ケアの現場でアートは何をしてきたのか 第1回

「ケア×アート」が増えている時代に、何を問い直すのか

アサダワタル

福祉施設や病院などケアの現場で、美術や演劇、音楽やダンスはもとより、ラジオ番組やカルタ創作など、多様なアート・表現の実践が近年なされている。なぜケアの現場で、アートが必要とされてきたのか。そして、アートが入ることで、その場の人々の関係の回路は、どう組み替えられてきたのか。福祉やケア、アートの現場を行き来しながら、「多様な背景を持つ他者といられる〈場〉をつくる」ことを行ってきた、アーティスト・文筆家のアサダワタルが、実践現場も紹介しつつ探っていく。
初回は、個々人の表現や経験が、「評価」や「能力」といった文脈に簡単に回収されてしまう現状を捉えながら、本連載での問いを紹介する。

表現/表現力のズレ

 就職活動の相談を受けていると、学生がよく口にする言葉があります。「ガクチカ、何を書けばいいかわかりません」「自分の強みが一言で言えません」。

 ある学生は、地域の子ども向けイベントに半年以上関わっていました。会場を下見し、子どもたちが退屈しないように道具の配置を考え、当日は泣き出した子のそばにしばらく黙って座っていた。終わったあとも、うまく参加できなかった子のことを気にして、次にどうすればその子が入りやすくなるかを考えていた。けれど、エントリーシートを書く段階になると、その経験をどう言葉にすればいいのかわからなくなるのです。「これはリーダーシップって言えばいいんですかね」「課題解決力、とかですかね」「でも、そんな大きな成果があったわけではないんです」。その学生が経験していたことは、たしかに大事なものでした。誰かの様子に気づくこと。予定通りに進まない場に居続けること。言葉にならない反応を受け止めながら、場の空気を少しずつ整えること。けれど、それらは「何人集めた」「どんな成果を出した」「どんな強みを発揮した」といった言葉には、なかなか変換しにくい。

 就活の場で求められているのは、経験の豊かさそのものというより、経験を評価される形へ翻訳する力です。三つにまとめる。結論を先に言う。成果を数字にする。学びを言語化する。面接官が納得しやすい因果の物語に整える。もちろん、それは現代を生きるうえでの実務でもあります。私自身、大学教員として、学生にその現実を無視しろとは言えません。エントリーシートには形式があり、面接には時間があり、採用する側にも判断の枠組みがあります。だから、経験をわかりやすく伝える練習は必要です。

 ただ同時に、ここには一つの空気があります。経験が先にあるのではなく、評価のフォーマットが先にあり、そこへ経験をはめ込んでいく空気です。学生が語りたいことよりも先に、「その話は何の強みになりますか」「何を学びましたか」「一言で言うと何ですか」という枠が立ち上がる。相談の場で、学生がふと漏らす「結局、正解の形に合わせないと落ちますよね」という一言に、私は毎回ひっかかります。それは、努力が無駄だという諦めではありません。むしろ、「頑張るほど、評価の型に自分を合わせる作業が増えていく」感覚です。経験そのものより先に、経験をどう梱包するかが問われてしまう。

 私はこの空気を「評価が先に来る回路」と呼んでみたいのです。
 何かを語る前に「要点は?」「強みは?」「それって何の役に立つの?」が先に立ち、表現がその枠に合わせて設計されていく。この回路は、誰かに面と向かって「表現しなさい」と命令され続けることと同義ではありません。むしろ、別の言い方で私たちは言われ続けています。コミュ力を高めなさい。自分の個性を出しなさい。自分の強みを言語化しなさい。会議でも面接でもSNSでも、「要点」「立場」「結論」が先に来る。何かを丁寧に考える前に、まず見せ方や出し方が問われる。そうした状況のなかで、「表現」という言葉はいつのまにか「表現力」へ置き換わりやすくなります。社会の中で通用する出力の仕方、評価の俎上に乗る形に整える力としての表現です。

