働きたくない人のための思想史 第1回

なぜ働いてしまうのか

相川計

人間は仕事が好きすぎる?

「愛憎入り交じる」

 人間と労働との関係を物語るのにふさわしい表現です。

 「こんな仕事辞めてやる」と心のなかで叫びながら、身体は会社へと電車で運ばれている。AIを駆使して労働の苦痛から可能な限り逃れようとしている人も、「AIに奪われる職業ランキング」に自分の仕事を見つければ心穏やかではいられない。労働からの解放を願いながら、労働からの完全な解放にも不安がある。

 なぜ、人間は働くことに関して矛盾した感情を抱いてしまうのか。最初に思いつく説明は「お金のためにはイヤでも働く必要があるのだ」というものです。だとすれば、宝くじが当たった途端に喜んで仕事を辞めるでしょう。しかし実際にはそのような人はそう多くありません。

 統計数理研究所による「日本人の国民性調査」(2018年度)[^1]によれば、「もし、一生楽に生活できるだけのお金がたまったとしたら、あなたはずっと働きますか、それとも働くのをやめますか?」という質問に、「働くのをやめる」人は38%だったのに対し、55%の人が「ずっと働く」と答えています。別の質問では「お金があれば、仕事がなくても人生がつまらないとは思わない」と答えた人は32%だったのに対し、64%もの人が「いくらお金があっても、仕事がなければ人生はつまらない」と答えています。

 現代日本人の多くは、労働に単なるお金の獲得手段以上の意味を見出しているのです。

 しかし、古代ギリシャ人はまったく違いました。

古代ギリシャの労働観

 イエス・キリストと同時代を生きた古代ギリシャ詩人・テサロニカのアンティパトロス(前10-後38年ごろ)は、水車によって粉挽きが自動化されたことを、あふれんばかりの喜びを込めてうたっています。

 粉挽きの乙女たちよ、粉を挽くのはもうやめよ。雄鶏が夜明けを告げようと、耳を貸さずにぐっすり眠れ。豊穣の女神デメテルは、水の精たるニンフらに、あなたの仕事を押し付けたのだ。ニンフが車輪に飛び降り車軸を回し、くるくると回る歯車が、ニシロス島のずしりと重たい臼をも回す。わたしたちはふたたびやっと、働かずとも女神がくださる実りを味わって、いにしえの暮らしを楽しめるのだ。[^2]

 あまりにも楽天的に、なんの不安もなく、技術の進歩がもたらす労働からの解放が予感され祝福されています。現代の状況に当てはめてみても、2000年前とほとんど同じ調子でAIが人類に輝かしい未来をもたらしてくれると予言している人も少なくないですが、果たしてわれわれは「働かずとも女神がくださる実りを味わ」う生活にどれほど魅力を感じるでしょうか。前述の調査によれば、64%もの人々がそんな生活はつまらないと答えています。

 われわれはいつから、そしてなぜ、労働から解放されることを楽しみに思えなくなったのでしょうか? 言い換えるならば―われわれはいつ、いかにして、労働を愛するようになったのでしょうか?

 本連載はこの問いを軸に、古代から現代にいたるまでの、人間と労働の歴史をたどります。

労働への愛は、近代の産物である

 早速、われわれはいつから労働を愛するようになったのかという疑問に答えておきましょう。

 その変化は18~19世紀の間、近代の発展期に起こりました。フランス革命(1789~1799年)と産業革命(1760~1840年ごろ)を経て、人類は労働を愛するように、そして愛さねばならなくなりました。

 それ以前の世界史上の大半において、労働とは恥であり、悪であり、堕落であり、憎しみの対象でした。

 アリストテレスは、労働者の生活が人間にはふさわしくない「賤しいもので、徳と相容れない」ために選挙権を与えるべきではないと主張しましたし[^3]、産業革命の時代を生きた、功利主義の創始者として知られるイギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムも、人間は何かを得るための手段として労働したいと欲望することはあっても、「労働の先の目的を考えないならば、しばしば褒め言葉として使われる労働の欲望すなわち勤勉なるものは存在しない」と主張しています[^4]。ベンサムはそれに続けて「労働がそれ自体で生み出せる唯一の感情は欲望ではなく嫌悪」であり「労働を本来の意味で捉えるならば、労働への愛というものは矛盾である」とさえ言い切っています。

