「公式」の研究 第2回

「公式」とは誰のこと?

稲田豊史

アニメ界隈の公式≒製作委員会?

 前回、「公式」が何を指すのかは、ジャンルによって、あるいは話者の立ち位置や当該コンテンツとの関わりの深さや抱く愛の種類によって変化する、と述べた。

 たとえばアニメ界隈のファンダムでは、公式が「製作委員会の意思を代弁した宣伝窓口(による発表情報)」と認識されているケースが多い。

 製作委員会とは、制作費や宣伝費等を出し合う企業で構成される組織体のこと。原作を刊行する出版社、テレビ局、映画会社、アニメ制作会社、配信会社、広告代理店などが名を連ね、各社の出資比率に応じて著作権が共有され、収益が分配される。

 とはいえ、これはユーザー側のうっすらとした定義だ。アニメ業界側の人間は、何を公式と捉えているのか。

 アニメ業界歴15年、DVDメーカーの宣伝部や複数のアニメ制作会社勤務を経て、現在は監督や原作者とコミュニケーションを取りながら作品プロデュースを行うA氏(40代男性)は、公式を「超狭義には宣伝担当者、狭義には宣伝担当者を含めた製作委員会メンバー、広義にはそれに加えてライセンス先まで」と定義する。ライセンス先とは、その作品をあしらった“公式”キャラクターグッズを制作販売するメーカーや、原作を含めた関連書籍を刊行する出版社などのこと。後者であるとするなら、公式の範囲は随分と広い。

 反対に、公式をかなり狭く捉える関係者もいる。アニメ制作会社で宣伝セクションに所属するB氏(30代女性)にとって公式のイメージは、「Xの公式アカウント」。実は彼女自身がとある作品の公式アカウント運営担当者、いわゆる「中の人」なのだ。

「公式が全然わかってない、公式の告知が遅い、なんて言われると、私個人が責められている気がするんです。それもあって、他社作品についても〈公式〉という言葉からイメージするのはXのアカウント」(B氏)

 担っている権限や機能が「公式=アカウント」でないことは、彼女自身もちろんわかっている。しかし、アニメ業界外に身を置いていた数年前から現在に至るまで一貫して、公式のイメージはずっと「アカウント」なのだそうだ。これはA氏の言う「超狭義には宣伝担当者」という定義をさらに狭めた認識である。

 アニメ制作会社の代表を務めるプロデューサーC氏にとって、公式とは「製作委員会の幹事会社」だそうだ。幹事会社とは製作委員会のリーダー。契約や出資金の取りまとめや収益配分などを主導的に管理する役割を担う。

「何かあったときに最終判断をする責任主体が幹事会社ですが、公式の意思もそこに集約されるというのが僕の認識です」(C氏)

 なぜ幹事会社1社に限定するのか。

「以前、弊社も含む複数企業が参加するアニメ関係のイベントでトラブルが発生したんですが、仕切っている企業の動きがものすごく早くて、関係各所への連絡や説明、企画の一時ストップをすぐに行ってくれました。結果、大事に至らずに済んだんです。これこそ公式のあるべき姿だと思いました。

 複数企業の集合体である製作委員会は、責任の所在や役割分担が曖昧になりがちなので、何かあった時にすぐ動けない。そこは幹事会社が単独で引き受けて責任を持って動く。公式って、そういうものだと思います」(C氏)

 C氏の定義はユーザーからの見え方というより役割論に近いが、C氏自身が製作委員会メンバーとしてもたびたび会議に出席しているため、ここには実感を伴った説得力がある。

 なおC氏によれば、内外から「公式としてどのように判断するのですか」と問われることが、ここ数年増えたという。

公式は指示代名詞

 ところで、アニメ作品の実際の作り手である監督ほかスタッフや声優は公式に含まれるのか、含まれないのか。

 アニメ雑誌などに掲載されるインタビューは製作委員会の“監修”(第1回参照)が入っているのでまごうことなき公式発言であるとして、SNSの個人アカウントでの投稿や、トークイベントでの突発的な発言は?