 ここで一度、この文章を書いている私自身の立場についても、触れておきます。
 私はこれまで、アーティストとして、音や声、言葉を使った表現活動に関わってきました。一方で、福祉の現場でも働き、ホームヘルパー2級を取得し、知的障害のある人や精神障害のある人、震災後の地域で暮らす人たちや、暴力による被害経験をもつ人たちとの表現活動にも関わってきました。さらに現在は大学教員として、学生たちが自分の経験をどう語ればよいのかに悩む場面にも、日々立ち会っています。

 つまり私は、いわゆるアートの側だけにいるわけでも、福祉やケアの制度の内側だけにいるわけでもありません。表現する人、支援する人、教える人、場をつくる人。そのあいだを行き来しながら、「人が人といっしょに居られる場は、どうすれば壊れずに続くのか」を考えてきました。肩書きはいくつかありますが、やってきたことを一言にすれば、多様な背景を持つ他者と居られる「場」をつくることだったのだと思います。この連載は、そのような横断的な立場から書かれます。

 前著『当事場をつくる――ケアと表現が交わるところ』(晶文社)では、私は「当事者」と「支援者」という二項対立だけでは捉えきれない出来事について書きました。福祉やケアの現場では、支援する人と支援される人、専門家と利用者、助ける側と助けられる側という役割が、どうしても立ち上がります。もちろん、それらの役割は必要です。制度があり、責任があり、専門性があります。

 しかし実際の現場では、その役割だけでは説明できない時間があります。
 たとえば、誰かの沈黙を前にして、支援者が「正しい対応」を探すより先に、ただ同じ場に居続けるしかない時間。あるいは、作品をつくっているのか、遊んでいるのか、呼びかけているのか、困っているのか、本人にも周囲にもすぐにはわからない時間。そこでは、誰が支援する側で、誰が支援される側なのかという線引きが、少しずつにじんでいきます。私はそうした場を「当事場(とうじば)」と呼びました。

 当事場とは、一人の当事者を中心に据える場ではなく、複数の人の当事者性が、表現などを媒介にしながら並び直される場のことです。今回の連載は、この「当事場」という考え方を土台にしながら、さらに問いを広げます。ケアの現場にアートが入るとき、そこで何が起きてきたのか。アートは本当にケアを助けてきたのか。それとも、ときにケアの現場を別の評価や成果主義へ巻き込んできたのか。その両方を見ていきたいのです。

 さて、皆さんは「表現」という言葉を聞いて、どんなイメージが浮かぶでしょう。絵を描くこと、歌うこと、踊ること、演じること。音楽、美術、ダンス、演劇。あるいは詩のような、ことばの芸術。さらに日常の側には、SNSで自分の意見を発信すること、就活で自己PRを語ること、会議で短く要点を言うことも含まれてきます。表現は、芸術の言葉でもあり、日常のコミュニケーションの言葉でもあります。

 この二つが混ざると、表現は急にややこしくなります。芸術の表現は、作品や才能や批評のイメージをまとい、すごい人がやるものに寄っていきやすい。一方で日常の表現は、自己紹介や説得や立場表明と結びつき、「うまく言えるか」「伝わるか」という能力の話になりやすい。すると表現という語は、いつのまにか表現「力」に置き換わります。

 だから私は、あえて「表現」と「表現力」をいったん分けて考えたいのです。表現とは、言葉にならないものも含めて、誰かとのあいだに何かが立ち上がることです。沈黙や逡巡や癖のような、まだ形になっていないものも、関係の中で立派に息をしています。一方の表現力は、その表現を伝わる形、評価される形に整える能力として語られやすい。要点をまとめる力、印象づける力、短い言葉で刺さる形にする力。表現力が前景化すると、表現は成果や説明のほうへ吸い寄せられていく。

 ここで私が気になっているのは、表現が評価されるようになったという単純な話ではありません。表現は昔から、比較や優劣や批評と隣り合わせでした。けれどいまは、表現の「あと」に評価が来るのではなく、表現の「まえ」に評価が置かれてしまう感じがある。先に枠があり、そこに合わせて語りが整えられる。この「評価が先に来る回路」が、ケアとアートをめぐる語りのなかでも、別の姿で立ち上がっているのではないか――それが、私がこの連載で掘りたい入口です。