 逆説的に聞こえますが、労働倫理よりも先に、反-労働の倫理が存在したのです。われわれがそれを反-がつく邪道な倫理として見るのは単に現代が古代ギリシャとは逆の時代であるからで、古代ギリシャ人から見ればわれわれは「反-人間の倫理」の時代を生きているように見えるはずです。

〈人間の条件〉としての労働

 では近代において人類はいかにして労働を愛するようになったのでしょうか? それは〈人間の条件〉[^5]としての労働の発見によって可能となりました。

 ここで言う〈人間の条件〉には二つの意味があります。まず(1)人間の生存に必要不可欠な前提条件(the condition OF being human)として、そして(2)人間であるために―「まともな」人間とみなされるために―求められる条件(the condition FOR being human)として。それら二つの〈人間の条件〉としての労働は、近代になってはじめて発見されたものです。

 後者はともかく前者は自明のことではないか、と思われるでしょう。誰も労働しなければ人類は亡びます。そんなことはもちろん近代以前の人々も知っていて、とくに農業については時代・地域を問わず特別な扱いがなされてきました。誰かが食べ物を作らなければ人間は生きられない。その意味で農業はまさしく〈人間の条件〉ではあります。

 それは現代でも同じことですが、しかし現代で「労働」と呼ばれるもののうち、どれほどが人間の生存に必要な〈条件〉でしょうか? 改めて考えてみると現代におけるほとんどの労働は、人間の生存には直接関係が無いか、むしろ環境の破壊や資源の大量消費によって人間の生存を直接的・間接的に脅かしている労働さえ少なくありません。労働者の生存に必要なのは多くの場合あくまで労働した結果得られる賃金であって、それ自体が直接的に人を生かすような労働はむしろ少数派です。

 第一の意味での〈人間の条件〉としての労働の発見とは、人類の生存に必要不可欠な少数の行為―食糧生産・医療・土木工事・治安維持など―と、その他の「より豊かな」生活をもたらすための多数の行為がひとまとめに「労働」という名前の下で把握され、それらすべてが〈条件〉としてのイメージを持つようになることでした。

近代の発見―労働は生産する

 見た目上はまるで似ていない多種多様な人間の営みを、たったひとつの「労働」というカテゴリーにまとめるためには、それらに共通の性質が発見される必要がありました。それが「生産」という概念です。

 労働が製品やサービスや情報などを生産するということは、現代では当然の前提として考えられています。しかし近代以前はそうではありませんでした。「労働する活動力そのものが〔…〕『生産性』を実際にもっているという事実」は、「古典経済学者によって感じとられ」、マルクスが「はっきりと見分け、それに明瞭な輪郭を与え」るまでは全く知られていなかったのです[^6]。どういうことなのでしょうか。

 じっさい最初の経済学者―すなわち最も色濃く中世の思考を残した経済学者―アダム・スミスは、家事使用人をはじめとして、聖職者・法律家・医師・音楽家そして国王(!)等々は労働者であっても「非生産的労働者」であって、農家や職人などが生産した富から「分けまえを提供」してもらうことで生活していると考えていました[^7]。

 マルクスなど後の時代の経済学者がとなえた、「非生産的労働」もまた目に見えない「価値」なるものを「生産」している、とする説によってはじめて、農業と同じようにすべての労働が「生産」する労働として認識されました。こうして労働は〈人間の条件〉として愛されるべき地位を獲得したのです。すなわち、われわれが知る「労働」は、近代に誕生した経済学という学問によって根本的に規定されています。

「働かざる者食うべからず」の二千年史

 では、第二の意味での〈人間の条件〉としての労働の発見、すなわち「まともな」人間とみなされるための条件としての労働はいつ発見されたのでしょうか。

 それは「働かざる者食うべからず」という格言の意味の変化を見ることで確かめられます。

 この格言はもともと新約聖書において単に「略奪せずきちんと働いて食い扶持を得なさい」という意味で書かれたものです。しかし、産業革命後にマルクス主義によって「資本家階級の不労所得許すまじ」の意味に転用され、第二次大戦後にようやく「働かなければ生きていけないのは当然だ」という現代的な意味を獲得するに至った歴史をもちます。近年この格言はもっぱら福祉批判の文脈で、「働かないやつを税金で生かすべきではない」という普遍的原理を示す金科玉条のように用いられていますが、実はそう言われるようになったのは比較的最近にすぎません。

なぜいま労働の歴史なのか

 労働は人間の生存に必要不可欠な〈条件〉であり、一人前の人間として認められるために要求される〈条件〉でもある。〈人間の条件〉としての労働はいまや世界中を覆い尽くし、空気や重力のようにわれわれの生存のための普遍的な〈条件〉であるかのように振る舞っています。しかしすでに見てきたように―そしてこれから見ていくように―その普遍性は歴史性を覆い隠すことで成立しているにすぎません。

 その歴史を辿ることにどのような意味があるのでしょうか? 現にわれわれは〈条件〉が課せられた社会に生きているのに、とうに終わった昔の話を知る意味なんてあるのでしょうか?

