フィクションの世界のなかや、古い歴史のなかにしか存在しないと思われている「魔女」。しかしその実践や精神は現代でも継承されており、私たちの生活や社会、世界の見え方を変えうる力を持っている。本連載ではアメリカ西海岸で「現代魔女術(げんだいまじょじゅつ)」を実践しはじめ、現代魔女文化を研究し、魔術の実践や儀式、執筆活動をおこなっている円香氏が、その歴史や文脈を解説する。
今回は、「魔女」という言葉のイメージがどのように変遷してきたかを、古代から中世の記述や世界の伝承からみていく。
時代と共に変容する「魔女」
人類の歴史において、「魔女」という存在は常に人々の想像力を刺激し、畏怖と憧憬の対象となってきた。民間伝承や物語の中の「魔女」は、時として善い存在のようでもあり、時として危険な存在のようでもある。単純ではない。私たちが「魔女」という言葉から連想するイメージは、長い歴史の中で様々な要素が複雑に絡み合って変化し、形成されてきたものだ。たとえば今日においては、魔女という言葉はパワフルな女性を指す。そのような言葉は他にあまりない。だからこそ多くの人々がこの言葉に強く魅かれている。けれども、このようなポジティブな「魔女」像が人々のあいだに流通し始めたのは比較的最近のことだ。「魔女」という言葉は元々は、害悪魔術を行い、邪悪で、自然に逆らう、反社会的な存在とされた人々に対して向けられた、侮蔑的な言葉だった。このことも決して忘れてはならない。
日本において「魔女」は梨木香歩の「西の魔女が死んだ」や「魔女の宅急便」に出てくるキキのお母さんのような「経験豊かな賢い女性」としてフィクションに登場しているが、こうした魔女像の源流はロマン主義にある。19世紀、ロマン主義の中で魔女は自然と結びついていき、今日の人々の憧れの対象にもなった。グリム童話で知られるヤーコプ・グリムは『ゲルマン神話学』(1835)で「魔女=古代の自然宗教を担った賢女・治療家」説を提示し、キリスト教による魔女弾圧を批判。その後も歴史家ジュール・ミシュレ、マチルダ・ジョスリン・ゲイジ、そして、マーガレット・マレーらによってこの言説は新しい魔女の幻影を生み出していった。これを「魔女カルト理論」と呼ぶ。「魔女カルト理論」とは「魔女として迫害された人々は古代から続く異教の組織的な宗教を信仰する人々である、もしくは知恵のある民間の治療家だった。」という説である。この説は現在の学術的な研究では否定されている。しかし、この言説に触発された多くの芸術家、作家、吟遊詩人たちによって、後に、フェミニスト的視点からの魔女の再解釈が行なわれることになる。これは20世紀の人々に夢を与えていった一方で、過去には「魔女が賢女であった」という誇張が民族主義的に政治利用された歴史もまた存在する。
ナチスの高官たちがゲルマン神話やオカルトに傾倒していたことはよく知られているが、ナチス・ドイツの親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーは魔女迫害に強い関心を抱き、それをカトリック教会による犯罪であり、古代ゲルマン的遺産を抹殺しようとする企みであると見なしていた。ナチスは魔女に関する資料を収集し、再評価している。ナチスは、魔女狩りを「外来のユダヤ・キリスト教勢力がゲルマン民族固有の文化や知恵を弾圧した歴史」と位置付け、自然に関する知恵を持つ「賢女」のイメージを「ゲルマン民族の過去の遺産を発掘すること」と「反キリスト教、反ユダヤ」とを結び付けて利用しようとしたのである。中世、近世の魔女のイメージがユダヤ人の迫害とも関連してきた歴史を鑑みると支離滅裂ではあるものの、彼らはこの「魔女が賢女であった」というナラティブを自分たちの政治に都合がいいように利用しようとしたのである。
歴史にせよ物語にせよ、それらが単純化された形で広まっていくことには危険が伴う。
ここではそうした単純化を回避するべく、古代から現代に至るまでの魔女のイメージの変遷を追いながら、人々が魔女という存在に何を投影してきたのかをみていこうと思う。
