星のうえで無限の経済成長は不可能である」という認識から生まれた。有名な脱成長の議論として、ニコラス・ジョルジェスク=ローゲンのエントロピー論(*7)、1972年のローマクラブ報告書『成長の限界』(*8)、フランスのマルクス主義者アンドレ・ゴルツ(*9)の議論などが挙げられる。中でも、ゴルツにとって、脱成長はたんなる経済縮小ではなく、資本主義によって形づくられてきた欲望や必要を民主的に問い直すための政治構想だった。つまり、何をどれだけ生産し、何を本当に必要とするのかを、社会全体で決め直すという発想である。
しかし、脱成長が経済学の一分野として確立されていくなかで、その政治的・民主的な基礎はしだいに薄まっていった。その結果、脱成長は「GDPを減らす」というマクロ経済的なスローガンとして理解されやすくなる。もともとあった「生産手段の再領有」という文脈が弱まることで、新右翼などが回収する余地も生まれた。アラン・ド・ブノワも近年、脱成長を強く主張し、「より多く生産し、より多く消費し、より多く交換し、より多く利益を得るという構造を維持したままでは、環境破壊を止められない」と語っている。
問題は、脱成長がどのような政治へ接続されるのかである。経済成長を追求することへの批判が、民主的な生産・消費・欲望の再編成へ向かうのであれば、それは左派的なエコロジー政治になりうる。しかしそれが、禁欲、質素さ、閉じた共同体への回帰として語られるとき、脱成長は極右化しやすくなる。とくに、「幸せな質素さ」や禁欲を個人的な道徳として押しつけたり、近代文明全体を捨てるべきだとするような語りは、民主的な討議ではなく、自然や伝統の名を借りた命令へと変わりうる。そのとき脱成長は、気候正義や再分配よりも、伝統的秩序への回帰や移民拒否、ジェンダー理論に対する批判へと接続されやすい。さらに、それがサバイバリズムと結びつけば、脱成長は、文明崩壊後の生存、民族戦争への備え、白人分離主義、閉じた共同体建設の実践へと変わってしまう。
*7 エントロピー論とは、経済活動によって資源やエネルギーは不可逆的に消費されるため、地球上では無限の経済成長は不可能であるとする考え方である。
*8 『成長の限界』は、国際的な民間シンクタンク「ローマ・クラブ」が1972年に発表した報告書である。人口、工業生産、食糧生産、資源消費、環境汚染がこのまま増え続ければ、地球の資源や環境には限界が訪れると警告した。
*9 アンドレ・ゴルツ(1923–2007)は、オーストリアに生まれ、戦後フランスで活動した思想家・ジャーナリスト。マルクス主義を出発点に、資本主義的分業や生産力主義を批判し、自主管理、労働時間の短縮、脱成長、普遍所得などを論じた。
エコスピリチュアリティの落とし穴
エコスピリチュアリティ、テクノロジー批判、代替医療は、先に挙げた三つに比べると、周縁的、サブカル的なテーマと思われがちだが、これらは自然をたんなる資源としてではなく、私たちが関係を結ぶ相手としてとらえ直すという点で、エコロジー運動の中でも重要な領域である。
しかし、これらもまた反動的な言説と結びつきやすい傾向がある。エコスピリチュアリティは、私たちの生き方や身体と自然の関係を問い直すことができる一方で、社会批判を弱めたり、支配関係を神秘的な言葉で正当化したりしうるからだ。これは、なぜ参政党を初期から支えている組織的な支持層に、エコスピリチュアルやホメオパシーといった代替医療の信奉者が多いのか、という問いへの答えになるかもしれない。
テクノロジー批判についても同じことが言えるだろう。技術発展が人間や自然に与える害を批判することは必要である。しかし、その批判が近代医療、人工生殖技術、トランスジェンダーの医療ケアなどを「自然に反するもの」として一括りに否定する方向へ進むと、反フェミニズムや同性愛嫌悪、トランス嫌悪と結びついてしまう。フランスでも、パンデミック期の代替医療や健康言説の中で、感染症を「自然の復讐」として語り、病気や死を自然による浄化のように意味づける言説が広がった。そこでは、弱い人々が犠牲になることさえ、自然の摂理であるかのように受け入れられてしまう。