 ある、と私は主張します。「AIは労働をどう変えるのか?」とか「少子化による労働力減少にどう対処すべきか?」などのきわめて現代的な問題だけでなく、今あなたが悩んでいる個人的な労働と人生の問題にも、「労働」=〈人間の条件〉という空間の内側では答えることができない問題は数多くあるからです。

 さらに言えば、労働の外であっても〈人間の条件〉からはまったく自由ではありません。そもそもわれわれがすべての時間を、人格を、人生を、「労働」と「労働以外」に二分する思考法自体が近代の産物です。そして今やその分割法は、労働それ自体を危機に陥れつつあります。

 たとえば出産や育児は労働の外にある人生のイベントとして分類され、時間を取られたり転勤が難しくなることを純粋に評価すれば労働に対してマイナスです。しかし多くの人がそのように出産・育児よりも労働を優先した結果、いまや労働者不足という形で労働の前提条件自体が掘り崩されつつあります。そうした営みを「シャドウ・ワーク」として位置づけようとする議論もありますが[^8]、それが意味を持つためには、そもそも出産や育児が労働に含まれないのは単に歴史の結果であり、何ら本質的な理由は存在しないということが前提として理解されていなければならないでしょう。

 冒頭で紹介した「日本人の国民性調査」は、長年の定点観測によって〈人間の条件〉としての労働という考えが徐々にほころび始めていることを明らかにしています。「お金が十分あっても働く」と答えた人は、1973年の70%から2018年の55%へ。「仕事がなければ人生はつまらない」と答えた人は、1983年の83%から2018年の64%へ[^9]。どちらも多数派としての立場は保っていますが、ほぼ一貫して減少し続けています。

 それに合わせて、労働の語られ方も変化しつつあります。ブラック企業やブルシット・ジョブなど「無くなったほうがいい労働」に対する議論や、FIRE(Financial Independence, Retire Early:経済的自立、早期退職)ムーブメントなどはその例です。しかしこれらは現状あくまで「そうした職場がある」「こんな人もいる」という、労働に対する個別の「逸脱」事例として扱われており、労働観念それ自体を突き崩しうる巨大なひとつの流れの中に十分に位置づけられ説明されてきたとは言えません。

 〈人間の条件〉としての労働が永遠に続く/続けられるものではないということが薄々とであれ感じ取られつつある今こそ、近代的な「労働」の外部―「労働」以前、そして未来の「労働」―について改めて考えるべきなのです。

労働の外側?

 そうは言っても、われわれが労働=〈人間の条件〉の外部に出るということは、決して簡単ではない、あるいは不可能と言ってもいい行いです。たとえば、近代以降の労働とそれ以前の労働(のようにわれわれに見えるもの)を同じ「労働」という呼び名で表すだけでも、「労働」という言葉の認識そのものが変わってしまった歴史を見逃す危険があります。しかしいちいち古代ギリシャ語や古英語の名前で呼んだところで、結局のところわれわれはそれを「労働」の訳語として読んでしまうに違いないのです。

 そのため本連載ではあえて、「労働」の歴史を描こうと思います。この一語に全てを代表させるのは破綻が約束された試みですが、その破綻こそ、われわれの知る「労働」が歴史のある時期以降しか存在しない特殊な形態であることを明らかにするはずだからです。

 本連載には「こんなに昔の人も自分と同じように労働に悩んでいたのか」と思える箇所もあれば、「この『労働』は自分が知るそれとはまったく異なる」と思える箇所もあるでしょう。その揺らぎを通して、これまで自明のものとして考えていた「労働」をより広く、深く歴史に根ざした意味において理解できるようになるはずです。