メソポタミアから古代ローマまで
人類最古の文字記録の中に、すでに魔術を使うものの存在が確認できる。紀元前1800年頃に編纂されたバビロニアの「ハンムラビ法典」には、魔術を使って他者に危害を加えた者への処罰が記されている。
古代メソポタミアの粘土板には、悪意ある魔術から身を守るための呪文や祈祷文が数多く残されている。
古代エジプトでは神官たちは魔術を神々との交信手段として積極的に活用し、魔術は宗教的実践の一部として受け入れられていた。
ギリシャ神話には魅力的な魔女たちが登場する。ホメロスの『オデュッセイア』に登場するキルケーは、魔術によって人間を動物に変える力を持つ女神、あるいは魔女として描かれ、恐れと同時に魅力的な存在として描写されている。
キルケーはアイアイエー島に住む強力な魔女(もしくは女神)だ。彼女は香りの高い薬草や秘薬を調合する技に長け、オデュッセウスの部下たちを豚に変えてしまう。しかし、彼女は単なる邪悪な存在ではない。神の血を引く高貴な存在であり、後にオデュッセウスの助言者となり、冥界への道筋を示す案内人ともなる。このような二面性を持つキルケーの姿は、今日の私たちが知るミステリアスな魔女のイメージの源流の一つとなった。
キルケーの姪にあたるメディアはさらに複雑な存在として描かれる。コルキス王の娘であり、太陽神の孫娘という高貴な出自を持つ彼女は、イアソンへの恋のために故郷を捨て、その魔術の力を彼のために使う。しかし、後にイアソンに裏切られた彼女は、復讐のために自らの子供たちを殺す。エウリピデスの悲劇『メディア』における彼女の姿は、魔術の力と女性の情念という、後の魔女像に大きな影響を与えることになるテーマを体現している。メディアの物語は、女性の力への恐れと、その力の源泉としての魔術という観念を表している。
夜を飛ぶ者たち――ストリクスの伝承
ローマ帝国時代の民間信仰における最も恐ろしい存在の一つが、ストリクスと呼ばれる女の鳥の妖怪である。彼女たちは夜に飛び交い、 子どもたちを探し求める。 その胸から内臓を引き裂き、 血に飢えた喉を潤す。これは実在のフクロウに似た鳥の特徴と、人間の女性の特徴を併せ持つ存在として描かれた。大きな頭部、凝視する目、嘴は略奪用、羽は白く、鉤爪は曲がっていると言われている。この鳥の妖怪たちは夜陰に紛れて飛び回り、高い声で鳴き、特に幼い子どもたちを襲って、その血や内臓を貪ると信じられていた。これは日本でいうところの産女、姑獲鳥(うぶめ)にも非常によく似ている。
ストリクスには、二つの特徴がある。一つは「夜に飛ぶ能力」であり、もう一つは「子どもたちへの危害」である。この恐ろしい妖怪の民間信仰は、後の時代の邪悪な魔女像の形成に影響を及ぼした。魔女たちもまた動物に変身し空を飛び、赤子を盗み、喰らうと考えられていたからだ。また、ストリクスは吸血鬼の原型にもなった。
中世ヨーロッパには「夜の軍勢」や「ワイルドハント」と呼ばれる夜彷徨う霊の民間伝承も存在する。これらは夜空を飛び交う精霊や死者の群れの民間信仰で、特に中央ヨーロッパで広く信じられていた。これらの伝承もまた、後の魔女のサバトのイメージ形成に影響を与えることとなる。
聖書の魔女――ユダヤ・キリスト教伝統が形成した魔女像
古代ギリシャ・ローマの神話的な魔女像と並んで、ユダヤ・キリスト教の伝統における魔女の描写も、後世の魔女のイメージ形成に決定的な影響を与えることとなる。その最も古い記録の一つが、旧約聖書の「出エジプト記」第22章18節に見られる「女の妖術師を生かしておいてはならない」という一文である。たった一行の記述ではあるが、この言葉は後の時代、特に中世以降のヨーロッパにおける魔女迫害を正当化する根拠として繰り返し引用されることとなった。
