制度化される忘却——教育・法・アーカイブの歴史修正
小森真樹 アメリカ社会の現状を語る際、「分断」という言葉が用いられるようになって久しい。過去の評価や現在の価値観をめぐって激化する「歴史戦」や「文化戦争」、そして「暴力装置」たることを露骨に示し、歴史の改ざんすらも厭わない第二次トランプ政権……。
これらの現状を批評的に盛り込んでいるのが、現在世界中で大ヒットしている、ディズニー映画『ズートピア2』だ。アメリカ文化研究・ミュージアム研究者である著者が、このアニメ映画を起点として、アメリカ社会、ひいては現代世界の向かい合う問題について論じる短期連載の第四回。
前回は、『ズートピア2』で明らかになった、ズートピアの“不都合な真実”―捏造された建国神話や、特定の種の排除・犠牲の上に成り立つ繁栄―を取り上げた。作中でこの“不都合な真実”に気付いた主人公ジュディとニックは、真実を語る資料を探し求めようとする。自分たちにとって都合のいいように歴史を語る統治者と、それに抗うように不可視化されてきた歴史を明らかにしようとする市民―これは決して「フィクション」ではない。現在アメリカで起こっている、二つの「歴史修正」の戦いとは。
1 「一七七六」対「一六一九」の代理戦争
こうした謀略と忘却の政治学として本作を見たとき、ジュディとニックが百年前の「日記」と「特許」を追い求めるという設定は、物語の核心を突いている。 彼らが探すことになるマクガフィン(物語の鍵となる品)は、『インディ・ジョーンズ』のような伝説の秘宝でも魔法の道具でもなく、埃をかぶった「一次資料」と「法的権利書」だ。この地味で実務的なアイテムの選択こそが、現代アメリカにおける「歴史戦」の本質を残酷なまでに突きつけている。それは、ファンタジー的な物語の競い合いではなく、極めて実務的な「公文書と教育カリキュラムの支配権」をめぐる闘争なのだ。

名家リンクスリー家は、捏造された「法」と「事実」を根拠として爬虫類を追放することに成功した。「正当性をめぐる歴史語り/騙り」の争いに描かれているのは、まさに現代アメリカにおける歴史教育をめぐる攻防そのものである。ここで、拙著『歴史修正ミュージアム』で提示したモデルを補助線とすれば(*16)、現在、「歴史修正」という言葉には二つの相容れない用法が混在している点だ。一つは、確定した史実を歪曲・隠蔽する「歴史の否定(denial)」。もう一つは、新たな史料やマイノリティの視点によって単線的な正史を多声的なものへと書き換えていく「包摂的な更新(update)」である。
権力側や否定論者はしばしばこの両者を意図的に混同させ、「更新」を「否定」であるかのように攻撃する言論の武器として用いる。本作で、そして現代のアメリカで起きているのは、単なる「嘘と真実」の対立ではない。この「否定としての修正」対「更新としての修正」という、二つの「真実」をめぐる、歴史修正の衝突に他ならない。
実際、トランプ政権以降の学校教育の現場では、アメリカの社会構造に人種的不公正があるとする「批判的人種理論(CRT)」を禁止しようとする運動が激化した。スミソニアン博物館群や国立公園においても、奴隷制度の説明や大統領への批判的解説、デモや「集会の自由」への言及は、連邦政府からの圧力によって「分断を煽る」として制限された。一方で、第二次トランプ政権下では「一七七六委員会」が復活し、「建国の父たち」を無謬の英雄として称える「愛国教育」が制度化され始めている(*17)。ここでは、「修正=改ざん(否定)」こそが愛国的な義務となり、逆に構造的な差別への言及こそが「分断工作」として禁止されるという倒錯が起きている。
