■ オーリック・ゴールドフィンガーとドナルド・トランプ
英国秘密情報部に所属するスパイのジェームズ・ボンドが活躍する映画シリーズに、『007/ゴールドフィンガー』というタイトルがある。公開されたのは一九六四年だが、いま観返してみると、悪役のゴールドフィンガーは現アメリカ大統領のドナルド・トランプにいくつかの点で似ている。あなたがそう思ったとしよう。あなたは、いつも映画の感想をポストしているSNSのアカウントでこの気づきをシェアしようと考える。何人かは面白がってくれるかもしれないし、もう六〇年以上前の映画だから中身に触れたって誰も文句は言わないだろう。
そんなあなたのポストが、最近「007」シリーズの魅力に気づいて第一作目から観返そうとしていた僕のタイムラインに表示される。そのポストの記憶があるおかげで、『ゴールドフィンガー』を観始めた僕は、ゴールドフィンガーが登場するたび、「お、トランプが出てきたぞ」とか心のなかでツッコミを入れる。必然、僕の意識はゴールドフィンガーの表情や所作のなかにあるトランプ的と言えそうな部分に向けられることになった。映画が終わって、僕はTwitter(現X)にこんなふうにつぶやく。「『ゴールドフィンガー』観たけど、マジで悪役がトランプだった」。
この回で考えてみたいのは、まさしくこういった経験である。どんな経験かといえば、事前になにかを知っていることが僕たちの関心や注意に影響を及ぼし、経験の味わいをあらかじめ方向づけてしまう(かもしれない)経験のことだ。さきほどの例にも、いろんなツッコミを入れることができる。ゴールドフィンガーをトランプになぞらえるあなたのポストを観ていなかったとしたら、はたして僕は映画を観ながらトランプのことを想起しただろうか? 「マジで悪役がトランプだった」という感想は、あらかじめ知っていた誰かの解釈をなぞっただけで、僕の感想とは言えないんじゃないだろうか?
実を言うと、僕は『ゴールドフィンガー』を観たことがない。この例は、哲学者のベンス・ナナイが『美学入門』で挙げていたものだ。彼は、読者が今後『ゴールドフィンガー』を観るたびにトランプのことを想起してしまう状況を作り出してしまったことを詫びながら、僕たちの注意の性質について次のように述べている。
何に注意を払うかによって、経験全般に大きな違いが生じます。そしてそれはまた、芸術作品の経験にも大きな違いをもたらします。皆さんが次に『ゴールドフィンガー』を見るときに起こるように(これについては申し訳ありません!)、経験がすっかり台なしになることもあります。あるいは、経験がずっとやりがいのあるものになることもあります。またいくつかのケースでは、同じ作品であっても、何に注意を払うかによってどれだけ違って見えるか、ということをはっきり突きつけられることもあります。[1]
トランプのことを想起しながらゴールドフィンガーの登場シーンを観ることが経験を台なしにしているかどうかについてはいったん措いておくとして、ナナイの述べているように、何に注意を払うかによって経験そのものが大きく変化することは間違いないだろう。小説を読んでいるときにプロットの展開に注意を払うのか、風景や心理の繊細な表現や文体に注意を払うのかでは、僕たちが作品から受け取ることのできる味わいはまったく変わってくるだろうし、目的地までの道のりを示す標識を目で追いながら歩くのと、気もそぞろにあちこち目をやりながら散歩するのとでは街の印象もまったく変わってくるだろう。
注意の払い方によって経験の在り方が変わるというのは、なにも作品の解釈や風景の観賞といった高度な場面に限られない。いまからするのは、僕のなかにナナイが言う意味での「美学」——もちろん、当時はそんな言葉は知らなかったが——が芽生えたときの話だ。
