監督・原辰徳 平成巨人の悲哀を背負った男 第6回

情を捨て、「奪回」した優勝―2007年編

中溝康隆

聖域なきチーム改革

「『非情さを持つ』ことはやましくも恥ずかしくもないんだ、と思ったのは、四位になった2006年シーズン終了のときだった。前述した通り、僕は問題だらけのチームを再建しなくてはならなかった。限られたメンバーでその“目的”を達成するため、僕に非情さや決断力が求められるのは当然だった」

(原点 勝ち続ける組織作り/原辰徳/中央公論新社)

 巨人監督復帰1年目の2006年シーズン、屈辱の4位で終えた原辰徳は、“情”を捨てて新しいチームを作ろうと決断する。桑田真澄や仁志敏久らベテラン陣が去り、主将の小久保裕紀はFA権を行使して古巣のソフトバンクへ復帰した。その一方で、巨人は日本ハムの日本一に貢献したパ・リーグMVPプレーヤー小笠原道大のFA補強に成功。オリックスからトレードでベストナイン5度、ゴールデン・グラブ賞4度の実績を持つ外野手・谷佳知を獲得する。高校生ドラフトでは、1巡目で遊撃手の坂本勇人(光星学院)を指名した。ドラフト会議当日の控え室で、原は1巡目で堂上直倫(愛工大名電)の抽選を外したときは、投手としても評価の高かった木村文紀(埼玉栄)の指名を主張したが、担当スカウトの強い要望もあり、堂上を逃すと予定通り坂本が外れ1位となった。それでも、いざ入団が決まると原は「巨人の2006年ドラフト1位だから」と坂本に「背番号61」を与え、長い師弟関係を築くことになる。さらに指揮官はイ・スンヨプや高橋尚成ら主力選手含む、26名もの背番号を入れ替えることで、チーム一新を強く印象付けた。

 年が明けた2007年1月には、大ベテランの工藤公康までもが、FA獲得した門倉健の人的補償で横浜へ移籍していった。巨人フロントは通算203勝を挙げている43歳の左腕を28名のプロテクトから外した。前年12月の契約交渉で工藤に1億9000万円減の年俸1億円を提示しており、功労者に対しても非情とも取られかねないシビアなスタンスで、聖域なき新チーム作りを推し進めていった。

清武英利とともに吹き込んだ新しい風

 この頃、原監督は巨人軍球団代表兼編成本部長の清武英利と二人三脚でチーム改革に乗り出していた。清武は広島カープの鈴木清明常務と育成選手制度の創設のため奔走し、12球団の実行委員会の席で、出席者から批判を浴びながらも成立にこぎつけた。なお、2005年の初めての育成ドラフトに参加したのは、巨人、広島、中日、ソフトバンクの四球団のみだった。この時、巨人が育成1位指名したのが、のちにNPB史上初の通算200ホールドを達成する山口鉄也である。さらに当時のイースタン・リーグ7球団から試合に出られない選手を集めて、「フューチャーズ」という混成チームを作り、チャレンジ・マッチを組み、自チームで出場機会を失っていた選手たちに実戦経験を積ませた。

 清武は若手の人材発掘にこだわる一方で、小笠原道大とのFA交渉の席で、なぜ巨人が獲得に乗り出したのか、小笠原夫妻宛てに長い手紙を書いて手渡す熱意の持ち主でもあった。過去にフロント上層部とぶつかり監督辞任を決意したことがある原も、そんな個性派の代表と敵対するのではなく、8歳上の清武を盟友として頼った。

「あのころはしょっちゅう、球団事務所に足を運んだ。清武代表のところに行っては、チーム作りについて話をした。時には1時間半ぐらい代表室から出てこなくて、巨人番記者たちを驚かせたこともある。だが、話す材料はいくらでもあった。求めるものが同じ―――まさに同じ目的を持った人が、フロントにいたのだから」

(原点 勝ち続ける組織作り/原辰徳/中央公論新社)

 少なくともこの時期、原と清武は同じ方向を向いて並走していたのだ。元・社会部記者の清武は雑誌で連載を持ち、自著を出版し、キャンプ地でファンからサインや記念撮影を求められるとそれに応じた。自身のコラムでは、繰り返しチーム改革の必要性を説き、社内から揶揄する声が上がろうが、意に介さなかった。

「巨人軍の再建にあたって、私たちは『人づくり』を柱に据えた。言い換えれば育成である。その方針と補強は矛盾する、と囃し立てる人もいるが、私はそうは思わない。補強によって得た小笠原や谷、豊田といった強烈な個性が、どれだけ巨人の生え抜きを刺激したことか。内海哲也、野間口貴彦、西村健太朗、金刃憲人、脇谷亮太、会田有志、山口鉄也……『80’s』と呼ばれる1980年代生まれの彼らを一流へと鍛え上げる一方で、日本一へと駆け上がるために、甘えを許さぬ『血の入れ替え』は必要なのだと思う」

