インフラストラクチャーの地政学——空間による歴史修正
小森真樹 アメリカ社会の現状を語る際、「分断」という言葉が用いられるようになって久しい。過去の評価や現在の価値観をめぐって激化する「歴史戦」や「文化戦争」、そして「暴力装置」たることを露骨に示し、歴史の改ざんすらも厭わない第二次トランプ政権……。
これらの現状を批評的に盛り込んでいるのが、現在世界中で大ヒットしている、ディズニー映画『ズートピア2』だ。アメリカ文化研究・ミュージアム研究者である著者が、このアニメ映画を起点として、アメリカ社会、ひいては現代世界の向かい合う諸問題について論じる短期連載の第三回。
第二回では、前作『ズートピア』の提示した「リベラルなユートピア」像の限界を示したが、今回からはいよいよ『ズートピア2』を見ていく。多様な哺乳類が平和に共生するズートピアだが、実はその”繫栄”の裏に排除や犠牲があり……
1 「いないこと」にされた種族――バイアスからバイオ・ポリティクスへ
前作『ズートピア』が描いた都市は、多様な哺乳類が共生する「生物多様性のショーケース」であった。しかし、続編『ズートピア2』はその括弧付きの「多様性」に致命的な欠落があることを突きつける。すなわち、「爬虫類」の不在である。
物語の冒頭、一匹の蛇、ゲイリー・デ・スネイクが都市に現れた瞬間、ズートピアはパニックに陥る。この反応は彼らが「嫌われている」からではない。都市の法と秩序の外部に置かれているから、つまり「存在しないこと」を前提に社会が設計されていることへのパニックだ。
これは、アメリカ合衆国における先住民(ネイティブ・アメリカン)や、かつての黒人奴隷の置かれた立場と二重写しになっている。彼らは「マイノリティ(少数派)」として包摂される以前に、そもそも二級市民(second class citizen)としてカウントされ、不可視化されてきた。
つまり、ズートピア=アメリカという理想郷は、「特定の種族を排除すること」で初めて成立した空間だったのだ。この残酷な事実は、前作でジュディが信じていた「誰もが何にでもなれる」というスローガンが、あくまで哺乳類という「選ばれた特権的な種族の中での平等」に過ぎなかったことを暴露する。ここで問われ始めたのは、心理的な偏見の問題ではなく、誰を「人間」や「市民」と認め、誰を排除するかという、ミシェル・フーコーのいう「生政治」的な線引きの問題である(*14)。すなわち、問題はバイアスではなくバイオ・ポリティクス(生政治)にあったという転回がここにある。
*14 ミシェル・フーコー「生政治の誕生」『ミシェル・フーコー講義集成』(『ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生』慎改康之訳、筑摩書房、2008年)
2 ウェザー・ウォールという「政治的人工物」
そしてこの排除を物理的に可能にし、都市の繁栄を支えているのが、巨大インフラ「ウェザー・ウォール(Weather Wall)」であった。
砂漠、熱帯雨林、極地といった異なる気候帯を人工的に隣接させるこのテクノロジーは、前作では、ズートピアの文明力を象徴的に示す程度で、いわば背景美術の一部に留まっていたといえよう。だが本作において、それは都市統治の「凶器」として前景化する。
技術哲学者のラングドン・ウィナーは、「人工物は政治的性質を持つか(Do Artifacts Have Politics?)」という論争を呼んだ有名な論考の中で、都市計画家ロバート・モーゼスが設計した、ニューヨークのロングアイランドにある低い陸橋を例に挙げた。その陸橋は、主に貧困層や黒人が利用するバスが通り抜けられないように意図的に低く設計されており、物理的な構造物自体が差別を自動化する装置として機能していたとウィナーは主張したのだ(*15)。
ズートピアの壁は、こうした「政治的人工物」そのものではないか。それは、気候を制御すると同時に、住民の移動を管理し、特定の種族が生息できない環境を作り出す「排除の建築」だ。「壁」は中立ではない。誰が快適な空調の中に住み、誰が排熱の中に追いやられるか。その差配する権力こそが、この都市の真の支配者である。
そして、このインフラの起源にこそ、本作最大の「歴史修正」が隠されていた。
世間に「常識」として流布する公式の歴史では、ウェザー・ウォールは名家リンクスリー家の祖、エベニーザー・リンクスリー(Ebenezer Lynxley)の発明とされ、彼は「建国の父」――いわば初代大統領ワシントンのように――として銅像になっている。しかしこの「正史」の裏側には、爬虫類のアグネス・デ・スネーク(Agnes De’Snake)という本当の発明者の存在があった。リンクスリーは彼女の特許と技術を盗用し、口封じのために目撃者(カメのメイド トー・トイズ・シェルドリック Tor-toise Shelldrick)を殺害し、あろうことかその罪を爬虫類のコミュニティや「種」――もちろん「人種」の喩えである――全体になすりつけて追放したのである。発明家・学者である彼女は、いにしえの時代にもかからわらず女性という設定であり、父権的なリンクスリー家が「女性」から奪ったという点も強調してよいだろう。
このプロットは、後述するように、トランプ政権下で進行中の反動保守的な愛国教育の復興事業「一七七六委員会」、そしてアメリカの起点を大西洋奴隷貿易に見出す「一六一九プロジェクト」とのあいだの対抗関係と鳴り響いている。すなわち、アメリカの繁栄と資本主義の基礎は、白人の発明や勤勉さ――プロテスタンティズムの倫理によるものなのか? それとも、奴隷制による労働搾取と技術的盗用によるものなのか?
映画は明確に後者を示唆している。ズートピアという輝かしい都市は、盗まれた技術と、抹殺された種族の犠牲の上に立っており、事実は書き換えられた「建国神話=歴史」で塗り固められているのだ。偉大な発明家の銅像は、実は「泥棒」「殺人者」「詐欺師」の像なのだ。
*15 Winner, Langdon. (1980), ‘Do Artifacts Have Politics?’, Daedalus, 109(1): 121-136. 論争を巻き起こした後、建築学や社会科学的な見地からは、その問いかけが現実を単純化しすぎているなどの反論や検証が起こった。経緯は以下に詳しい。「特集:Langdon Winner “Do Artifacts Have Politics?” を読む」『10+1』Web版(2020年1月)。他方で、ウィナーの命題が大切なのは、「人工物に政治はあるか?」と問いかけ、主題化したことにあり、論争的反応からもこの問いが革新性だったこと、また当時の社会にとっていかに耳の痛いものだったのかがわかるだろう。
3 マーシュ・マーケットとジェントリフィケーション
追放された爬虫類たちはどこへ行ったのか。彼らは地図上で「周縁」に位置づけられる湿地帯「マシュ・マーケット(Marsh Market)」に隠れ住んでいる。歴史書だけでなく、地理上の認識空間からも彼らの存在は周縁化されている。爬虫類に加えてここに住むのはアシカやセイウチ、イルカといった哺乳類であり、「水生動物」として暮らし向きが異なる「アウトサイダー」だ。
この地区の描写は、ニューオリンズやグローバル・サウスのスラムを想起させる。混沌としているが、生命力に溢れ、公式のズートピア内地――サバンナ・セントラルやタンドラ・タウン――が排除したパワフルな「ノイズ」が全てそこに集積している。ここは、ジェントリフィーケーションされた都市の繁栄を支えるためのバックヤードであり、搾取される労働力の供給源であり、そして制度内の人びとにとってそれは、「見たくないもの」を押し込めるゴミ箱でもある。
この「湿地(Marsh)」というモチーフは、アメリカ史の深層に刺さる象徴性を帯びている。モデルとなったニューオリンズは、かつて奴隷制存続の是非を巡ってアメリカ合衆国を二分した戦争、「南北戦争(大文字でCivil Warと記す。つまり内戦のことだ)」における南部の要衝であった。スペインやフランスの植民地を経て、アフリカから直接連行された奴隷たち、サントドミンゴ(現ハイチ)革命を経て逃れてきた人々、そして先住民の文化が混交(クレオール)化したこの地は、アメリカという国家が抱える「人種」と「搾取」の矛盾が最も交差する地点である。