小学校の高学年くらいだったろうか、夏休みに家でゴロゴロしながらマンガを読んでいた。ネコの頭のかたちをした脚が折りたためる緑色のローテーブルのうえに、コーラの注がれたグラスが置いてあった。僕はマンガに没頭しながら、グラスに手を伸ばしてゴクゴクと飲む。途端、わけもわからずむせかえってコーラを吐き出してしまった。というより、吐き出したそれはコーラではなかった。なんだかとても酷い味のする飲み物だ。ティッシュで床を拭いて、あらためてグラスに入った液体の匂いをよく嗅いでみると、それは濃いめの麦茶だった。そうだ、これは麦茶だった。僕は、マンガを読んでいるうちにそれが麦茶だということをまったく忘れて、視界の端に捉えたグラスの色からそれがコーラだと思い込んでいたのだ。気づいてしまえば、なんてことはない。つまり、麦茶だと思って飲めばそれは酷い飲み物なんかではなく、ただの麦茶だ。しかし、コーラだと思い込んで飲む麦茶はあまりにも酷い味がした。同じ飲み物のはずなのに思い込みで味が変わるというのは、小学生の僕にとっては大きな発見だった。同時に、自分が食わず嫌いで偏食な理由も理解できたのだった。
僕たちの経験は、決して「柵の後ろに猫がいる」とか「アナウンスによればこの電車は五分後に新宿駅に到着する」とかいった情報だけで成り立っているわけではない。経験にはかならず、そうした情報が呈示される仕方やその質感といった、美的=感性的な質が含まれている。コーラと麦茶の例のように、感性的な質がどのように受け取られるのかは、僕たちがどんな姿勢を取っているのかによって変わってくる。さきに挙げたナナイは、「美的な物事に共通するのはとてもシンプルなこと、つまり注意力を行使する仕方です」[2]といって、僕たちの注意の方向や強度がどんなふうになっているかを考えることで、美学は僕たちの経験の質について論じることができるのだという立場を示している[3]。
では、こうした注意の方向や強度を左右するものはなんだろうか。ひとつ大きいのは、前回「エナクティヴィズム」を取りあげながら論じた感覚—運動的な熟知だ。自分の身体の在り方や、獲得した習慣やスキルによって物事の見え方が変わってくることを詳しく論じた。しかし、もちろんそれだけではない。もうひとつ大きな要素として挙げられるのが知識だ。僕たちは、目の前にあるもの、目の前で繰り広げられる出来事についてすでになにかしら知っている。その知識に応じて、注意の向け方も変わってくる。知ることによって、あなたに見えてくる世界は変化するのだ。そしてそれによって、僕たちの経験はより豊かだといえるものになったり、悲劇的に惨めなものになったりする。
ここからは、知識によって僕たちの注意が方向づけられることで、どんなことが生じるのか、三つのパターンを挙げて考えてみたいと思う。その三つとは、スポーツ、美術、物語だ。
■ 事前知識を入れるにこしたことはない?—スポーツ観戦の充実
友人から「カバディの試合を観に行こう」と誘われたとしよう。カバディというのは、どうやらスポーツの一種らしい。なんだか面白そうだから行くことにしたが、あなたはカバディについて何も知らない。あなたは試合の当日までに、YouTubeでカバディの動画を観たり、武蔵野創のマンガ『灼熱カバディ』を読んだりして事前知識を入れておこうと考えるのではないだろうか。
もし事前知識を入れずに当日を迎えたらどんなことが起こるだろう。あなたは他の観客に交じって試合を観戦してはいるものの、いったいどこに、誰に注目したらいいかわからない。片方の陣地からひとりの選手が出てきて、相手の陣地にゆっくりと入っていく。そこからは、なにか駆け引きをしているようだが、なにが勝利条件なのかわからない。ひとりで相手の陣地に攻め込んだ(?)と思われる選手が、相手のチームの複数人に囲まれて捕まる。捕まって悔しがるときもあれば、捕まったのになぜか喜んでいるときもある。そもそも、点数が入ったり入らなかったり、一気に何点も入ったりするのはどうしてなのだろう……。わからないうちにスコアボードの得点が書き換わっていき、どうやら攻守が交代したらしいことを知る。試合中に選手たちがずっと「カバディカバディカバディ……」と言っているが、あれにはどういう意味があるのだろうか。なるほど、なにもわからない。