「僕の中では、監督とプロデューサーの発言までが公式です。その他のスタッフ、たとえば脚本家やアニメーターや演者(声優)の発言については……受け取る人に任せます」(C氏)

 受け取る人に任せる。それが騒動の種になることもある。第1回で言及した、「『ぼっち・ざ・ろっく!』脚本家炎上問題」だ。脚本家・吉田恵里香氏の発言が公式の大いなる意思の代弁なのか、公式とは切り離された個人の見解なのか、ファンの間では解釈が割れた。

 A氏は、この「受け取る人に任せる」スタンスこそ、アニメ業界で「公式」呼びが多用される構造的要因だと考える。

「吉田恵里香氏の炎上ですごく感じたのが、『ああ、アニメファンってアニメ業界のことをちゃんと理解してないんだな』ということでした。脚本家の独断で原作を改変できるわけはないし、ましてや脚本家個人の思想なんて入れる余地はない。すべて監督やプロデューサー、ひいては製作委員会の了解をもって原作の設定を変えています。みんな、実際にどうやって作品が作られているかをよく知らない。

 原作者、アニメーターさん、監督といった関係者が混ざり混ざってひとつの作品を作ってるのは知ってるけど、具体的に誰がどういうふうに働いているとか、誰がどの範囲までの責任を持っているとか、ジャッジしてるとかは、よく知らない。

 製作委員会もそうで、会議室に各社の誰が来て、皆で何を話し合ってるかなんて――こちらが明かしていないので当然ですが――わかっていない。最高責任者が誰だとか、決定プロセスがどうなっているとか。

 つまり、ファンが作品の供給側のことについて語るとき、具体的に〈誰〉とか〈どこ〉とかを指し示せないから、〈作品の内部事情を知る中の人〉くらいのゆるい捉えかたで公式と呼んでいる。そこに脚本家を含めるか含めないかも、発言者ひとりひとりの恣意性による。受け取る人に任せる、というやつです。

 公式って、言ってみれば指示代名詞ですよ。英語で言うと〈that〉みたいなもの。指示代名詞に愛着や愛情を含ませたものが、公式」(A氏)

 具体的に指し示せないからこそ、該当範囲が厳密に定義されていない「公式」という名称が重宝されるということだ。

 ここで連想するのが、「お上」「当局」「その筋」といった日本語である。

お上:政府や幕府など、その時々の為政者や為政機能をもつ組織体

当局:警察ほか官公庁や政府機関などの公権力

その筋:その分野に詳しい専門家界隈、当該案件を取り扱う関係官庁や警察、または「ヤクザ」の隠語

 いずれも共通するのは、

・組織構造が複雑で込み入っているため

・外部からは実体や実態を完全に把握できないが

・権威や権力や支配力があるとことだけは察知される組織体に対し

・【市井の人々】が少し距離を取りながら発する

・やや人称代名詞みのある呼称

であるということだ。そのまま「公式」の説明にも流用できよう。

 しかも、「お上」も「当局」も「その筋」も、決して畏怖の念や畏敬100パーセントの気持ちで発されているわけではない。むしろ権力に対する揶揄やからかい、冷やかしや茶々を、その権力と直接対峙する機会のない大衆が、絶対安全地帯から囃(はや)し立てるかのように使う呼称だ。これもまた、どこかしら公式を彷彿とさせる。

男性アイドルの公式は「事務所」、お笑いの公式は「本人」

 男性アイドル界隈における公式とは、おおむね事務所のことを指す。

 Dさん(40代女性)は、とある超メジャー男性アイドルグループのコアなファン。自分の推しについてだけでなく、男性アイドル界隈の動向全体にも詳しい。そのDさんが「公式」という言葉を使うとき、それは所属事務所を意味している。

「私だけでなく多くのファンが、本人の意思ニアリーイコール事務所の公式発表である、と解釈していると思います。『推しは事務所にそう言わされてるんだ』的な陰謀論がうずまくパターンもあるにはありますが、私の周囲ではあまり見かけないですね」(Dさん)

