自民党の研究 動乱の保守政治に迫る 第七回

自民党はいつ「議論する政党」ではなくなったのか

森 功

高市早苗政権は衆院選で歴史的な大勝を収め、いま党内から異論はほとんど聞こえない。かつての自民党は違った。小泉純一郎政権の絶頂期でさえ、郵政民営化や政策金融改革を巡って激しい党内論争が繰り広げられ、政権と党がせめぎ合っていたのである。自民党はいつから「議論する政党」でなくなったのか。林芳正、野田聖子へのインタビューを手がかりに、小選挙区制の導入や政界再編、民主党政権を経て進んだ自民党の変質のあり様を探る。

撮影:内藤サトル

一強政権に漂う不安

 自民党は先の衆院総選挙で選挙前の198から118も議席を増やし、316と飛躍的に勢力を広げた。おかげで高市早苗政権は衆議院議員の絶対安定多数にあたる3分の2どころか、連立相手の日本維新の会を合わせると与党で4分の3という絶対的な議席を得る結果になる。議席獲得数で見ると、自民党史上はもとより終戦後の単独政党として最も多い。
 選挙結果が高市旋風かどうかはさておき、内閣支持率もずっと高い。共同通信の6月の世論調査で61.3%から55.8%へと5.5ポイント下げた以外、さほどの変化がない。高市内閣の発足以来最も低い数字を弾いてきた毎日新聞でさえ、5月の50%から51%とむしろ上向いている。陰では「50%を割ると急落するのではないか」(内閣官房の官僚)という声もあるが、自民党議員からの表立った政策批判はほとんど聞こえてこない。
 では高市政権で大丈夫かといえば、政官界はそう感じていない。食料品の消費税減税しかり、皇室典範や個人情報保護法の改正しかり、強引な国会運営が目立つ。それだけに政権の危うさがつきまとい、仮に高市政権が倒れた場合、誰が次を担うか、という話題も尽きない。現総務大臣の林芳正は、真っ先にその名が挙がる実力議員の一人だ。高市評を尋ねた。

林芳正総務大臣 撮影:内藤サトル

「今に限らず、これまでの政権は常に様々な評価がなされてきました。政府と党の関係でいえば、政高党低だとか、あるいは逆に党高政低だとか。安倍晋三政権、石破茂政権のときもさまざまに言われてきましたが、私は岸田文雄政権の後半(2023年12月に官房長官に就任)から官邸にいたので、なかなか肌で党内の雰囲気を感じることができていません。党の部会などに加わっていれば現状についてもう少し話ができますが、今も閣僚として閣議で総理の隣に座っていますからね」
 柔らかい口調で自嘲気味にこう切り出した。

小泉政権でも異論は消えなかった

「そのうえで強いていえば、元来の自民党は政策上の異論がぶつかり合うようなところでした。たとえば冤罪を生んだ再審制度を見直す刑事訴訟法の改正案を巡っては、法務省案に対して党内で稲田(朋美)さんをはじめとした論が噴出しました。以前の自民党ではあのようなことは珍しくなく、日常茶飯事でした。とくに思い出すのは、小泉純一郎内閣のときです。あのとき私は党にいたから、それを肌で感じました。小泉内閣で打ち出した政策金融の改革は、必ずしも政権の一大イシューでなく、自民党もそれ一色でもありませんでした。だからここでも反対意見が出た」
 自民党は独裁政権、人気絶頂の内閣総理大臣の時代にあっても、異論を抱える懐の深さがあった。強く林の記憶に残るのが小泉純一郎政権時代だという。
 小泉は内閣支持率が8%前後に急落した森喜朗の退陣を受けた2001年4月、「自民党をぶっ壊す」というキャッチフレーズとともに首相に昇り詰めた。前号に書いたように山崎拓、加藤紘一とともにYKKと呼ばれた党内の有力議員ではあったけれど、常に3番手扱いで、首相になるとは政界の誰もが予想していなかった。
 このときの自民党総裁選でも、小泉は森派、加藤派、山崎派の支持を取り付けていたものの、そこに竹下派の流れを汲む党最大派閥の経世会が立ちはだかった。いわゆる派閥の壁を打ち破ったのが、国民的な人気の高い田中眞紀子の応援であり、小泉人気は小泉旋風と表現された。結果、総裁選で小泉が最大派閥を率いた橋本龍太郎をうち破り、小泉が首相に就く。ある意味、ここが日本のポピュリズム政治の始まりといってもいい。反面、自民党内は小泉一色にはならなかった。
 そしてそれまで自民党の中心にいた最大派閥の橋本派を意識した小泉は、構造改革と称する金融再編を打ち出す。小泉政権で象徴的に語られる郵政民営化もその一環といえるが、それだけではない。終戦後から高度経済成長期にかけて日本復興のエンジンとなってきた政府系金融機関もまた民間の都市銀行などの業務を圧迫していると批判され、小泉構造改革のターゲットになる。小泉首相直轄の諮問機関である経済財政諮問会議が小泉構造改革の音頭を取り、欧米の市場開放圧力とともに政府系金融機関再編の必要性を訴えてきた。だが、実のところ党内には根強い反発もあった。