反省して事前知識を入れておこう。カバディというのは、「鬼ごっことドッジボールが融合したような独自のルールを持つスポーツ」[4]で、七人のチーム対抗で行われる。攻守が明確に分かれており、攻撃側はひとりが相手のコートに侵入し、相手チームのメンバーにタッチしたうえで自陣に帰還することを目指す。指一本でも自陣のエリア内に戻れれば攻撃は成功し、タッチできた人数がそのまま得点になる。守備側は攻撃側の帰陣を防ぐことができれば得点が得られる。そして、攻撃側は自分が相手のコートに侵入しているあいだ、ずっと「カバディカバディカバディ」と唱え続けなければならず、これが途絶えても攻撃失敗となる。
詳しいルールはまだまだあるが、これがカバディの概要だ。これくらいのことがわかっていれば、ずっと「カバディカバディカバディ」と唱えているのがどうしてなのかもわかるし、いまどっちが攻撃側で、守備側とのどんな駆け引きや身体の動きに注意したらいいかもなんとなくわかってくる。どれがチームにとって良いプレーなのかミスプレーなのかという評価は、競技にとっての知識を抜きにしては決して成立しない。
スポーツ観戦のような例の場合、その競技についての事前知識を持っておくことは、それを鑑賞するための必須の条件のように思われる。というのも、そこでなにが行われているのかを理解して適切に注意を向けるためにはそれらの知識が不可欠だからだ。球技であれば、得点の入り方やプレイヤーのボールとの関わり方(手、足、ラケット、等々)、フィールドに引かれたラインが構成する領域について知っていなければ、どうして選手たちが必死になってボールを追いかけたり、相手のプレーに苛立って見せたりするのかまったくわからない。
さらにいえば、事前知識は多ければ多いほどいい。最低限のルールさえ知っていれば観戦は成立するが、対戦しているチームの来歴や選手ひとりひとりの特徴、その試合の勝敗がチームにとって持つ意味などのコンテクストについて知っていれば知っているほど、ひとつひとつのプレーの意味と重みを深く味わうことができるだろう。スポーツ観戦において、知識は基本的に観戦の充実を妨げるものではなく、多ければ多いほど目の前の出来事を多様な仕方で受け止められるようにしてくれる。
しかしながら、僕たちの観戦を決定的に妨げてしまうかもしれない知識がある。それは、いま自分が観ている競技の結果についての知識だ。深夜に行われたサッカーの国際大会を朝起きてから配信サイトで観ようとしたり、過去に行われた競技会の録画を観たりするときに、あらかじめ誰が(どのチームが)勝利したのかを知ってしまうことは、僕たちの鑑賞体験に大きな(主にネガティヴな)影響を引き起こす。スポーツ観戦の魅力は、ここで得点が決まるかもしれない、この人が勝つかもしれない、という予感をいたるところで抱かせてくれるところにある。それはもちろん、確証されていない予感だからこそ、その成就を願ったり、上手くいくかどうかハラハラしたりできるものだ。その予感が確証されたものになってしまうと、サスペンス(宙づり)の感覚やハラハラした感じが得がたくなってしまう。さらにいえば、僕たちはもはや結果から逆算したかたちでしか試合の展開に注意を向けることができなくなってしまうのだ。サッカー日本代表の試合で、日本が一点も決められずに終わることをあらかじめ知ってしまえば、日本がボールを持って攻め上がっているときにワクワクしたり、劇的な展開を引き起こすのは誰かと注目したりすることはなくなってしまう。
スポーツの観戦は、絶えず到来する予感とその成否によるカタルシスを味わわせることで観客を楽しませる。それゆえに、予感を見出すための事前知識はあればあるほど観戦を充実させてくれるが、反対に、予感を確証させるような試合結果の知識は観戦の体験を大きく損なってしまう可能性がある。