「ケア×アート」の社会化と回収

 その話へ進む前に、もう一つ大事な前提があります。いま「ケアの現場でアート」というテーマ自体が、社会の側でかなりオーソライズされ、広く認知され、実践も増えている、という前提です。

 障害福祉の領域では、障害のある人の文化芸術活動を国として推進する法律 ができ、行政の言葉としても「障害者の芸術文化」は公的なテーマになりました。メディアでも、障害のある人の表現を継続的に紹介する番組 があり、視聴者は「障害者アート」という言葉に、以前よりずっと日常的に触れるようになっています。企業の側でも、障害のある人の表現をブランドや商品やストーリーとして社会に流通させる動き が強まっています。

 同時に、高齢者福祉・介護の領域でも、音楽や演劇、美術を取り入れる実践は各地で増えていますし、「認知症」をテーマにした演劇活動が注目を集めることもあります。医療の領域でも、病院の環境そのものを整えるホスピタルアートや、入院・通院の経験を支えるプログラム、患者や家族、医療者の関係をほどき直す取り組みが知られるようになってきました。私が勤める近畿大学でも、医療環境のなかでのアート実践に専門的に取り組む教員がいるなど、まさに「病院・医療×アート」の議論は身近なところまで来ています。つまり「ケア×アート」は、障害福祉をはじめ介護や医療の領域まで含めて、複数の現場で同時に社会化されているテーマなのです。

 私は、こうした動き一つひとつの意義を否定したいわけではありません。むしろ、そこには敬意があります。ここまでの社会化があったからこそ、「ケアの現場でアート」という視点が、単なる一部の専門領域の関心ではなく、一つの共有可能な言語として広がってきたとも言えるからです。現場にいる人が「表現」や「アート」を語るときの足場が増え、公共的な後ろ盾も生まれ、以前よりはるかに多くの人がこのテーマに触れられるようになった。それ自体は、重要な変化です。

 ただし、ここで一つだけ注意したいことがあります。危ういのは法律やメディアやビジネスや講座そのものではなく、受け取る側がその内実を知らないまま、流通する言葉だけを手がかりに一足飛びで理解したつもりになる回路です。たとえば――「アートはケアに役立つ」「障害のある人の個性を引き出すにはアートが有効だ」「障害があるのに感動を与えられる」「障害があるからこそ才能がある」。あるいは、「認知症の人が演劇でこんなに変わった」「介護施設に音楽を入れたら元気になった」「病院でアートをやったら治療が前向きになった」。こうした語りは、善意の顔をして広がりやすい。ですがその善意は、いつのまにか評価しやすい物語に回収されてしまう危険もはらみます。

 ここで起きているのは、「本人の表現を尊重する」こととは別のところで、評価しやすい物語が先回りしてしまう現象です。たとえば作品の凄さより先に「障害があるのに」という前置きが付く。あるいは、ケアの現場の複雑さ――関係の揺れ、沈黙、失敗、時間のかかり方――が落ちて、「感動」だけが残る。医療の場で「エンパワーメント」という言葉が便利に使われるとき、その言葉が患者の経験の複雑さをむしろ平板化してしまうことがある。介護の場で「ウェルビーイング」が掛け声のようになるとき、支える側の労働環境や時間の余白が置き去りにされることがある。言葉は本来、現場を支えるためにあるのに、逆に現場を追い詰める圧にもなりえる。私はその両義性を、はじめから押さえておきたいのです。

 要するに、「評価が先に来る回路」がここでも別の形で作動するのです。作品や活動の内実を丁寧に見ずに、「感動」や「才能」や「役立つ」という短い結論だけが先に来る。しかもその結論は、ケアの現場に対して「やるべき」や「導入すべき」の圧にもなりうる。現場のスタッフが忙しさの中で、内実を咀嚼する余裕を奪われたまま、「アートをやらねば」「成果を出さねば」という別の評価回路に巻き込まれていく――そうなった瞬間、アートはケアの味方どころか、ケアを削る側にも回り得ます。いちばん困るのは、語られる当事者はもちろんのこと、現場で働くスタッフまでもが「成果を出せ」の圧を引き受けてしまうことでしょう。