(巨人軍は非情か/清武英利/新潮社)

 原辰徳と清武英利。ふたつの強烈な個性は、確かに巨人に新しい風を吹き込んだが、蜜月関係は長くは続かなかった。数年後、巨大なエゴがぶつかり合い、両者は袂を分かつことになる。

「一番高橋由伸」と「クローザー上原」

 監督復帰2年目の新スローガンに「奪回」を掲げたて迎えた、2007年2月1日。宮崎キャンプ初日に原監督は選手たちの前で、「これからのジャイアンツにうまい選手はいらない! 私が欲しいのは強い選手なんだ!」と宣言する。この春、指揮官は上原浩治と高橋由伸という投打の顔とも言える看板選手に対して、大胆な起用法を決断している。両者ともにここ数年は故障に苦しみ、不本意なシーズンが続き、開幕直後に32歳を迎えるベテランの領域に足を踏み入れかけていた。高橋は2005年に88試合、2006年は97試合と2年連続で100試合未満の出場に終わり、プロ10年目は勝負の年でもあった。そんな選手会長に対して、原監督は「スタイルはまったく変えなくていい。2000本安打を目指せ」と一番打者での起用を伝えたのだ。その采配に高橋は横浜ベイスターズの開幕投手・三浦大輔から、セ・リーグ史上初の開幕戦初球先頭打者アーチという最高の形で応えた。

「一番に適しているとは思っていないと言ったら、怒られてしまいますけど、盗塁ができるわけではありませんし、従来の一番バッターとは違うのかな、と。それに僕はボールを見ていくタイプのバッターではなくて、どんどん振っていくタイプのバッターですからね。ただ、その点に関しては一番バッターを打診されたときに原監督が、『自分の持ち味を大きく変える必要はない』と、言ってくれましたから気持ちの整理はついています」

(週刊ベースボール2007年5月14日号)

 当時はまだ俊足巧打タイプの一番打者が当たり前で、現代のロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平に代表されるスラッガータイプの一番起用は珍しかった。いわば、球界のトレンドを先取りした原采配である。「一番高橋、二番谷、三番小笠原」の前年から一新された上位打線は相手チームの脅威となった。2007年の高橋はシーズン9本の先頭打者アーチのプロ野球新記録を樹立し、自己最多の35本塁打を放ち、3年ぶりの規定打席到達と打率三割も達成している。結果的に一番起用により、天才打者が復活したのである。

 2年連続Bクラスに沈んだチームの課題として、原監督は固定できなかった一番打者と抑え投手の確立を挙げたが、開幕からしばらくすると、意外な投手を新クローザーに指名する。高橋と同い年でもあるエースの上原浩治である。2000年から7年連続の開幕投手を務めてきた上原も、近年は満身創痍の状態でグラウンドに立ち続けていた。この年も自主トレ中に左ふくらはぎに張りを訴え、キャンプからオープン戦にかけても両太ももを痛め、開幕二軍スタートだった。32歳の上原はメジャーリーグへの移籍願望を公言し、オフになる度にポスティングシステムの使用許可を求め、球団と話し合っていた。清武代表は「うちのエースで日本の宝。日本のプロ野球を守らねばならない」と断固ポスティング拒否の姿勢を崩さず、巨人ファンからはチームが低迷している時期に、個人の希望を優先させる上原に批判の声も少なからずあった。いわば、逆風の中で、原監督は故障がちな元エースを見切るのではなく、あえて上原に新しい仕事を与えたのである。

「原(辰徳)監督から2、3回、『そろそろどうだ』と言われていましたから。それに今年だけではないですからね、抑え転向の話を打診されていたのは。あとは自分の体の状態と相談してですね。短いイニングならこの足でも持つかな、と思いましたからね」

(週刊ベースボール2007年7月30日号)

 今の自分の体では先発ローテで投げ続けるのは難しいが、短いイニングなら早期復帰できる。上原は先発へのこだわりと未練はあったが、4月下旬に一軍復帰後、1カ月ほど抑えを務め太ももの故障が再発しなかったことで、6月中旬ごろに「今年は抑えで」と覚悟を決めたという。最終的に背番号19は自己最多の55試合に投げ、守護神として32セーブを挙げる。メジャー移籍後、レッドソックス時代に日本人投手で初めてワールドシリーズの胴上げ投手となったが、世界一のクローザー上原の誕生のきっかけは、2007年の原巨人にあったのである。

 高橋や上原が新たな役割で劇的な復活を遂げ、移籍組の小笠原や谷もチームの雰囲気を変え、巨人は序盤から首位を快走する。8勝14敗と初めて負け越した7月、中日に一時その座を明け渡し、阪神との三つ巴の争いになっていくが、補強組だけでなく、生え抜きの若手たちが原巨人を救う。9月6日の中日戦では18歳の坂本勇人が延長12回に代打で決勝タイムリーを放ち、9月26日の直接対決でも伏兵の脇谷が決勝の1号2ランを右翼席へ叩き込んだ。日替わりヒーローの活躍もあり、最後は中日に競り勝ち、10月2日のヤクルト戦にサヨナラで5年ぶりのリーグ優勝を決めた。東京ドームで背番号88が宙を舞い、シーズン80勝目のゴールインだった。