こうして、エコロジー的な言葉が、優生思想的な発想に転換されてしまうのである。 これらに共通しているのは、本質主義的な思考である。本質主義とは、人間の性質や社会的役割を、歴史や社会のなかでつくられたものとしてではなく、あらかじめ決まった本質にもとづくものとして理解する考え方である。たとえば、人間には変わることのない「女性的本質」や「男性的本質」があり、それが身体、行動、役割を決めている、といった考え方だ。このような本質主義は、社会秩序を、権力関係や歴史的な構築物としてではなく、自然、科学、霊性の名を借りた不可避の法則として理解してしまうため、既存の不平等を変えられないものとして固定してしまうのだ。
エコフェミニズムと本質主義
性差を「自然」や「生物学」に還元し、女性を生殖機能によって定義する本質主義的な議論は、右派だけでなく、一部の左派的エコロジーにも入り込みうる。エコフェミニズムの実践は、しばしば、自然化された「女性的」な領域――「環境ケア」「日常生活の小さな行動」、脱成長的な質素さ――へと押し込められてきた。さらに、エコフェミニズムは、社会的・歴史的文脈を無視した先住民文化の盗用や、寄せ集めのスピリチュアリティへと接続される傾向もある。しかし、「女性は自然に近い存在である」という発想は、女性を身体・母性・土地・共同体へと結びつける点で、反動的な極右の世界観と相性がよい。 この点は、日本の1980年代のエコフェミニズムをめぐる青木・上野論争において、上野千鶴子がすでに指摘していた通りである。「男性原理」が優越してきた近代社会の行き詰まりを「女性原理」によって打開しようとする青木やよひのエコフェミニズムを批判する上野の言葉を、以下に引用しよう。
「エコロジスムは、数ある近代批判のうちの一つにすぎない。「近代=西欧」が支配し統制しようとした「自然」に、近代が復讐されているとして、「自然への回帰」が近代を超克する唯一の道だとするのは、「自然」の一種の神秘化に他ならない。しかも、「女性」がこの「自然」を代表するとしたら、それは文化/自然の二項対立の図式のうち、自然の側に女性を割り当てる男性優位の文化イデオロギーを実は前提とし、受け容れていると言える。このイデオロギー的なジェンダーの配当こそが問われなければならないところなのに、自ら進んで「自然」を引き受け、それを代表するのは、男性文化の策略にはまることであろう。」
上野千鶴子『女は世界を救えるか』勁草書房 、Kindle版 (p. 155)
上野はエコフェミニズムが女性=自然を本質化することで、支配的な権力関係を再生産してしまうことを批判している。
もちろん、エコフェミニズムの中には、本質主義に依拠することなく、あくまで女性が置かれている社会的位置や担わされている役割を起点に、環境破壊を生む権力構造を批判する潮流も存在する。具体的には、土地をめぐる脱植民地的闘争、環境レイシズムへの抵抗、軍事産業や戦争への反対運動などが挙げられるだろう。しかし、そこに性差と「自然」を結びつけ、女性性を生殖機能に還元するような本質主義的な議論が滑り込んでしまうと、「自然を守ろう」という主張が女性、身体、性差、家族のあり方を固定する思想へと変わってしまうのである。
フランスで反同性婚運動を機に「保守女性運動」が活性化したことは、前々回の記事で論じた通りである。以降、この運動の一部の潮流が、自然主義・エコロジー志向を強めていることは注目に値する。これは同じ時期の2015年に、教皇フランシスコが発表した回勅によって、社会・環境・経済・世代・日常生活・文化を結びつける「統合的エコロジー」が世界的に広まったことも関係している。こうしてカトリック思想とエコロジー、保守女性運動が結びついたことで、「自然や身体、性差を尊重する」という名の下で避妊や中絶、生殖医療に対して批判的な保守エコフェミニズム思想が生まれているのである。
極右エコロジーと気候変動懐疑主義は両立する
ここまで読んだ人は、こんな疑問をもつかもしれない。これほど体系化された極右エコロジー思想があるのに、なぜ極右の主流は相変わらず気候変動懐疑主義にとどまっているのだろうか?
