睡眠を哲学する 最終回

自己愛としての睡眠―隠遁と快楽の哲学へ

伊藤潤一郎

1. ここまでの振り返り

 いよいよ最終回。これまでの議論を振り返りつつ、結論へと向かおう。

 睡眠と哲学を結びつける本連載の試みには、大きく分けて二つの背景があった。

 ひとつは、現代の睡眠を取り巻く状況である。その特徴は、本連載の最初に論じた「Pokémon Sleep」をはじめとする現代のスリープテックに見事に現れている。いまや多くのひとが当たり前のように睡眠アプリを起動したスマホを枕元に置いて眠り、スマートウォッチやスマートリングを装着してみずからの睡眠を計測するひとや、効率的な疲労回復を謳うリカバリーウェアを愛用するひともいる。多種多様な技術によって睡眠の質を改善・向上しようとする現代人の姿勢は、一昔前とは眠りの姿を大きく変えたといえるだろう。

 今後もスリープテックの開発は進み、新たな技術が登場してくるだろうが、どれほど斬新で目を引くものが現れようとも、おそらくその本質は変わらない。しっかりと睡眠を管理し、効率のよい睡眠をとり、パフォーマンスを向上させる―あらゆるスリープテックの本質はここにあり、これこそが現代の睡眠の特徴なのだ。私たちは睡眠に効率を求める時代に生きており、その結果として睡眠に関する言説は、科学的な裏づけの有無にかかわらず、「パフォーマンス」や「生産性」といった言葉と結びついてしまっている。それに対し、「睡眠を哲学する」という本連載は、効率や生産性とは異なる睡眠のあり方を探究することを目指してはじめられたものだった。

 だが、哲学の長い歴史を振り返ってみても、哲学者たちは睡眠を正面からほとんど論じていない。本連載のもうひとつの背景は、哲学的な睡眠論がほぼ存在していないというこの事実にある。もちろん、前回まで見てきたように、古代以来、哲学者たちは散発的なかたちでは眠りを論じてきた。しかし、哲学史を追うことで明らかになったのは、西洋の哲学者たちの多くが、覚醒時の意識に価値を置き、眠りを貶めてきたということだ。本連載はこれを「目覚め中心主義」と名づけ、実のところこのような態度こそが、睡眠に効率を求める現代の睡眠観を下支えしていることを指摘してきた。

 この二つの背景を踏まえるならば、覚醒時のパフォーマンス向上を目指す睡眠とは異なる眠りの姿を見つけるためのヒントとなるのは、「目覚め中心主義」とは別のかたちで眠りを理解する思考のはずである。実際、前回まで見てきたように、幾人かの哲学者たちは覚醒とも睡眠ともつかない「あわい」の領域にある曖昧な意識に注目し、「目覚め中心主義」から脱却する道筋を示していた。最終回では、そのなかでも最も重要な哲学者としてルソーに注目してみたい。現代の睡眠をめぐる状況を踏まえてルソーを読み解くとどうなるだろうか。手がかりは、最晩年のルソーの著作『孤独な散歩者の夢想』にある。

2. 夢想と喜び――ルソー

 晩年のルソーは、ひどい迫害妄想に悩まされていた。『孤独な散歩者の夢想』を開けば、「奴らは私への憎悪を極限まで募らせていた」といった言葉が冒頭から目に飛び込んでくる。あらゆるひとが自分を排除しようとしている――還暦を過ぎたルソーはそのような妄想に悩まされ、みずからを「天涯孤独の身」とみなしていたのだ。

 他者との軋轢にかくも苦しんでいたルソーだが、『孤独な散歩者の夢想』では、それとは対極にあるような経験、つまり最上の幸福と安らぎを感じた経験が回想されている。50歳の誕生日を目前にして亡命生活を強いられたルソーが、スイスのビエンヌ湖にあるサン゠ピエール島にたどり着いたときのことだ(地図をご覧いただければわかるように、この島はいまでは陸地とつながっており、湖に突き出す細長い半島になっている)。ルソーによれば、サン゠ピエール島での6週間ほどの滞在はこの上なく幸せなものだったという。ルソー自身の言葉を読んでみよう。

夕暮れが近づくと、高みから降り、湖畔に腰を下ろすのが好きだった。ひっそりとした隠れ家のような場所があり、砂の上に腰を下ろす。波音と水の動きが私の感覚をとらえ、私の魂から雑念を取り払う。こうして私は甘美な夢想に身を浸す。気がつかないうちに夜になっていることもしょっちゅうだった。寄せては返す波の音。いつまでも続き、ときに大きく聞こえてくる波の音。夢想が心のざわめきを消し、空っぽになった内面を満たすように、水の音と眺めが私の耳と目に休みなく流れ込んでくる。そうしていると、わざわざ頭を使って考えなくても、ただこうしているだけで存在することの喜びを感じることができるのだ。

