睡眠を哲学する 第11回

睡眠とリズム ―制御不可能なものとともに生きる人間

伊藤潤一郎

1. 睡眠と覚醒の交替―ヘーゲルの睡眠論

 ここまで6回かけて西洋哲学史において睡眠がどのように論じられているかを追ってきた。前回は20世紀半ばのメルロ゠ポンティやレヴィナスについて見たが、ここで少しだけ時代を遡り、ヘーゲルの睡眠論を押さえておきたい。というのも、20世紀後半以降の哲学における睡眠論の最高峰とも言うべきジャン゠リュック・ナンシー『眠りの落下』を理解するには、ヘーゲルを入口にするのが一番だからだ。

 ヘーゲルについては、本連載の第8回でも少しだけ言及したが、その際に問題になっていたのは、ヘーゲルが19世紀の多くの哲学者と同じく眠りを「動物磁気」と結びつけて論じているということだった。それに対し、今回注目したいのは「リズム」である。まずはヘーゲル自身の言葉を見てみよう。

睡眠と覚醒とはさしあたりもとより、単なる変化ではなくて、交替する‘ ‘ ‘ ‘状態(際限がない進行)である。

(『ヘーゲル全集3 精神哲学』船山信一 訳、岩波書店、1996年、強調原文)

 睡眠から覚醒への移行、あるいは覚醒から睡眠への移行を、一方から他方への単純な変化として理解するだけでは十分ではない。むしろ、睡眠と覚醒のあいだの関係は、双方が互いに入れ替わる交替運動として理解しなければならないとヘーゲルは述べる。眠ることとは、いわばリズミカルにスイッチのオンとオフを繰り返しつづけることなのである。一日の睡眠時間が規則正しく8時間だとすれば、16時間オンの状態がつづいたあとには8時間のオフの時間がやってきて、その後また16時間のオン状態がつづき、8時間のオフがやって来るということだ。人間は眠るかぎり、死ぬまでこのような交替運動を止めることができない。

 このように、ヘーゲルは眠りを覚醒とのリズムのなかにあるものとして理解しているわけだが、ヘーゲルの睡眠論がどのような文脈のなかで語られているのかにも注目したい。先の引用の前後で、ヘーゲルがさまざまな観点から論じているのは「魂(Seele)」についてだった。ただし注意しなければならないのは、この場合の「魂」は、身体と対立する精神のことではなく、「自然のなかに囚われた精神」を指しているということだ(ヘーゲル独自の用語法なので、一般的な意味に引きずられないようにしたい)。つまり、ヘーゲルが語る「魂」とは、身体と密接不可分な精神を意味している。

 このような文脈を踏まえたうえで、ヘーゲルのいわんとしているところをまとめれば次のようになるだろう――睡眠と覚醒のリズミカルな交替は、精神が身体と不可分であるがゆえに生じる。

 そして、さらにもう一歩踏み込んで、ヘーゲルの言葉ではこの場合の「身体」が「自然」とも言い換えられることを加味すると、次のように言えるだろう――睡眠と覚醒のリズミカルな交替は、精神が自然と不可分であるがゆえに生じる。

 ヘーゲルのこのような睡眠論は、驚くべきことに現代の科学的な睡眠研究と軌を一にしている。一般に、睡眠研究の歴史は20世紀にはじまるとされ、ハンス・ベルガーがはじめて脳波を計測したのが1924年、いまや私たちの常識となっている「レム睡眠」が発見されたのは1953年のことだった。それに対し、ヘーゲルの睡眠論が書かれたのは19世紀前半である。つまり、科学が睡眠の謎を解明しはじめるほぼ100年前の睡眠論なのだが、それにもかかわらず、ヘーゲルはリズムと自然との関係のなかで眠りを理解することによって、現代の科学的な知見を先取りするような発想を示しているのだ。具体的に言えば、「概日リズム」や「生物時計」といった科学的な睡眠研究で頻繁に議論されているテーマを、ヘーゲルは先取りしていたと言えるだろう。次節では、科学が明らかにした睡眠研究の成果から、あらためて睡眠にとってリズムと自然がいかなるものであるのかを考えてみよう。