 対照的なのが、お笑い界隈だ。

 毎週のようにお笑いライブに通い、好きな芸人のラジオ番組やYouTubeチャンネルを日々大量にチェックするEさん(30代女性)は、「公式という概念がお笑い界には希薄ですが」と前置きしたうえで、こんな持論を述べた。

「お笑いにおける公式は、基本的に本人でしかありえない。当人が言ったことしか信じません」

 お笑い芸人も男性アイドルも、その多くは事務所に所属しており、出演情報などは事務所が発表する。なのにお笑いファンは男性アイドルファンと違い、事務所公式発表に重きを置いていない。少なくともEさんはそうだ。

 この違いは一考に値する。

 Eさんはその理由として「吉本芸人が吉本の悪口を言い続けたから」説を唱える。

「お笑い業界で圧倒的な勢力を誇るのは吉本興行ですが、その吉本所属芸人が『ギャラの取り分が少ない』『マネージャーがいい加減』などと事務所の悪口を言い続ける、というのが長らくエンタメとして成立していて、ファンも一緒になってそれに共感したり笑ったりする文化が築かれていました。

最近では、吉本が他事務所の芸人を自前の劇場に出させないと決めたため、吉本芸人たちがかなり反発していましたが、私たちはそういう〈芸人と事務所が手に手を取り合っていない〉という構図込みで、お笑いというジャンルを愛しているんです。その結果、私たちからすれば、事務所が公式としての存在感を強めなかった……というのが体感ですね」(Eさん)

 昨今のお笑い芸人は自身のYouTubeチャンネルやポッドキャストなどで、思想や芸事論を積極的に語るが、そこに事務所管理の影は見えない。これらマスメディア以外の個人発信手段の充実もまた、お笑い界隈における「事務所公式発表」の存在感が薄れた遠因でもあるだろう。

 ただ、ここで疑問が生じる。ではなぜ、男性アイドル本人は同じようにならないのか。自分の意思をSNSで個人発信すれば、事務所公式発表にそれを預ける必要はないように思える。「事務所に言わされている」陰謀論も払拭できそうなものだが。

 ひとつ考えられるのは、プロデュースを誰がやるかの違いだ。アイドルは個人であれグループであれ、原則的には本人以外がファッションの方向性や楽曲制作を事務所主導でプロデュースするが、お笑い芸人はネタもキャラ設定も自分で考案するセルフプロデュースが多い。タレントを商品と考えるなら、商品設計の責任者が公式と捉えられるのは非常に筋が通っている。

 男性アイドルが自分の意思を事務所公式発表に預ける理由について、Dさんは自分なりの答えを持っている。「お笑い芸人と違って、男性アイドルは言葉が少ないからです。言葉が少ないというか、言えることが少ないというか」

 なぜ言えることが少ないのか。これは「男性アイドルがファンに提供する世界観」という概念と密接に関わってくる重要な論点だが、公式の定義の話からはやや逸れるので、次回以降で掘り下げていこう。

 

漫画界隈の公式=オリジナル・正統・商業

 漫画界隈における公式とは、一般的には「オリジナル」を指す。二次創作の題材となっている作品あるいは作者のこと、要は元ネタのことだ。同人誌界隈あるいはpixiv絵師界隈でしばしば散見される。

 漫画は二次創作文化の歴史が長い。だからこそ「二次」に対する「一次」、すなわちオリジナルを「公式」という名称で概念化する必要性が、他の界隈に比べて歴史的に高かった――という言い方もできよう。

 絵を描くのが好きな女子高生Fさんは、漫画やイラスト界隈の公式について、大きく2系統のイメージをもっているという。

 ひとつは、「本家」「正統」「本流」。「この推しカプは公式だから!」という言い方はその典型で、ファンによる天邪鬼な独自解釈ではないですよ、というニュアンスが込められている。