2001年4月20日、2001年 自民党総裁選での橋本龍太郎と小泉純一郎。写真:日刊現代/アフロ

郵政選挙が決めた党内の力学

 そうした党内の異論を封じこめたのが、2005年8月の郵政解散、9月投開票の衆院総選挙である。小選挙区と比例区を合わせた480議席のうち、小泉総裁の自民党は296議席を得て、113議席に沈んだ民主党を圧倒した。郵政民営化の陰に隠れて世間ではあまり注目されなかったが、政府系金融機関の統廃合はそれまでの日本の金融政策を根幹から変えるほどの衝撃があり、党内の異論も根強かったという。林が振り返る。
「選挙の前まで政府系金融機関の統廃合は、『総裁がそうおっしゃっても、その通りになるわけないじゃない』と党内の意見が割れていました。あの頃、政府系金融機関は国際協力銀行(JBIC)や国民生活金融公庫、中小企業金融公庫、農林漁業金融公庫、沖縄振興開発金融公庫などいっぱいあり、改革派はそれを3つくらいに再編したほうがいいという意見でしたが、小泉総理はそれどころではなく、1つでいいと言い出したのです。今でも覚えてますけど、『あまりに乱暴すぎるのではないか』と議論が百出していました。
 ところが自民党が郵政選挙で大勝すると、ムードがガラリと変わりました。総理は構造改革を訴えて選挙に勝った。自民党議員はその結果を受け止めなければいかん。
 今は8回生(8回当選)議員になっている当時の小泉チルドレンが1年生としてたくさん自民党に入ってきて、『小泉総理の改革を実行しなければならない』と後押しする。例を挙げれば、小泉政権ではその勢いのまま国際協力銀行の名称をなくし、日本政策金融公庫のいち国際部門に組み込んだ。橋本(龍太郎)元総理が小泉さんのところに行って反対だと直談判したことを思い出します。結局、国際協力銀行はJBICという英語の略称だけを残し、政策金融公庫のなかに吸収されました。すごいことが起きたなと驚きました。
 けれど、実情を言えば、それでは海外の融資案件を含めた政府系金融機関組織が存在しないことになる。対外的に話にならないと批判されてました。そのあと揺れ戻しがあって、国際協力銀行が復活した経緯があります。最終的に政府系金融機関は1つではなく、国際協力銀行と日本政策金融公庫、沖縄振興開発金融公庫の3つになりました。自民党内ではあの小泉政権下にあってなおそうした政策議論が日々交わされてきたのです」
 国際協力銀行は日本企業が海外の事業展開をする際に支援する。たとえば米大統領のトランプが日米関税交渉で日本政府に突き付けた5500億ドル(88兆円)の対米投資は、ソフトバンクや日立製作所などの日本企業が事業を担う。その投資金について融資や出資の際の保証をするのが、国際協力銀行や日本貿易保険(NEXI)といった政府系金融機関だ。日本企業の海外進出にとって欠かせない金融機関といえる。
 一方、政策金融公庫はもっぱら国内や中小企業、農林水産などの支援を謳う。そもそも役割の異なる国際協力銀行と日本政策金融公庫がいっしょになること自体がナンセンスであり、とうぜん所管する官庁も違う。政策金融公庫は総裁が財務事務次官の天下りポストになっているように財務省の影響力が強く、国際協力銀行は外務省や国際協力機構(JICA)との関係が濃い。悪くいえば縄張り意識だが、現実に金融機関としてそれぞれに特色があり、統合すればうまくいくものでもない。わけても国際協力銀行は吸収される側なので組織の独立性が損なわれてしまう。
 こうした行政改革は1980年代後半の中曽根康弘政権以降、欧米から市場開放政策を突き付けられ「小さな政府」の名の下で、進められてきた。金融界においては90年代に入り、都市銀行がバブル経済崩壊後の不良債権処理に公的資金が投じられてメガバンクに集約され、さらに数多くの政府系金融機関が統廃合されてきた。小泉政権下で進められた政府金融改革はまさしくその一環だったが、それものちに見直される。
 前述したようにくだんの国際協力銀行はそのまま麻生太郎政権下の2008年10月、いったん日本政策金融公庫のいち部門になる。だが、民主党政権時代の2012年4月には国際協力銀行として改めて分離されて今にいたっている。なお、沖縄振興開発金融公庫は2032年4月に日本政策金融公庫に統合されることに決まった。林が言う。
「今の党内では、ニュースになるぐらい議論が白熱してるのは再審法の改正でしょうか。ただ、あれは高市さんがぜひともやりたいという意思を示しているわけではないので、橋本元総理から言われても引かなかった小泉総理の政策金融とはニュアンスが違います。政府と党は時々に応じてけん制し合うこともあり、小泉政権のときでもけっこうな議論ができていました。高市総理の最大の関心事は食料品消費税の件ではないでしょうか。そこは『検討を加速させる』と衆院選の選挙公約に書いているので、力を入れているのでしょう」
 ときの政権と党が議論をぶつけ合う。その象徴が自民党の税制調査会だった。保守合同を果たした翌1956年、自民党は政府とは別に税制改革特別委員会を発足させ、これが党の税調となり、メンバーである税のプロが税制にモノを申してきた。自民党税調の幹部はインナーと呼称され、決定事項については党総裁ですら遠慮したとされる。1980年代以降、長らく税制の意思決定機関とされ、消費税導入のときは、田中角栄や中曽根康弘の内閣で防衛庁長官や通産大臣を歴任してきた山中貞則をはじめ、村山達雄や奥野誠亮、林義郎、相澤英之らがインナーとして奔走してきた。通産官僚から政治家となり厚生大臣や大蔵大臣を務めた林義郎は林芳正の実父でもあり、党と政府のあいだの緊張感を目の当たりにしてきたのであろう。が、その税調議論も変わってきたという。
「私が国会議員になったばかりの頃は、長いあいだ党の税調会長を務めた山中先生がいらっしゃいました。鹿児島が選挙区だった山中先生は消費税の必要性を訴え続け、そのせいで落選し、しかし、主張を変えずに国政に戻ってくる。そんな方でした。
 ところが最近の若い議員にはそんな迫力を感じません。数年前、たまたま都市部の小選挙区で議員になった人のウェブサイトを見て驚きました。『どんなに頑張って地元をまわっても、逆風の選挙では風に吹き飛ばされるし、順風なら何もしなくても選挙に受かる。後援会をつくっても意味がないから後援会活動をやめようかと言ったら、党の執行部に叱られた』というような話を書いているのです。山中先生と比べると、政治姿勢がぜんぜん違う。実際、今度の選挙を見ると、東京は自民が全勝しました。けれど、中選挙区制時代にはありえない現象でした」