スポーツ観戦には、持っていることで体験を充実させてくれる知識と、反対に、持っていることで体験を損なってしまう知識がある。そしてそれがどんなものであるかは、スポーツ観戦という営みが持つ特徴によって決まってくる。さきほども述べたように、スポーツ観戦の場合はチームやプレイヤーについての事前知識はあるにこしたことはないと思われる。ところが、試合結果についての知識は僕たちの体験を大きく損なう可能性があるのだ。とはいえ、スポーツ観戦はライブ観戦を基本的な形態とすることでその欠点をあらかじめ排除することができる。もしあなたがライブ観戦に行くのであれば、調べられることはいくら調べても問題ない[5]。
では、スポーツ観戦以外の体験についてはどうだろうか。事前知識を入れるにこしたことはない、ということが他の経験についても言えるのかどうかについて、たとえば美術作品の鑑賞の場面を挙げて考えてみたい。
■ 事前知識は鑑賞を損なうのか?——美術鑑賞と「答え合わせ」
美術館に行って、美術作品を鑑賞する。このような場面で、知識が果たす役割というものを考えてみよう。
まず、さきほどのスポーツ観戦の例と比較してみよう。スポーツ観戦においては、ルールなどの基礎知識はそれがなければ観戦自体が成り立たないものだったし、チームや選手についての事前情報はあればあるほど観戦を充実させてくれるものだった。美術鑑賞の場合も、事前知識はあるにこしたことはない、と考えられているのではないだろうか。だからこそ、美術展覧会の告知には展示される作品のイメージがそのまま掲載されるし、作品の解説や作家のエピソードがパンフレットや音声ガイドのなかでふんだんに提供される。難解なコンセプトやアイデアを背景に持っていることも多い現代美術の作品などは、一見しただけではそもそもなにを題材にしているのかも見当がつかないことも多いから、こうした事前知識があれば作品を前にしてどこから注意を向けたらいいのか戸惑わずに済む。
しかしながら、美術鑑賞の場合には—スポーツ観戦にルールの理解が不可欠だと考えられるのとは異なり—なんらかの知識がなければそもそも鑑賞など成立しえない、とまで考える人は少ないように思われる。むしろ、いたずらに頭のなかを知識やコンテクストで埋めてしまうのではなく、ひとりひとりの感性そのままで作品を享受することこそが重要だ、という意見もある。
一九八〇年代から九〇年代までニューヨーク近代美術館で美術教育に携わっていたアメリア・アレナスと日本の三つの美術館(川村記念美術館・豊田市美術館・水戸芸術館)が共同で企画した「なぜ、これがアートなの?」という展覧会がある[6]。この展覧会では、アレナスのそれまでの教育経験に基づきながら、鑑賞者が美術の知識にとらわれずに作品と直接コミュニケーションを取ることができるような仕掛けが施された。この展覧会は、鑑賞することが作品の解説テキストを読み込むことのようになってしまっている状況を批判し、もういちど自分の目で作品と向き合える場を生み出すことを意図していた。
アレナスらの実践は、鑑賞が、作品と事前知識や解説を照らし合わせる「答え合わせ」になってしまうことへの批判である。もちろん、そこでは作品についての知識を持つことがそれ自体で悪いことだと考えられているわけではない。しかしながら、すでに持っている知識が、作品を前にしたときの僕たちの注意を限りなく方向づけてしまうことがある。作家の人生と結びつきの強いモチーフ、絵の構図から導き出すことのできる解釈といったものに、僕たちの眼差しや思考がピン留めされてしまう。だが、目の前の作品は単一の題材や解釈に還元されない「モノ」として存在している。「モノ」は、それが電話をかけたり木材を切断したりといった特定の機能に奉仕するものであれば、生活のなかでつねに決まった仕方での注意を要請する。ところが、それらが美術作品として呈示されているとき、僕たちは注意を特定の方向に集中させる必要性から解放されている[7]。だからこそ、作品に向けられる注意の在り方は多様であっていいし、その多様さがモノの経験を美的なもの(鑑賞)へと変化させるきっかけになるのである。