2. 概日リズムと「自然に帰れ」

 日常的には「体内時計」という言葉でイメージされる「概日リズム」は、英語では「サーカディアンリズム」と言う。「サーカ」が「おおよそ」、「ディアン」が「日」を意味するので、「サーカディアンリズム」とは「だいたい一日を刻むリズム」ということだ。

 人間を含む地球上のほとんどの生物の遺伝子には、この概日リズムを測る時計が書き込まれており、それぞれの生物が適切な活動時間(たとえば天敵の少ない時間)を知ったり、さらにはより長いスパンで季節を感じ取ったりすることを可能にしている。人間も鳥も昆虫もこのような時計遺伝子をもっているという事実は、一日という周期を測れることが地球上で生き延びるためにいかに重要であったかを物語っている。

 なぜそれほどまでに概日リズムが重要なのかといえば、このリズムが地球の自転に由来しているからだ。地球は自転しながら太陽の周囲をまわることで、地球上では昼と夜がリズミカルに交替してゆくが、ほとんどの生物はこの昼夜の交替運動のなかの決まった時間帯に特定の活動をする。私の家の近所でも、夕方になるとどこからともなく無数のカラスが集まってきて集会を開いているが、これは夜ねぐらに帰る前のカラスの習性だとされる。晴れた明るい日でも、どんよりと曇った暗い日でも、同じくらいの時刻に集まってくるカラスを見ていると、カラスにとっての時刻の指標が明るさではなく、その身体の内に組み込まれた生物時計なのだということが感じられておもしろい。

 人間もカラスと同じく地球上の生物のひとつとして、このような生物時計を体内にもっている。しかし重要なのは、人間は文明を発達させるなかで生物時計が刻むリズムとは異なるリズムのなかで生活するようになってきたということだ。たとえば、24時間対応を必要とする医療現場や深夜に国際線が発着する空港での勤務など、現代では不規則なシフト制で働くひとは多い。このような労働をつづけるなかで、概日リズムと睡眠・覚醒のリズムがずれ、睡眠障害を引き起こしてしまうケースがあることはしばしば指摘されている(概日リズム睡眠障害)。夜間も眠らない社会が常態化した現代においては、極端な言い方をすれば、概日リズムは無用の長物になっているとさえ言えるのかもしれない。実際、生物時計と睡眠の関係を専門に研究する分子生物学者であり医師の粂和彦は、いまや人間にとっての生物時計は盲腸に似たものだと述べている。あってもとくによいことはないにもかかわらず、ときに人間を困らせるものということだ(『時間の分子生物学:時計と睡眠の遺伝子』、講談社学術文庫、2022年)。とはいえ、粂が指摘するように、盲腸とちがって生物時計は手術で切除してしまうことができず、どうにかうまくつきあってゆくしかない。では、どのようにつきあえばよいのだろうか。

 先にも述べたように、人間の生物時計の起源は地球の自転にある。それは別の言い方をすれば、人間のなかに自然のリズムが埋め込まれているということだ。ヘーゲルの睡眠論は、まさにこの点を言い当てていたといえるだろう。睡眠と覚醒のリズムを自然のなかに囚われた精神と結びつけるヘーゲルは、概日リズムや生物時計などが解明されるよりも前に、人間を貫く自然のリズムを見抜いていたのである。

 それゆえ、しばしば私たちは自然に帰ればよいのではないかと思ってしまう。ヘーゲル自身はそのようにはまったく考えていなかったのだが、「自然に帰れ」という考え方は多くのひとをいまでも惹きつけるだろう。できるかぎり概日リズムに従って生活し、地球のリズムに同期して生きることこそが、人間にとって最も健康的であり、そうすればよく眠ることができる。このように考えるひとは多いし、人間が生物時計を備えている以上、できるのであればそうするほうがよいのは明らかだ。しかし、もはやそのような生活が可能ではないひとが数多く働き暮らしているのが現代であり、かく言う私も概日リズムからは完全に逸脱した生活を送っているひとりである。