小選挙区制が失わせたもの

 林は小選挙区比例代表制の現在の選挙制度にも違和感を覚えているようだ。
「衆議院の中選挙区では個人個人のサービス合戦になるけれど、小選挙区時代の今は党として政策を訴えて闘う。だから有権者に候補者個人の名前を知られなくてもいいし、実際、有権者が名前を覚えていないケースも耳にします。小選挙区制は政権交代を前提としている選挙制度ですが、それができるかどうかは別として、30年もやっていますから検証すべき時期に来ているといえるでしょう。
 以前は私はそこまでの発言に留めてきました。ですが、昨年の総裁選挙では思い切って中選挙区制度に戻すべきだとハッキリ言いました。現状では選挙で議席を確保しながら、自民党の中で競い合って切磋琢磨する場面がなくなっていますから」
 どのように国の舵を切るのか、という大局観のある大物が自民党にいなくなり、身の回りで起きる狭い範囲の諸事の対応に追われる小物ばかりが増えている。それは政治の世界に限った現象ではない。しかし政権政党がそれでは国の先行きが危うい。
「自民党でいえば、部会が議員を育ててきました。部会はOJT(On-The-Job Training)の場であり、私などが自民党に入った頃は、先輩議員が何を言っているのか、言葉の意味すらわからなかった。だから勉強しなければならない。若手にとっては部会に出ること自体が OJT でした。今それがないとはいいませんが、減ったのはたしかでしょう。部会で揉めに揉め、最終的に意見がまとまっていく。稲田さんの発言していた再審法の改正問題のように、その現場を自分自身の目で見ることが大事なんです」
 林は困ったときに頼めば対処できる「政界の119番」と呼ばれる。それほど多くの政策に通じていると評価される誉め言葉に違いない。かつての自民党には政策通を育む土壌があったのだろうが、今は勝手が違う。自民党が変質し始めた時期は、まさに小選挙区制の導入という選挙制度改革と重なる。

