『はじめての公共訴訟 社会を動かす、私たちのツール』と、『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』の刊行を記念したトークの第2回。哲学者の朱喜哲さん、立候補年齢引き下げ訴訟の原告でもある能條桃子さん、CALL4共同代表の丸山央里絵さんが登壇し、公共訴訟をめぐる実践と思想の接点を探る。個人の声が社会の問いへと変わる過程や、原告という立場を引き受ける負担と意味について、能條さんの経験を手がかりに議論が深まります。
構成:稲垣收 写真:伊吹早織(LEDGE)、集英社新書編集部
*本記事は、2026年6月16日にB&B(東京・下北沢)で行われたトークを編集、採録したものです。
原告という立場をどう引き受けるか

朱 日本の法制度上、当事者や原告の方に矢面に立っていただかざるを得ない構造があるわけですが、丸山さんたちは「当事者や原告を孤独にさせない」ということを、CALL4などを通じてやってこられていると思います。その営みについてお話いただけますか。
丸山 そうですね。まさに今CALL4では「声を上げた人を独りにしない」というキャンペーンを今やっているんですけど、能條桃子さんもそうですけど、やはり裁判を闘うって、裁判所に定期的に行ったり、弁護士さんと打ち合わせたりとか、それなりに手間もかかりますし、時間もかかるんですよ。桃さんの件は、もう何年になりますかね?
能條 2023年の7月からなので、もう3年たちますね。
丸山 3年たって、今、やっと高等裁判所で控訴審第1回が始まるというぐらいのタイミングなので、やっぱり時間もかかりますよね。
それを闘っている人たち、原告は、そもそも闘うことだけでもすごく負担がかかるし、弁護団も、その訴訟で生計を立てているわけではないので、裁判所で一生懸命理論を尽くして闘うことだけでも、すでに十分貢献していると思うんです。
そういうふうに彼らが、社会の問題を代弁して闘ってくれているにもかかわらず、一部報道はされるものの、私たちがあまりそれを詳しく知るすべがない、というのが、ずっと公共訴訟の抱えてきた課題で。
資金繰りも自分たちでやらないといけないし、日々の広報活動も自分たちでやらないといけないし、とてもじゃないけど、それを全部は背負えない。
そういう中で、このCALL4というプラットフォームは生まれてきたんです。
CALL4のサイトには、ケースが今、90件ぐらい掲載されていますけど、一つひとつクラウドファンディングの仕組みを取り入れて、資金集めの支援をしていたり、タイトルやキービジュアルとかも一緒に考えながらページを作っているんです。
そして、「どういうふうに公共訴訟として世の中に打ち出すか?」というような、広報面でのサポートもさせていただいて、裏方としてCALL4は、皆さんに負荷がかかり過ぎないように支えているところがあります。
たとえば約3年前、トランスジェンダーの方が声を上げ、「性別変更の要件として生殖機能を手術で除去しなければならないという法の規定は、憲法違反だ」という判断が最高裁でなされたんですけれども(*1)、それに関連する裁判のひとつをCALL4が扱っていて。
その裁判は「オペなしで!戸籍上も『俺』になりたい裁判」といって、当事者の方は顔も名前も出してCALL4に掲載していらしたんですけど、やっぱり個人としてはSNSでの発信もなかなかできないし、自分ひとりでは本当に身近な、心許せる人たちしか仲間を集めるのが難しい状況でした。けれども、CALL4という媒介があって、この裁判の公共的意義や、この方の思いを代弁したことで支援が集まったんです。
この裁判は、2023年に違憲の判断を得て、彼は法的な性別を変えることができました。「CALL4のおかげで、こういう結果を生み出すことができた」と言ってくださっていて、「自分の経験を還元したい」ということで、今度はCALL4を支援してくれているんですよ。そういう循環もあったりしますね。
*1 2023年10月の最高裁判決。
朱 そうなんですね。すごく重要な話です。
“放っておいてもらえる自由”を守るために
朱 こうした司法に関する実践が、哲学や政治哲学、法哲学の理論的な話と深く関連しているんだということは、重ねて強調したいと思っています。
ローティという哲学者もそうですし、彼が依拠している、さっき(第1回参照)のロールズという哲学者もそうなんですけど、今、「リベラル」という言葉を使うと、つい「正しさを振りかざしている人」みたいなイメージを持たれがちだと思うんです。「でも、それは大いなる誤解なんだ」という話を『バラバラな世界で共に生きる』では、一冊かけて論じたつもりです。