 だからこそ、いま改めて問いを立て直したいのです。ケアの現場でアートは何をしてきたのか――それは「役に立つ/役に立たない」を超えて、どんな関係の回路をつくり、何を残し、何を置き去りにしてきたのか。その検証から出発したいのです。

 ここで一度、この連載で使う「表現」「アート」「芸術」という言葉について、確認しておきます。

 ここまで私は、「表現」と「アート」という言葉を行き来しながら使ってきました。私にとって「表現」は、もっとも広い言葉です。絵を描くことや歌うことだけではなく、沈黙、声の調子、身体の動き、ものの置き方、誰かのそばに居るふるまいのように、人と人とのあいだに何かが立ち上がる営みを含んでいます。

 一方で「アート」と言うときには、その広い表現のなかでも、美術、音楽、演劇、ダンス、文学、映画など、文化芸術の領域からやってくる方法や形式を意識しています。制度化された芸術だけに閉じるわけではありませんが、何らかのかたちをもち、他者に開かれ、創作や鑑賞や参加の回路を生み出す営みとして使っています。

 そして「芸術」という言葉は、作品、ジャンル、歴史、専門性、批評、評価といった制度的な響きを含むものとして、必要に応じて使います。ケアの現場に入ってくるアートは、しばしばそうした芸術の制度や価値づけとも関わるからです。

 つまり本連載では、「表現」をもっとも広い言葉として置き、そのなかで、文化芸術的な方法や形式をともなって現場に入ってくるものを「アート」と呼びます。そして、そのアートが歴史や制度や評価の体系と結びつく局面では、「芸術」という言葉も使っていきます。

「ケア×アート」の社会化と回収

 その話へ進む前に、もう一つ大事な前提があります。いま「ケアの現場でアート」というテーマ自体が、社会の側でかなりオーソライズされ、広く認知され、実践も増えている、という前提です。

 障害福祉の領域では、障害のある人の文化芸術活動を国として推進する法律1ができ、行政の言葉としても「障害者の芸術文化」は公的なテーマになりました。メディアでも、障害のある人の表現を継続的に紹介する番組2があり、視聴者は「障害者アート」という言葉に、以前よりずっと日常的に触れるようになっています。企業の側でも、障害のある人の表現をブランドや商品やストーリーとして社会に流通させる動き3が強まっています。

 同時に、高齢者福祉・介護の領域でも、音楽や演劇、美術を取り入れる実践は各地で増えていますし、「認知症」をテーマにした演劇活動が注目を集めることもあります。医療の領域でも、病院の環境そのものを整えるホスピタルアートや、入院・通院の経験を支えるプログラム、患者や家族、医療者の関係をほどき直す取り組みが知られるようになってきました。私が勤める近畿大学でも、医療環境のなかでのアート実践に専門的に取り組む教員がいるなど、まさに「病院・医療×アート」の議論は身近なところまで来ています。つまり「ケア×アート」は、障害福祉をはじめ介護や医療の領域まで含めて、複数の現場で同時に社会化されているテーマなのです。

 私は、こうした動き一つひとつの意義を否定したいわけではありません。むしろ、そこには敬意があります。ここまでの社会化があったからこそ、「ケアの現場でアート」という視点が、単なる一部の専門領域の関心ではなく、一つの共有可能な言語として広がってきたとも言えるからです。現場にいる人が「表現」や「アート」を語るときの足場が増え、公共的な後ろ盾も生まれ、以前よりはるかに多くの人がこのテーマに触れられるようになった。それ自体は、重要な変化です。

 ただし、ここで一つだけ注意したいことがあります。危ういのは法律やメディアやビジネスや講座そのものではなく、受け取る側がその内実を知らないまま、流通する言葉だけを手がかりに一足飛びで理解したつもりになる回路です。たとえば――「アートはケアに役立つ」「障害のある人の個性を引き出すにはアートが有効だ」「障害があるのに感動を与えられる」「障害があるからこそ才能がある」。あるいは、「認知症の人が演劇でこんなに変わった」「介護施設に音楽を入れたら元気になった」「病院でアートをやったら治療が前向きになった」。こうした語りは、善意の顔をして広がりやすい。ですがその善意は、いつのまにか評価しやすい物語に回収されてしまう危険もはらみます。