のらくらの生活保護受給者として

 ここで筆者がどのように働くことに向き合っているかという話をさせてください。私、相川計は働きたくなさのあまり現在生活保護を受給している無職です。毎日散歩がてら複数のスーパーと八百屋と無人販売所をチェックし、適当な自炊で腹を満たしたら古本屋で買った本を読む。そのように送る最低限度の健康で文化的な生活に満足しています。

 私が労働について考え始めたのは、その満足が理由です。現代において一般に労働は幸福の必要条件と見なされています。わずかなお金しか持たず、人との関わりも少なく、何かを成し遂げる喜びも得られない無職が幸せであることはありえない、私もそう思っていました。

 しかし実際に生活保護を受けてみると案外悪くない。どうやら私が持っていた認識は間違っていたようだが、では正しい認識とは何か、なぜ誤った認識がこれほどまでに疑う余地のない真理として通用しているのか。そこから始めた問いによって得られた答えとしてこの連載はあります。

 無職が労働を語ろうとは不遜そのものの所業ですが、私にとって労働は、水や空気のように透明な〈条件〉では全くなく、巨大な異物のように感じられます。倉庫と工場とキャバクラ以外で働いたことはないし、労働の実際については何も知らない。しかし時としてふらっとやってきた余所者がその土地の長年の問題を解決しうることがあるように、当事者が知識も熱意もあるがゆえに解けなくなってしまう問題もある。

 労働は社会的営みの最たるものであり、労働に関する悩みは必ず社会と個人の対立という形式をとります。そして巨大な社会と一個の個人の対立となれば個人の敗北が宿命づけられています。しかしそうであっても、その圧倒的な社会は決して完全でも絶対でもなく、歴史上の無数の偶然や意図せざる結果の集積であり、今あるそれとは他のあり方でもあり得た、という認識は、悩める個人の社会に対する向き合い方・戦い方を少なからず変える力をもつと私は信じています。

 現代の労働は、あまりに眩しすぎる。だから私は労働を―くらやみに沈めてしまうのではなく―適度な明るさに調節しようと思います。愛と憎、そのふたつをもって。

 次回は、プラトンやアリストテレスをはじめとする古代の労働観とその背景を探ります。古代ギリシャの哲学者は、なぜ労働を嫌ったのでしょうか? そこには単なる偏見ではなく、労働と人間の幸福との間における深刻な対立が見出されていました。

(次回へつづく)

参考文献

アリストテレス(n.d.=1961)『政治学』山本光雄訳、岩波文庫

ハンナ・アーレント(1958=1994)『人間の条件』清水速雄訳、ちくま学芸文庫

イヴァン・イリイチ(1981=1982)『シャドウ・ワーク――生活のあり方を問う』玉野井芳郎・栗原彰訳、岩波現代選書

アダム・スミス(1776=1980)『国富論』玉野井芳郎・田添京二・大河内暁男訳、中公バックス

Bentham, Jeremy (1817) “A table of the springs of action”. Richard and Arthur Taylor, London

Paton, William Roger. (1916) “The Greek anthology”.  W. Heinemann, London; G.P. Putnam’s sons, New York

[^1]: https://www.ism.ac.jp/survey/index_ks14.html

[^2]: Antipater of Thessalonica ‘On a Water-mill’ (Paton 1916). この詩は人類による水車利用を示す最初期の例として、歴史学でもしばしば参照されている。

[^3]: アリストテレス (n.d.=1961) §7.9

[^4]: Bentham (1817) §2.3

[^5]: この表現は当然ながらハンナ・アーレント『人間の条件(The Human Condition)』にならっているが、独自の意味をもたせている。アーレントは「条件 condition」を本稿における(1)の意味=前提条件としてのみ用いており、「労働 labor」にも独特の定義を与えている。アーレントについては次回以降で詳しく論じる。

[^6]: アーレント (1958=1994) §3.11

[^7]: スミス (1776=1980) §2.3

[^8]: イリイチ (1981=1982)

[^9]: それぞれの質問が初めてなされた年度と最新年度の比較

働きたくない人のための思想史

いつから人は働くことが当たり前になったのか?労働を嫌い、働かない生活を送る著者が、人類における労働の思想史を辿る。

プロフィール

相川計

あいかわけい 生活保護受給者。30代、無職、職歴無し。不登校による高校中退後、大学で社会学・哲学に没頭するも留年を重ね除籍。古代哲学から現代社会論までを横断する、歴史に根ざした生活の思想を展開している。note(https://note.com/kei_aikawa)においても、本連載を補足する記事を執筆している。

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