リベラリズムとは自由主義のことですが、その「自由」とは何かというと、「好き勝手できる」とか「わがままをしていい」という意味ではなくて、もともとの意味からすると、西洋の歴史の中での、特に宗教戦争や宗教弾圧から端を発している話なんです。
たとえば、西洋リベラリズムの流れを汲んでいる日本国憲法でも第20条に「信教の自由」というのがあります。
信教の自由って、パッと聞くと「何でも信じていいよ」と言っているように勘違いしている人が多いと思うんだけど、そんなことは書いてないんですよ、実は。
条文を読んでいただくと趣旨としては、「個々人が国や組織から何かを信じることを強要されてはならない」とか、そういった「儀式に参列することを強要されてはいけない」という「放っておいてもらえる自由」を指しているんですよね。
そういうふうに「人や組織から信念や信仰を強要されず、放っておいてもらえる自由」を守ろう、というのが「リベラリズム」というときの「自由」なんです。あえて雑に言ってしまうと、「普通に扱ってほしい」とか、「放っておいてくれ」ということです。
だから、この公共訴訟の話もすごく大事で、「何で自分たちだけ変な扱いをするんだ」と。「なんでみんながコロナ禍で持続化給付金などの補助金をもらえているのに、風俗産業など特定の職業の人だけはもらえないんだ?」というようなことを言っているんです。
「普通に扱ってください」という話をしている、ということがすごく大事なポイントです。
これは、この『はじめての公共訴訟』の中に出ているものもあるし、日本の公共訴訟的なものの中では、「川崎バス闘争」(*2)の話なんかは典型的です。
アメリカでの黒人差別に抵抗し、まっとうな人権を求める公民権運動は、1955年にローザ・パークスという女性が、当時バスの席も白人用、黒人用に分かれている中で、白人用の席に座って、「どけ」と言われてもどかなかった、ということから始まったわけです。
それから半世紀も経った今でも、「そこは座っちゃダメなことになっているのに、なんで座ったんだ?」とばかりに、「(年齢的に)立候補届を受理されないって分かっているのに提出したんだ?」とか「迷惑をかけているじゃないか」などと言われることのおかしさに気づいてほしい。公民権運動が示すように、「正義、ジャスティスというのは、ただ現行ルール通りっていうことじゃないんだよ」というのが、すごく大事なポイントです。

障害者のケースについて、今、日本語だと「合理的配慮」と訳されている言葉があります。元の言葉は「リーズナブル・アコモデーション」(reasonable accommodation *3)なので、「配慮」と訳してしまうと、「思いやり」とかと勘違いされやすい。
*2 脳性マヒ者による運動団体「青い芝の会」による社会運動。川崎市では1976年、市営バスと東急バスが、バリアフリー設備を設けるのではなく、実質的に車いす利用者を「乗車させない」規則を作った。当時、全国でも同様の乗車拒否が行われていた。77年4月12日午後、同会の呼びかけで「闘争」が開始、当事者と支援者約100人が川崎駅前のバスターミナルで一斉にバスに乗り込んだ。「なぜ脳性マヒ者はバスに乗れないのか? みなさんと同じ人間ではないのか」と抗議した。警官隊が動員され、最後のひとりがバスから降ろされたのは深夜近かった。占拠によって35台のバスが運休、約15万人に影響を与えたが、逮捕者は出なかった。この問題は大きな注目を集めたが、運輸規則が改正され、支援者なしでもバスに乗れるようになったのは99年、闘争の22年後だった。
*3 障害者から何らかの助けを求める意思の表明があった際に、「過度な負担になり過ぎない範囲で(reasonable)」、社会的障壁を取り除くために必要な「便宜、調整(accommodation)」のこと。
能條 感情的なものと……。
朱 ええ。なにか「優しさ」みたいになってしまう。だからどうしても……。
丸山 「してあげる」っていう感じになってしまいがち。
朱 まさに「してあげる」という上から目線になってしまって、「やってもらっているくせに、感謝の気持ちが見えないじゃないか」というような批判をする人が出てきたりするわけですね……。
でも「アコモデーション」って、もともとの英語のニュアンスからすれば「調整」なんですよね。「アコモデーション・アビリティー」というと目の「視力の調節力」という意味なので。目で私たちが何かを見ると、ピントが自動的に調節されますよね。「システマティックに、機能としてできる」という仕組み上の調整が、アコモデーションなんです。
