監督・原辰徳 平成巨人の悲哀を背負った男 第4回

若大将の屈辱―2003年編

中溝康隆

「慢心」と戦った監督2年目

「『江本さん!』と原監督から呼び止められた。

そこでパッと振り返ると、『こんな屈辱は人生で初めてですから!』

原監督は鬼のような形相で、溜まっているものを吐き出すように、私に向かって言葉を発したのだ。『屈辱』とはまぎれもなく、監督を辞める羽目になったことである」

(監督 原辰徳研究 この「名将の器」に気付かなかった面々へ/江本孟紀/徳間書店)

 2003年9月26日、巨人の原辰徳監督が辞任会見を開いた。前年の就任1年目に日本一を勝ち取った45歳の青年指揮官が、わずか2シーズンで自らユニフォームを脱いだのだ。都内のホテルでの会見に、次期監督の堀内恒夫とともに同席した巨人の渡邉恒雄オーナーは、「人事異動」という言葉を口にする。

 「私は原監督の辞任とか解任とかいう問題ではなく、読売グループ内の“人事異動”だと思っております。原君は、聞いたら45歳。非常に若いということを知りました。まだまだ先があるんで、また巨人軍の監督になる、就任する、再任する時期が来るだろうと思います」(週刊ベースボール2003年10月13日号)とあくまで円満退団を強調したが、原が三山秀昭球団代表の度重なる叱責と現場介入に堪忍袋の緒が切れ、辞表を叩きつけたのは周知の事実だった。

 原巨人2年目の2003年シーズンは、スタートから重苦しい空気が漂っていた。2002年に日本一となった直後の11月1日、大黒柱の松井秀喜がFA権を行使してメジャー・リーグ挑戦を表明する。11月19日には、その代役にヤクルトから一塁手のロベルト・ペタジーニを獲得した。だが、巨人の一塁には、絶大なファン人気を誇る清原和博がいた。35歳の清原は肉体改造で筋肉をつけて増量してからは下半身の故障が増え、すでに満身創痍だった。清原を生かすためには、ペタジーニを外野に回すしかない。左膝に古傷を抱えるペタジーニの右翼での起用を不安視する声も当然あった。ライバル球団の外国人選手に大金を積んで連れてきたと揶揄されようが、連覇のためには、現状維持でいいという「慢心」が最大の敵だと、原監督は常々公言していた。しかし、迎えた2003年の春季キャンプで、原監督は練習中のコーチ陣の指導姿勢に、その慢心を感じ取り、怒りを露わにする。

「フォーメーションの練習の時には、篠塚野手総合コーチに『誰が内野の守備練習の、指示を出さなきゃいけないのですか? シノさん(篠塚野手総合コーチ)でしょ?』と注意をしました。私の不満を知った鹿取ヘッドコーチが、謝りに来ました。『そのことは分かりました。でも、鹿取さんも鹿取さんです。ミーティングで話を聞いていない選手がいるのに、なぜ私が注意しなきゃいけないのですか? それは鹿取ヘッドコーチの仕事でしょ』と本心を伝えました」

(ジャイアンツ愛/原辰徳/幻冬舎)

 現役時代の篠塚和典や鹿取義隆は、原より早く巨人に入団していた先輩である。しかし、チームのためには、時に年上のコーチ陣を叱らなければならない。自身の公式ホームページ『HARA Spirit』内では、ペタジーニを巡る批判的な報道に対して「確かな真相が分からないのに、悪意に満ちた想像だけで騒ぎ立てる関係者やマスコミにはガッカリさせられました」と書き記している。ある意味、青年監督は孤独だった。

非情になりきれなかった指揮官

 前年に50本塁打を放った松井秀喜の抜けた穴をいかに埋めるのか注目されたが、松井から選手会長の役職を「まぁ、こういうことだから、あとは頼むね」と託された高橋由伸は、周囲からの「新たなジャイアンツの顔に」という大きな期待に戸惑いを隠せずにいた。