政界再編が自民党を変質させた

野田聖子自由民主党情報通信戦略調査会長 撮影:内藤サトル

 折しも衆議院選挙が中選挙区制から移行したこの時期、自民党に女性議員が生まれた。それが野田聖子である。「衆議院にも自民党の女性議員を」という公約を掲げた野田は、1993年7月の中選挙区時代の総選挙で初当選した。無所属の高市早苗とは当選同期だ。祖父は大蔵官僚から国会議員になった野田卯一、自民党内の真正保守派だと自負する。
「私は祖父のおかげもあって自民党の野田聖子だとまわりが勝手に思ってくれ、物心つかないうちから靖国神社に参ってました。なので、自然体でいられます。コアな支援者にも保守の人がたくさんいますが、変に右翼ぶる必要もありませんでした。逆に外から自民党に入ってきた人は保守を意識する必要があるかもしれませんね。私はわざわざ右っぽいことを言わなくてもいいので、割とのびのびやって来られました」
 政界は1990年代に入って小沢一郎が仕掛けた再編劇の幕あけとともに流動化していく。と同時に、自民党のあり様も変わった。
「私はまだ1年生議員でした。政界再編とともに下野し、自民党内に野党ではいかんという方針が根付いていきました。野党になったとたん、支援してくれていた農協では、これまでずっと理事長が表敬訪問してくれていたのに、事務局長に格下げになった。幹部からその手のぼやきが聞こえてきました。で、私たち一年生にも、思想信条よりまずは与党であらねばならないという方針が叩き込まれたのです。与党になるためにはどんな禁じ手を使ってもいい。社会党の村山(富市)さんに抱きついて、ありえない連立政権を組んだのもその結果でした」