ヘブライ語の原文では「メカシェファー」という言葉が使われており、これは「魔術を使う女性」を意味する。この単語が特に女性形で書かれているという事実は、すでにこの時代から、魔術の実践者として女性が特に警戒されていたことを示唆している。歴史的に見ても、「ウィッチ」は何も説明がない場合は女性の事を指している事が殆どである。
ユダヤ・キリスト教の伝統の中で最も興味深い魔女的存在は、リリスであろう。リリスは、アダムの最初の妻とされ、彼に従うことを拒否して楽園を追放された存在として描かれている。リリスはアダムと対等に土から作られた存在であり、従属を拒否したために楽園を去ったとされている。
リリスの物語は、男性の支配に従わない「反抗的な女性」の原型として、後の魔女のイメージ形成に大きな影響を与えた。彼女は夜の悪霊となり、特に新生児や妊婦に危害を加えるとされた。この特徴は、メソポタミアのリリトゥから受け継がれたものであり、また先に見たローマのストリクスの伝承とも重なり合う。リリスはストリクスのような夜の飛行者たちの女王として描かれることもあったという。
リリスのルーツ――メソポタミアのリリトゥ
「夜に飛ぶ女性的存在」への恐れは、人類の最古の文明にまで遡ることができる。古代メソポタミアのシュメール文明において、すでに「リリトゥ」という女性の悪魔的存在が知られていた。
リリトゥという名は、シュメール語で「風」や「空気」を意味する「リル」に由来する。彼女は風のように目に見えず、夜風に乗って人々の住む場所へと侵入する存在として描かれた。特に、建物の隙間から忍び込んでくると考えられていた。
メソポタミアの人々にとって、リリトゥは特に恐ろしい存在だった。彼女は不毛の荒れ地や廃墟に住み、夜になると人々の住む場所へと飛来し、特に出産前後の女性や新生児、そして若い男性を襲うとされた。また、眠っている男性に性的な夢をもたらし、その生命力を奪うとも考えられていた。
リリトゥへの対抗手段として、メソポタミアの人々は様々な護符や呪文を用いた。特に、出産後の母子を守るために、リリトゥを退散させる呪文を刻んだ粘土板や護符が広く用いられていた。考古学的な発掘調査では、新生児の遺骨とともにこうした護符が発見されることも多い。
このメソポタミアのリリトゥは、バビロニアやアッシリアの時代を通じて、中東の広い地域で恐れられる存在となった。そして後に、ユダヤ教の伝統の中でリリスとして再解釈されることとなる。ユダヤ教のリリスは、メソポタミアのリリトゥから、「夜に飛ぶ」「子どもたちを襲う」「男性の生命力を奪う」といった特徴を受け継ぎながら、新たな物語――アダムの最初の妻としての物語――を付与されたのである。
女神から魔女へ――境界的存在
これまで見てきた古代の魔女像の中には、いくつかの興味深い共通点がある。それは、これらの存在が古い女神信仰と何らかの形でつながっているという点だ。実際、「魔女」として恐れられた存在の多くは、より古い時代には女神としても崇拝されていた可能性が指摘されることがある。
この観点から見直すと、古代メソポタミアのリリトゥも、元々は風の精霊の一族に属する神的存在だった。同様に、ギリシャ神話のキルケーやメディアも、太陽神の血を引く神的存在として描かれている。彼女たちは完全な人間でも、完全な神でもない。また、善悪では割り切れない中間的な存在として位置づけられていた。
このような境界的存在としての特徴は、世界各地の民間伝承にも見ることができる。その代表的な例が、ブリテン諸島に伝わるハッグ(醜い老婆の姿をした超自然的存在)、日本でいうところの山姥である。彼女たちは特定の土地や自然の力と結びつき、時に人々を助け、時に害をなす両義的な性質を持っている。アイルランドおよびスコットランドの民間伝承に登場するケラッハと呼ばれる存在は、古代ケルトの女神との強いつながりを示している。自然の支配者や創造者、あるいは破壊者として描かれ、石を投げたり、杖で地面を叩くことで山や湖が形成されたとする伝説がある。