 もうひとつは、Fさんの言葉をそのまま引くなら「会社とかスポンサー」のイメージ。彼女の中には「二次創作=非商業、公式=商業」という区別があるという。

 実際、アマチュア作家による漫画作品が単にネット上で発表されただけでは、公式という概念は付帯しにくい。公式という言葉が作品の周囲を飛び交いはじめるのは、作品が商業すなわち「ビジネス」に乗って以降だ。具体的には、商業メディアへの掲載、営利目的に設立された会社が発行元となっているコミックスへの収録、およびその作品をめぐり複数の企業間で契約が交わされることなどが、それにあたる。

 Fさんは公式を、「海賊版」と区別する意味合いでも使っていた。「このグッズ欲しいけど、公式なの?海賊版なの?」。正規ビジネスに乗るのが公式ライセンス商品、非正規ビジネスの産物が海賊版なので、使い方としては理に適っている。

お金が動いている感とメジャー感

 公式という概念の発生条件が「ビジネスに乗る」であることの確からしさは、出版社でキャラクターライツ業務の関連業務に携わるG氏の体験したエピソードが補強する。

「弊社がマネジメントに関わっているクリエイターさんのキャラクターをグッズ化して、あるイベントで販売することになったんです。その方はもともと個人で活動されていて、過去に何度も手作りのグッズをイベントで出展・販売されていました。なので我々も、今までのように手作り感を前面に出したグッズ収納用の箱を試作したんですが、サンプルをクリエイターさんに見せたら、ものすごく怒られました」(G氏)

 理由は、「公式っぽく見えないから」。

「クリエイターさんとしては、せっかく企業がつくんだから、機械で大量生産したようなプロダクト感というか、商業性の高さというか、そういう“公式感”みたいなものを期待していたのに、それじゃあ意味がないじゃないかと。話しあいの中で幾度も『公式っぽさ』という言葉が出てきたのを、よく覚えています」(G氏)

 先述の女子高生が語った「会社とかスポンサー」に近い。そのクリエイター氏にとっての好ましき公式感とは、ある程度のお金が動いているという状況を指す。ビッグマネーを想像させるプロジェクトの規模感、資金投入する大人たちが一定数いるという意味での信頼性、そこから担保された権威なども、その状況に漏れなくついてくる。

「ある種の人が公式に何を求めるかという話で言うなら、私はメジャー感という言葉に尽きると思います。実際、個人のクリエイターにとってステージアップは、ビジネス的な意味でメジャーの舞台に立つということだと思いますし。それってイコール、世の中に認められたってことですよね」(G氏)

 ある作品は、世の中に「認められる」ことで公式化し、成り上がる。その公式はやがて、ライセンサーとして権利を許諾したり監修したりする側、つまり「認める側」に回るのだ。

公式と原作者は一枚岩ではない説

 漫画作品がアニメ化もしくは実写化されて製作委員会が組成されると、ファンの苦悩と混乱が始まる。アニメ作品の公式は製作委員会やその周辺が担うとして、原作者である漫画家個人や漫画作品そのものは、どういう扱いになるのか?

 普通に考えれば、「製作委員会=公式」の大いなる意思は、原作者の意向を反映しているはずだ。しかし、そうとも限らない。たとえば、2024年1月に原作者・芦原妃名子氏の自死という最悪の結末を迎えてしまった『セクシー田中さん』(小学館「姉系プチコミック」連載)のケースだ。

 芦名氏はもともと、同作の日本テレビ系でのドラマ化に際して、「必ず漫画に忠実に」「ドラマオリジナルの終盤は原作者があらすじからセリフまで用意する」をドラマ化の条件にしていた。ところが、毎回原作を大きく改変したプロットや脚本が提出されてきたため、同氏が都度加筆修正せざるをえない事態となる。ドラマオリジナル展開となる8〜10話に関しても、芦原氏が用意したあらすじやセリフを大幅に改変したものが提出された。

 結局、芦原氏の要望が聞き入れられないまま時間が過ぎ、最終的には双方協議の末、9・10話は芦原氏自ら脚本を執筆するに至った(以上の経緯は、放送終了後にアップされた芦原氏のブログで明らかにされた)。