対して、ジュディやニック、そして当事者であるゲイリーが試みたのは、埋もれた一次資料(日記)と権利書(特許)を掘り起こし、歪められた公式史を事実に基づいて書き換えようとする「修正=アップデート」の実践である。「更新としての修正」は、近年「一六一九」という数字に象徴させて語られてきた。これは、アメリカの歴史を「一七七六」という建国年だけから語るのではなく、奴隷制の始まったとされる年を起点に組み替え、国家の成り立ちそのものを別の角度から語り直そうとする視座を指す。「一六一九プロジェクト」とは、2019年に『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』が立ち上げた企画で、こうした語り直しを公共圏へ押し出した代表例である。建国神話を無謬の原点として固定化する語りが「一七七六」だとすれば、「一六一九」は、その原点の外部に押しやられてきた暴力と不公正を歴史の中心へ引き戻し、正史の前提を問い直す語りなのである(*18)。一方反対派は、この更新的修正を「自虐史観」や「反米プロパガンダ」と呼び変え、攻撃してきた。
観客がスクリーンで目撃するのは、「一七七六」と「一六一九」という二つの歴史観が激突する現場である。『ズートピア2』における闘争は、善と悪の戦いではない。現政権が自分たちの「否定」こそが正史であると主張し、市民が試みる「更新」をフェイクニュースとして葬り去ろうとする――その「二つの修正主義」の戦いの渦中にあるアメリカ社会の空気感を、強烈に映し取ったものだ。映画の中で、リンクスリー家が必死に隠そうとする日記は、単なる証拠品ではない。それは現実社会における「禁止された教科書」のメタファーであり、歴史を「否定」の道具から「対話」の道具へと取り戻すための、唯一の武器なのである。
*16 小森真樹『歴史修正ミュージアム』(太田出版、2025年)。
*17 2025年1月、トランプは大統領令「小中高教育における過激な思想の強制的導入の終結(Ending Radical Indoctrination in K–12 Schooling)」を発し、K–12教育を「急進的な洗脳」から解放すると主張した。大統領令は、批判的人種理論(CRT)や「ジェンダー・イデオロギー」等を「反米的」な思想として名指しし、連邦資金の配分を梃子に、学校現場における関連プログラムや指導の抑制を促す方針を打ち出している。The White House. “Ending Radical Indoctrination in K-12 Schooling.” Presidential Actions, January 2025.
*18 「一六一九プロジェクト」は、2019年に『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の特集として立ち上がった。単発の特集にとどまらず、教育資源・カリキュラム・イベント・教材配布までを含むパッケージとして設計されたことで影響力を増し、公式パートナーであるピューリッツァー・センターが授業用リソースの整備を担うなど、制度的な足場も形成された。こうした建国神話への挑戦はやがて史実をめぐる論争へと転化し、ニューヨーク・タイムズ側が批判を受けておこなった表現の修正・補足(clarification)も反対派の攻撃材料となった。とりわけ、K–12教育(初等中等教育)に教材等として導入される局面で、社会的反発がいっそう可視化された。“Pulitzer Center Named Education Partner for The New York Times Magazine’s ‘The 1619 Project’.” Pulitzer Center, August 13, 2019; “The 1619 Project and the Demands of Public History.” The New Yorker, 2019.