 本連載の第4回で見たように、人工照明が飛躍的な発展を遂げた19世紀以降の人間にとっての問題は、人工的な光を浴びつづけながらいかに眠るべきかということだった。夜も煌々と光が輝くようになった現代社会においては、人間自身の手によって作り出された光が睡眠と覚醒のリズムに大きな影響を与えている。そのような光環境において「自然に帰れ」と唱えることは、絶対的に正しくはあっても、多くのひとにとっては実現不可能な要求だろう。いま必要なのは、もはや完全に自然に帰ることなどできないという前提に立ったうえで、よりよい眠りを探る睡眠論なのだ。現代の哲学的睡眠論の最高峰であるナンシーの『眠りの落下』は、まさにそこから出発している。

3. 睡眠と覚醒のリズムを失った世界――ナンシーの睡眠論へ

 『眠りの落下』は、もともと2006年にボルドー現代美術館で開催された「眠る、夢見る……さまざまな夜」展の図録に掲載されたテクストである。発表からすでに20年ほどが経っているが、ナンシーによる現状分析はいまも有効性を失っていない。ナンシーが現代世界における眠りをどのように捉えていたかを見てみよう。

世界は、今日このようなもの、すなわち、眠りも覚醒もない状態である可能性がある。立って眠りつつ、まどろみながら目覚めている世界。夢遊病的で、半睡状態の世界。リズムを奪われた世界、リズムなしでいられる世界、昼と夜が自然や歴史の規則に呼応していることを理解する可能性を自らから取り去った世界。夜の渡り鳥たちは、大都市が空に放つ光の強烈な輝きのために混乱している。

(ジャン゠リュック・ナンシー『眠りの落下』吉田晴海 訳、イリス舎、2013年)

 ナンシーによれば、人工光が夜を昼のように明るくする現代世界とは、眠りと覚醒のリズムを失った世界にほかならない。それは、昼に活動し夜に眠るという概日リズムから逸脱した世界のことだ。人間は自然のリズムから逸脱して生き、さらにはそれが渡り鳥のような自然に従って生きる他の生物にも影響を与えている。これがナンシーの睡眠論の出発点であることをまずは押さえておこう。

 そのうえで、ナンシーがこうした世界を「半睡状態」と形容している理由を考えてみよう。覚醒と睡眠のリズムが失われた世界は、なぜ半ば眠り半ば目覚めた世界なのだろうか。

 ここで思い出したいのが、ジョナサン・クレーリーが『24/7:眠らない社会』(岡田温司 監訳・石谷治寛 訳、NTT出版、2015年)で言及している「スリープモード」という存在だ。スマホなどの電子機器に搭載されている「スリープモード」や「おやすみモード」は、眠りの比喩が用いられているにもかかわらず、完全な電源オフの状態ではない。「スリープモード」が指しているのは、実際には「スタンバイ」のことであり、いつでもオンにできるような「半オン」の状態である。クレーリーは、このようなスタンバイ状態を「スリープ」と考える現代においては、〈オン/オフ〉という論理自体が成り立たなくなっており、何ものも完全なオフになることができないと指摘する。覚醒と眠りがリズミカルにオン・オフを刻むことが不可能になっているということだ。スマホの電源を完全に落としてシャットダウンする機会の少なさを考えてみても、いかに現代世界がオンと半オンで覆い尽くされているか、オフになる時間が失われているかがわかるだろう。