かつて南部諸州で逃亡奴隷たちが湿地帯(スワンプ)に潜んでコミュニティ「マルーン」を作ったように、マーシュ・マーケットの爬虫類たちは、都市の法が届かない「湿地・低地」に追いやられている。つまり、アメリカという巨大なユートピアが、実は奴隷制という「人間を資本として消費するシステム」の上に建設されたことが示唆されている。「一七七六」年の独立宣言が謳った「自由」は、あくまで白人入植者のためのものであり、その経済的繁栄は「一六一九」年から始まる黒人の隷従と、先住民からの土地収奪によって購われていた。マーシュ・マーケットのノイジーな活気は、収奪される外部の側がなお続ける抵抗の文化であり、同時に、中心部がその文化――ジャズや料理やカーニバル観光――だけを搾取し、人間そのものは不可視化し続けるという、残酷な人種資本主義の縮図でもある。マーケットのストリートでジャグリングをして稼いでいるアシカがコインでの支払いを好まず魚での取引を求めるところは、アンダーグラウンドな市場では価値が確実な物々交換が貨幣より強いことを匂わせ、さらに南北戦争後に工業経済で資本主義を加速化させた「北部」に対する南部という歴史も示唆している。
さらに現在の世界情勢を巡っても――とりわけ2023年10月7日のガザ紛争以降――には、パレスチナという植民地を巡る歴史的意味にもその描写は通じていく。壁によって隔絶され、地図で周縁化された過密地帯の姿は、文字通り「天井のない監獄」としてのガザ地区のカリカチュアにも見える。