同じようにジャスティス、「正義」「司法」というのも、粛々と仕組みが回ることを言うのであって、個人の気持ちの話ではない、ということが、すごく大事なんです。
たとえば「そこにいないことにされている人」がいて、その人が「ここに、こういう人いますけど」ということを申し出た場合、その人が「わがままを言っている」とか「自分の主義主張を通そうとしている」ということじゃなくて、「こういう人がここにいますけど、ちゃんと分かっていますか」ということを言ってくれているわけです。それが分かったならば、そのことを考慮した上で仕組みが回るようにすべきだ、ということをやっていく――。それが「正義」、ジャスティスというものなんです。
この感じを理解してもらえると、公共訴訟というものが、私たちの社会の「バグ」を取ってくれているものなのだとわかると思います。それは、まさにこの本の中でも説明されていますが。
能條 そうですね。
朱 法律だって、やっぱり歴史的な産物だったり、作られた際のいろんな経緯もあったりするので、けっして完璧なものじゃないですから、「どうやってそれをチューニングするのか」ということを、公共訴訟を通じてやってくれているんだよ、みんなのためにバグ取りをやってくれているんだよ、ということですよね。
「役割」として引き受けているから、原告を続けていける
能條 今お話をお伺いしていて、「バグ取り」と表現するのか、いろいろと「制度」というものが想定していないせいで、ないことにされているものを「普通に扱ってくれ」という、いろんな訴えがある中で、みんなそもそも日常を生きていかなきゃいけないわけで……。
でも「のど元過ぎれば熱さを忘れる」というような話もけっこう多いのかな、と思うんです。今ある制度の中で、「しょうがないか」と思って、我慢して暮らすしかなかった人たちがたくさんいて……。
個人がそれに対して「いや、おかしいんだ」って思い続けて、戦い続けるのって、とても大変なので。
たとえば立候補年齢引き下げ訴訟も、私は2023年、今から3年前に「裁判する」という話が出てきて、原告になるということを決めたんですけど、当時私はまだ25歳で、(参院議員や都道府県知事への)立候補が可能になる30歳まで5年もあるし、20代半ばだったので、まだ自分がすごく「20代だ」という感じがしていて、「これは本当におかしい。なんで自分が出られなくて、こっちの人は出られるんだろう?」と強く思って。
もちろんそこには、能力の差だったり、経験の差だったりというのはあるのかもしれないけど、「それを決めるのは有権者じゃないの?」ということをすごく思っていたんです。
今ももちろん思っているんですけど、でも同じことを3年間、あるいはもっと長い年月思い続けて、それを当事者として感じ続け、闘い続けるのって、すごく大変で、たぶん訴訟にしていなかったら、ずっと文句は言い続けていたと思うんですけど、自分のひとつのミッションだと思ってやり続けられなかったと思うんです。
そういう意味でも、いろんな訴訟があって、「当事者が必要だから原告になる」という人たちがいるんですけど、別にその人じゃなくて他の人でも、原告になることができた訴訟もけっこうあって。
でも、誰かがそれを担い続けてやっていく、役割として引き受けている、というふうに思えるからこそ、ちょっと気楽なのかな、というふうにも思ったりします。
丸山 また、そういうタイミングでもあった、ということですよね。そのとき、自分が原告になることができて……。
能條 そう、できて。「誰かがやらないと」というふうに思っているところはありますね。
「当事者じゃないあなたにはわからない」という主張は相手を黙らせてしまう
朱 これ、すごくいいですね。「役割として引き受ける」という表現がすごくいい、と思います。
先ほどローティの哲学が公共訴訟の実践にフィットすると言っていただいたんですけど、じつはリチャード・ローティという哲学者は、存命中にはむしろ左派・リベラル層から批判されていた哲学者だったんです。
90年代当時アメリカの中でも左派、リベラルの活動が、労働者の権利擁護とか格差の是正みたいな話だけじゃなくて、いわゆる「アイデンティティ・ポリティクス」、当時徐々に顕在化していった人種的・性的・ほか様々なマイノリティたち、「いない」ことになってしまっていた人たちの存在を確認し、そのアイデンティティを承認することが左派・リベラルの政治的な最優先イシューになっていきます。
ローティは、実はこの動向に反発していた人物なんです。