「俺のこの涙は忘れないでくれ」

 当時、個人的に数年ぶりに球場へ巨人戦を観に行ったが、スタメンの顔ぶれが激変していることに驚いた。先発陣の中心は14勝を挙げた25歳の内海で、原監督が背番号を変更させた高橋尚成と木佐貫も二桁勝利に到達した。野手では小笠原が打率三割、30本塁打をクリアして、史上初となるリーグをまたいでの2年連続MVPを獲得。谷は3年ぶりの打率三割を打ち、二岡智宏がキャリアハイの83打点を挙げ、イ・スンヨプは故障に泣かされながらも30本塁打を放った。移籍した小久保から、主将の座を引き継いだ阿部慎之助は、プロ7年目で初めて四番の座に座り、セ・リーグの捕手として初めて30本塁打、100打点をクリアする。やがて内海と阿部は、第二次原政権の象徴的な存在になっていく。

 前年はリーグ最低のチーム打率.251の打線が、12球団トップの打率.276、191本塁打と変貌を遂げた。まさに血の入れ替えと世代交代をしながら勝つことに成功した巨人だが、この年からセ・リーグでもクライマックスシリーズが実施されるようになった。原監督にとって、未知なる戦いが待ち受けていたのだ。東京ドームのCS第2ステージに進出してきたのは、落合博満率いる前年度の覇者・中日ドラゴンズだった。原にとって阪神の岡田彰布監督は、大学時代に日本代表でクリーンアップを組んだ気心の知れた盟友でもあった。だが、5歳上の落合は、現役時代に選手会脱退で袂を分かち合い、オレ流の巨人移籍後は「四番・一塁」の座を奪われた因縁があった。監督復帰した前年には、東京ドームで逆転負けを喫し、胴上げを見せつけられる屈辱を受けた。監督になり対峙しても、どこか見下され、舐められているような雰囲気すら感じ取っていた原にとって、落合は絶対に負けたくない相手だったのである。中日とのCS第2ステージの初戦、巨人は先発投手を右の山井大介を想定してスタメンを組んだが、先発マウンドに立っていたのは左腕の小笠原孝だった。左右を読み違えた原は、頭に血が上り自軍のスコアラーに交換したばかりのメンバー表を叩きつけたという。結局、出鼻を挫かれ、3連敗でCS敗退が決定した直後のダグアウトで、原はなんと涙を滲ませながら選手たちにこう伝えたという。

「俺はこんなに悔しい思いをしたことはない。この責任はすべて自分にある。だから俺はこの涙を忘れない。来年はまた新しいチームでスタートするだろうけど、もし俺も、君たち選手諸君も、ジャイアンツのユニフォームを着る機会があるならば、俺のこの涙は忘れないでくれ」

(Number1142・1143合併号)

 監督復帰2シーズン目にして、5年ぶりのリーグ優勝を果たしたが、最後にまたしても宿敵の落合中日に日本シリーズ進出を阻まれた。49歳の原辰徳は、己への怒りと屈辱のあまり、監督人生でこの一度きりという悔し涙を流した。もうなりふり構っていられない。そして、迎えた2007年シーズンオフ、原巨人は球界のパワーバランスすら崩しかねない、前代未聞の大型補強に打って出るのである―――。

(第7回へつづく)

 第5回
監督・原辰徳 平成巨人の悲哀を背負った男

2002年、現役時代から比較されてきた長嶋茂雄の後を継ぎ、読売巨人軍の15代監督に就任した原辰徳。その後、3期17年に渡って監督を務め9度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた彼は、巨人の伝統を背負いながら大型補強と大胆なベンチワークを独特のマネジメントでまとめ、新しい野球の形を示した。しかし、現役時代から昭和の象徴である長嶋茂雄の後を背負いながら、平成・令和を経て野球という娯楽の在り方の変化に翻弄された。そして、3度目の監督就任時にはファンから多くのバッシングを受けながら監督を退任するに至る。若き改革者は、なぜファンからも嫌われる「ヒール」になったのか?17年の軌跡を追う。

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プロフィール

中溝康隆

なかみぞやすたか 1979年埼玉県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。ライター兼デザイナー。
2010年より開設したブログ『プロ野球死亡遊戯』が人気を博し、プロ野球ファンのみならず、現役の選手間でも話題になる。『週刊ベースボールONLINE』『Number Web』などのコラム連載の執筆を手掛ける。
主な著書に『プロ野球死亡遊戯』(文春文庫)、『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)、『巨人軍vs.落合博満』(文藝春秋)、『プロ野球1年目の分岐点 25歳の落合、18歳の大谷』(PHP新書)などがある。

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情を捨て、「奪回」した優勝―2007年編

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