同様の存在は他の文化圏にも見られる。たとえば、ロシア、スラヴ文化圏のバーバ・ヤガは、森の奥深くに住む山姥であり、強力な魔女的存在である。彼女は鶏の脚を持つ小屋に住み、時に主人公を助け、時に人間に危害を加える。
日本の山姥もまた、人間とは異なる存在として恐れられながら、畏敬の対象ともなる複雑な存在だ。山姥は文字通り山に住む女性的存在として描かれ、人間を食べる恐ろしい妖怪として語られる一方で、山の女神としての性格も持ち合わせていた。
山姥の特徴的な二面性は、各地に伝わる伝承の中によく表れている。恐ろしい妖怪としての一面は、巨大な体躯を持ち、長い爪と牙を備え、人間、特に子どもを食べる存在として恐れられた。また多産・多淫も指摘され、人間の男性を誘惑する危険な女性としても語られた。
怖れられる一方で、山姥は富や福をもたらす存在としても信仰されていた。足柄山の金太郎の母親として描かれることからもわかるように、強い母性的な側面も持ち合わせている。山の資源や作物の豊穣を司る女神としての性格も持ち、農耕や狩猟に関わる知恵を人々に授ける存在としても考えられていた。
この二面性を象徴的に表しているのが「姥皮」の物語である。この物語は、山姥が人間の娘に自分の皮を貸し与え、その娘が幸せな結婚に至るという展開を持つ。ここでの山姥は、恐ろしい外見を持ちながらも、人間に対して慈悲深く福をもたらす存在として描かれている。
「姥皮」の物語は、ヨーロッパの「シンデレラ」の物語と構造的な類似性を持つことが指摘されている。また、ロシアの民話に登場する山姥バーバ・ヤガとも共通点が見られる。特に、継母に虐められた子どもを助けるという物語の展開は、バーバ・ヤガの物語とよく似ている。これは世界各地に存在する「恐ろしくも慈悲深い山姥」というモチーフの一つだ。
近年ではこの物語はフェミニスト的に解釈されており、バーバ・ヤガから与えられる試練と援助は弱い立場の少女が勤勉に働き、居場所のない家庭からの解放の物語として見る向きもある。
また、山姥の登場する物語の中で今でもよく知られている『三枚の御札』は明らかに黄泉の国で妻に会おうとしたイザナギが恐ろしい姿に変わり果てたイザナミから桃を投げながら逃げる神話を下敷きにしている。日本の神々を産んだ女神がここでは山姥に変容しているのである。また山姥から逃げる過程で山や河、砂丘などが生まれるのも他の地域と共通する特徴だ。
山姥伝説の背景には、古代からの山岳信仰の影響を見ることができる。山は神々の住まう聖なる場所であると同時に、人々に死や危険をもたらす畏怖の対象でもあった。山姥はそうした山への畏怖が結晶化した存在として理解することができるだろう。
これらの存在に共通するのは、人里離れた場所(森、山、荒れ地など)に住む、人間社会の秩序の外側に位置する、両義的な性質を持つ(助力と危害の両方の可能性)、特定の土地や自然との強い結びつき、そして古い女神信仰との関連性である。
戦後日本の民俗学は柳田邦男の影響を受けて 「山姥=山の神の妖怪化」 を前提に議論を展開してきた。その結果、山姥は山の女神の零落したものであると民俗学では考えられてきた背景がある。しかし、日本の山姥/女神研究で知られる高島葉子は「文献や民俗資料に描かれた山姥は、つねに善悪両面を兼ね備えた存在であり続けている。」と指摘し、「妖怪」を「神霊」の零落と捉えるのではなく、「畏怖に満ちた女神」として山姥を捉えている。
欧米の現代魔女達の信仰の中核にも女神がいる。
女神と魔女の間には切り離せない関係があり、「魔女」のイメージの形成には、歪められた古い女神信仰という側面も関係しているかもしれない。一神教の台頭とともに、かつての女神たちは周縁化され、悪魔化されていった。現代の魔女達はだからこそ民間信仰を掘り起こし、女神の神話を語り直そうとする。民間伝承の中では、彼女たちの両義的な性質――つまり、破壊的であると同時に創造的でもあるという特徴――が保持され続けているのである。
夜の軍勢と女神崇拝