だから、当時フェミニズムとか、アイデンティティに関わる政治の動向を担っていた左派からすると、もはや「保守反動的」とさえ映ったわけです。
その哲学者が、いま評価が逆転しているというねじれが興味深い点なので、まずそこを少し話させてください。
ローティが論じたかったのは、アイデンティティを根拠に据えた主張、たとえば典型的なものとしては、「あなたは男性だから分からないよね」とか、「子供がいないから分からないよね」といった「当事者」であることを根拠とした主張は、他者を黙らせてしまうものにもなりうるわけですよね。「体験したことないから分からないでしょう」という話になってしまう。
そういう相手を黙らせるタイプの「論法」自体が非常にパワフルなもので、「それはマイノリティじゃなくても使えてしまう」ということをローティは言っていたんです。
こうした論法を野放しにしていると、マジョリティ側も「白人男性のほうが今はつらいんだ」という話もできてしまう。根拠が「だって私はつらいんだから」という話であれば、それは誰も否定できない話になってしまって、お互いが延々と「自分の特権的なつらさ」を押しつけあったり、それを武器にしあってしまうけれど、そんな論法をよしとして大丈夫なのかということをローティは指摘した。
ただ、この話で大事なのは、本当にその場に「いない」ことにされている人は、「私、ここにいますけど」と言わざるを得ないし、それしかすべがないんですよね。
僕自身の読みとしては、ローティは、そこは見落としていないと思うんです。重要なのは「ここにいますよ」って言った後は、公共的なものに委ねるしかない面があるということ。だから、なんらかの被害やマイノリティ性の「当事者」であることは、とても繊細な表現ですが、ある種の「役割」なんだということになります。なぜ「役割」なのかというと、それを通して「我々」や「みんな」をアップデートするためにやっているんだ、というのが、ローティが頑張ろうとした一線ではないかなと。そして、この繊細なバランス感覚を共にする実践がこの『はじめての公共訴訟』では描かれていて、司法に関わる皆さんに共感してもらえたのはとても心強かったです。
「ひとりの声をみんなの問いに」

丸山 CALL4のメンバーで、今回はコピーライターさんの力も借りながら、「CALL4でやっている取り組みを短い言葉で表すなら何なのか」というのを最近話し合って、もうすぐサイトデザインが変わって公開される予定なんですけど、それでできたタグラインが、「ひとりの声をみんなの問いに」なんです。
朱 「問い」。
丸山 問いにするという。
朱 メチャクチャいいですね。
丸山 それを念頭に私たちは動いていこう、という話をしていて。まさに今、公共訴訟で声を上げるひとりの声がある。でも、それをひとりの声だけにせずに、みんなの問いに、みんながしていくことが大事で。みんなというのは私たち。
朱 すごいですね。「みんなの問い」なんですね。まさに「私たちって何だろう」という問いを拡張してくれる話でもあるのでということですよね。なるほど。
能條 今お話しされていた、被害者性みたいなことで、「あなたはマジョリティだから分からないよね」「経験してないから分からないよね」というふうになってしまう議論って、けっこう多いのかなと思いました。
このアイデンティティ・ポリティクスの話も、『バラバラな世界で共に生きる』の132ページに書かれていましたね。ローティによれば、「アイデンティティに訴える論法は、ある意味で相手を『黙らせる』ものです」と。今お話しされていたことかなと思うんですけど。
ここを読みながら思ったのが、私はフェミニズムというか、女性の政治参加を促進するということをしている中で、ある種アイデンティティ・ポリティクスになり得るものをしているな、と思うんです。
でも同時に、「女性であること」とか、何かの中で「マイノリティであるということ」は、その人の一面でしかなくて、全てではないはずです、本来は。
だけど、あまりに「当事者性」というものが求められ過ぎると、その人たちも、その中で苦しくなっていってしまう、ということがあるかな、と思うんです。
なので、私は実践をしながら、意外と「これは役割だ」として引き受けられたほうが、被害者性というものも「役割だ」というところで引き受けられたほうが、社会運動という意味では、運動をする人たちも含めて、みんなが、長く健全にやっていけるんじゃないかな、というふうに思いました。
もちろん、個人の経験として話すときに、「被害者性は役割だ」と言われたらムカつくかもしれないし、そういうことを言いたいわけじゃないんですけど、社会運動として、制度を変えることとかも含めて社会に訴えていく、というときには、「役割だ」というのは、実践している人たちにもヒントになる考えなんじゃないか、と思いました。