(ルソー『孤独な散歩者の夢想』永田千奈 訳、光文社古典新訳文庫、2012年)

 ルソーが感じた幸福は、『孤独な散歩者の夢想』というタイトルに現れる「夢想」と結びついている。ただし、ここでの「夢想」を辞書に載っているような一般的な意味で理解してしまうと、肝心なポイントを掴み損なってしまう。ルソーが語る「夢想」とは、実現する見込みのない物思いに耽ることではない。そうではなく、この場合の「夢想」とは、何よりも心を煩わせるさまざまな雑念から距離を取ることなのだ。自分自身の内に引きこもることと言ってもよいだろう。

 かつての親友ディドロと決別したり、教育論『エミール』がキリスト教を批判するものとみなされて逮捕状が出されたりと、ルソーが経験した人間関係や社会におけるごたごたは枚挙にいとまがない。そうした社会的な面倒事から離脱し、孤独であるがゆえに幸福に存在している状態こそ、ここで「夢想」と言われているものだ。ルソーにとってサン゠ピエール島での6週間は、社会から隠遁し、自分ひとりだけで味わうことのできる最上の喜びを感じた時間だったのである。

3. 夢想と自己愛

 自己へと引きこもるこのような喜びを、〈利己愛/自己愛〉という二つの概念を使って別の角度から光を当ててみよう。「利己愛」と「自己愛」は、初期の著作『人間不平等起源論』に登場し、それ以降もルソーが頻繁に用いた重要な区別だ。日本語訳の字面だけを見ると非常に似ているが、この二つの愛情の違いを理解する鍵は「他者との比較」にある。

 ルソーによれば、利己愛とは他者との比較によって自分を愛することだ。「あいつより私のほうが優れている(だから私は愛すべき存在だ)」といったように、他者と比べることでみずからを愛するのが利己愛である。他者を経由しなければ自分を好きになれないのが利己愛だといってもいいだろう。利己愛の特徴は、自分ひとりでは自分自身への愛情が完結しないところにある。

 それに対し、自分自身の愛し方にはもうひとつ別のパターンがあるとルソーは考える。それが自己愛であり、こちらは他者を経由しない愛情である。自分自身だけで完結した愛情、他者との比較が入り込まない自分自身への愛情、それが自己愛にほかならない。

 この違いを踏まえると、『孤独な散歩者の夢想』で語られている夢想とは、利己愛から離れて自己愛を生きることだといえる。ルソー自身、こう語っている。

恐ろしい経験によって、私は利己愛を最小限に抑え込むことを学んだ。〔…〕自分の魂にだけ閉じこもり、利己愛を必要とするような外的な関係を断ち、比較をしたり好みを言い募ったりするのをやめ、私自身にとって善いと思うことだけをして利己愛を満足させるようになった。そうすると、利己愛はふたたび私自身に対する愛となって自然の秩序に戻り、私は世間の評判から解放されたのである。

(ルソー『孤独な散歩者の夢想』、既訳から訳文変更)

 SNSのことを思い浮かべざるをえない一節だ。他者の目を過剰に意識し、承認をめぐる終わりなき消耗戦がくりかえされる現代とは、利己愛の渦巻く時代なのだといえるかもしれない。そのようななかで、晩年のルソーの思考は魅力的なものに映るだろうか。魅力的であったとしても、非現実的な文字どおりの「夢想」にすぎないだろうか。

 たとえそう感じられるとしても、ルソー流の夢想は、実際には私たちの身近なところで思いのほか簡単に実現できることなのかもしれない。他者との比較をやめ、自分ひとりで自分のことを愛し、そこに無上の喜びを感じること。これは眠ることではないだろうか。

4. 夢想と睡眠

 先の引用からもわかるように、ルソーがサン゠ピエール島で経験した夢想は、睡眠とも覚醒ともいえない状態である。あえていえば、ボーっとすることや放心状態といえるかもしれないが、いずれにしても〈覚醒/睡眠〉という二項対立では捉えられない経験が語られているといえるだろう。