2 「二つのD」の闘争と、人質に取られるインフラ
さらに本作において、「歴史の隠蔽」が単なる悪党の陰謀ではなく、行政権限とインフラを用いた「統治の技術」として描かれている点には、戦慄すべきリアリティがある。これがディズニー社自身の痛烈な実体験の投影なのか、それとも時代の空気が生んだ偶然の一致なのかは、議論の余地があるだろう。
だが、その答えを出す前に、我々は現実のアメリカで起きたある事件を補助線として引く必要がある。冒頭で触れた、フロリダ州におけるディズニー社とロン・デサンティス知事との闘争、いわば「二つのD」の戦いである。「ゲイと言ってはいけない法(Don’t Say Gay)」というニックネームで知られる「教育における親の権利法」に端を発するこの対立において、行政側がディズニーへの報復として選んだのは、コンテンツへの直接的な検閲ではなく、ディズニー・ワールドが有していた準自治権の剥奪、すなわちインフラ管理権限への介入という“兵糧攻め”であった。
フロリダ州はまず、ディズニー・ワールドが長年依拠してきた「準自治(特別区)」の統治構造に手を入れる。従来ディズニー社が与えられてきた「リーディクリーク開発特区」の身分を再編し、州知事が指名する理事会が監督する地区へと改名・改造することで、道路やインフラ、建設許認可といった生活基盤に関わる決定権を握り直したのだ。企業が将来の投資判断を迫られるように、自治と開発の条件を握る。政治権力が経済インフラを盾に「言論の自由」を吊り上げる露骨な介入だった。2023年8月には、知事管轄に取って代わられたウォルト・ディズニー・ワールド地区は、「多様性・公平性・包摂性(DEI)」プログラムを全て廃止した(*19)。

『ズートピア2』のヴィランであるリンクスリー家が、気候制御システム「ウェザー・ウォール」という「インフラ」を人質に政治を牛耳るという設定は、この現実と不気味に符合する。現代において、あるいは古来より、権力者は気に入らない言論を封殺するために、本を燃やすに飽き足らず、水道を止め、道を塞ぎ、空調を切る。物理的なライフライン(インフラ)を握ることで、企業や市民が発信する精神的な「物語」をもコントロールしようとする。
本作におけるリンクスリー家の支配構造は、現代アメリカにおいて政治権力が文化産業に対していかにして「自己検閲」を強いているか、その恫喝のメカニズムを暴き出している。そして何より皮肉なのは、そのメカニズムを戯画化して世に問うたのが、他ならぬその被害当事者であるディズニー自身だという事実である。本作は、インフラを人質に取られた巨大企業による、アニメーションを通じた痛烈な「カウンター」としても機能しているのだ。
*19 “DeSantis tourism board scraps Disney’s DEI programs.” The Guardian, August 3, 2023.
3 祝祭としての検閲
インフラによる環境、法という正当性、そして歴史というナラティヴ(物語)――これらを世間に膾炙させる儀式が「ズートピア建国一〇〇周年記念式典/ズーテニアル・ガラ(Zootenial Gala)」である。きらびやかなパレード、創設者エベニーザー・リンクスリーを称える巨大な銅像、そして感動的なスピーチ。この祝祭において、参列者たちは「偉大な歴史」に酔いしれる。だが、映画の構造を知る観客は気づかされることになる。その式典会場の地下深くには、かつて爬虫類たちが住んでいた土地と、虐殺の記憶が埋められていることを。ここに活写されるのは、全体主義的なプロパガンダが完成するプロセスだ。歴史修正主義の最終目的は、単に過去を消すことではなく、不都合な事実を隠蔽した上で、捏造された美しい過去を「祝う」ことである。人々が偽りの神話を内面化し、それに感動して涙を流すとき、支配は盤石となる。「感動」に代表される情動こそが、批判的思考を停止させる最強の麻酔なのだ(*20)。
この虚構の祝祭に、現実世界で不気味なほどタイミングよく合致するのが、トランプ政権が推進する独立記念祭「米国建国二五〇周年祭(America250/Semiquincentennial)」である(*21)。ズーテニアル・ガラとは、この「-tennial」という周年(祭)を表す接尾辞に韻を踏ませたもじりである(*22)。この祝祭の中心地となる、建国時代に独立宣言が起草されたフィラデルフィアでは今極めてタイムリーに露骨な「歴史否定」事件が起きている。2026年1月28日、独立記念館や自由の鐘に隣接する旧市街地――まさに「建国の聖地」において、初代大統領ジョージ・ワシントンが住んでいた邸宅跡を管轄する国立公園局が、大統領の奴隷所有の事実を示した展示パネルを、市への通知もなく突如撤去したのである。この展示は、オバマ政権時代の2010年に史跡展示をより多様で包摂的なものにするため、つまり「アップデート的修正」として新たに追加公開されたものであった。現政権の息のかかった委員が増員された結果、標的となったこの展示は闇に葬られた(*23)。