闇に包まれた真夜中、数多の女たちが家々を抜け出し、獣の背に跨って、ある者は獣姿に変わり、ある者は獣に跨り、大空へと舞い上がっていく。彼女たちが従うのは、古の女神ディアナ。月明かりの下、一団は大地を離れ、夜を駆け巡る。
「サタンに身をゆだね、悪霊の幻覚幻想に惑わされたよこしまな女たちが、以下のようなことを信じ、かつ告白していることも無視してはならない。すなわち、その女たちは、真夜中に異教の女神ディアナや数え切れないほどの女たちとともに、獣に乗って夜のしじまに広大な距離を飛行し、女主人である女神ディアナの命令にしたがい、また别の夜にはディアナに仕えるために呼び集められるという。その不信心によって滅びるのが自分たちだけであり、その他の大勢の者をその不信心の破滅に引きずり込むことがないならば、それでもよいであろう。だが数え切れないほど多くの人々がこの誤った意見に惑わされ、それを真実と信じ、そしてそう信じるがゆえに正しき信仰の道からさまよい出て、異教の誤謬に陥り、唯一なる神のほかになにか神の力のようなものが存在すると考えているのである。」
9世紀に初めて記録され、10世紀に編纂された「司教法令」(Canon Episcopi)は、このように夜の集いについて警告している。法令によれば、多くの女性たちは「特定の夜に、異教の女神ディアナと共に獣に乗って広大な土地を渡り歩く」と信じていたという。彼女たちは、ディアナの従者として、女神の命令に従って行動すると主張した。
教会は、これらの主張を厳しく非難した。法令は、このような異教の信仰を「悪魔的な幻惑」として、これを信じる者は「サタンの策略に騙されている」と断じた。教会は、司祭たちに対してこうした「占いと魔術の技」を教区から追放するよう命じていた。
この法令の記述は、古い異教的な民間信仰が息づいていたことを示している。
私自身、あらゆる魔女に関するイメージの中でこのヴィジョンに一番魅了されているかもしれない。夜の女神と共に飛翔するという幻想的なヴィジョンは、後の時代の現代魔女のイメージ形成に大きな影響を与え、こうした夜間の霊的な旅のモチーフは、現代魔女術における変性意識を使用した体外離脱の実践や祝祭としてのサバトのイメージ形成に直結している。
こうした夜の集いでは、ディアナやヘロディアをはじめ、ホルダ、ペルヒタ、妖精の女王、オリエンテ夫人といった地域ごとの霊的女性存在が集団を率いるとされた。時折、男性の配偶者や従者を伴うこともあった。また、彼女たちが冬至などに家庭を訪れ、祝福や舞踏を行ったという民間信仰も残っている。
これらの夜の集会には、民衆魔術を実践する女性が参加することができ、霊魂を体から送り出すことで集団に加わることができたという記録があり、民間の魔術実践と何らかのつながりがあったことをロナルド・ハットンは指摘している。
これらは、キリスト教化以前の異教の信仰の残滓を示唆しており、後に詳しく説明するが、マーガレット・マレーの学説が批判され、多くの現代魔女たちがマレーの説を支持しなくなった後にも、魔女と異教の関連を示唆する点で興味深い民間信仰の事例だ。
このような魔女に関する民間伝承は、20世紀に登場するウイッカ(現代魔女宗)に大きな影響を与えた。チャールズ・G・リーランドの著書『アラディア』(1899年)の中にも似た記述を見ることができる。彼はイタリア・トスカーナ地方の魔女マッダレーナから聞き取ったという伝承を元に、「魔女アラディアがルシファーとディアナの娘として貧しい人々に魔術を教えた」とする神話的物語を紹介している。ただし、この記述にはリーランド自身やマッダレーナによる創作・脚色が含まれている可能性が高く、その史料的信憑性には今日も議論がある。
中世ヨーロッパの民間伝承において、夜の世界は様々な霊的存在で満ちていた。19世紀のドイツの民俗学者ヤーコプ・グリムは、これらの夜の軍勢を「ワイルドハント」として体系化し、様々な地域の類似した伝承を研究した。ロナルド・ハットンは、これが実際には異なる時代や地域の様々な要素が複雑に絡み合って形成されたものだと指摘している。例えば、放浪する死者の軍勢の伝説は11世紀以降に発展したキリスト教的な観念であり、一方で女神に導かれた夜の騎行の伝説は、より古い異教的な要素を含んでいる。これらは当初は別個の伝統であったが、時代と共に混ざり合っていったと考えられている。