 ここで起きているのは、「本人の表現を尊重する」こととは別のところで、評価しやすい物語が先回りしてしまう現象です。たとえば作品の凄さより先に「障害があるのに」という前置きが付く。あるいは、ケアの現場の複雑さ――関係の揺れ、沈黙、失敗、時間のかかり方――が落ちて、「感動」だけが残る。医療の場で「エンパワーメント」という言葉が便利に使われるとき、その言葉が患者の経験の複雑さをむしろ平板化してしまうことがある。介護の場で「ウェルビーイング」が掛け声のようになるとき、支える側の労働環境や時間の余白が置き去りにされることがある。言葉は本来、現場を支えるためにあるのに、逆に現場を追い詰める圧にもなりえる。私はその両義性を、はじめから押さえておきたいのです。

 要するに、「評価が先に来る回路」がここでも別の形で作動するのです。作品や活動の内実を丁寧に見ずに、「感動」や「才能」や「役立つ」という短い結論だけが先に来る。しかもその結論は、ケアの現場に対して「やるべき」や「導入すべき」の圧にもなりうる。現場のスタッフが忙しさの中で、内実を咀嚼する余裕を奪われたまま、「アートをやらねば」「成果を出さねば」という別の評価回路に巻き込まれていく――そうなった瞬間、アートはケアの味方どころか、ケアを削る側にも回り得ます。いちばん困るのは、語られる当事者はもちろんのこと、現場で働くスタッフまでもが「成果を出せ」の圧を引き受けてしまうことでしょう。 だからこそ、いま改めて問いを立て直したいのです。ケアの現場でアートは何をしてきたのか――それは「役に立つ/役に立たない」を超えて、どんな関係の回路をつくり、何を残し、何を置き去りにしてきたのか。その検証から出発したいのです。

 ここで一度、この連載で使う「表現」「アート」「芸術」という言葉について、確認しておきます。

 ここまで私は、「表現」と「アート」という言葉を行き来しながら使ってきました。私にとって「表現」は、もっとも広い言葉です。絵を描くことや歌うことだけではなく、沈黙、声の調子、身体の動き、ものの置き方、誰かのそばに居るふるまいのように、人と人とのあいだに何かが立ち上がる営みを含んでいます。

 一方で「アート」と言うときには、その広い表現のなかでも、美術、音楽、演劇、ダンス、文学、映画など、文化芸術の領域からやってくる方法や形式を意識しています。制度化された芸術だけに閉じるわけではありませんが、何らかのかたちをもち、他者に開かれ、創作や鑑賞や参加の回路を生み出す営みとして使っています。

 そして「芸術」という言葉は、作品、ジャンル、歴史、専門性、批評、評価といった制度的な響きを含むものとして、必要に応じて使います。ケアの現場に入ってくるアートは、しばしばそうした芸術の制度や価値づけとも関わるからです。

 つまり本連載では、「表現」をもっとも広い言葉として置き、そのなかで、文化芸術的な方法や形式をともなって現場に入ってくるものを「アート」と呼びます。そして、そのアートが歴史や制度や評価の体系と結びつく局面では、「芸術」という言葉も使っていきます。

クリエイティブの個人化と自己責任

 さて、「評価が先に来る回路」にまつわる問題を考えるうえで、アンジェラ・マクロビーは強い補助線を与えてくれます。イギリスの文化社会学者であり、若者文化やジェンダー、クリエイティブ産業の労働を研究してきたアンジェラ・マクロビーが中心に置くのは、「表現」という語ではなく、「クリエイティブ(創造性)」という語です。創造性や感性は、一見すると自由の味方に見えます。けれどマクロビーは、創造性がしばしばPR能力――自分を説明し、立場を提示し、評価の場に乗せる力――と結びつき、メリトクラシー(能力主義)の中心に組み込まれていく回路を描きます4

 さらに重要なのは、そこで起きる不安定さが「政治化」されず、「個人化」、つまり自己責任化していくという警戒です。自分のキャリアをクリエイティブにつぎはぎし、潜り、飛び込みながら進むことは、自由の表現にも見えます。しかしそれが、労働環境や共同体の紐帯から自らを解き放つこととセットになったとき、しんどさは構造の問題ではなく「個人の努力不足」や「自己管理の問題」として処理されやすくなる4