これに対して、市長や市民からただちに怒りの声が巻き起こり、デモなどの運動や、同市が連邦政府を訴えた結果、連邦地裁は公園局に展示物の「復元」を命じ、2月19日には展示の再設置がなされた。その後公園局は、撤去は「歴史的遺産の包括的再評価」の一環であると主張して控訴する意向を表明している。250周年の「祝祭に水差すノイズ」を取り払おうという意向が垣間見えよう。

映画の中でリンクスリー家が銅像を建てて祝おうとし、そして現実の政府がフィラデルフィアで展示を撤去してまで守ろうとした「建国物語」。これらの歴史修正の構造は完全に相似形だ。そこで語られる「自由の国=ユートピア」の物語の陰で、誰の歴史が、どのマイノリティの記憶が「埋め立て」られているのか。ズーテニアル・ガラのきらびやかな虚飾は、我々が今年の独立記念日に目にするであろう国家祝祭の空虚さを、あまりに鮮烈に、そして予言的に映し出す。我々がスクリーンで見ているのは、遠い異世界の寓話ではない。今、そして数ヶ月後に完成する新たな「アメリカ」の風景そのものなのだ。
*20 以下の拙論では、現代アメリカにおける歴史修正の影響力についてパブリック・ヒストリーの「情動」論から考察している。小森真樹「名づけをめぐる二つの『歴史修正』――動揺する『義足的記憶』あるいは闘技する『楽しい政治』」『立教アメリカンスタディーズ』48、印刷中。
*21 2026年7月4日の独立記念日に本番を迎える『米国建国二五〇周年祭』は、ホワイトハウス「アメリカ独立二五〇周年記念タスクフォース」および「合衆国独立二五〇周年記念委員会」と連動した事業である。America250; The White House. “Ending Radical Indoctrination in K-12 Schooling.” Presidential Actions, January 2025.
*22 なお同市でよく知られる「フィラデルフィア美術館」は1876年の「米国建国一〇〇年祭」に、映画『ロッキー』は1976年の「米国建国二〇〇年祭」の折にそのルーツがある。両者の関係については、以下の拙著に詳述。小森真樹「負け犬ロッキーが美術館と戦う――フィラデルフィア」『歴史修正ミュージアム』(太田出版、2025年)
*23 “National Park Service removes slavery exhibit from President’s House in Philadelphia.” WHYY, January 28, 2026.

アメリカ社会の現状を語る際、「分断」という言葉が用いられるようになって久しい。アメリカの建国は、英雄たちによる「輝かしい」ものなのか? それとも、アメリカの発展・繁栄は奴隷制によって支えられた、「血塗られた」ものなのか? 過去の評価や現在の価値観をめぐって激化する「歴史戦」や「文化戦争」、そして「暴力装置」たることを露骨に示し、歴史の改ざんすらも厭わない第二次トランプ政権……。 これらの現状を批評的に盛り込んでいるのが、現在世界中で大ヒットしている、ディズニー映画『ズートピア2』だ。アメリカ文化研究・ミュージアム研究者である著者が、このアニメ映画を起点として、アメリカ社会、ひいては現代世界の向かい合う問題について論じる短期集中連載(全6回)。
プロフィール

(こもり まさき)
1982年、岡山県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士号(学術)取得。武蔵大学人文学部教授、立教大学アメリカ研究所所員。専門はアメリカ文化研究・ミュージアム研究。批評の執筆や雑誌の編集、展覧会・オルタナティヴスペースの企画にも携わる。著書に『美大じゃない大学で美術展をつくる vol.1 藤井光〈日本の戦争美術1946〉展を再演する』(編著、アートダイバー)、『楽しい政治—「つくられた歴史」と「つくる現場」から現代を知る』(講談社選書メチエ)、『歴史修正ミュージアム』(太田出版)がある。







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