 それゆえ、ルソーのテクストに忠実に解釈すれば、夢想をそのまま睡眠とみなすことは難しい。だが、ここではあえてルソー流の夢想を睡眠の一形態として理解してみたい。というのも、迫害妄想に悩まされるなかでルソーが見出した安らぎは、パフォーマンス向上の手段と化した現代の睡眠から抜け出す道筋を示しているように思えるからだ。

 先ほど見たように、夢想とは他者との比較を絶した自己愛だった。そして、夢想が眠りの一種であるとするならば、夢想とは他者と比べることのできない絶対的な眠りということになるだろう。「絶対的」とは、文字どおり「対」を「絶った」ということだ。他者との比較基準が入り込まない、眠る当人にとってのみ意味をもつ眠りといってもよい。

 しかしここまで何度も述べてきたように、現代の睡眠はスリープテックによってつねに比較に晒されるようになっている。昨日よく眠れたかが可視化され、100点満点で睡眠スコアが表示されるアプリもある。睡眠が点数化されるということは、その点数をこれまでの自分の睡眠と比較できるということであり、他者の睡眠とも比べられるということだ。

 だが、そもそもなぜ睡眠に点数をつけなければならないのだろうか。睡眠の質を点数という量で測ることは本当にできるのだろうか。むしろ睡眠に点数をつけることは、「眠れていない」という不安を煽る結果になりかねないのではないか。夢想としての睡眠を考えるならば、この根本的な疑問の前で立ち止まらなければならない。

 たしかに人間は数値化に弱い。数値として可視化されると、わかった気になり、安心してしまう。しかし、みずからと同じ人間はどこにもおらず、私たち一人ひとりがそれぞれの仕方で生きているのだとすれば、むしろ私が私たるゆえんは数値化できないところにあるはずだ。それゆえ、睡眠を哲学するならば、他者と比較しえない睡眠を考えなければならないだろう。つまり、自己愛としての睡眠こそが、哲学的な睡眠論の最重要の問題なのである。

5. 八代亜紀が歌う「残酷な天使のテーゼ」

 若干脇道に逸れるが、数値化・点数化の話になると、かつて八代亜紀が出演していた「WiiカラオケU」のCMをいつも思い出してしまう。八代がカラオケで「残酷な天使のテーゼ」を歌い、その歌が採点されるというものだ。正しい音程やリズムなどが記載された楽譜のようなもの(ガイドメロディー)が画面上を流れてゆくなかで、八代はとても楽しそうに、絶妙に中心を外したノリと母音が変化する独特なビブラートによって、八代亜紀にしか歌えない見事な「残酷な天使のテーゼ」を披露していた。

 だが、耳に聴こえてくる完成度とは裏腹に、八代の歌がガイドメロディーから大きく逸脱していることは一目瞭然だった。強烈なビブラートによって音程が大きく乱高下するのみならず、リズム的にも前ノリと後ノリが複雑に入り乱れ、もはやガイドメロディーのほうが正しくないのではとさえ思えるほどである。八代亜紀版「残酷な天使のテーゼ」は、ガイドメロディーが示す「正しさ」と実際の歌のうまさとのあいだにある落差をまざまざと見せつけていた。

 ガイドメロディーとは、いわば数値化された正しさ、みんなにとっての正しさを視覚化したものだろう。しかし、実際の歌のうまさはガイドメロディーをなぞることによっては決まらない。むしろ「うまい」歌とは、さらに言えば「音楽」とは、楽譜どおりに歌ったり弾いたりすることではなく、楽譜からの落差を生み出すことだとさえいえるだろう(もちろん楽譜のない音楽もたくさんあるし、機械的な反復によって生み出される音楽的快楽もあるが、そのあたりは措いておこう)。数値化された正しさに捕らわれているうちは、歌はけっしてその人のものにならない。八代亜紀は、この残酷ともいえる事実を楽しげに示す稀有な歌手だったように思う。

6. 補助輪としての睡眠スコア

 おそらく、睡眠スコアもガイドメロディーのようなものなのだ。採点基準は誰にでもあてはまるよう一般化されており、ほかならぬ私のために用意されたものではない。日々高得点を取れるような睡眠習慣を身につけることは、科学的には正しい眠りだろう。しかし、私たち一人ひとりが生きて眠るということは、一般性からはみ出し、基準からの落差を生み出すということでもあるはずだ(毎日100点満点の睡眠をたたき出す人間がいるとすれば、それはほぼ機械のような存在ではないだろうか)。

 睡眠を哲学的に考えるならば、一般化された基準から逸脱した眠りに光を当てなければならない。この逸脱にこそ睡眠の多様性が宿るとともに、「うまい逸脱」と「へたな逸脱」が問題となる。「正しさ」を追い求めるかぎり、〈うまい/へた〉は問題にならない。よく眠るということは、正しく眠ることではなく、うまく眠るということなのだ。

