続・陸戦隊と暁部隊 第2話

波濤に消えた「南洲さん」 (後編)

佐田尾信作

「矢おれ力つきた」志水村長

 離島にとって今も昔も最も悩ましい問題は何か。医療や公衆衛生である。焼尻出身の小納正次による労作の聞き書き『焼尻の歴史』(1994年、私家版)には明治以来の苦闘がつづられる。「(対岸の)苫前村に公立病院が置かれていても、焼尻は無医村状態が続き、医療面において難渋を極めた」とあり、苫前まで船を仕立てて医師を迎えに行った時代を経て開業医を招聘するに至ったという。

 今でいう助産師を養成するため島民の妻に資金を出して札幌の病院で勉強してもらい、期限を切って島で働いてもらう試みもあった。村が帰りの旅費を出さないため、一時女性が暇をもらいたいと言い出した時は大騒ぎになったが、その後円満に解決したようである。島から、一家から医師を出そうという総意が志水家にあったとしたら、こうした離島固有の問題と無関係ではない気がするのだ。

 小納の聞き書きには続編があって、これまた600ページを超える労作。それによると、南洲が遭難した年を含む1945年から54年は戸数、人口が明治以降では最も増えた時期に当たる。サハリンなどからの引き揚げに加えて、ニシン豊漁による人の流入、復員と結婚による出産ブームがあったためで、この孤島で420世帯2763人とは驚くばかりだ。それがニシン不漁によって一転して減少の一途をたどり、二度と回復しない。

 この危機に南洲の兄要は村長として直面した。羽幌町との合併には消極的で村民有志とともに「自主独立」を標榜したが、島の衰退にはあらがえず最後は合併を受け入れた。

 1959年頃と思われる題字不明の新聞の人物欄に59歳の要が登場していて「町村合併促進法施行以来六年間独立を固持してきただけに合併反対強硬分子のラク印をおされているが、長い自治体生活からの体験と離島という特殊事情を無視した画一的な合併方針に中央の自治行政の権威者とも十分相談してのうえで村民の意思による合併反対を支持してきたものである」と好意的に書かれている。「財政は苦しいが、理想的な行政振り(ママ)」「矢おれ力つきた」といった表現もある。顔写真で分かる要の風貌が祥介にそっくりだと僕は内心驚いたのである。

 実は要は有吉のルポの冒頭に出てくる宮本常一と接点があった。全国離島振興協議会事務局長だった宮本が要と東京で会ったことは『宮本常一写真・日記集成』(毎日新聞社、2005年)収録の宮本の日記から判明し、1955年3月25日に「赤坂―焼尻村長ニアフ」とある。9年後の64年には「幌延→羽幌→焼尻→天売→苫前→留萌」を1日で回ったことが記されている。

 紀行文「焼尻・天売島」(『宮本常一離島論集 第四巻』みずのわ出版、2013年)にはこうある。

「焼尻島へ渡ったのは昭和三十九年(一九六四)年八月八日であった。前夜幌延に一泊し、そこを朝早い汽車にのって海岸にそうて南下し羽幌で下車した。利尻・礼文を見たのだからこの島も是非見たいと思った。この島に昭和三十年頃志水要氏が村長をしていた。離島(全国離島振興協議会)の事務局がまだ(東京・赤坂の)福吉町にあった頃よくやって来ては島のいろいろの話をし、是非焼尻へ来るようにとすすめた。渡って見たいと思いつつその暇がなかったのである」

「志水氏のはなしでは最近急にニシンがとれなくなりはじめて困っているので、今後島をどのようにしてゆけば発展するだろうかと苦心しているとのことであった。ニシンで開けた島にニシンのこなくなることは大へんなことである」

 宮本の見立てでは、ニシンが来なくなっても魚は獲れるから島民の海への依存は変わらない、一方で島外に進学し大学まで進んだ者は島に戻ることがない、加えて漁業だけで食えない者は北海道本土へ出稼ぎに赴く、という島の構図があった。つまりは島の将来像が定まらない。来島を勧めてくれた要も既に横浜にいる、と宮本は付記しているが、要と宮本の間にどのようなやり取りがあったのか、これ以上の材料は今のところ見つからない。亡くなった弟南洲のことを要が話題にしたかどうかも知るすべがない。