ここまで述べてきたことも踏まえれば、事前知識や解説といった「知」は、それが作品に対する僕たちの注意を一方向に限定してしまうとき、充実した作品鑑賞を損なってしまうのだと指摘することができるだろう。知識があればあるほどいいとか、知識がないほうが自分自身の感性で作品に向き合えるといった二者択一ではなく、知識によって僕たちの注意がどのような影響を受けてしまっているか、という点にこそ注目すべきであろう。
■ 物語のネタバレはなぜ悪いのか?——ネタバレの美学
知識は、経験のなかで僕たちの注意が向けられる方向を左右することがある。どんな知識がある経験のなかで望ましい影響をもたらすのか、それとも経験を台なしにしてしまうような影響をもたらすのかは、スポーツ観戦や美術作品の鑑賞など、それぞれの営みの特徴によって変わってくる。それがここまで確認してきたことだ。知識がどのように僕たちの注意を変化させ、それが経験にどんな影響を及ぼすのか。このような考察は、いま挙げたわずかな事例に留まらず、あらゆる営みに対して実践することができるだろう。ここでは最後に、物語の経験について考えて議論を締めくくることとする。
演劇や映像、本といったさまざまなメディアで僕たちは物語を楽しんでいる。物語とは、絵画のようにいちどに全貌を見渡せるような創作物ではなく、時間をかけて展開を追跡していくことでようやくひとまとまりのものとして味わうことができるものだ。物語を経験するときにも、僕たちがあらかじめ持っている知識はさまざまな仕方で注意を方向づけている。シリーズものであれば、それまでの展開や世界観についての知識がなければ物語の理解に支障をきたすことがあるだろう。映画の脚本にしばしば見られる特徴として「三幕構成」がある、といった知識を持っていれば、物語の展開をあるていど予想しながら鑑賞し、その当たり外れによる満足や驚きを得ることができるかもしれない。
このように整理していくと、物語の経験はスポーツ観戦や美術鑑賞の経験の中間に位置づけることができるかもしれない。物語はスポーツ観戦と同様に時間的な展開を持ち、事前知識があればあるほど深く楽しめる可能性がある一方で、美術作品を鑑賞するときのように、それらの知識が作品の解釈を狭めてしまっているかどうかについては警戒する必要がある。
物語の経験がスポーツ観戦と大きく異なるのは、それがライブ観戦を主たる消費形態としていない点だ。スポーツ観戦において、いま行われている試合が持つ魅力と過去に行われた試合のアーカイブが持つ魅力には決定的な差がある一方で、物語についてはそれが最新作であれ何十年も前の作品であれ、新しいか古いかによって作品から得られる満足が大きく変わることはないように思われる。そして、古い作品であっても楽しみやすい物語だからこそ、作品の結末についての「ネタバレ」の是非はつねに問題となる[8]。
ネタバレが問題になるのは、物語の結末についての知識が僕たちの経験に(ときに壊滅的な)影響を及ぼすと思われるからだ。しかし、僕たちはスポーツのライブ観戦のように結末の知識を徹底的に排除して物語の経験に臨むとは限らない。人気マンガが映像化されたとき、原作のファンはみな結末を知っている状態でそれを楽しんでいるし、誰もがあらすじや結末を知っている古典的な作品を見返したりすることだってたびたびある。稲田豊史が『映画を早送りで観る人たち』でとりあげていたように、見どころや結末についてあらかじめ調べてからその作品を鑑賞する、という消費形態は決してマイナーなものではない[9]。物語の展開や結末について、ほとんど何も知らずに作品を経験するということ自体が、むしろ希少なケースなのかもしれない。だとすれば、物語の展開や結末についての知識が経験にどんな影響を与えるのか、それは誰にとって望ましいもので、誰にとって望ましくないものなのか、ということについてはさらなる検討の余地がある。
