転職が多い人や派遣労働者に襲いかかる落とし穴!
昨年末からの一連のニュースで、「高額療養費制度」という言葉そのものは世間に広く知られることになった。誰もがいずれ何らかの形で利用する可能性がある医療の重要なセーフティネット、という認識もある程度広まったようにも思う。だが、ではなぜ医療関係者や各学会、がんや難病の当事者団体、そしてワタクシ自身を含む制度利用者が一様に、今夏の上限額引き上げにそこまで強く反対していたのか、ということに関しては、あまりピンときていない人々もじつはかなりの数いるのではないか、という気もする。
というのも、JNNの世論調査によると、「『納得できる』は42%、『納得できない』は56%」(「高額療養費制度」、政府の年収などに応じて負担額を引き上げる方針に「納得できない」56% 3月JNN世論調査:TBS NEWS DIG 3/3)という数字が出ているからだ。この世論調査が行われた時期以降、特にここ最近になって反対の声がメディアやSNSを通じて大きくなったようにも思うので、この数字には多少のタイムラグのようなものがあると考えたほうがいいのかもしれない。とはいえ、それを見込んだとしても、賛否の割合はある程度拮抗していると考えるのが妥当だろう。
今回の高額療養費上限額引き上げ案が最初に報道された際に全がん連が実施した緊急アンケートでは、わずか数日で3600超の回答が集まり、「現在でも支払いに苦しんでいるのに、これ以上費用が高くなるのなら治療を諦めざるを得ない……」という悲痛な声が多数寄せられた(じっさいに制度を長年利用する者のひとりとして、この苦しさはワタクシも日々実感している)が、たとえそのように切実きわまりない訴えでも、じつは当事者の至近距離以外には意外に届いていない、というのはえてしてよくある話だ。「医療財政は逼迫しているという話だし、そんな状態で制度を維持するためには、多少の限度額引き上げならしかたない。そもそも今年8月に予定されていた値上げなんて、年収700万円の人なら数千円程度ということなのだから、ごくわずかな金額だし許容範囲じゃないのか……」なんて思っている人が少なからずいたとしても、不思議ではない。どうですか、そこのあなた?

今年8月に引き上げるとされていた案を現行制度と比較してみると、非課税者で1ヶ月あたり900円、年収370万円以下で3000円、年収700万円なら約8000円、そして年収1160万円以上のいわゆる高所得者層でも約3万8000円という金額の上げ幅であることがわかる。それらの差額を見比べて、「これくらいならそんなに大きな負担でもないじゃないか」と(他人ごとのように)考える人が一定数いたのであろう、ということを数字で示しているのが、上記のTBS世論調査結果だ。
ただ、世の中には様々な家計や生活形態があるわけで、状況次第ではこの上げ幅が最後のひと押しになって医療費を払えなくなる場合も充分にありうる、ということは社会のなかで生きていくひとりの人間として持っていてしかるべき想像力なのではないか……とは思うけれども。そしてさらにいえば、今回の政府・厚労省による〈見直し〉案は、上記で示した引き上げ金額の多寡以前に、当事者や医療関係者の声を聞かずに短期間のお手盛り審議会で決定された雑な意志決定プロセスが問題なのだけれども。ともあれいまは話をテクニカルにわかりやすくするために、ひとまず引き上げ金額の多寡に話を引き戻すとしましょう。
さて、たとえわずかな金額に見えたとしても、現状の制度下で限度額を引き上げる行為がいかに致命的な事態に発展する可能性があったのか、ということを以下で、できるかぎり平易に説明してみたい。
たとえば、ワタクシが転職するとしよう。現在は自営業なので国民健康保険だが、企業の正社員や派遣社員で働くことになった場合は、新たな所属先の健康保険に切り替わることになる。一般的には、組合健保から協会けんぽになったり、あるいはその逆だったり、あるいは勤めていた会社を離れて組合健保や協会けんぽから国保になったり、という例が多いだろうか。じつはここがトラップで、健保が切り替わると、前回も説明した高額療養費制度の多数回該当(直近12ヶ月のうち3回以上限度額を超えた場合には、4回以降の限度額をさらに引き下げるというシステム)は帳消しされて、新たな健保のもとでイチから数え直しになる。つまり、ワタクシの多数回該当利用は、転職する(健保が変わる)ことで自動的にリセットされ、今まで4万4400円の支払いで済んでいた1ヶ月あたりの治療費は一気に倍近い8万円少々まで跳ね上がってしまう、というわけだ。
この健保切り替えに伴う多数回該当リセットの問題は、今回の上限額引き上げの議論とは別に、以前から改善すべしと言われている高額療養費制度の大きな問題点のひとつなのだが、一般的にはあまり認知されていない重要な事項なので、あえてここで指摘をしておきたい。
そして、ここから先がさらに問題なのだが、多数回該当がキャンセルされてイチからカウントしなおしになったときに高額療養制度の上限が今年8月案のように引き上げられていると、以前と同じ治療を継続していても適用限度額の敷居に届かない、という事態が発生する可能性がある。その場合の支払いは通常の3割負担になるので、高額療養費制度の新たな適用限度額(年収700万の場合の8万8000円)に微妙に届かない3割負担の高い治療費(たとえば8万5000円など)を延々と払い続けることになる。支払いがそもそも新たな適用限度額に達していない(が、〈見直し案〉以前ならば適用額に達する水準だったことに留意されたい)ので、この状態だと以前の国保時代に利用できていた多数回該当はいつまでたっても利用できない、という悪夢のような状態だ。
このように、多数回該当リセットと上限額引き上げのツープラトンを食らってエアポケットのような落とし穴にはまり込むと、前回も説明した破滅的医療支出(貧困状態に陥る可能性が非常に高いとされる支払水準)にあっという間に達してしまう、というわけだ。それを避けるためには転職を諦める以外に選択肢はなく、苦しい長時間の低賃金労働から抜け出そうと思ったとしても、制度利用を継続するという目的が手かせ足かせになってしまい、現在の仕事に縛られ続けることになる。たとえば仕事が派遣労働者で数年ごとに雇用者が変わる場合などは、そのたびに多数回該当の回数がリセットされるので、制度そのものを利用できないという場合もあるだろう。
現在の高額療養費制度下でも、上限適用額に微妙に届かない状態で高額な治療費を払い続けている人や、その金額を払えずに治療を諦める人(受診抑制)が少なからず発生していることは、医療現場や医療経済学者の間でも問題視されているようで、今回の高額療養費制度見直し案に伴い緊急討議が行われたいくつかの医療関係者のシンポジウムなどでも何度か指摘されていた。この課題をさらに可視化して検証・改善するための、専門家によるさらなる定量的な統計調査などが待たれるところだ。
というわけで、わずかな上限額引き上げに見えても、実際には文字どおり致命的な事態に発展しうる可能性がある、ということがおわかりいただけただろうか。
それにしても、なぜ昨年冬に高額療養費制度の〈上限額見直し〉という案が唐突に出てきたのか、あのような見直し案として国民皆保険の最後のセーフティネットといわれるこの制度の上限額引き上げに手をつける必要があったのかという「そもそも論」について、もう少し噛み砕きつつ論点を整理した上で、各論的に問題を深掘りしてゆく次のステップに進んでゆきたい。というわけで、ではまた次回。
プロフィール

西村章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。