ズートピアは、壁の建設でつくられた「誰にとっても好ましい」人造的環境だった。しかしここで機能しているのは、「入植者植民地主義(settler colonialism)」の論理そのものである。清潔で安全な「文明の砦」として描かれるズートピア「内地」の安全は、「爬虫類」という特定の種族を「潜在的な脅威=テロリスト」と規定し、壁の向こうへ封じ込めることによって維持される。つまり、「ウェザー・ウォール」はイスラエルがパレスチナのアラブ人たちを追いやり、ヨルダン川西岸地区やガザ境界に建設した「アパルトヘイト・ウォール(人種隔離の壁)」のメタファーとしても機能している。壁の内側にいる市民が享受する「安全」、「リベラルな民主主義」や「多様性」とは、壁の外側に対する軍事的封鎖や、暴力的な隔離を不可視化することで成立する「平和」なのである。

この構造を支えてきたのが、作中の「リンクスリー家」に象徴される、「西洋」による帝国主義・植民地主義的な権力である。現実世界において、イスラエルという入植地国家を「中東唯一の民主主義国家」と擁護し、武器と資金を提供し続けてきたのは、アメリカや追従する日本であり、イギリスやフランスであった――これらは白人と「名誉白人」が多数派を占める国家である。彼らは「自衛権」や「テロとの戦い」という言葉を用いながら、先住民=パレスチナ人の土地を奪い、生活インフラを破壊し、その歴史を抹殺する行為に加担してきた。爬虫類の発明や特許という「権利」が盗まれ、その抗議の声さえもが「治安への脅威」として弾圧される展開は、1948年の「ナクバ(大災厄)」から現在に至るまで続く、パレスチナからの略奪と民族浄化の歴史と痛烈に重なってみえる。マーシュ・マーケットは、単なるスラムではない。それは、「西洋・近代」というズートピアがその繁栄のために切り捨て、更地にしようとしているガザの瓦礫の下にある抵抗の拠点である。
4 歴史の埋立地タンドラ・タウン
「タンドラ・タウン(極地区)」はどこに建てられているのか? ジュディとニックは捜査の過程で、上流階級が多く住むタンドラ・タウンが、かつて爬虫類たちが住んでいた「レプタイル・ラヴィーン(爬虫類渓谷)」を埋め立てて建設されたことを暴き出す。
この街は、文字通り歴史の上に土を被せて作られたのだ。ここで行われたのは、究極の「ジェントリフィケーション(階級による居住区の浄化)」である。都市開発や「再開発」という言葉は、しばしば暴力を隠蔽する。スラムが一掃され、綺麗なショッピングモールや高級住宅地ができるとき、そこに住んでいた人々の生活と記憶は「なかったこと」にされる。資本主義の論理は説得力を持つ――歴史が隠されているという条件の下では。
リンクスリー家が行ったのは、単なる技術の盗用ではない。「爬虫類が住めない気候=空間」を生産し、彼らの居住区を物理的に「埋める」ことで、彼らの存在自体を歴史から消去しようとしたのだ。記録=日記を燃やす歴史修正と併せて行われるのは、地形を変えてしまうことだ。風景が変われば、人の記憶も変わる。100年も経てば、誰もそこに爬虫類が住んでいたことなど思い出さなくなる。
ズートピアの市民たちがタンドラ・タウンの美しい雪景色を楽しむとき、彼らの足下深くには、追放された「爬虫類=被差別民」たちの残骸が眠っている。都市のインフラは、利便性を提供するだけでなく、過去の虐殺を物理的に見えなくする歴史の「蓋」として機能しているのだ。
マーシュ・マーケットは、「アメリカ」そして「先進国」「グローバル・ノース」というユートピアを支えるものを問う場所である。ジュディとニックが挑むのは、犯人探しという刑事ドラマではない。都市の地層を掘り返し、アスファルトの下に埋められた「種の歴史」を白日の下に晒す、考古学的で政治的な闘争なのである。

アメリカ社会の現状を語る際、「分断」という言葉が用いられるようになって久しい。アメリカの建国は、英雄たちによる「輝かしい」ものなのか? それとも、アメリカの発展・繁栄は奴隷制によって支えられた、「血塗られた」ものなのか? 過去の評価や現在の価値観をめぐって激化する「歴史戦」や「文化戦争」、そして「暴力装置」たることを露骨に示し、歴史の改ざんすらも厭わない第二次トランプ政権……。 これらの現状を批評的に盛り込んでいるのが、現在世界中で大ヒットしている、ディズニー映画『ズートピア2』だ。アメリカ文化研究・ミュージアム研究者である著者が、このアニメ映画を起点として、アメリカ社会、ひいては現代世界の向かい合う問題について論じる短期集中連載(全6回)。
プロフィール

(こもり まさき)
1982年、岡山県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士号(学術)取得。武蔵大学人文学部教授、立教大学アメリカ研究所所員。専門はアメリカ文化研究・ミュージアム研究。批評の執筆や雑誌の編集、展覧会・オルタナティヴスペースの企画にも携わる。著書に『美大じゃない大学で美術展をつくる vol.1 藤井光〈日本の戦争美術1946〉展を再演する』(編著、アートダイバー)、『楽しい政治—「つくられた歴史」と「つくる現場」から現代を知る』(講談社選書メチエ)、『歴史修正ミュージアム』(太田出版)がある。







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