 むろん、端から睡眠スコアや科学的な知見を無視しろと言いたいのではない。自分自身にとってのよい睡眠を見つけるためにも、まずは睡眠に関する科学的成果を知る必要があるし、本連載も科学の知見をできるかぎり踏まえたうえでの睡眠の哲学を目指している。だが、科学的な正しさだけを追い求めた先にあるのは、徹底した睡眠の自己管理とパフォーマンス向上のための睡眠の手段化でしかない。科学者たちによる多くの睡眠本が、能力主義や成果主義と表裏一体の関係に陥っていることを思い出したい。科学知と能力主義の蜜月関係の外に出るには、科学では説明しえない睡眠のあり方(科学が見ようとしない睡眠のあり方)を考える必要がある。

 いわば睡眠スコアとは補助輪のようなものだ。いったんは数値化や点数化を試みたとしても、その先にある睡眠、このほかならぬ私にとってのよい眠りを見つけなければ意味はない。そのような数値化の先に存在する眠りこそ、自己愛としての睡眠である。補助輪はいつか取り外すときがくるものだ。そのときはじめて、眠りはいまここを生きる私だけのものとなる。

7. 睡眠の自己目的化

 スリープテックによって睡眠がますます利己愛化してゆくなかで、どのようにすれば自己愛としての睡眠を実現できるだろうか。

 何よりも重要なのは、睡眠を他の目的のための手段にしないことである。たとえば、パフォーマンスを向上させるために眠ることは、覚醒時の活動という目的に睡眠を従属させることに等しい。目的のための手段となったとき、睡眠には効率が求められ、睡眠不足による経済的な損失が語られるようになるだろう。西野精治『スタンフォード式 最高の睡眠』が、睡眠のタイムパフォーマンスを追求するものであったことを思い出そう。

 睡眠がかくも競争の手段となってしまっている現在、そこから抜け出すためには、眠りを他の目的のための手段という地位から解放し、自己目的化する必要がある。働いたり活動したりするために眠るのではなく、眠るために眠るということだ。睡眠が数値化され、利己愛としてしか眠れなくなるときに最初に失われるのは、このような自己目的化した睡眠にちがいない。

 ここでもう一度だけルソーが夢想について語っている言葉に戻ってみたい。サン゠ピエール島での夢想の日々がもたらした状態を語る次の一節は、自己目的化した眠りの特徴を見事に言い当てていないだろうか。

確固たる基盤を得て、魂がすべてをゆだね、過去や未来に思いを馳せることなく、存在のすべてを今ここだけに結集させることが可能になるような状態、魂にとって時間が無であるような状態があるのかもしれない。〔…〕そのような状態が持続するならば、それを幸福と呼んでもよいだろう。それは日々の快楽から感じられる不完全で貧しい相対的な幸福ではなく、充足した幸福、完全で満ち足りた幸福である。

(ルソー『孤独な散歩者の夢想』、既訳から訳文変更)

 「時間が無であるような状態」という表現は、ルソーが語る夢想と睡眠がきわめて近い状態であることを示唆している。だが、この箇所で注目すべきは、夢想がもたらす幸福のほうだろう。そう、夢想はこの上ない幸福を感じさせるものなのである。自己目的化した睡眠もまた、夢想と同じく強い幸福をもたらすものではないだろうか。

 たとえば、明日の起床時間を気にせず、好きなだけ眠れる日の眠りほど幸せなものはない。ベッドで一度は目覚めたがまだ眠く、二度寝をしようと布団をかぶるときの心地よさは何ものにも代えがたい。その結果、起床時間が乱れたとしても、そんなこと知るもんかと二度寝をするときに感じる快楽はきわめて強いものだろう。「週末の寝だめはよくない」と専門家たちは口を揃えて言うが、二度寝ができるのに無理にいつもと変わらない時間に起きてしまうならば、そのとき私たちは快楽を手放すとともに、自己目的化した睡眠をも手放している。自己愛としての睡眠が失われてしまうのだ。

8. 睡眠を哲学する―隠遁と快楽の哲学へ

 いま私たちは利己愛に塗れた世界に生きている。「こんなことに私は役立ちます」と自分の有能さをひたすら証明させられ、他人より優れているところを「強み」として明確にするよう求められる。「できる」ことばかりを列挙させられたあげく、定期的に「自己点検」や「自己評価」が課せられて、「できる」ことを増やし、能力を不断に向上させることが要請されている。私たち一人ひとりはつねに他人との比較のなかに置かれており、この環境から抜け出すことはきわめて難しい。

