ある日本人キリスト者の横顔 第5回

斜陽の国を照り返すイミタチオ・クリスティ

波勢 邦生(はせ くにお)

 宣教師として挫折した。教会へ通うようになったのは中高校生のころだった。しかし聖職者になろうと志した夢は破れて散り散りとなり、空に消えた。ぼくは34才になっていた。紆余曲折、蹉跌の果てに鴨川の河川敷に漂着し、中年の危機を迎えた。一方、青年イエスは30才で人々の前に現れて、33才で十字架にかかって復活し、天に上って救世主になってしまった。

 日本とキリスト教について考えたい。そう強く思ったので、京都大学のキリスト教学研究室を訪ねて、門前の中年小僧になり「賀川豊彦」を知った。耳学問を重ねていくうちに、自分の探しているテーマが「太平洋弧のキリスト教」なのだと理解した。そこから近代日本、キリスト教、死後の世界といった興味関心の射程が広がった。

 日本人にとってキリスト教は、いつも異質なものだった。それゆえキリスト教について日本語で考えることは、多くの場合、日本人について考えることでもあった。なぜならキリスト教の神は「あなたは何者なのか/あなたはどこにいるのか」と、いつも人格的応答を求めるからだ。賀川豊彦は全身全霊でキリスト教を生き、神と真正面から格闘し、近代日本のために尽くした。その生涯は、激動の時代、明治・大正・昭和の記録であり、忘れ去られた記憶でもある。

 混迷する現代日本に何かしらのヒントを彼から汲みだせないだろうか。ある日本人の複雑な横顔、賀川豊彦という人物を探ることで人間の複雑さを学びたいのだ。近代日本を駆け抜け、八面六臂の活躍をなした傑物・賀川豊彦。ぼくらは、その横顔に何を見出せるのか。彼のまなざしに、ぼくらはどのように映るだろうか。

闇バイト「もらい子殺し」の現実

 1909年12月24日の金曜日、クリスマス・イブの夜に当時最大の人口密度を誇る神戸・新川のスラム街に身を投じた賀川の住まいは、オンボロ長屋の一室5畳の「事故物件」 だった。前年春に殺人事件があったばかりで、幽霊が出るとの噂もあり空き家のままだった。その際の血痕がいまだ壁に残っている。荷車に乗せた財産は衣服と書籍を一箱ずつ、あとは布団だけ。行きしな、新居を目指す途中で、道端で人々にキリストについて語った。
 日曜日には、その話を聞いた男が、さっそく3人も一緒に住ませてくれと頼ってきたが、無理だと断った。恩師である宣教師・マヤスは賀川に資金を送ったが、月曜日には、新川の子どもたちと親へのクリスマス・プレゼントとして、それを配ってしまった。宿を求めて頼ってきた男らのひとりがダニを連れてきたので、それが賀川にうつってしまい、痒くてたまらない。火曜昼、耶蘇による病気平癒の加持祈祷をしてほしいと親子がやってきた。翌日は慌ただしかった。男が刀を持って「泊めないなら餅屋開業の資金5円を貸せ」と脅迫に来た。返答せずにいたら、別の男がドスを持って「10円貸せ」とやって来て、先にいた男と言い争いになった。そうこうしている間に、また別の男がピストルを持ってやってきて「30円貸せ」と三者三様に喚き散らした。ピストルで脅した男は、翌日以降も賀川のところにやってきて部屋を荒らして障子戸を破り倒し、賀川を殴り飛ばした。結局、ピストル男にみかじめ料として20円を払ったら、最初に刀を持ってきた男が再度きたので5円を貸してやった。
 後に賀川は、当時を思い出して、こう記す。

十二月二十四日の晩、私は筒袖の着物を着て、荷車を引いて、神戸の貧民窟に這入って行った。私はその頃肺病やみの青年であったが、更紗の夜具を荷車に積んで貧民窟入りをしたのだった。毎月の収入は十六円であった。十一円は人から補助を得、五円はストーブの掃除をして儲けて生活してゐた。二円七十銭の家を借りてゐた、が、金、が無いので畳を入れなかった。

(賀川豊彦「神と苦難の克服」『全集2』1964年、キリスト新聞社、407頁)