 この件が明るみに出たのは、8話までの脚本を担当した脚本家が、自身のインスタグラムに「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」と、不本意さを滲ませる投稿をしたからだが、逆に言えば、もしその投稿がなければ、原作読者は「原作者もOKを出した改変なのだ」と疑っていなかったに違いない。公式が原作者の意向を無視する“はずがない”のだから―。

 しかし、芦名氏と「ドラマ公式」は一枚岩ではなかった。

 過去には両者の関係性悪化により、作品のDVD発売や配信が中止される騒動もあった。集英社の「週刊少年ジャンプ」で2004年から連載が開始され、掲載媒体を変えながら現在も連載中の『D.Gray-man』である。

 同作は過去に2度、2006~2008年と2016年にTVアニメ化されているが、事件は2度目のアニメ化時に起こった。アニメ誌に掲載された同作の版権イラストが、原作者である星野桂氏にとって不本意なものだったため、DVDおよびBlu-rayでの発売が中止されたばかりか、配信も行われなくなったのだ。

 版権イラストとは、著作権を持つ版権元から使用許諾を得て制作される、商用目的のイラストのこと。この場合、公式のお墨付きを得て(原作者ではなく)アニメスタッフなどが雑誌掲載用に有料で描き下ろしたイラストを指す。

 当時、星野氏は自身のインスタグラムにこう書き込んだ。

[…]作り手は「キャラをこうさせると客に喜ばれる」「こういうシチュエーションを描いたら売れる」「こういう絵が需要があるから」という考えで作品や、そのキャラクター性を曲げるものを発表することは絶対してはいけないと思っています。

[…]かりにも公式とされている側が、そういう事をしたことはとても残念です。

 我々の見えている公式が、実は原作者や原著作者と一枚岩ではないケースもあるという事実。だとすれば、前回「公式にまつわる“事件”」として挙げた以下の2事例にも、別の可能性を邪推する余地がある。

①『ズートピア2』ジュディとニックのフィギュア問題

:原作(アニメ本編)を改変してフィギュアのニックの目をハートにしたのは、本国の原作サイドの本意ではなかった可能性

②『名探偵コナン』灰原哀ヒロイン扱い問題

:アニメシリーズにおける灰原哀のヒロイン的な扱いは、必ずしも原作者の本意ではなかった可能性

 前回の冒頭で取り急ぎ規定した、公式に漂う「ある種の規範性、絶対性、ヒエラルキーの上位として従うべき存在」のイメージが、早くも揺らぎはじめてきた。

鳥嶋和彦はドラゴンボール公式?

 原作者と公式のクリエイティブ面での対立で記憶に新しいのが、集英社の看板作品『ドラゴンボール』にまつわる騒動だ。2025年11月、東京駅地下に『ドラゴンボール』公式ストア「DRAGON BALL STORE TOKYO」がオープンしたが、その宣伝のため駅構内に掲示された描き下ろしイラストが問題になった。

 絵が下手だったのだ。

 原作者の鳥山明は2024年に逝去しているので、当然ながら鳥山明自身がこのイラストの原画を手掛けたわけでも監修したわけでもない。だとしても、公式はちゃんと監修したのか?という抗議めいた声が、とあるXのポストをきっかけに次々と挙がっていった。

 そんな中、かつて鳥山明氏の才能を見出した編集担当者にして、『ドラゴンボール』の立ち上げから最盛期を支えた鳥嶋和彦氏が、自身のYouTubeチャンネル「ゆう坊とマシリトのKosoKoso放送局」(2025年11月30日放送分)で、“公式”にダメ出しを食らわせる。

「背景とキャラクターが同じ系統の色で処理されていて、キャラが立っていない。原作の表紙は白背景を多用し、悟空の輪郭が浮き立つように構成されていた。今回のビジュアルはそこが踏まえられていない」