1994年6月30日、村山内閣発足。(左から)武村正義さきがけ代表、村山富市首相、河野洋平自民党総裁。右端は森喜朗自民党幹事長。写真:毎日新聞社/アフロ

 そうして自民党内の派閥が対小沢一郎で結束したという。
 熊本県知事から衆議院議員に転じた日本新党の細川護熙が1993年8月、8党会派の連立政権を樹立した時期だ。閣僚経験のない知事経験者の首相就任は憲政史上初の出来事で、マスコミ各社の内閣支持率は軒並み70%を超えた。人気を得た細川政権は当初、小選挙区と全国区の比例代表をそれぞれ250とし、全体で500議席という選挙制度改革草案を作成した。ところが自民党だけでなく、連立を組んだ社会党にまで反対され、選挙制度改革が前に進まない。細川は自民党総裁の河野洋平との党首会談に漕ぎつけ、自民党案に近い小選挙区300、地域ブロックの比例代表200の小選挙区比例代表並立制に落ち着いた経緯がある。これが現在の小選挙区制の始まりであり、96年10月の衆議院議員選挙から導入された。
 もっとも細川人気は今の高市とは違い、あっという間にしぼんだ。小沢は細川護熙、羽田孜と辛うじて政権をつないだが、ここで自民党の逆襲に遭う。94年6月に羽田内閣の総辞職を受けた自民党は、細川連立政権に参加した新党さきがけや日本社会党を抱き込み、首相首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に票を投じた。一方の小沢は自民党から海部俊樹を引き抜いて、村山と海部の争いになって決選投票にもつれ込んだ。
 そして投票結果は村山261、海部214と僅差で、村山が首相に指名された。社会党の村山を総理大臣にいただき、自民党の河野が副総理兼外相、大蔵大臣にさきがけの武村正義という内閣の布陣である。このとき自民党側では村山内閣で通産大臣となる橋本龍太郎や自治大臣の野中広務という経世会の重鎮が小沢対策を練ったと前に書いたが、もう一人、細川内閣時に党の幹事長に就任した森喜朗も村山の担ぎ出しにひと役買った。森は安倍晋太郎の率いた清和会の四天王と呼ばれ、この頃から頭角を現わしていく。自民が政権を奪還するために一枚岩になった野田の言う文字どおりの「禁じ手」というほかない。ただし裏を返せば、自民党はそれだけ懐が深く、度量があったともいえる。
「自民党側の仕掛け人の中心は森幹事長と橋本通産大臣でした。そこで私はさすがに社会党の党首を担ぐのはおかしいと思い、造反しました。造反は1回生議員の頃からずっとです。私自身は真面目な保守だったんでそうしたまで。右翼だから社会党と組むわけにいかないと筋を通したつもりです。君が代や天皇、自衛隊までダメって主張していた社会党の党首を総理に担げば、自民党の矜持がなくなるというスタンスを守りたかっただけでした。
 それで選挙区の岐阜でも、なぜ一年生議員のくせに造反するのか、とずい分叱られました。 まだ中選挙区時代で自民党幹部が応援に来るのですが、ペナルティとして私のところはスルーする。橋本先生が同じ選挙区で社会党から出ていた渡辺一雄を応援したり。すごい目に遭いました。それ以来、私は造反の繰り返しで、慣れっこになりましたけれど」
 前に書いたようにこの頃、小沢一郎が新生党から新進党に衣替えし、渡辺美智雄に集団離党するよう誘いをかけたけれど、それもうまくいかなかった。高市が加わったリベラルズの動きだ。まさしく政界再編の嵐が吹き荒れ、自民党が変質していった。野田は嵐の真っただ中にいた。
「あの頃から自民党そのものが変わってきた面はたしかにあります。かつての自民党の考えは何でもありでした。野中広務先生や古賀誠先生は、国家より人に重きをおいて政策に取り組んできたように思います。長く自民党を見ていると、以前はもうちょっと人道主義的な考え方をする人が多かった。また保守にも派閥があり、そのなかでハト派の加藤紘一先生がいたかと思えば、タカ派の石原慎太郎先生がいたり、小沢一郎先生のような方もいました。本当のハトや本当のタカが入り混じっていましたけれど、党内は統制がとれていました。
 私はずっと総裁と喧嘩してきたけれど、自民党はおもしろいところで、選挙が終わったあと、『悪かったな、よく頑張ったな』と野中先生から声をかけられました。『その代わり二年生になったから、いちばん初めに政務次官にしてやる』とおっしゃってくださいました。要するに、飴と鞭を上手に使えていたのでしょう」

保守政党の転換点

 自民党は成熟した大人の政党だといわれてきたが、いつしかその大人感が消え、子供っぽい保守思想が目立つようになった。自民党はいつ頃から幼稚になったのか。
「象徴的にいえば、野党に政権を奪われたあたりから、自民党の大きな変化が始まり、右にシフトしていきました。野党だった民主党はリベラルと見られ、マスコミが注目していました。そんななか、自民党の存在感が薄らいできていると危機感を覚えた人が、民主党と違ったとんがり方をしようと考えたのではないでしょうか。そうしていかにも右っぽい政策や考えを羅列するようになったと感じます。つまり昨今いわれるようになった自民党の右傾化は、民主党政権ができてからでしょう。だから歴史的に浅い。とくに最近はなんちゃってタカ派が増えてきた気がします」
 もとはといえば民主党は1996年9月、新党さきがけを離党した鳩山由紀夫や菅直人らが結党した政党だが、そこに小沢一郎が合流して09年9月、自民党から政権を奪った。野田の言う野党に転落して著しく右傾化していったのはこのときである。
 いまや野田本人は党内の過激な保守思想陣営からリベラル派のような扱いを受けている。高市政権とは一線を画しているように感じる。保守をどのようにとらえているか。
「私自身はもともと保守のつもりなのに、リベラルといわれるのが不思議で仕方ありません。そのほかに党内になんちゃってタカ派もいる。その人たちは、強く過激なことを言わなければならない。だから中国に対して突っ張ったり、靖国神社に行って御神酒をあげたりする。それは私が考えている愛国とは違います。保守はそんなことしなくてもいい。
 中国や韓国は地政学的に隣国であり、私たちがどこかへ引っ越すわけにもいかない。互いの関係はそういう幼稚なレベルでは語れません。日本がここにあるのはいわば運命ですから、その前提に立って外交をしなければなりません。たとえて言うなら、極力地域社会できちんとルールを守ろうというあたり前の社会常識の下で共存するようなものといえばいいでしょうか。ゴミ出しの日を決めるとか、お互い誤解があればそれを解くよう努力するとか。そうして上手に賢くお互いが Win-Winになる関係を築くのが外交だと思います」
 使い古された言葉ではあるが、大人の対応とでもいえばいいのか、台湾有事の存立危機事態発言以来、すっかり冷え込んでいる日中関係についても、その必要があるという。
「トランプ大統領が世界の警察という立場を放棄しているから、アメリカはあらゆる面で以前ほど日本を庇ってくれないでしょう。そんな日米関係で自国を守る必要性があります。韓国と日本の関係が悪いは韓国の人と対話をしなければならないし、私もそうしてきました。中国に対する姿勢も同じでしょう。外交は微妙なバランスの上に成り立つものなので、関係が悪いときこそ両国をつなぐ 1本の糸を切らないようにしなければなりません。民間の方とのやりとりとかを欠かさずにやるとか。どこかを立てればどこかが立たずの繰り返しで、日本がそこを上手に押したり引いたりしながら生き延びていくしかないのです」
 高市政権に対する評価についてストレートに尋ねた。