いくつか補助線を引いてみよう。たとえば高田敦史は、ネタバレが物語の経験に悪影響を及ぼすのは、それが「能動的鑑賞」を妨げるからだ、と論じている。僕たちは、目の前で展開していく物語をただただ受動的に受け止めているのではない。それぞれの瞬間に、登場人物がこのあとに取る行動を予想したり、その心情を解釈したり、あるいは特定のシーンに喜んだり哀しんだりドキドキしたりしながら鑑賞している。さらにいえば、僕たちは物語のなかである行動を取ったキャラクターやその展開を作りだした制作者に対して、肯定的なものであれ否定的なものであれ評価を下すことがある。高田によれば、このような能動的な鑑賞は、特定の情報に接触することで妨害されることがある。
能動的鑑賞というアイデアを導入したことで次の答えがえられる。鑑賞の完了以前に特定の情報に接触することが、能動的鑑賞の一部を妨害するからだ。もちろん能動的鑑賞のすべてが情報に対して脆弱なわけではないが、いくつかのものは、鑑賞者が特定の情報をもたないことを必要としている。[10]
この議論によれば、ある情報を得ることが物語の経験に「ネタバレ」と言われる類の悪い影響を及ぼすのは、それが鑑賞者の能動的な鑑賞を妨げるからだ、ということになる。高田はミステリに分類される作品の経験を論じるためにこのような道具立てを提案しているが、このような能動的鑑賞の妨害という視点はミステリ以外の作品経験にも適用することができるだろう。
もちろん、高田も留保しているようにあらゆる情報が能動的鑑賞を妨げるわけではない。作品の鑑賞とはまったく無関係な情報もあるだろうし、かえって能動的鑑賞をするのに不可欠な情報というのもある。スポーツ観戦におけるルールの知識も能動的鑑賞には不可欠だし、特定の時代を扱った作品であればその時代の風俗についてある程度の知識を持っていないと、物語の展開よりも手前の部分で理解が阻まれてしまうことだってある。それに対して、物語の結末や(ミステリに典型的な)物語を駆動させる仕掛けについての情報は、予想したり感情的な昂揚を得たりするような能動的鑑賞を著しく妨げる可能性があるのだ。
ネタバレ的な情報がもたらす悪影響はほかにもある。渡辺一暁は、高田とは異なる論点を提示することでネタバレの「悪さ」について論じている。渡辺によれば、ネタバレ的な情報は、僕たちを未知の展開にワクワクする鑑賞者から、ネタバレ情報の正しさを検証する検査官に変えてしまうというのだ。
これから鑑賞する作品へのネタバレ情報は、被ネタバレ者にとって重要なので、知的にまっとうであるためには、その真偽を検証しないといけない。ネタバレ接触によって、つづく鑑賞が、ネタバレ情報の検証をしながらの鑑賞へと変質してしまうのだ。そしてこの検証はそれなりに負荷になり、鑑賞を妨げる。ネタバレ情報は我々の認知的負荷を下げる(わかりやすくする)側面もあるだろうが、上げる(検証すべき情報を増やす)側面もあるのだ。[11]
僕たちは、新たに取得した情報が信頼できるものなのか、自分がすでに持っている知識や外界の在り方と照らし合わせながら判断しようとする「認識的統合性」という徳を持っている、と渡辺は言う。だからネタバレは、それが正しいかどうか確かめるべきものとして僕たちに与えられる。そうなると、僕たちが実際に作品を鑑賞するときには「ネタバレ情報が正しいかどうか確かめる」という認知的なタスクが勝手に追加されてしまうというのだ[12]。ここでも、僕たちの注意の向け方は事前にもたらされたネタバレによって大きく左右されている[13]。
■ 知ることがもたらす悲劇から、知っておかなければならないという倫理へ
本稿では、ナナイによる「注意の向け方が経験に大きな影響を及ぼす」という立場を受け容れるところからはじめて、スポーツや美術作品、物語を鑑賞する場面で「知ること」がどのように経験と関わっているかについて論じてきた。知ることにはもちろん、能動的な鑑賞をより促してくれるようなポジティヴな面もあるが、その営みの特徴によっては知識がネガティヴな影響をもたらすこともある。「知らないほうが幸せだった」という常套句があるように、知ることは必ずしもよろこばしいことではなく、悲劇をもたらすこともあるのだ。どんな知識がどんな影響をもたらすのかについては、ひとつひとつの営みがどんなものであるかという考察から切り離すことはできないだろう。