 ナンシーが語る「半睡状態」もまた、このような〈オン/オフ〉によるリズムが成立しなくなった状態を指している。私たちが眠っているあいだも、枕元のスマホが半オン状態で働きつづけていることは、ある意味ではたしかに「夢遊病的」と言えそうだ。ここまでの連載で見てきたように、西洋の哲学は覚醒した意識を中心に人間を理解してきたが、そのような「目覚め中心主義」は徐々に失効してゆき、19世紀に動物磁気説と催眠術が登場するに至って、覚醒でも睡眠でもない領域を生きる人間の姿に関心が向けられるようになっていった(本連載第8回参照)。ナンシーの『眠りの落下』を踏まえるならば、そのような覚醒でも睡眠でもない状態は、いまやスマホによって資本主義の論理に吞み込まれていると言えるだろう。人間が実際に眠っているあいだもスマホが睡眠データを採取しつづけたり、推しの動画や楽曲の再生回数を伸ばすためにプレイリストを流しつづけたりすることは、スマホの夜勤とでも言うべきものであり、睡眠という完全なオフがなくなり、スマホを介して睡眠時間が労働になったことを意味している。つまり、西洋哲学が陥ってきた目覚め中心主義の外部であったはずの「半睡状態」は、スマホが人間の代わりに目覚めて働きつづける時間となっており、その結果として目覚め中心主義はますます強化されてしまっているのだ。

4. 自然と社会の絡み合うリズム

 ナンシーはこのような世界でどのように眠るべきと考えているのだろうか。もちろん「自然に帰れ」ではない。もはや私たちには帰るべき自然など存在しないなかで、いかによく眠るのか。ナンシーがその手がかりとしたのは、『眠りの落下』というタイトルが示すように、眠りに「落ちる」ということだった。覚醒から睡眠へ、その敷居をまたぐ動きに注目しつつ、ナンシーは次のように述べている。

〈二つのあいだ〉こそが問題なのだ。〈二つのあいだ〉がなければ、いかなる現実も生じない〔…〕。間隔によって、現実は他の現実から分離される。つまり、まさにそれら二つの現実に共通のものでありながら起源になることはない拍動に従って、間隔は二つの現実を区別するとともに互いに関係づけるのである。

(ナンシー『眠りの落下』、既訳から訳文変更)

 ここで「二つのあいだ」と呼ばれている事態こそ、眠りに落ちるという動きである。覚醒と睡眠のあいだということだ。覚醒から睡眠へと移行する動きがなければ、人間は眠ることができず、また睡眠から覚醒へと移行することがなければ、人間は死んでしまうだろう。それゆえ、〈覚醒→睡眠〉であれ〈睡眠→覚醒〉であれ、睡眠を考える際に「二つのあいだ」を問うのはきわめて本質的なことだといえる。そして、ここまで見てきたように、睡眠リズムとは、眠っている状態と目覚めている状態の死までつづく交替であったことを考えれば、「二つのあいだ」とはまさにリズムの問題なのである(ナンシーはここでは「拍動」という言葉を使っている)。

 そのうえで考えなければならないのは、覚醒と睡眠という「二つのあいだ」を交替させるリズムが何によって形づくられているのかということだ。前節までで確認したのは、このリズムがもはや概日リズムという自然のリズムによってだけ決まることがほとんどなくなり、社会が要求するリズムに従う場面が非常に増えているということだった。つまり、現代世界における睡眠のリズムは、自然のリズムと社会のリズムの双方がせめぎ合いながら形成されているのである。

 このような複数のリズムが絡み合う事態を、フランスの哲学者にして社会学者のアンリ・ルフェーヴルは「ポリリズム性」というキーワードで考察している(Henri Lefebvre, Éléments de rythmanalyse, Eterotopia France, 2019)。「ポリリズム性とは何かを知りたければ、自分の身体を顧みるだけでよい」と述べるルフェーヴルは、ポリリズム性をさらに「ユーリズム性」と「アリズム性」とに分けて、複数のリズムの絡み合い方を分析してゆく。「ユーリズム性」とは複数のリズムが調和している状態を指すのに対し(「ユー」は楽器の「ユーフォニアム」にも見られるギリシア語の接頭辞で「よい」を意味する)、「アリズム性」は複数のリズムが不調和に陥った状態を表している。睡眠の場面でいえば、概日リズムと社会的に要求されているリズムが調和しているならば「ユーリズム性」、不規則な労働時間によって概日リズムと睡眠時間がずれて睡眠障害を引き起こしているような場合は「アリズム性」と考えられるだろう。