実は、極右がエコロジーを語りながらも、同時に気候変動懐疑的な態度をとることは、一見矛盾するが、両立可能である。なぜなら、極右的エコロジーは、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の科学的知見に基づいて、パリ協定のような国際的な気候政策を実現しようとするものではないからである。むしろそれは、エコロジーに結びついた想像力を、人種主義的、反動的、閉鎖的な政治プロジェクトを正当化するために利用する。よって、極右の政治家が「IPCCは誇張している」と述べ、科学者の発言を信用できないものとして扱うことと、自然、土地、国民、景観を守るというエコロジー風の言説を使うことは、同じ目的のなかで共存できるのだ。極右は、科学的な気候対策には反発しつつも、自然や土地を守るという言葉だけを自分たちの政治に都合よく取り込むのである。
また、極右は複数の支持層を集めるために、異なるエコロジー言説を使い分けている。権力を取ろうとする政党は、さまざまな社会階層や職種から支持を集めなければならない。そのため、特定の保守的知識人層に向けては、「土地への回帰」「村落共同体」「短い流通回路」といったレトリックを使うことがある。しかし、このようなエコロジー的・共同体的な語りだけでは、選挙に勝つほどの広い支持基盤をつくることはできない。だからこそ極右は、エコロジー思想を掲げてみせたとしても、グリホサート系除草剤などの農薬、石油、自動車を正面から批判することはしない。そうでなければ、フランス農業の大規模化・高生産性・競争力強化を求める農業経営者組合や、エコロジストに強く反発する平均的な極右有権者の支持を得られないからだ。だから彼らの「エコロジー風」の言説と、実際の議会投票や産業寄りの立場とのあいだには矛盾がある。しかしそれは、単純な思想的矛盾というより、支持層ごとに語りを使い分ける選挙戦略なのである。 議会内の極右は、産業界や化石燃料産業の利害に支えられたカーボファシズム的傾向をもつ。他方で、議会外の極右には、農村へ移住し、民族的に同質的で、家父長的な自給的共同体を作ろうとするエコファシズム的な実践もある。この2つは、必ずしも対立するものではなく、むしろ補完関係にあると捉えるべきだ。カーボファシズム的な極右勢力が、政党政治の中心では化石燃料産業や既存の消費生活を守りながら、周辺でエコファシズム的な小共同体の形成を容認したり、促進したりすることは十分にありうるのである。
極右エコロジーに抵抗するには
極右は気候危機を、単なる環境問題として扱うのではなく、移民排除や国境閉鎖を正当化するために用いる。つまり極右エコロジーは、環境保護の言説を通じて、排外主義や権威主義を強化する政治なのだ。極右の構想する「強い国家」の行き着く先は、気候変動によって移動を強いられた人々に国境を閉ざし、多くの死を生み出す「閉じた社会」である。そこでは、連帯よりも統制と排除が優先されるだろう。これに抗うために必要なのは、公共の権力を再建し、社会的な不安定さをできる限り抑えながら、同時に国家装置そのものを民主化することである。
さらに、極右への支持に繋がる不安を丁寧に分析することも重要である。その背景には、気候変動への不安、文明崩壊への恐怖、移民への不安が複雑に結びついている。加えて、工業資本主義による景観破壊や、風力発電のような気候対策そのものが景観を変えてしまうことへの反発も、極右への支持を生む要因になっている。したがって左派は、こうした不安を単に否定したり嘲笑したりするのではなく、それらがどのように極右の政治へと動員されているのかを見極めなければならない。
また、極右エコロジーと親和的な「近代」批判は、その批判対象が曖昧になりやすい。したがって、近代を丸ごと原因とするのではなく、医療や政治的自由のように維持または改善しうるものと、資本主義的搾取や破壊的インフラのように解体すべきものを民主的に選別する必要がある。極右エコロジーへの抵抗は、それを支える不安の構造を分析し、民主的で連帯的なエコロジー政治を提示することによって可能になる。
気候運動と反ファシズムの共通前線
極右は、気候危機に対して国境の閉鎖や移民の排除によって応答しようとする。これに対抗するために必要なのは、自己防衛と排除を中心とするエコロジーではなく、人間同士の連帯と、人間以外の生き物との共生に基づくエコロジー政治である。