 そのうえ、スマホを開けばSNSでも他人との比較に巻き込まれる。フォロワー数や「いいね」の数の多寡こそがすべてであるかのような雰囲気が漂い、インプレッションを稼ごうと他人を当て込んだ言葉とイメージが量産されてゆく。人間が数値化に弱いということがここまで露骨に可視化された時代はいままでなかったのではないかと思えるほど、数字と比較が私たちの意識を占領している。

 こんな世界はおかしい―多くのひとが薄々そう思っているはずだが、比較と競争のゲームから降りることもできず、存在意義のわからないブルシット自己評価書類を作成し、それに疲れてはSNSを開いてしまうのが日常だろう。覚醒時の世界をすぐさま変えることは容易ではない。

 だが、睡眠ならばすぐに変えることができるかもしれない。睡眠を覚醒時の目的に従属させず、自己愛としての睡眠をなんとしても守るのだ。覚醒時の世界がどうあがいても利己愛の世界でしかないのならば、眠っているあいだくらい利己愛の世界から離れるべきではないだろうか。利己愛に巻き込まれない場所と時間を作り出すのに、眠るという行為ほど簡単なものはない。だからこそ、睡眠アプリによる眠りの数値化とは、どこかのタイミングで手を切る必要があるだろう。二度寝をして寝だめしてしまったことを後悔させるようなテクノロジーは、利己愛を募らせ自己愛を毀損するだけだ。睡眠にまで利己愛を浸透させることは、覚醒時の世界だけでなく、世界全体を利己愛で覆い尽くすことになってしまう。他人との比較・競争から逃れたければ、眠って自己愛の世界へと入ってゆかなければならない。

初期ギリシアの哲学者のひとりであるヘラクレイトスが、いまから2500年ほど前に残した言葉は、自己愛としての眠りをすでに理解していたかのようだ。

目覚めている者たちには共通のひとつの世界がある(が、眠っている者たちは、それぞれが)自分だけの(世界へ帰っていく)。

(内山勝利 訳、『ソクラテス以前哲学者断片集Ⅰ』、岩波書店、1996年、DK22 B89)

 目覚めているあいだの私たちは、全員に共通の尺度である数字にいやでも振り回されてしまう。だが、眠ってしまえば、そこにあるのは「自分だけの世界」だ。もう少し正確にいえば、眠っているあいだは意識がなく、目覚めてからしか眠っていたことはわからないのだから、「自分だけの世界」とは、自分にとってもよくわからない自分だけの世界だといえよう。この絶対的な秘密を抱えた世界こそ、自己愛としての眠りの世界にほかならない。

 いま目の前に広がる世界がどれほど腐り切っていようとも、他のことは何も考えずにぐっすりと眠る場所と時間を確保しよう。私たちにはそれぞれのサン゠ピエール島が必要なのだ。目を閉じてそこに引きこもるとき、他者との比較や競争から得られる快楽とは比べものにならない快楽がもたらされるだろう。利己愛の世界から隠遁し、睡眠がもたらす絶対的な快楽の世界へと向かわなければならない。睡眠を哲学することは、隠遁と快楽の哲学へと通じている。明日は何も予定がないならば、アラームも睡眠アプリも切って、自分にもよくわからない自分だけの世界へと逃げ込み、眠りをじっくりと味わいたい。

(『睡眠を哲学する』は今回が最終回です。本連載は加筆・修正のうえ、集英社新書より刊行されます。ご愛読ありがとうございました)

 第11回
睡眠を哲学する

私たちの睡眠は、完全な休息とは切り離されはじめている? 哲学者の伊藤潤一郎が、さまざまな睡眠にまつわるトピックスを、哲学を通して分解する。

プロフィール

伊藤潤一郎

いとう じゅんいちろう

哲学者。1989年生まれ、千葉県出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、新潟県立大学国際地域学部講師。専門はフランス哲学。著書に『「誰でもよいあなた」へ:投壜通信』(講談社)、『ジャン゠リュック・ナンシーと不定の二人称』(人文書院)、翻訳にカトリーヌ・マラブー『泥棒!:アナキズムと哲学』(共訳、青土社)、ジャン゠リュック・ナンシー『アイデンティティ:断片、率直さ』(水声社)、同『あまりに人間的なウイルス:COVID-19の哲学』(勁草書房)、ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で:黙示録的理性批判』(共訳、法政大学出版局)など。

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