しかしながら、僕たちがある物事についてより深く知ることを望むかどうかの判断基準は、それが美的な意味で望ましいかどうかに限られるわけではない。「知らないほうが幸せだった」であろう情報や知識であっても、僕たちはあえてそれを知ろうと欲することがある。いわば、なにかについて知ることが倫理的に要請される場面というものがあるのだ。次回は、そのような知ることにおける倫理的な側面についても論じていこう。
(次回へつづく)
[1] ベンス・ナナイ(二〇二五)『美学入門』武田宙也訳、人文書院、五三。
[2] ベンス・ナナイ(二〇二五)『美学入門』武田宙也訳、人文書院、四五。
[3] ところで、経験の質は僕たちの注意の方向や強度によって決まる、というのは、そんなに自明なことだろうか。ナナイの立場に対抗するとしたら、たとえば、美しいものはそれ自体で美しいのだし、美味しいものはそれ自体で美味しいのだ、ということを主張するという方向性が考えられる。これはナナイが「美容室アプローチ」と呼ぶものだ。しかしながら、仮に美しいものはそれ自体で美しいのだ、ということが言えたとしても、その美しさを僕たちがいつでも、誰でも受け取れるということを主張することはかなり難しいだろう。ミュージカルを鑑賞している最中に急激な腹痛に襲われてしまったらどうだろうか。大粒の冷や汗をたらしながら、お腹を押さえてうめきながら観るミュージカルの歌や踊りでは、僕たちの心を震わせることはできないだろう。このとき、注意の方向はおもに自分の身体へと向かい、ミュージカルへと向けられる強度は限りなく低下している。だとすれば、少なくとも僕たちがなにかを美しいとか、素晴らしいとか感じるためには、注意の方向や強度というものが重要になってくるだろう。
[4] 日本カバディ協会公式ホームページ「カバディとは」より(https://www.jaka.jp/about-kabaddi/)。
[5] もちろん、スポーツ観戦においても鑑賞を妨げる事前知識というものは存在する。たとえば、出場している選手のスキャンダルであったり、国際大会の運営に際して引き起こされる政治的・経済的な紛争であったりといった競技外の事情といったものが挙げられる。こうした知識は、スポーツ観戦の充実をもたらす「応援」に僕たちが没頭することを妨げる。とりわけ、夏季・冬季オリンピックやサッカーのワールドカップなどのメジャーな国際大会は、その規模が大きくなればなるほど、開催地の選定や放映権料をめぐる争い、メガイベントが開催地の住民やインフラにもたらす負担といった問題も深刻なものになっていく。メジャーなスポーツイベントの「肥大化」はさまざまな批判をよそに進行し続け、あまりにも大きくなったイベントの運営を担えるのは十分な資本を持った先進国だけだろう、というかたちでスポーツ資本の独占も進行することになる(cf. 稲垣康介(二〇二六)「きみはワールドカップを観に行くか」、『世界』第一〇〇七号、四〇—四七)。
[6] この展覧会は、一九九八年から一九九九年にかけて三つの美術館を巡回するかたちで実施された。この展覧会のためにアメリア・アレナスは日本の学芸員に向けたレクチャーを行っており、そこで受け継がれた手法は日本の美術教育における「対話型鑑賞」という潮流にも影響を与えている。具体的な手法としてはたとえば、作品のキャプションを会場には置かず、展覧会の入り口に展覧会を楽しむための作法を掲示するといったものを挙げることができる。そこで掲示されるのは、まずは作品をじっくり自分の目で見ること、そして「ここに描かれている人は誰だろう?」「この人は何をしているのだろう?」「どんな場所が描かれているのだろう?」といった問いを自分なりに考えてみよう、といったことだ(cf. 美術による学び研究会(二〇二四)『対話型鑑賞75年を超えて』、学術研究出版)。
