「ジャイアンツ愛」への逆風
「私は四十三歳で監督になりました。まあ言ってみれば青年監督です。キャンプに入ってオープン戦が始まった頃は、多くの人が、握り拳を私の頭のほうにふりかざしているような気がしました。メディアにしても、評論家にしても、九割型がみんなふりかざしているように思えた。この人もこの人も、えっ、こいつもそう思ってるのか、みたいな感じです。ですから逆に『ようし、見とけ』というのはありました」
(選手たちを動かした勇気の手紙/原辰徳/幻冬舎)
2001年秋、長嶋茂雄監督から直々に巨人監督の座を継承した原辰徳だったが、周囲の反応は冷ややかなものだった。年上のOBからは、「あんな苦労知らずのお坊ちゃんに巨人の監督が務まるのか」という理不尽に厳しい視線が注がれ、原が新しい抑えとしてヘッドコーチ時代から中継ぎ投手として万全の準備をする姿を見てきた河原純一を抜擢すると、「何を考えているんだ」と批判が沸き起こる。メディアも、チームスローガンが“ジャイアンツ愛”だと知ると、「勝負の世界に愛なんて」と嘲笑した。原のアイドル人気がピークに達していた1982年にリリースしたレコードが『どこまでも愛』だったこともあり、相変わらず能天気な甘ちゃんだと指摘されたのだ。
長嶋監督時代は毎年のように派手な大型補強を繰り返したが、2001年のストーブリーグで獲得したFA選手は中日の中継ぎ投手・前田幸長のみで、ドラフト1位は例年のように自由獲得枠制度を利用した即戦力ではなく、高校生投手の真田裕貴(姫路工)を指名した。逆風の中、長嶋巨人の遺産で戦うことが、原辰徳に課せられた監督1年目のテーマだった。
宮崎キャンプの初日は観衆700人で、星野仙一監督が就任した阪神の安芸キャンプの3000人と比較すると寂しいものだった。しかし、キャンプ打ち上げの共同記者会見で、原は自身の背番号と同じ年間83勝を「夢の数字ではありません」と言い切った。開幕戦は、本拠地でその星野率いる阪神に敗れるも、「監督ってすっげぇおもしれえなあ」と口にする若さと危うさが同居する青年監督らしい船出だ。初勝利は開幕4戦目、ナゴヤドームの中日戦と遅れたが、その後は3カード連続の勝ち越し。主力の清原和博や仁志徳久の故障離脱がありながら、順調に白星を重ねていく。4月27日から5月5日には8連勝を飾り、5月12日には初めて首位に立った。この頃、世の中は開幕を間近に控えたサッカー日韓W杯の話題で持ちきりだったが、プロ野球界では星野阪神と原巨人の首位争いがペナントレース序盤を盛り上げた。
前任者とは違う原監督独自の選手起用法も目立った。長嶋監督時代は左投手が出てくると交代させられていた清水隆行を左右関係なく一番打者に固定。清水は球団記録を更新する年間191安打を放った。周囲の反対を押し切って抑えに抜擢した河原純一も、守護神として1イニング限定で使うと、春先は16試合連続無失点と抜群の安定感を見せた。そして、原は死にかけていたあのベテラン投手をも再生する。当時プロ17年目、34歳の桑田真澄である。
“代打・桑田”に送ったメッセージ
「昨年までは干されていたからね。雨の広島で敗戦処理をやらされた時に、途中から僕は泣いていました。正直な話、99パーセント、引退を考えていた。でも原さんが電話をくれた。“マスミ、オレと一緒にやってくれないか。先発一本で行くから”と。そう言ってくれたから、今の僕があるんです」
(週刊ベースボール別冊冬季号 2002プロ野球総決算)
長嶋巨人最終年の2001年は4勝しか挙げられず、桑田はすでに終わった投手と思われていた。三本柱と称された盟友の斎藤雅樹や槙原寛己は、同年限りで現役を引退した。原は監督就任の直後に渡邉恒雄オーナーから「桑田をどうする?」と訊かれ、「来年は戦力として考えています」と答えたという。ただ、指揮官は背番号18の再生に根拠や自信があったわけではない。
「戦力として考えているという言葉は、厳密に言うとウソになる。桑田はまだやれるという思いも強く持っていたが、同時に、もう限界かもしれないとも思っていた。どちらに転ぶか賭けてみよう。チームの大功労者に対し、きちっとした『死に場所』を確保してやりたい。復活するか、引退するか、という賭けは、どちらに転んでも桑田自身にとってプラスになると考えた」
(選手たちを動かした勇気の手紙/原辰徳/幻冬舎)
現役時代は、四番打者とエースという共にチームの中心を担った関係性だったが、原は桑田に対して特別扱いはしなかった。あくまで開幕時は先発6番手の位置付けで、4月5日の横浜戦で初登板初先発をすると6回3失点後、登板機会がないため一軍登録を抹消。ファームでの調整登板や中継ぎ起用はせず、中13日を空けて4月19日の阪神戦に先発させた。この起用に桑田は9回を115球無失点の粘りの投球で応え、延長10回に福井敬治が決勝アーチを放ち、今季初白星が転がり込んだ。巨人のエースナンバーを背負ってきた男にとって、先発6番手という評価は屈辱に近かった。敵地・甲子園のマウンド上で、「勝ってやる、見返してやるという執念」で投げ続けたという。