妖精たちもまた、この夜の世界の重要な住人だった。スコットランドの魔女裁判の記録には、妖精との接触を告白した被告人の証言が数多く残されている。1576年のベシー・ダンロップの裁判では、彼女は妖精の女王から薬草の知識を授かったと証言している。このような事例は、民間医療の実践者たちが、その知識の源泉として妖精世界との繋がりを主張することがあったことを示している。
しかし、15世紀になると、これらの夜の存在たちは徐々に悪魔的な存在として再解釈されていく。キリスト教のエリートたちによって「悪魔学」という分野が研究され、魔女たちが悪魔と契約を結び、空を飛んでサバトと呼ばれる集会に参加し、悪魔と性交するといった今日多くの人が想像するステレオタイプの魔女のイメージが成立していくこととなった。
「魔女のサバトのイメージには異教の信仰との繋がりがあるのだろうか?」
これは現代魔女たちが最も興味を持ってきた問いの一つだ。ウイッカに大きな影響を与えたマーガレット・マレーの「魔女として迫害された人々は古代から続く異教の組織的な宗教を信仰する人々である。」という主張(魔女カルト理論)は学術的には否定されているからだ。
しかし、16世紀のイタリア、フリウリ地方の異端審問の記録の中から、興味深い記録が発見された。それは「ベナンダンティ」と呼ばれる人々の存在だった。彼らは、自分たちが夜の戦いに参加していると主張した。イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルの著書『夜の合戦――16〜17世紀の魔術と農耕信仰』(1966年)はこのベナンダンティの実態を研究したものだった。ベナンダンティたちは、自分たちが霊的な戦士であり、共同体の豊穣を脅かす悪い魔女と戦うために、魂が体を離れて夜に集まると証言していた。彼らは、羊膜を被って生まれた者たちだけがこの能力を持つと信じていた。ただし、ベナンダンティは自分たちをキリスト教徒だと主張し、悪魔との関係を否定していた。しかし、それにも関わらず、彼らの語る「夜の集会」は、当時の教会が危険視していた異端とみなされ、迫害された。
果たして、べナンダンティは古代の異教と魔女のサバトを繋ぐ蝶番的な存在だったのだろうか。マーガレット・マレーは、魔女裁判の背後に組織的な豊穣の宗教を見出そうとしたが、ギンズブルグはマレーと距離を置き、より慎重なアプローチを取った。彼は、ベナンダンティの信仰が単純な異教の残存ではなく、民衆文化とキリスト教文化が複雑に絡み合って生まれた独特の現象だと指摘した。
この分野については現在に至るまで研究がなされていて、いまだ確実なことは言えない。だが、魔女のサバトのイメージには多くの民間伝承の要素が影響を与えてることは間違いない。
『魔女に与える鉄槌』(Malleus Maleficarum)の誕生と影響
「すべての魔女術は肉欲に由来する。しかもその肉欲は、女性のうちでは飽くことを知らない。」
旧約聖書・箴言30章を見よ。
「満ち足りることを知らぬものが三つあり、
いや、もう一つ――決して『もう十分だ』と言わぬ第四のもの――
それは 母胎(子宮)の口 である。
ハインリヒ・クラーマー『魔女に与える鉄槌』
1486年、ドミニコ会修道士ハインリヒ・クライマーによって著された『魔女に与える鉄槌』は、魔女狩りの歴史における重大な転換点となった。しかし、この著作の背景には、クライマー個人の歪んだ女性観と執着が色濃く反映されていた。