「この姿勢ではかめはめ波を打てない」

 鳥嶋はそのうえで、原作版権は集英社が保有しているが、アニメ版権やゲーム関連商品、店舗の商品企画などはそれぞれ別々の会社が権利を担っていると説明。誰が最終的に品質保証をするのかが曖昧なまま進行してしまうケースもありうると述べ、監修体制に課題があるのではないかと語った。

 本件で興味深いのは、『ドラゴンボール』ファンはもちろん、この騒動をウォッチしていたおそらくほとんどの人が、ビジネス上の公式である「DRAGON BALL STORE TOKYO」の監修に不信感を抱き、つまり公式としての資格なしと断罪し、法的には『ドラゴンボール』の著作権者でもなんでもない鳥嶋氏の発言に納得したことであろう。

 大衆は、鳥嶋氏を「鳥山明公式として発言する資格あり」と認めたのだ。

 公式は、自ら公式と名乗ることによって公式になるのではなく、大衆から公式と認められた結果公式となる……のだろうか? 公式の性質を考えるうえでは大事な問いだ。これは後の回でおいおい検討する宿題としよう。

 

「一個だけ上」、代官、お客様相談センター

 漫画家が自作の映像化にあたってビジネスの当事者となった場合、彼らは何を公式と認識しているのか。

 筆者はあるツテを頼り、現役の漫画家数名に「公式」についてLINE上でフリーディスカッションしてもらった。そこからは、公式を機能や構造で腑分けするのではなく、存在論的に捕捉するための補助線が見えてきた。

H氏「公式が取りざたされる時って、実際に権利がどこにどう帰属しているかよりも、受け手がどう見ているかの方が大きい。アニメファンの場合、アニメ制作側が公式で、その上の原作者は公式ではないと認識する人もいる」

I氏「公式って、自分たちが手に触れているものの〈一個だけ上〉に言う表現かもしれないですね。【原作者→アニメの製作委員会→ファン】だと、視聴者であるファンにとってはアニメの製作委員会が公式」

H氏「アニメ鑑賞者の考える公式って、基本は原作者とそれにまつわる権利者ですが、制作に関わってる人たち(キャラクターデザイナー、声優など)も含みつつ、実際は作品に強く影響してるように〈見える人〉で判断してる気もします」

 I氏の「〈一個だけ上〉を公式と呼ぶ」を踏まえると、『名探偵コナン』灰原哀ヒロイン扱い問題の本質が見えてくる。アニメから入った作品ファンと、原作から入った原作ファンで、何を公式と捉えるかが違っているのだ。

 一個だけ上、つまり直上のレイヤーしか見えていないゆえに、それを大いなる意思の全体と錯覚する、あるいはそうとみなす。江戸時代、農民にとっての代官と同じだ。代官とは、主君や領主に代わって土地を管理・支配した役人のことだが、主君や領主の顔を生涯で一度も拝んだことのない当時の農民にとっては、唯一直接交流のある――直上のレイヤーにいる――代官が、事実上の統治者にして、法により秩序を築く者となる。

 もっと卑近な例を出すなら、役所の窓口担当者に向かって「お上」への不満を吐く行為にも似ている。窓口担当者は大いなる意思が策定したシステムの一運用者にすぎないが、市民にしてみれば、そこでしか「お上」と接触できるポイントがないのだから、仕方がない。

 役所の窓口担当者はほとんど、Xアカウントの「中の人」として自身を公式と自認する先述B氏の立ち位置そのものだ。市民らの身勝手な要求に笑顔で対応し、理不尽なクレームにも黙って頭を下げる。B氏の日々の業務と何ら変わらない。

 公式は大いなる意思であると同時に、お客様相談センターの顔すら併せ持つ。

擬人化されやすい「中の人」と「運営」

 このあたりの考え方を整理すると、「公式」と「中の人」との違いも見えてくる。

 狭義の「中の人」とは、パーソナリティを感じさせるSNSのアカウント担当者のことだが、商業作品の公式アカウントの場合、自らに決定権や裁量権があるわけではない。B氏のように、公式の大いなる意思に従って運用を任されているだけだ。いわば雇われ店長であって、オーナー(公式)は別にいる。