この年、桑田は打席でも打率.294、OPS.798という野手顔負けの打撃成績を残しているが、6月19日の横浜スタジアムでは同点で迎えた延長11回表、無死一塁の場面で、原監督はなんと「代打・桑田」を告げる。ベンチには清原和博、鈴木尚広、村田善則と3名の野手が残っていたが、清原に慣れない犠打をさせるわけにはいかず、控え捕手の村田や代走のスペシャリスト鈴木はベンチに残しておきたい。そんな時、逡巡する原とダグアウトにいた桑田の目が合った。すでに桑田は誰に言われたわけでもないのに、スパイクに履き替えようとしていた。試合展開から、代打で自分の出番があるかもしれないと読んだのだ。指揮官との阿吽の呼吸で代打に送られた桑田は、初球で難なくバスターエンドランを決めてみせ、チャンスが拡大した直後の仁志敏久の決勝タイムリーで巨人は接戦を制した。
この時、ファンは喜んだが、現場ではまた別の反応があったのも事実だ。横浜監督の森祗晶は、悔しさのあまり「あんなもん、見え見えの戦術や」と試合後に記者に向かって吐き捨てた。新人監督・原は、あくまで星野や森といった大御所監督に胸を借りる挑戦者の立場だった。カリスマ性で巨大戦力のチームをまとめた長嶋茂雄とはまた違う、若さと情熱の監督像である。2002年の原は、活躍した選手に送る監督賞の封筒には必ず自身の思いを込めた直筆のメッセージを添えるようにしていた。「代打・桑田」で勝利をすると、原は背番号18に監督賞とともにこんな感謝のメッセージを送っている。
「ジャイアンツスピリット 桑田スピリットを生きた手本として見せてくれました。代打“桑田”のコール。私は生涯忘れないでしょう。ケガなく終わりチームも勝った。ナイスプレーヤー桑田」
この年、34歳の桑田は9月に3連続完投勝利を飾るなど、4年ぶりの二桁勝利となる12勝を挙げ、15年ぶりに最優秀防御率のタイトルを獲得する。いわば、原は「桑田復活」という“賭け”に勝ったのである。
「お前と十連覇したい」
原巨人は6月には一時2位に後退するが、日韓W杯(既出に合わせて)の日本戦開催日に、プロ野球の試合が行われない変則日程中に星野阪神が急失速。夏場には独走態勢となり、8月13日には戦後二番目の速さで優勝マジックが点灯した。
すべては順調に見えたが、実はこの2002年シーズン、巨人は勝敗とは別にひとつの大きな問題を抱えていた。「松井秀喜の巨人残留交渉」である。FA権を取得した4月13日の中日戦試合前、記者会見に臨んだ松井は「巨人を第一に考えていきたい」と口にしたが、巨人残留を明言したわけではなかった。この時、すでに27歳の松井は野球人として、新たな舞台での挑戦に気持ちが傾いていた。
「01年末の契約更改時に翌年FA宣言することを明らかにし『巨人のユニホームを着続けるか、アメリカに行くか二つに一つ』と話した。客観的に見れば、そう口にした時点でおおかた気持ちは固まっていたのかもしれない。それでも決断の時が近づくと、巨人をどれだけ好きだったかが分かった。主力として本当にチームを離れていいのかという責任も感じていた」
(エキストラ・イニングス/松井秀喜/文春文庫)
松井は1999年秋にヤンキースタジアムで、プレーオフのリーグ優勝決定戦を観戦して以来、メジャーリーグ移籍を夢ではなく、現実的な目標として胸に秘めていた。2001年には、ひと足早く渡米した1学年上のイチローが、シアトル・マリナーズでMVPや新人王を獲得する大活躍を見せており、日本人野手への評価も高まりつつあった時期だ。東京ドームは、2002年から限りなく天然芝に近い新人工芝の“フィールドターフ”を導入したが、これも膝の故障歴がある松井の引き止め策の一環と囁かれた。
5月28日、読売新聞社の臨時株主総会が開かれ、7月1日より「株式会社よみうり」に属していた巨人が、読売グループの再編で、「株式会社読売巨人軍」として独立することが発表された。これに伴い、ビジター用ユニホームの胸文字「TOKYO」が消え、「YOMIURI」に変更。新たに就任した堀川吉則球団社長は、「松井選手は巨人の顔というだけでなく球界の大スター。今はシーズン中ですから、シーズンが終わり、彼の考えがまとまったら会いたい」(週刊ベースボール2002年6月17日号)と松井への残留要請を明言した。しかし、このYOMIURI表記の新ユニホームはファンから不評で、松井も「なぜ巨人の伝統を大事にしないのか」と苦言を呈し、渡邉恒雄オーナーが激怒する騒ぎがあった。
だがグラウンド上では、プロ10年目の背番号55は選手会長を務め、巨人での集大成のような充実のシーズンを送っていた。序盤こそ本塁打数が伸びなかったが、7月は打率.379 、11本塁打。8月も打率.402、13本塁打と2カ月連続で月間MVPを受賞。7月9日の広島戦では通算300号アーチを放ち、28歳ちょうどでの到達は王貞治の27歳3カ月に次ぐ史上2番目の若さだった。終盤に打率部門で福留孝介(中日)に抜かれ、三冠王こそ逃すも、本拠地最終戦で球団では王貞治以来の年間50本塁打を記録した。