 この論点は、ケアの現場におけるアートの語りにも、そのまま刺さります。「アートがあればみんな幸せ」「みんな違ってみんないい」。そういう言葉が、現場の現実から切れて流通するとき、それは社会にとって非常にコスパのいい物語になります。みんな勝手に工夫して生き延びてね。構造の責任は問わないでね。そういう自己責任の言葉へ滑りやすいからです。

 私は「評価回路から降りればいい」「好きにやればいい」と言いたいのではありません。肯定/否定の前に、回収の回路を一度ほどいて、別の組み方を探したい。ここが、この連載の背骨になります。言い換えるなら、私は「ケア×アート」という看板を守りたいのではなく、そこで語られがちなわかりやすい物語のほうを疑いたいのです。ケアの現場でアートが必要だと言うなら、その言い方自体が、現場の誰かを個人化し、誰かの疲弊を見えなくし、別の能力主義に加担していないか。まずそこから疑いたい。

ケアの四局面と責任の配置

 ここで「ケア」という言葉に戻ります。ケアと聞いて何が浮かぶでしょう。介護、看護、福祉、医療、子育て。そうした現場を思い浮かべる人も多いでしょうし、「やさしさ」や「思いやり」の言葉として捉える人もいるかもしれません。

 私がこの連載で扱いたいケアは、まず福祉や医療の現場を含みます。ただし理由は「役割や制度が強く働く場所だから」だけではありません。役割や評価が強い場所は学校にも会社にもあります。ケアの固有性は、むしろそこが生活そのものに触れる点にあります。家庭に入る。身体に触れる。弱さや依存や、誰にも見せたくない揺れに触れる。そこで役割や評価が前景化すると、単に「仕事のできる/できない」の話では済まなくなる。支える側も支えられる側も、関係のつまずきが生活全体に響いてしまう。現場の判断や手つきが、その人の一日や人生の感触を左右してしまう。ケアの現場が持つ「関係の重さ」はここにあります。 ケア倫理の研究者ジョアン・C・トロントは、ケアを単なる美徳ではなく、社会を維持し修復し続けていくための実践として捉え、ケアが民主主義の問題でもあることを示してきました。つまり「誰がケアを担い、誰のケアが見えなくされ、責任がどう配分されているのか」は政治の問題だ、という考え方です5

 そしてトロントは、政治哲学者でケア論の重要な論者でもあるベレニス・フィッシャーとともに、ケアを四つの局面として整理しています。一つ目は、気づくこと。必要に気づくことです。二つ目は、引き受けること。責任を引き受けることです。三つ目は、実際にケアすること。技能として実施することです。四つ目は、受け取ること。受け取り手の反応を含めて評価することです。この整理を、英語ではそれぞれ caring about、taking care of、care-giving、care-receiving と呼びます6

 私はこの整理が、「ケア×アート」が増殖する時代を考えるうえで、とても使えると思っています。アートがケア現場に入るとき、誰が最初に必要に気づくのか。誰が責任を引き受けるのか。実施に伴う負担――時間、調整、予算、リスク――を誰が引き受けるのか。最後にそれは誰の反応として受け取られ、どんな評価回路に乗るのか。ここが個人化されれば、アートはやりがい搾取の燃料にもなります。共同化されれば、アートは関係を支える媒介にもなりうる。私はその分岐点を丁寧に見たいのです。

 そして、ここで「第三者」の問題が出てきます。ケアの現場で表現活動が動くとき、そこにいるのは「支援する人」と「支援される人」だけではありません。しばしば第三者が混じります。アーティストやアート関係者が現場に入ることもあれば、地域の人が関わることもある。制度の内側にも外側にも属しきらない誰かが、触媒のように働くこともあります。その第三者は、気づくことを促し、引き受けの形を変え、実施の空気を変え、受け取りと評価の回路を揺らすことができる。うまく働けば、責任が一人に背負わされない方向へ、共同化の方向へ、場を傾けることができます。逆に、設計を誤れば、第三者がいいとこ取りになったり、現場側に負担だけが残ったりもする。ここも、この連載で丁寧に扱いたい論点です。