[7] むしろ、日常生活のなかで確固とした役割を与えられたモノたちを、特定の方向に縛られた注意から解放してやることができれば、そこに美的体験が生じている、と言うこともできるだろう。
[8] スポーツ観戦においても「ネタバレ」はもちろん問題だが、物語の場合とはちがって、擁護しがたく経験に悪影響を与えるものといっていいだろう。物語の場合は「ネタバレ」を気にしないとか、経験に大きな影響を与えるものではないと考えるひとが一定以上いる、という点でスポーツ観戦とは状況が大きく異なる。
[9] たとえば稲田は、坂元裕二の監督作品『花束みたいな恋をした』の結末をさきに観た友人に教えてもらってから観たという人物の証言を取りあげている。「「映画館で先に観ていた友達に、最後に二人がどうなるかを細かいところまで教えてもらってから観たんですよ。『だから菅田君〔筆者注:主演の菅田将暉のこと〕はここでこんなこと言ったんだ』みたいなことを細かく理解しながら観られたので、2倍楽しめた気がします」 Gさんの言い分はこうだ。もし予備知識なしで観て物語の細かいところが理解できなかったり、細かい演出を見逃したりしてしまった場合、モヤモヤが残ってしまう。それを避けるには、最初から教えてもらっておいたほうがいい、と」(稲田豊史(二〇二二)『映画を早送りで観る人たち』、光文社、五六)。Gさんのこのような姿勢は、この後の部分で取りあげる「能動的鑑賞」の一類型と言えるのかもしれない。このような人にとっては、ネタバレも鑑賞をより充実させるために必要なものだ、ということになる。
[10] 高田敦史(二〇一九)「謎の現象学——ミステリの鑑賞経験からネタバレを考える」、『フィルカル』第四巻第二号、二六。
[11] 渡辺一暁(二〇一九)「なぜネタバレに反応すべきなのか」、『フィルカル』第四巻第二号、七一。
[12] 渡辺は引用箇所に続く部分で、ネタバレのこのような特徴を踏まえれば「ネタバレしてもいい?」という問いかけをはさむことでネタバレが悪いものではなくなる、という状況も説明できると述べている。つまり、ネタバレはそれが不用意に行われたときに僕たちの認知的タスクを勝手に増やす侵害的な行為となるが、その「悪さ」は、僕たちが認知的タスクを増やすことにあらかじめ同意すれば取り除かれると考えることができるのだ。
[13] ここでは詳しく取りあげなかったが、本論で紹介した高田・渡辺が寄稿している『フィルカル』誌の「特集 ネタバレの美学」に同じく寄稿している森功次は、ネタバレという現象を「〈作品に本来備わっていた芸術的工夫の一部が味わえなくなるような鑑賞変化をもたらす情報〉を取得すること」というふうに定義している(森功次(二〇一九)「鑑賞前にネタバレ情報を読みにいくことの倫理的な悪さ、そしてネタバレ許容派の欺瞞」、『フィルカル』第四巻第二号、七七—七八)。森の議論は、高田や渡辺と比べたとき、より作品に内在的な特徴からネタバレの悪さを指摘しようとしている点に特徴があると言える。

生成AIの登場によって、人類はより情報や知識にアクセスしやすくなった。それゆえ、「知識があるだけの人間は意味がない」「いっぱいものを知っていることより、創造的なアイデアを持っている人のほうがいい」といった言説も流通し始めている。人間にとって「知る」ことの意味とは何か。そして、現代の「知る」ことの困難とは何か。 哲学・批評・クイズ・ビジネスの領域で活動し続ける田村正資氏が、さまざまな分野を横断しながら、「知る」ことの過程をひもといていく。
プロフィール

たむら ただし 哲学者。1992年生まれ。東京都出身。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は現象学とモーリス・メルロ゠ポンティ。著書に『問いが世界をつくりだす メルロ゠ポンティ 曖昧な世界の存在論』(青土社)、『独自性のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)など。
田村正資




服部孝洋×唐鎌大輔

原田曜平×田中渓

朱喜哲×能條桃子×丸山央里絵