そのためには、エコロジーを不平等の問題として再政治化する必要がある。「エコロジーは全員に関わる」という主張は一般論としては正しい。しかし、エコロジーが政治的なのは、単に全員に関わるからではなく、環境破壊の責任、環境被害、移動の可能性、生活をエコロジカルに転換する能力が、社会的に不均等に分配されているからである。気候危機においては、地域格差・階級差別・人種差別・性差別によって脆弱な立場にいる人ほど、その被害を強く受ける。この不均等性を明るみに出すことが、エコロジーを再政治化する中心になる。
エコロジーの再政治化に伴って、エコロジー運動の主体を広げることも重要である。これまでエコロジー運動は、白人・中産階級中心の運動とみなされがちであった。しかし、気候危機は、移民、ジェンダー、国境、人種、白人性、化石燃料、極右暴力を相互に結びつけていく。したがって、エコロジー運動の側も、反人種主義、脱植民地化、フェミニズム、反障害者差別、クィア政治と接続する必要があるのである。土地を守る運動も、排他的な「根づき」や土着性の論理に閉じるのではなく、移動と居住の自由と結びつけられなければならない。気候正義とは、気候危機によって移動せざるをえない人々を受け入れる努力を含むものだからだ。
このように考えると、気候運動と反ファシズムは別々の闘争ではない。反人種主義者や反ファシストの中には、気候やエコロジーを中産階級的でロマン主義的な関心として軽視する人々もいるが、気温が上がれば上がるほど、気候闘争と反ファシズム闘争は一つの前線へと近づいていくだろう。だからこそ、反ファシズムは気候危機を中心課題として扱うべきであり、気候運動もまた反ファシズムを自らの課題として引き受ける必要があるのだ。
参考文献
Stéphane François, Les verts-bruns. L’écologie de l’extrême droite française, Le Bord de l’Eau, 2022.
Antoine Dubiau, Écofascismes. Suivi de « l’écologie n’est pas apolitique », Éditions Grévis, 2022.
Zetkin Collective, Fascisme fossile. L’extrême droite, l’énergie, le climat, La Fabrique, 2020.
Jean-Yves Camus and Nicolas Lebourg, Far-Right Politics in Europe, The Belknap Press of Harvard University Press, 2017.
Céline Marty, Découvrir Gorz, Les Éditions sociales, 2025.
Alain de Benoist, Demain, la décroissance ! Penser l’écologie jusqu’au bout, Éditions Edite, 2007.
Alain de Benoist and Charles Champetier, Manifesto for a European Renaissance, Arktos, 2012.
上野千鶴子『女は世界を救えるか』勁草書房、1986年。
斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社、2020年。
斎藤幸平『人新世の「黙示録」』集英社、2026年。
黒猫ドラネコ『参政党と大陰謀論時代』文春新書、2026年。

昨今、日本では排外主義や自国第一主義を掲げる政党が選挙で議席を伸ばしている。ヨーロッパをはじめとする世界各地での極右政党躍進の流れが、いよいよ到来したとの見方もある。では、極右の「先進地」とも呼べるヨーロッパでは、極右はどのように勢力を拡大してきたのだろうか? フランスの大学院で哲学を学ぶ森野咲が、現地での最新の研究や報道の成果をもとに、極右の成長、定着の背景やメカニズムを明らかにする。
プロフィール

(もりの さき)
1996年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、大杉栄や石川三四郎に憧れて渡仏。パリ郊外サン=ドニにあるパリ第8大学哲学科の修士課程2年に在籍中。専門はフランス現代哲学。現在、『ふぇみん』に「極右とフェミニズムの不幸な結婚」を連載中のほか、自身のnoteで「極右の傾向と対策」と題したマガジンを発表している。
森野咲




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