 賀川にとって、これらの脅迫と恐喝が痛手であることは間違いなかった。
 しかし、これだけではなかった。死線を定めて自らをキリストの足跡に倣うように捧げた賀川豊彦が出会ったのは、「もらい子殺し」という現実だった。もらい子殺しとは、何らかの理由があって育てられない赤子の養育を引き受けるといって金をもらい、殺してしまうことである。まさにスラム街というにふさわしい現実に賀川は直面した。
 新生児は、当時5円程度で取引された。毎月10人の子どもをもらって殺せば、50円になる。当時の大卒初任給(エリート官僚や役人相当)が30円(約60万円と想定される)ほどだから、スラム街においては、利鞘の大きい商売だった。
 そして年が明けて1月3日、賀川はもらい子殺し、いわば人身売買の闇バイト、その現実に直面する。刀を持って脅しに来た男が、今度は別の男を連れて来た。もらい子が昨晩死んだので葬儀代を出してほしい、という金の無心だった。
 急いで現場に向かった賀川が見た赤子はやせ細って枯木のような体躯をしていた。5円の金に目がくらんでもらったが、母乳の当てもなく牛乳も買えず、死んでしまった。そう語る男の住む、汚く匂う5畳の長屋には、他にも子どもが8人もいた。
 死線を見定めて当時最大のスラムに飛び込んだ賀川の最初の仕事は、恐喝にあって殴打され、金を奪われて、もらい子殺しで死んでしまった赤子らのために、キリスト教式の葬儀を何度となくしてやることだった。現代の日本では考えられない、文字通りの地獄、賽の河原のような日々である。

 それから約10年後、賀川は自らが直面してきた現実を文章にしたためた。それが大正9年、1920年発表の自伝的小説『死線を越えて』である。こうして、後に「貧民街の聖者」と呼ばれ「世界三大偉人」に数えられる賀川豊彦は、大正時代のベストセラー作家として、まずその名を轟かせた。小説『死線を越えて』は、実に1ヶ月に210刷に達して、105万部を売り切ったといわれる。当時の定価35銭で何が買えるのか難しいが、少なく見積もっても、現在では億単位の売上、それに伴う利益を賀川は得たのである。

メディア上の幻像「賀川豊彦」

 賀川の名声とその人道支援の経済的基礎をなした小説『死線を越えて』は、彼の自伝的内容だといわれている。同作は、主人公・新見栄一の半生記として描かれている。賀川が新見に自らの体験を投影させて、スラム街での伝道と社会的救済への献身、青年期の苦悩と煩悶、キリスト教との出会いを語った、と一般には考えられている。たしかに発売当時、多くの青年らが同作に共感して、賀川のもとでボランティアとして働こうと押しかけた。が、その劣悪な環境ゆえに3日と持たなかった。それほどまでに『死線を越えて』で描かれた新見栄一は魅力的な人物だった。現在では青空文庫などで読めるので、ぜひ読んでみてほしい。
 しかし研究者としては考え込んでしまう。本当にそうだろうか。小説に描かれた主人公・新見栄一は、賀川豊彦の投影、心情の吐露なのか。実は、ここに賀川研究の難しさがある。否、近代以降のあらゆる歴史研究の困難さが、ここにある。それはメディアと事実の関係性である。人々に広く知られ、事実として信じられている内容と、歴史の実態が異なることは枚挙に暇がない。メディア上の幻像と歴史的実態の乖離はよくあることだ。
 すなわち、小説の主人公・新見栄一と著者・賀川豊彦、その虚と実を考えなくてはならない。実際、賀川豊彦については、その虚実は膨大な記録と記憶の中で綯い交ぜとなっている。研究者それぞれが確実な資料に基づいて、説得可能で再現性のある賀川イメージを提出せざるを得ない状況なのだ。賀川豊彦に関する毀誉褒貶は、この現状とイメージの氾濫を反映しているに過ぎない。
 これは現代人においても同様である。インターネット技術が惑星表面を覆いかけている現在、政治家、芸能人、インフルエンサー、企業家、SNS上の個々人、誰であれ、メディアに映し出される虚実の整合性は無いに等しい。人にはさまざまな顔があり、その実態は複雑で矛盾をはらむものである。諸行無常の感を否めない。
 では、どう考えればよいのか。先行研究に依拠しよう。
 金井新二「賀川豊彦における実践的キリスト教のエートス」を参照したい。金井は宗教社会主義の研究者であり、東京大学名誉教授でもある。金井論文は『死線を越えて』における主人公・新見と著者・賀川を照らし合わせ、その差異を深堀りしながら、若き日の賀川の自画像を描いている。金井によれば、新見と賀川には本質的な差異がある。引用しよう。