当事場と関わり合いの技術

 ケアの現場では、言葉や理屈だけで関係が作れない場面が多くあります。知的障害のある人とのやりとりでも、認知症の人とのやりとりでも、あるいは子どもとの関係でも、「説明すればわかる」「筋道を立てれば伝わる」という前提が崩れることがある。すると沈黙は「コミュニケーションができない」と切り捨てられ、苛立ちは「ややこしい人」と扱われ、繰り返される癖は「問題行動」と呼ばれます。ですが、その言語の外側にこそ、関係を続ける手がかりが潜んでいることがあります。

 ここで必要になるのは、うまく説明する表現力ではなく、言葉にならないものをそのまま置ける表現のほうです。説得するための表現ではなく、関係が持ちこたえるための媒介としての表現です。表現が媒介として働くとき、それは「上手い/下手」や「伝わる/伝わらない」とは別の地平で、人のあいだに作用します。

 だからこの連載で大事にしたいのは、「評価を捨てる」ことではありません。むしろ、評価や責任の置き方を共同で作り直すことです。誰か一人の才能や努力に回収せず、誰か一人の美談にもせず、誰か一人の自己責任にもせず、複数の視点が並んだまま、その場に留まれるようにする。私はこれを「当事場」と呼んできました。

 当事場とは、支援する/されるという役割や立場を超えて、表現などをきっかけに生まれる、ただ共に居るための場です。ここでいう「ただ」は、放置や無関心のそれではありません。むしろ「急がない」「決めつけない」「一足飛びに評価しない」という意味での「ただ」です。たとえば沈黙が生まれたときに、それを「会話が止まった失敗」として処理せず、沈黙が沈黙のまま居られる時間を確保する。苛立ちが出たときに、それをすぐ「問題行動」へと翻訳せず、その苛立ちがどこから来ているのかを、結論を急がずに眺め直す。誰かの癖や反復を「直す対象」にせず、その反復がその人の生活や安心とどう結びついているのかを、関係の中でゆっくり確かめる。こうした遅さや保留を成立させるために、表現が媒介として挟まることがあります。完成した作品のためではなく、関係が壊れないために。そう、本連載で伝えたいキーワードは、表現によって「評価への回収を遅らせる」ということなのです。

 そして、ここで大事なのは、当事場が「当事者のための場」でも「支援者のための場」でもなく、複数の当事者性が並ぶ場だということです。支援者が「支援者として正しく振る舞う」ことだけに閉じ込められず、いったん「私」として関わり直せる回路。利用者が「支援される人」「困った人」というラベルだけで見られず、「あなた」として見え直される回路。第三者も含めて、複数の当事者性が並んだまま、責任と評価を共同で持ち直していける回路。私は、ケアの現場でアートがしてきたことの核心に、この回路の設計があるのではないかと考えています。

 ここで、仕事についての議論を加えます。社会学者リチャード・セネットは、現代の働き方が短期化し、成果や自己管理の圧が強まることで、人が長い時間をかけて培ってきた「仕事と人格(キャラクター)」の関係が壊れていく、と論じました7。仕事が人生の時間のなかでつながらなくなり、関係が断片化するとき、私たちは自分の経験を「評価の型」に合わせて梱包することに追い立てられます。冒頭で紹介した就活の息苦しさは、その最前線の一つです。そして私は、ケアの現場でアートが必要とされてきた背景には、実はこの「仕事と人格」の問題も絡んでいるのではないか、という仮説を持っています。ケアの仕事が人格を削られない仕事であるために、あるいは関係が単なる業務へ回収されないために、表現が媒介として必要とされてきたのではないか。次回以降、具体的な現場と往復しながら、この仮説も含めて検証していきます。

アートは何を組み替えてきたのか

 最後に、連載全体の問いに戻ります。私が問いたいのは、アートがケアの現場で役に立ったかどうかではありません。アートが入ることで、関係の回路がどう組み替えられてきたのか、ということです。