「みんな、タイトルだとかトリプリスリー(3割、30本、30盗塁)だとか言いますけど、いったい何を基準にして僕にそれを言うのって言いたくなりますよ(笑)。僕の最高の成績は知ってるんですか、って。30盗塁なんて、絶対ムリでしょ。今のセ・リーグで30も走ったら、盗塁王ですよ。(中略)それだけの力があるように期待してもらってるんだから、とは思っても、夢と目標は違うんだよ、とも言いたくなる」

(Number571号)

 不動の四番打者として全試合フル出場を続けた松井の存在の大きさを、開幕後にあらためて痛感することになる。2003年のペナントレース、原巨人は序盤から主力選手に故障者が続出してしまう。清水隆行が左足太ももの肉離れ、工藤公康が左手親指じん帯損傷、高橋由伸が腰痛、守備中に仁志敏久と激突した元木大介は左肩鎖関節脱臼の重傷を負った。さらに江藤智は開幕から18打席連続ノーヒットと極度の打撃不振に苦しみ、原監督に自ら「時間をください」と二軍降格を申し出た。そんなアクシデント続きのチャンピオンチームとは対照的に、星野仙一監督率いる阪神タイガースが4月から首位を快走する。

 この頃、巨人は抑えの不調に悩まされた。4月23日のヤクルト戦、最終回の3点リードの場面でマウンドに上がったクローザーの河原純一は、5失点の大乱調で敗戦投手に。観戦していた渡邉オーナーは、「なんで2点取られた場面で代えないのか。これで原君も反省するだろう」と采配に苦言を呈したが、原監督は「河原には昨年、随分勝たせてもらった。絶対に復活させたい」と翌24日の同カードにも河原を登板させた。いわばオーナーの言葉を無視した形になったが、河原はまたも2失点を喫しながらも、最後はなんとか1点差で逃げ切る。前年は序盤こそ抜群の安定感を見せた河原だが、月間防御率は8月が4.50、9月も5.00と後半戦は不安定な投球が目についた。それでも、原監督は「我が軍の戦いを否定することはしたくない」と2003年も前年に抑えを託した功労者に懸けたのだ。しかし、救援失敗が続き、5月9日の中日戦で1点リードの9回表にマウンドに上がるも、3点を奪われ負け投手に。この時点で、河原の防御率は13.50だった。「クローザー河原」という形にこだわるあまり、チームはスタートダッシュに失敗してしまう。

 指揮官は、主砲の清原和博に対しても、気を遣った。ペタジーニとの「四番・一塁」争いが注目されたが、原監督はオフシーズンから幾度となく「四番・清原」を明言していた。両太もも痛で、キャンプ初日から別メニュー調整を続けていた清原は4月11日の阪神戦で一軍復帰したが、それまでの10試合は四番にペタジーニではなく高橋由伸が座り、一塁には若手の斉藤宜之や元木大介を起用する。あくまでシーズン前に公約した清原の仕事場とプライドを尊重したのだ。故障を抱えながらも2003年の清原は懸命にプレーし続け、打率.290、26本塁打という成績を残したが、114試合の出場にとどまり、この年の秋に右膝の半月板除去手術に踏み切った。

 一方で、3・4月のペタジーニはリーグ最多タイの10本塁打、チームトップの23打点とひとり気を吐いた。4月中旬からは四番を任せられたが、慣れない外野守備でミスが目立ち、5月になると左ヒザの炎症で登録抹消。一軍復帰までに1ヶ月以上を要した。前年は一番に固定した清水隆行が球団記録の191安打を放つなど冴えを見せていた原采配だが、2シーズン目は抑え河原や四番清原への過剰な思い入れが、結果的に裏目に出てしまった感は否めない。選手とともに戦う兄貴分の青年監督は、同時に勝負に非情になりきれない部分や自身の理想にこだわりすぎる一面もあった。45歳の原辰徳は、指揮官として、まだ発展途上だったのである。