当時の賀川における社会実践(貧民の救済)の志向も、その根底にある理想主義も、いずれもまず、キリスト教的なそれとして言い変えられなければならない。幾度も、自分はクリスチャンではないと人に語る栄一像においては、この面が著しく背後に退いている。言うまでもなく小説としての虚構であり、また、こうして栄一をいかにも典型的な時代青年として描いたところに、キリスト教的理想主義、キリスト教的な人格主義的社会主義を広く訴えんとした作者賀川のねらいがうかがわれるのである。そして、この小説の大きな成功の要因も、このような巧みな設定にあった……

(金井新二「賀川豊彦における実践的キリスト教のエートス」賀川豊彦記念松沢資料館編『日本キリスト教史における賀川豊彦 その思想と実践』2011年、新教出版社、140-141頁)

 なお、エートスとは聞きなれない言葉だなと思う読者もいるだろう。要するに、習慣化された持続的な行動形式だと考えてよい。一般に、エートス(持続的な行動)とは、アリストテレス倫理学においてパトス(一時的な情念)との対比で語られる。金井は、賀川のエートスについて、エティーク(論理的で非妥協的な倫理)との関わりで丁寧に論じている。ぼくなりにいいかえれば、エートスとは賀川豊彦のキリスト教信仰の実践にみられる持続的な行動のかたちである。では、その行動の形式、内的な性質とはいかなるものか。

イミタチオ・クリスティ:キリストに倣いて

 金井によれば、若き賀川の習慣化された行動のかたち、それが「イミタチオ・クリスティ」である。イミタチオ・クリスティとは、中世欧州において有名な信仰書の名前である。「第二の福音書」「中世の最高信心書」「聖書の次に読まれた」と高く評価されるトマス・ア・ケンピス『De imitatione Christi』の邦訳だ。世俗的欲を離れてキリストに従う、従うことによって、キリストの生き方に倣うことを奨める内容である。それゆえ「キリストに倣いて」という邦訳で知られている。日本語訳もキリシタンの時代から存在するし、何度も出版されている信仰書だ。伝統的に全キリスト教会において、クリスチャンの信仰の歩みを「キリストに似た者」となる過程として理解しているが、本書はその最たるものである。
 金井論文は、賀川の心が彼自身の病気と孤独の板挟みの圧力に押し出され、キリストの生き方に倣うことに収斂されて、神戸・新川のスラム街への献身に踏み出した、と理解している。
 ぼくなりにいえば、八方塞がりの若き賀川の前に残された選択肢は、イエス・キリストの生き方だけだった。このまま無意味に死んでしまいたくない。自分はどこから来てどこへ行くべきなのか。誰ひとりとして、この懊悩煩悶の孤独を分かってくれる人がいない。そう悩む賀川の前に、キリスト、またキリストの似姿らが現れたのではないか。新約聖書のヨハネ福音書には、キリストの言葉が、このようにある。

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

(ヨハネの福音書12章24-25節)

 賀川にとって、キリストの十字架での死は、一粒の麦のようだった。後に来る豊かな多くの実りのために、地に落ちて死ぬことを選んだイエスの生き方は、贖罪愛の実例である。イミタチオ・クリスティ――このイエス・キリストの生き方こそ、病気と孤独にさいなまれた賀川に残された道であり、神からの招き、いわば天啓だった。病気と孤独の中で無意味に死ぬのではなく、誰かのために、多くの実りのために死にたい、キリストのように生きたい。賀川はそう考えたのではないか。
 そんな賀川の前に、キリストに似た者たちが現れる。看護師・寺島ノブエ、元材木屋・森茂である。寺島はキリスト教の信仰ゆえに、看護師の給与で身寄りのない老人らを世話する篤信の人だった。森茂は、材木屋で小僧をしていた際、主人の金を盗んだが、キリスト教に改心してからは周囲の貧しい人々や障がい者を探しては、稼いだ金を費やして彼らの世話をしていた。両者ともキリストのように見返りを求めず、自己憐憫をこえて他愛の精神に生きていた。
 とくに森茂は、日ロ戦争中に所属連隊の全滅を経験したが、彼を含む5名だけが生き残った。森は懐にしまっていた聖書が弾丸を受け止めて、奇跡的に助かった。銃弾は聖書を貫いていたが、彼の心臓は守られた。結果、復員後の森はますます人々の世話に邁進したという。
 賀川によれば「私は茂さんの行為に感じて貧民窟に入り、寺島さんの方法をうけ継いだのである」。賀川の目には、寺島も森も、キリストの生き方にならって、多くの実りである他者のために、地に落ちて死ぬことを厭わない一粒の麦、キリストに似た者である。
 イミタチオ・クリスティ――賀川豊彦のキリスト教実践にみられる持続的で習慣化された行動のかたち――は、こうして、新川スラム街への献身以後の彼の人生全体を規定するようになった。死線を越えたその先で、賀川豊彦もまた寺島や森と同様にキリストに似た者となる道を歩み始めたのである。