まさに選手として絶頂期を迎えた背番号55に対して、原監督も4月15日には遠征先の広島のホテルで自室に呼び、「俺はお前と共に十連覇を目指したいと思っている」と自身の気持ちを伝えている。あくまで巨人監督としての行動だったが、同時に野球人としては、松井はメジャーリーグを目指すのではないかという予感もあった。
大黒柱の松井が牽引した巨人は、9月24日に早くも甲子園で2年ぶりのリーグ優勝を決める。終わってみれば、86勝52敗2分で、2位ヤクルトに11ゲーム差をつけての独走優勝である。西武と激突した日本シリーズでは、圧巻の4連勝で就任1年目の日本一を達成した。シーズン中、巨人戦のテレビ視聴率は15パーセント前後に低迷していたが、日本シリーズ第1戦は視聴率30.5パーセントを記録(なお関東地区で日本シリーズ中継が視聴率30パーセントを超えたのは、現時点でこの試合が最後である)。開幕前の原新監督への懐疑的な声を文字通りの圧勝で黙らせた。10月30日、西武ドームでの日本一監督インタビューで、「自分の中では、まだプロローグ。(巨人の黄金時代は)これからが始まりです」と高らかに宣言した原辰徳の長期政権が始まったと誰もが信じて疑わなかった。しかし、この栄光の二十数時間後にチームに激震が走る。
2002年10月31日午後8時、日本一を祝うスポーツニュースへの出演を控えた原の携帯電話に着信があった。松井からである。番組終了後、ホテルオークラに向かった原は、松井の口からこう告げられるのだ。
「監督、申しわけありません。どうしても夢を捨てきることができません。メジャーリーグに行かせてください」
(Number563号)
この時、原は「もう考えは変わらないか」と確認した上で、「ゴジの決断ならオレは応援する」と断腸の思いで主砲の旅立ちにエールを送った。そして、11月1日の深夜1時過ぎ、松井のメジャーリーグ移籍の速報ニュースがテレビで流れる。盟主・巨人軍の四番打者が絶頂期に自らチームを去り、さらに上のステージのメジャーリーグを目指す。日本球界にとっても事件だった。それは、昭和から全国の野球少年たちが最終目標として憧れた、“ジャイアンツ・アズ・ナンバーワン”システムの終焉を意味していたからだ。
そんな時代に、原辰徳はあえて“ジャイアンツ愛”を掲げて戦った。OBやマスコミから嘲笑されようが、監督賞で熱い想いを伝える直筆メッセージを綴り、ホームランを打った選手をベンチ前で相手の目を見て祝福したいからとグータッチで出迎える。真夏の阪神との直接対決の前には、前シリーズから続く死球の報復合戦に、「男は戦うときがある」とナインを鼓舞してみせた。44歳の青年指揮官は、文字通り選手たちと共に戦う兄貴分だった。
前年限りで長嶋茂雄がユニホームを脱ぎ、今度は松井秀喜までもがチームを去った。ひとつの時代の終わり―――。まさに原辰徳が監督1年目に日本一に輝いた2002年、長嶋巨人が終わったのだ。
こうして、名実ともに「原巨人の時代」が始まったのである。
【第4回へつづく】

2002年、現役時代から比較されてきた長嶋茂雄の後を継ぎ、読売巨人軍の15代監督に就任した原辰徳。その後、3期16年に渡って監督を務め9度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた彼は、巨人の伝統を背負いながら大型補強と大胆なベンチワークを独特のマネジメントでまとめ、新しい野球の形を示した。しかし、現役時代から昭和の象徴である長嶋茂雄の後を背負いながら、平成・令和を経て野球という娯楽の在り方の変化に翻弄された。そして、3度目の監督就任時にはファンから多くのバッシングを受けながら監督を退任するに至る。若き改革者は、なぜファンからも嫌われる「ヒール」になったのか?17年の軌跡を追う。
プロフィール

なかみぞやすたか 1979年埼玉県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。ライター兼デザイナー。
2010年より開設したブログ『プロ野球死亡遊戯』が人気を博し、プロ野球ファンのみならず、現役の選手間でも話題になる。『週刊ベースボールONLINE』『Number Web』などのコラム連載の執筆を手掛ける。
主な著書に『プロ野球死亡遊戯』(文春文庫)、『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)、『巨人軍vs.落合博満』(文藝春秋)、『プロ野球1年目の分岐点 25歳の落合、18歳の大谷』(PHP新書)などがある。
中溝康隆





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