原辰徳の屈辱

 6月中にプロ野球史上初の50勝に到達した阪神と、勝率5割ラインのキープがやっとの巨人のゲーム差は、6月終了時には「13.5」まで広がった。6月27日には早くも原巨人の自力優勝が消滅してしまう。巨人の自力Vが6月中に消滅するのは初めてという屈辱的な展開に、渡邉オーナーの怒りの矛先は自軍のフロントやスカウトに向けられる。

「今年はもうホープレス(絶望的)だな。年俸500万ちょっとの林(昌範)みたいに、ダイヤモンドの原石があるんだから、磨かないと。前から言っているが、読売のスカウトは金食い虫であって、何にも機能していない」

(週刊ベースボール2003年7月21日号)

 前半戦を40勝41敗1分で終え、7月終了時リーグ4位と低迷すると、渡邉オーナーのコメントは日に日に厳しさを増していく。すでに7月8日には阪神の優勝マジック49が点灯。ペナントの勝負はほぼ決しており、後半戦の原監督は1980年生まれの木佐貫洋と久保裕也のルーキーコンビ、1983年生まれの19歳・林昌範ら80年代生まれの3投手を“エイティーズ”と名付け、重点的に起用した。

 前年リーグトップのチーム防御率は3.04から、4.48へと急激に悪化。リリーフ陣は防御率6.30とブルペンは完全に崩壊していた。その投壊の責任を取る形で、鹿取ヘッドコーチが9月5日に辞意を表明する。阪神のV秒読み段階とはいえ、まだペナントレースの最中での異例の公表に、渡邉オーナーは「鹿取君の能力は評価している。全責任を押し付けるのは間違っている。原君ももう少しまじめに考えなくちゃいけない。鹿取を切ればいいってもんじゃない」(週刊ベースボール2003年10月13日号)と原監督の管理能力の欠如を指摘する。

 そんな中、9月9日付けで渡邉との関係が深い三山秀昭が新たな球団代表に就任すると、フロントと現場を預かる指揮官の亀裂は決定的なものとなる。阪神がリーグ優勝を決めた翌日の9月16日、巨人は中日戦で2対19の大敗を喫し、28年ぶりの9連敗となった。原監督は宿舎に戻り、電話で三山代表と今後の戦い方について話し合うも、来季のコーチ組閣や選手起用まで話が及ぶ。現場を軽んじたフロント主導でのチーム作りは、屈辱以外の何物でもなかった。Aクラス確保が現実的なノルマと思われたが、9月18日には三山代表が「契約が残っていたら、それだけで全部やりますか? 結果的にそういうことはないと思うけど、(中日の)山田監督だって2年でああいう形(解任)になった。この世界にはよくあることだ」(巨人軍改革論 週刊ベースボール別冊冬季号)と3年契約2年目の原監督の去就が不透明なことを匂わせる。

若大将の反乱

 そして、ついに原の怒りが限界を超える。9月19日、東京ドーム入りする前に大手町の読売新聞東京本社を訪ね、渡邉オーナーに辞表を提出するのだ。前年の日本一監督が自ら監督を辞めるという想定外の事態に渡邉は数時間にわたり慰留したが、原の意思は固かった。現役時代からどれだけOBやマスコミから批判されようが、現役晩年に長嶋茂雄監督からどれだけ冷遇されようが、じっと耐えて巨人のために打席に立ち続けた男が、初めて巨人に「NO」を突きつけたのだ。いわば、若大将の反乱である。

 球団はその後も原監督を慰留するが、本人の辞意は変わらなかった。巨人の監督が2年で交代するのは、2リーグ分裂後初の出来事で、最終的に監督だけでなく、トレーニングコーチを除く全一軍コーチが辞任を表明。チームは大混乱に陥ってしまう。夏に犠打世界記録を達成した川相昌弘は、原からのコーチ入閣の誘いで現役引退を決意して、翌年から一軍の内野守備走塁コーチの就任が決まっていた。しかし、球団のゴタゴタに嫌気がさして自ら自由契約を選択して、落合博満が新監督に就任した中日ドラゴンズでの現役続行を決断する。のちに原自身も認めているように、一時の感情のままに動く45歳の原辰徳は、監督としてはまだ青く、未熟な面を残していたともいえるだろう。