クライマーがどのような幼少期を過ごし、どのようにしてその歪んだ女性観を育むことになったのかは、分かっていない。分かっていることは、1481年、クライマーはインスブルックで魔女裁判を主宰しようと試みたものの、地域の司教によって却下され、その地を去らなければならなくなり、この屈辱的な経験が、彼の女性に対する偏執的な敵意をさらに助長し、彼を『魔女に与える鉄槌』の執筆へと向かわせたということだ。
『魔女に与える鉄槌』の目的は彼の考えの正当性を主張することにあったのだ。その内容は、驚くほど性的な妄想に満ちていた。クライマーは、魔女たちが悪魔と性的関係を持ち、男性の性器を盗んで隠すといった奇妙な主張を展開した。彼は特に、女性の性的な力に対する強迫的な恐怖を著作の中で繰り返し示した。
この本は三部構成になっており、魔女の定義、なぜ女性が魔女になりやすいか、第二部では魔女の犯す害悪魔術、悪魔との性的関係、農作物や家畜への危害、空中飛行、子供の拉致と殺害、性器の盗取、そして第三部には裁判の手続きについて、逮捕から拷問、自白の引き出し方などが載った魔女狩りの手引書となっている。
イヴの原罪から、女性は本質的に邪悪であること。女性は理性が弱く、欲望に流されやすいこと。美しい女性ほど危険、産婆は最も危険な魔女。女性は性的欲望が強く、悪魔の誘惑に弱い。女性は「不完全な動物」である…など強い女性嫌悪に満ちた本をクライマーは一人で書き上げた。当時、共著者として名を連ねていたドミニコ会士ヤーコブ・シュプレンガーの役割はかなり限定的で、クライマーが著作に権威を持たせるために名前を貸りただけだと現在では考えられている。
出版後しばらくは、『魔女に与える鉄槌』は教会の権威者たちからも懐疑的に見られていた。ケルン大学神学部は1487年にこの書を非難し、インノケンティウス8世の教皇勅書を偽造して利用したとしてクライマーを批判した。
しかし皮肉なことに、印刷術の発達と相まって、この著作は徐々に影響力を持つようになっていった。1500年までに少なくとも13版を重ね、魔女裁判の手引書として広く参照されるようになった。特に、裁判官たちがこの書を実務マニュアルとして使用し始めたことは、その後の魔女狩りの激化に決定的な影響を与えた。
かくしてこの時代、各地の民間信仰や伝承は完全に歪曲され、かつて妖精や夜の女神と関連づけられていた要素は、すべて悪魔の仕業に置き換えられていくことになる。
『魔女に与える鉄槌』の悲劇は、一人の修道士の女性蔑視と性的強迫観念が、当時の最新のテクノロジーであった印刷技術の登場により、制度化された女性迫害の理論的基盤となってしまったことにあるだろう。もちろん、いかにクライマーの書が広く読まれたからといえ、土壌のないところに種は育たない。クライマーが受け入れられた背景には、組織的宗教が内包し、中世末期から近世にかけてのヨーロッパ社会にすでに潜在していた、女性恐怖症と性差別がある。『魔女に与える鉄槌』はそうしたすでに潜在していた差別意識に「神学的」な正当性を与えてしまったのである。
(次回へつづく)

フィクションの世界のなかや、古い歴史のなかにしか存在しないと思われている「魔女」。しかしその実践や精神は現代でも継承されており、私たちの生活や社会、世界の見え方を変えうる力を持っている。本連載ではアメリカ西海岸で「現代魔女術(げんだいまじょじゅつ)」を実践しはじめ、現代魔女文化を研究し、魔術の実践や儀式、執筆活動をおこなっている円香氏が、その歴史や文脈を解説する。
プロフィール

まどか
現代魔女。アーティスト。留学先のLAでスターホークの共同設立したリクレイミングの魔女達に出会い、クラフトを本格的に学びはじめる。現在はモダンウィッチクラフトの歴史や文化を日本に紹介している。未来魔女会議主宰。『文藝』『エトセトラ』『ムー』『Vogue』『WIRED』などに現代魔女に関するインタビューや記事を掲載。2023年から逆卷しとねとキメラ化し、まどかしとね名義でZINE『サイボーグ魔女宣言』を発売。笠間書院にて『Hello Witches! ! ~21世紀の魔女たちと~』を連載中。