 宮本には北海道にまつわる苦い思い出があった。大阪府農務課嘱託だった宮本は戦災に遭った人たちを北海道の原野で帰農させる事業に関わるが、敗戦後自ら天塩地方まで引率して北の大地の風土の厳しさに多難な前途を思ったのだ。また明治の世に大水害に遭って奈良県十津川郷から石狩平野に入植し、新十津川村(当時)を開いた人たちの話も聞いて多大な労苦を知る。

 函館で船便を待つ時、入植地を去った日本人や炭鉱で働いていた朝鮮人には「えらい目にあうところであった」「(わざわざ入植者を連れていくとは)罪なことをしたものだ」と告げられる。宮本自身も専ら乾パンをかじり、駅では「猿子眠」という体を丸くして風邪をひかない眠り方で休み、最後は函館から6日間、水だけ飲んで帰京した。「渋沢(敬三)邸で御飯にありついたとき、飯の上にポロポロと涙をおとしてしまった」(自伝『民俗学の旅』講談社学術文庫、1993年)。その後、直ちに渋沢の縁戚、石黒忠篤(当時、鈴木貫太郎内閣の農商大臣)に北海道の入植者の窮状を訴えたのである。

 本稿を執筆中、南洲にまつわる逸話について祥介がメールを送ってきた。祥介の父伯美は要の三男。少年の頃、焼尻の浜で尺八を吹く叔父南洲から「これからは英語の時代だからよく勉強したらいい」とアドバイスされ、一時は外交官を目指したという。しかし南洲の死によって要から医師の道に進むよう命じられ、それに従う。そして祥介もまた医師の道に進んだ。「軍装の南洲さんの遺影を見るたびに『大切な忘れ物』を探さなければならないという思いに駆られるのです」。ファミリーヒストリーは未完のままである。

後の焼尻村長志水要と関わりがあった民俗学者宮本常一(提供/宮本千晴)

影を追い続ける祥介

 旧日本陸軍の将校団体だった偕行社が発行している機関誌「偕行」に「志水」の名前を見つけたので追記する。1983年から足掛け3年にわたって連載されていた座談会「船舶兵物語」を読んだ田村繁雄(陸士五十七期船舶兵)が「第三次の海上挺進戦隊の編成が昭和二十年の六月から幸の浦(幸ノ浦)で再開され、第四十一戦隊から第五十三戦隊が特幹三期生を主体にして編成された際に、残された船舶兵五十七期の中から江頭、近藤、渋谷、仁熊、志水、田中、小波、田村等が戦隊附として編成に加わり……」と投稿していた。

 この四十一から五十三までの戦隊は福岡県に配備された特設五十一、特設五十二を除いた全てが焦土の広島や似島に救援に向かっている。南洲がどの戦隊付になったかは不明だが、幸ノ浦か福岡か、どちらかで敗戦を迎えたとみていい。この投稿には「宇品練習部の五十七期船舶兵見習士官隊 十九年四月~六月(旧大和紡・女子工員寄宿舎前にて)」と注記した2枚の写真も掲載され、64人の1人として南洲も写っていた。敗戦からさかのぼること1年余り前、五十七期船舶兵たちは見習士官隊としてまとまって舟艇などの教育を受け、その後、生死が分かれていく。田村は「生き残った五十七期船舶兵」として戦死した同期をしのびつつ投稿を結んでいる。

 また「偕行」の別の投稿によると、44年頃の船舶部隊は急速に膨張していたため五十七期船舶兵は新設部隊の一線の指揮官に登用されたが、転属が頻繁だったため資料が乏しく、戦後40年を経て生存者の記憶も曖昧になっていると憂えている。先の田村も「田村少尉の異動は激しくて、書類が後から後から追っかけてきていたようです」と当時の人事係から聞いている。

 同期の南洲の軍歴がそっけないのもそうした事情が背景にあるのか。マルレの部隊に配属されたとしても軍機によって「なかったこと」にされたのかもしれない。しかも生きて復員したのに不慮の事故で北の海に消え、戦没者として悼む場もない。今は眷属たる祥介がその影を追い続けることが弔いのかたちである。

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 第1話

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プロフィール

佐田尾信作

(さたお しんさく)

1957年、島根県出雲市生まれ。ジャーナリスト。大阪市立大学文学部卒業。
広島を拠点に取材活動45年。現在は中国新聞客員編集委員、日本ペンクラブ会員、宮本常一記念館運営協議会委員。
著書に『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』(集英社新書)
『宮本常一という世界』『風の人宮本常一』、共著に『われ、決起せず 聞書・カウラ捕虜暴動とハンセン病を生き抜いて』(いずれも、みずのわ出版)など。

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