 この連載では、福祉施設や病院、そしていくつかの表現実践の現場を訪ねながら、ケアの現場でアートが何をしてきたのかを考えます。そこには、美術や演劇といったいかにもアート的なものだけでなく、ラジオやカルタのように、一般にアートとは呼ばれてこなかった実践も含まれます。なぜなら、そうした実践が、言葉にならない経験をそのまま置き、複数の声が並んで共に居るための場をつくっているからです。

 支援・治療・参加という制度が整っているはずの場所で、それでもなお扱いきれなかった関係や時間、言葉にならない経験に対して、表現がどう関わってきたのか。そしてもう一つ。そこで働く人、関わる人、巻き込まれる人が問題を一人で背負わされずに済む条件は何か。第三者が触媒になるとき、その触媒が穴埋めとして使い捨てられず、共同化として機能する条件は何か。そこまで含めてケアと表現の関係を問い直していきます。ひいては、能力や成果を測る物差しだけで人と関係を裁いてしまう社会の回路を少しずつずらし、その別の設計図を、ケアの現場から引き出していくために。

1 「障害者による文化芸術活動の推進に関する法律」(平成30年法律第47号)。公布日:2018年6月27日。条文・沿革はe-Gov法令検索を参照。
2 たとえば、NHK『No Art, No Life』(放送年:2020年1月–、NHK公式サイト
3 たとえば、株式会社ヘラルボニー(HERALBONY)の活動については、公式サイトおよび主要な事業紹介ページを参照(参照日:2026年5月24日)。
4 アンジェラ・マクロビー『クリエイティブであれ――新しい文化産業とジェンダー』田中東子監訳、中條千晴・竹崎一真・中村香住訳、花伝社、2023年。原著は Angela McRobbie, Be Creative: Making a Living in the New Culture Industries, Polity Press, 2016。
5 ジョアン・C・トロント『ケアするのは誰か?――新しい民主主義のかたちへ』岡野八代訳・著、白澤社、2020年。また、ケアを民主主義と責任配分の問題として論じる議論については、Joan C. Tronto, Caring Democracy: Markets, Equality, and Justice, New York University Press, 2013 も参照。
6 Berenice Fisher and Joan C. Tronto, “Toward a Feminist Theory of Caring,” in Emily K. Abel and Margaret K. Nelson eds., Circles of Care: Work and Identity in Women’s Lives, State University of New York Press, 1990. また、ケアの四局面については Joan C. Tronto, Moral Boundaries: A Political Argument for an Ethic of Care, Routledge, 1993 も参照。
7 リチャード・セネット『それでも新資本主義についていくか――アメリカ型経営と個人の衝突』斎藤秀正訳、ダイヤモンド社、1999年。原著は Richard Sennett, The Corrosion of Character: The Personal Consequences of Work in the New Capitalism, W. W. Norton, 1998。

ケアの現場でアートは何をしてきたのか

福祉施設や病院などケアの現場で、美術や演劇、音楽やダンスはもとより、ラジオ番組やカルタ創作など、多様なアート・表現の実践が近年なされている。 なぜケアの現場で、アートが必要とされてきたのか。そして、アートが入ることで、その場の人々の関係の回路は、どう組み替えられてきたのか。 福祉やケア、アートの現場を行き来しながら、「多様な背景を持つ他者といられる〈場〉をつくる」ことを行ってきた、アーティスト・文筆家のアサダワタルが、実践現場も紹介しつつ探っていく。

関連書籍

プロフィール

アサダワタル

1979年、大阪生まれ。場をつくる人。アーティスト・文筆家。音や声、言葉を手がかりに、人と人が関わり直す「場」を作品として各地で創出してきた。ケア、コミュニティ、教育、アートの現場を横断しながら、「住み開き」や「当事場」といった一連の概念を提唱し、実践と執筆を往復している。著書に『当事場をつくる—ケアと表現が交わるところ』(晶文社)、『住み開き増補版—もう一つのコミュニティづくり』(筑摩書房)、『想起の音楽—表現・記憶・コミュニティ』(水曜社)、『アール・ブリュット アート 日本』(共著、平凡社)、CDに『福島ソングスケイプ』等。滋賀県立大学大学院環境科学研究科博士後期課程満期退学、博士(学術)。近畿大学文芸学部准教授。

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