 一方、「運営」という概念が公式とは別にある。狭義には、ファン参加型イベントなどのために組織されるチームのこと、広義にはコンテンツを現場で管理・運用している実務主体のこと。公式との対比で説明するなら、公式は抽象度の高い〈権威〉の概念であり、運営は実体ある〈組織〉の概念である。

 アニメ界隈を念頭において3者の役割を整理すると、こうなる。

①公式…製作委員会を中心とした権利主体、全体の方針を策定する意思決定主体

②中の人…公式の策定した方針に基づき、SNSなどで情報発信を行う個人

③運営…公式の策定した方針に基づき、管理や実務を行う組織

 ポイントは、①より②③のほうが、ファンダムからはより「見える場所にいる」ということだ。Xのリプやinfoへの問い合わせや返答、現場での会話や衝突を通じてファンと直接やり取りをする責務は②③が負う。要は、①より②③のほうが、人の気配がする。もしくは人の気配を察しやすい。したがって①より②③のほうが擬人化度が高く、感情や批評もぶつけられやすい。

 とはいえ、区別をつけずに①②③をまとめて公式と呼ぶこともある。②③を公式と呼ぶことが常態化している界隈もあるだろう。②③を①の部分集合と認識しているケースもありそうだ。①②③の境界は限りなく曖昧である。

解釈しか存在しない

 公式の実体が、ますますもって揺らいでくる。手が届き、手に触れているのに、どうしても掌に包み込むことができない。いつも何かがこぼれ落ちてしまう。

 実体が漠としてつかみきれないからこそ、何か少しでも手がかりがあればそれに飛びつき、公式というラベルを貼り、名付ける。名付けることで「それ」は文字通り実体化し、語りかける相手となり、感情をぶつける対象となる。

 人は見えているものを公式と呼ぶ。「指し示せないから公式と呼ぶ」「実態を理解していないから公式と呼ぶ」は、同じことについて別の言い方をしているにすぎない。

 ただ、見えているものは人によって違う。「群盲象を評す」であり、『藪の中』だ。

 「群盲象を評す」とはインド発祥の寓話だ。複数の盲人が触覚だけを頼りに、象のいろいろな部位を触って各々が全体像を想像するが、誰も正解にたどり着けない。

 『藪の中』は芥川龍之介の短編小説だ。平安時代、男の死の真相をめぐって複数の目撃者が証言するが、それぞれが自分の視界に入った断片しか目撃していないため、証言が食い違い、事件の全体像や真相がまったくわからない。

 人は何かを見るとき、本当の意味で外の世界を見ようとしているわけではない。そうあってほしいと願う「解釈」を、視線の先に投影しているだけだ。

 だとすれば、我々は公式に一体「どうあってほしい」と願っているのか。次回はその点を深掘りしたい。

(次回へ続く)

 第1回
「公式」の研究

推し活がビックビジネスになりつつある昨今。とりわけ、アニメ、アイドル、お笑い分野はかつてない活況を呈している。 それと同時に、かつては存在しなかった言葉がファンの間で流通し始めた。それが「公式」である。作品の制作者の意図、アイドルの世界観、番組の意図などその言葉の使われた方はさまざま。共通するのは「公式の判断が絶対視」されていることである。なぜユーザーたちは「公式」を絶対視するようになったのか? 日本のメディア・消費の変化の最前線を取材し続けてきた著者が、「正解」や「絶対者」を超えた欲望をあきらかにする。

関連書籍

本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形

プロフィール

稲田豊史

いなだとよし  1974年、愛知県生まれ。ノンフィクションライター、編集者。映画配給会社、出版社を経て、2013年に独立。著書『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ―コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)が新書大賞2023第2位。その他の著書に、『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『このドキュメンタリーはフィクションです』(光文社)、『ぼくたち、親になる』(太田出版)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『「こち亀」社会論 超一級の文化資料を読み解く』(イーストプレス)などがある。近著は『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中公新書ラクレ)。

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