朱 それはすごく思いましたね。
もちろんローティの主張には、左派・リベラルから見て危うい点もある。けれども、公共訴訟の実践を学ばせてもらいながら、コミュニケーションを深めるなかで納得していったのは、これもすごく繊細な表現なんですが、「被害者」や「加害者」、「当事者」というものもまた、司法という特殊な言語ゲーム・限定的なコミュニケーション形態における言葉であって、まさに「役割」なんですよね。
言い方を換えれば、ある人は全人格的に「当事者」であるわけではない。
我々はつい、「この人は被害者らしくない」とか、そういったことを思ってしまいがちです。でも、当たり前のことですが、被害者だって遺族だって生身の人間です。笑うことだって気を抜くことだって、場合によっては正しくないふるまいだって、するかもしれない。
大事なのは「当事者から降りていいんだ」ということ。特別なラベリングをされた状態でずっといるのは、やっぱりしんどいことですし、他のいろんな顔を抑圧されて、特定の重たいラベルだけを背負わされるのは、おかしなことです。
もちろん、自分の意思でそうするのは自由です。しかし、いつだって「当事者」のラベルを取り下げて、「ただの人」に戻ってもよい。 社会運動において、当事者性が大事であることは言うまでもありませんが、だからといって、その人を「当事者の檻(おり)」に閉じ込めてしまったり、その人に「当事者らしい振る舞い」を求めてしまったりすることによって、本人ばかりでなく全体が疲弊したり、ある種の「権威」を生み出してしまったりするところがあったのではないでしょうか。
この点で、公共訴訟、CALL4やLEDGEの営みというのは、「正義の味方」然と「当事者性」にだけ依拠するのではなく、どうすれば「当事者」に陥ってしまう状況を是正して、「ただの人」に戻れるのかを求めている。その結果として「私たち」皆で営む社会がアップデートされうる。この意味で「みんなのため」の社会運動なんだというのが、何よりも画期的なんではないかと私は思っています。
(第3回に続く)
プロフィール

(ちゅ ひちょる)
哲学者。1985年大阪生まれ。大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授。博士(文学)。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。著書に『人類の会話のための哲学』(よはく舎)、『〈公正(フェアネス)〉 を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス)。2026年5月、好評を博した『100分de名著 ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」』のテキストを大幅改稿した初の新書『バラバラな世界で共に生きる――リチャード・ローティの哲学』(NHK出版新書)を刊行。

(のうじょう ももこ)
アクティビスト・一般社団法人NO YOUTH NO JAPAN代表理事、FIFTYS PROJECT代表。1998年生まれ、2019年、デンマーク留学をきっかけに、若い世代の政治参加を促進するNO YOUTH NO JAPANを設立。2022年、政治分野のジェンダーギャップ解消を目指し、20代・30代の女性やノンバイナリー、Xジェンダーの地方議会への立候補を呼びかけ、支援するFIFTYS PROJECTを開始。現在、立候補年齢引き下げ訴訟の原告のひとりとしても活動している。共著に『NO YOUTH NO JAPAN vol.1: わたしたちの生きたい社会をつくろう U30の投票から未来をつくる』(よはく舎)等。

(まるやま おりえ)
クリエイティブディレクター・認定NPO法人CALL4共同代表。リクルート『ゼクシィ』編集長・アプリプロデューサーを経て、2018年に独立。2019年に公共訴訟支援プラットフォーム「CALL4」に参画し、2023年11月より共同代表として訴訟の背景や人々の思いと物語を届ける。公共訴訟の専門家集団「LEDGE」には創設(2023年10月)からクリエイティブディレクター兼キャンペーナーとして関わる。2026年5月、共著『はじめての公共訴訟 社会を動かす、私たちのツール』(集英社新書)を刊行。
朱喜哲×能條桃子×丸山央里絵







能條桃子×中村敏子
井田奈穂×中村敏子
星野博美
速水健朗×角由紀子