イエスにならって神に従うこと

 翻って自分の信仰を振り返る。ぼくにとってイミタチオ・クリスティとは何なのか。
 19才のころ、東大阪に住んでいた。ある日、大学への往復で使う橋の下に、ホームレスの人を見かけるようになった。彼を無視したまま自転車で通り過ぎることに信仰の問題として耐えられなくなったぼくは、意を決してコンビニでおにぎりや飲み物を買って、ホームレスのおっちゃんに手渡した。声をかけても最初は無視された。何度か呼びかけて、やっと起き上がったおっちゃんは「あぁ」と不愛想に受け取った。恥ずかしさと戸惑いの中、足早にその場を後にした。
 自宅に戻り、後悔した。どうして自分は立ったまま手渡したのだろう。なぜ地面にひざをついて気持ちよく声をかけられなかったのだろう。これでは、ただの自己満足ではないか、と。
 あれから20年以上を経て、もう一度大阪に住んでいる。たまにホームレスの人が自宅マンション前の茂みに座っている。ぼくは迷わずコンビニに走って食事と飲み物を買って、自宅に一度もどり財布の中身を全部封筒に入れて、冷蔵庫にある食べ物と、あると便利なウェットティッシュなどをレジ袋に詰めて手渡している。19才の頃のような戸惑いも恥ずかしさもない。ただの自己満足、親切の押し付けでもいい。大したことではない。通りがかりにこけた人を見かけて手を貸すことに理由などない。
 ぼくにとってイミタチオ・クリスティとは何か。それは自分なりにキリストに従うことである。イエスにならって、神に従う道は無数にあるからだ。何より、ぼくは賀川ではないし、森でも寺島でもない。だから同じことはできない。が、ぼくにしかできないこと、自分の隣人については、神の御前に責任があるのだと考えている。
 誰もが人生の中で、何度か死線を越えなくてはならないときが来る。そんなとき、日本人キリスト者・賀川豊彦にとって、死線を越えるその秘訣は、肉を切らせて骨を断つどころではない、キリストに倣う生き方、一粒の麦として他者のために自らの命を捨てることになっても実りを取る生き方、すなわちイミタチオ・クリスティだった。

 賀川豊彦の複雑な横顔が、斜陽の国を照り返している。彼の歩み、イミタチオ・クリスティは、日本人の犠牲的精神の美しい発露のようにも見えるし、狂信的宗教家の強引な慈善事業にも見える。このように賀川を含む、偉大な日本人の先達を思うとき、考え込んでしまう。あと何度、この国は死線を越えるのだろう。戦争、気候変動、政治的・経済的行き詰まり、人災ともいうべき数多の事象。果たして、死線を越えることができるのか。この国と、ぼくらにとって死線とその先にあるもの、イミタチオ・クリスティとは何を意味するのか。日本人にとってキリスト教とは、本当に価値あるものなのか。もし意味があるならば、果たして、それは何なのか。

(次回は2月下旬に公開予定です)

 第4回
ある日本人キリスト者の横顔

あなたは「賀川豊彦」を知っていますか? ノーベル賞候補であり、ベストセラー作家であり、世界三大偉人であった稀代の「キリスト者」に焦点をあて、日本とキリスト教について思索する。

プロフィール

波勢 邦生(はせ くにお)

ライター/研究者

1979年生まれ。博士(文学)、京都大学非常勤講師など。2015年以降、賀川豊彦を研究。日本のキリスト教について考えている。

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斜陽の国を照り返すイミタチオ・クリスティ