自民党に戻り始めた異論

「評価はしばらくしてからでないと判断できないものです。今決めたことが数年先に結果が出る。たとえば20年前の郵政民営化などはその典型でしょう。前はこれで世の中がよくなり、経済が上向くと考えられていました。しかし実際には逆効果だったという歴史の審判が下りました。民営化された結果、郵便制度が潰れそうになっている。それを立て直そうと、何年もかかってやっと改正法が通ったところです。今高市さんがやっていることの結果がまだ出てないので、評価はなかなか難しい。
 けれど、自民党という異質の世界にいる女性がトップに立てたというのは、とてつもない偉業です。総理総裁になれたことは最大の評価をしていい。小池(百合子)さんが都知事になったように、高市さんが総理になった。ガラスの天井を破ったといわれますけれど、私たち女性議員はそこを気にしなくていいですから。私は自民党の女性議員第一号としての義務があると思って、ある意味ストイックな議員生活を送ってきました。最近になり、多くの女性議員が生まれましたが、まだ女性同士で闘って切磋琢磨するようなところにはいっていません。やっぱり後ろにつく男性議員次第のような部分が残っています。そこは今はまだ過渡期だと考えています」
 ある意味、これも大人の姿勢なのかもしれない。政権の評価は歴史が下すのもたしかだろう。しかし、混とんとする世界情勢において、日本にそんな余裕があるのだろうか。国民が生活に苦しんでいるなか、現政権が進む方向性について正しいか、あるいは間違っているかを見極めて政策を議論するのは、国会議員の務めだろう。
 目下、食料品の消費税減税の成り行きが、高市政策における最大の焦点の一つになっている。高市政権では党税調の会長が石破政権時代までの宮沢洋一から小野寺五典に交代した。小野寺は決して税制のスペシャリストではなく、首相が与しやすいから税調会長に抜擢したとも伝えられる。
 一方、インナーである税調幹部として元選挙対策委員長の小渕優子が副会長として残っていた。その小渕が先頃、食料品の消費税減税に対する反対意見を表明し、副会長の辞任を申し出た。かつて税調のインナーだった実父の小渕恵三の教えを受けてきた娘にとっては耐えられなかったのだろう、というのが永田町のもっぱらの評判である。
 小渕は党内に残る財政再建派の一人で、社会保障国民会議の実務者会議で唐突に出てきた食料品の消費税率の1%への引き下げに反発した。「責任ある積極財政」という妙な理屈で財源論を放棄した高市政権の危うさは、今さら繰り返すまでもないが、ここへ来て、ようやく高市政策にモノ申す動きが出てきたといえる。再審制を巡る刑事訴訟法改正に異を唱えた稲田朋美もまた、財政規律派として知られる。通常国会も終盤に入り、いよいよ党内のポスト高市の動きが芽生えているのかもしれない。(敬称略 つづく)

 第六回

プロフィール

森 功

(もり・いさお)
1961年、福岡県生まれ。ノンフィクション作家。2008年、2009年に「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」受賞。2018年『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』(文藝春秋)で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞。『魔窟 知られざる「日大帝国」興亡の歴史』(東洋経済新報社)『国商 最後のフィクサー葛西敬之』『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『地面師vs.地面師 詐欺師たちの騙し合い』(講談社)他著作多数。

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