「このまま何もしないで来季、指揮を執っていいものかと。すべて、こういう成績で終わったのも、監督である私の責任ということ。それと巨人軍の監督としての権威、そして威厳というものに対して傷をつけてしまうという考えのもと、19日に渡邉オーナーに会っていただいて、辞表という形で提出させていただきました」

(週刊ベースボール2003年10月13日号)

 会見で原はそう語り、渡邉オーナーから原の球団特別顧問への就任も発表されたが、「読売の人事異動」という言葉の印象を強めるだけだった。この時、世間は巨人側ではなく、いわば組織から軽く扱われた原辰徳を支持した。理不尽な巨大な組織と対峙する、若き指揮官という構図は巨人ファンだけでなく、大衆の心を掴んだのだ。東京でのラストゲームとなった10月4日の神宮球場のレフトスタンドには、「2002年の夢をありがとう! しかしまだ終わらない! 原監督が帰ってくる日を俺達はずっと待っている!」と大きく書かれた横断幕が掲げられた。10月7日のシーズン最終戦で、阪神・星野仙一監督から花束を受け取り、「勉強してまたグラウンドに帰ってこい」と抱擁された原は涙を流し、なんと敵地・甲子園の阪神ファンからも地鳴りのような「原コール」が鳴り響いた。なお、2003年の最終成績は、阪神から15.5ゲーム差も離され、71勝66敗3分でヤクルトと同率の3位というものだった。

 現役時代の原は、偉大なONと比較されながらもホームランを放つ、団塊ジュニア世代の憧れのアイドルだった。1980年代、背番号8に夢中になった少年たちは、2003年には大人になり、それぞれ社会に出ていた。組織の中で若手社員として日々奮闘する彼らは、権力と戦う原辰徳の姿に、あの頃と同じく熱狂し、拍手を送ったのだ。45歳になってもなお、原辰徳はヒーローのままだった。やがて、原自身が「全権監督」という権力そのものの存在になろうとは、まだ誰も知るよしもない。

 こうして栄光と混乱をもたらした第一次原政権は、わずか2年間で唐突に幕を閉じた。その挑戦が、成功か、失敗か、判断するには早すぎる別れだ。だが、それは「終わり」ではなく、物語が未来へ「つづく」ことを意味していた。

 このわずか2年後、原辰徳は再び巨人軍の監督として戻ってくるのである。

【第5回へつづく】

 第3回
監督・原辰徳 平成巨人の悲哀を背負った男

2002年、現役時代から比較されてきた長嶋茂雄の後を継ぎ、読売巨人軍の15代監督に就任した原辰徳。その後、3期17年に渡って監督を務め9度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた彼は、巨人の伝統を背負いながら大型補強と大胆なベンチワークを独特のマネジメントでまとめ、新しい野球の形を示した。しかし、現役時代から昭和の象徴である長嶋茂雄の後を背負いながら、平成・令和を経て野球という娯楽の在り方の変化に翻弄された。そして、3度目の監督就任時にはファンから多くのバッシングを受けながら監督を退任するに至る。若き改革者は、なぜファンからも嫌われる「ヒール」になったのか?17年の軌跡を追う。

関連書籍

プロフィール

中溝康隆

なかみぞやすたか 1979年埼玉県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。ライター兼デザイナー。
2010年より開設したブログ『プロ野球死亡遊戯』が人気を博し、プロ野球ファンのみならず、現役の選手間でも話題になる。『週刊ベースボールONLINE』『Number Web』などのコラム連載の執筆を手掛ける。
主な著書に『プロ野球死亡遊戯』(文春文庫)、『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)、『巨人軍vs.落合博満』(文藝春秋)、『プロ野球1年目の分岐点 25歳の落合、18歳の大谷』(PHP新書)などがある。

プラスをSNSでも
Instagram, Youtube, Facebook, X.com

若大将の屈辱―2003年編

集英社新書 Instagram 集英社新書Youtube公式チャンネル 集英社新書 Facebook 集英社新書公式X