 このように、睡眠においては自然のリズムと社会のリズムが絡み合っているわけだが、そのどちらかに睡眠のリズムが完全に還元されるわけではないことに注意したい。自然でも社会でもないところで、いわば「二つのあいだ」で睡眠はリズムを刻んでいるのである。ナンシーがこだわる「落ちる」というあり方は、まさにこの点を示している。もう少し詳しく見ていこう。

5. 入眠の事後性、眠るという中動態

 「眠りに落ちる」という表現が示すように、覚醒から睡眠への移行はいつのまにか生じる。前回見たサルトルやメルロ゠ポンティが述べていたように、入眠は人間の意志が及ばない部分であり、眠ろうという意志を強くもてばもつほど眠れなくなるのだった。覚醒と睡眠のあいだに引かれた境界線は、能動的な意志によってはうまく越境することができない。別の言い方をすれば、人間は眠る瞬間を意識できないということだ。眠っていたことがわかるのは次に目覚めたときであり、覚醒状態から振り返ってはじめて覚醒と睡眠のあいだを越境していたことに気がつく。つまり、眠りに落ちる瞬間は事後的にしか把握できないのである。

 眠ったことが後からしかわからないということは、眠るという行為が完全に能動的なものではないことを示している。英語では、「眠ろうとして眠る」ことを意味する « go to sleep » という能動的な表現がある一方で、実際に寝入ることは « fall asleep » と表現する。日本語と同じく「落ちる(fall)」という動詞が使われているところが興味深いが、これは入眠が最終的には能動性が及ばないところにあることを示しているだろう。ちなみに、ナンシー『眠りの落下』のフランス語原題はTombe de sommeilだが、フランス語で「落ちる」を意味する動詞 « tomber » が眠りに関して使われるのは「たまらなく眠い(tomber de sommeil)」という定型表現くらいで、日常的には「眠りに落ちる(tomber dans le sommeil)」とはほとんど言われない。ただし、フランス語で「寝入る」ことを意味する « s’endormir » という動詞は、文法的には代名動詞に分類されるものであり、能動態でも受動態でもない中動態を表している。つまり、フランス語でも入眠は能動的な行為としては理解されていないということだ。

6. 制御不可能なものとしてのリズム

 以上の簡単な言語比較からもわかるように、「眠る」という動詞は主語である「私」の権能が及ばないところで生じる動きを表している。ナンシーが眠りに「落ちる」ことを強調するのは、睡眠がこうした制御の及ばなさと密接に関係していることをいわんがためである。眠りに落ちて目覚めるリズムは、私がコントロールしようとしても完全にはコントロールができないものなのだ。

 もちろん、目覚まし時計やスマホのアラームをいくつもかけて予定通りの時間に起きることはできるだろう。明日は仕事で6時に起きなければならないとすれば、そのときの起床時間は社会的なリズムによって決定されている。しかし、眠るほうはどうだろうか。睡眠時間を8時間確保するために前日の22時にベッドに入ったとして、実際に眠れるだろうか。もし前日の起床時間が遅かった場合、22時にはまだ眠くならないかもしれない。

 より具体的に考えてみよう。今日は土曜日。翌日は日曜日で大学に行く必要がないので、私はいまこの原稿を朝4時まで書きつづけようと思っているが、そこからすぐに寝たとして起きるのはおそらく昼の12時頃だろう。しかし、月曜日は1限に会議が入っており6時半には起きなければならないので、8時間眠ろうとすれば、日曜日は22時半にはベッドに入らなければならない。しかし、昼の12時頃に起きた日に22時半に眠るのはとても難しい(おそらく眠れるのは2時か3時だろう)。明け方まで原稿など書かずに、規則正しく眠ればよいと言われるかもしれないが、私にとって重要なのは、月曜日の会議に眠い目をしてだるい身体を引きずってゆくのを避けることよりも、土曜日の自由に使える深夜から明け方の時間帯に原稿を書いたり読書をしたりすることなのだ。簡単に言ってしまえば、そうしたほうが楽しいからそうしているのであって、科学的・医学的に正しいとされる規則的な睡眠リズムを自身に課すほうがストレスを感じてしまう。

 ここまで極端で不規則でなくとも、私たち一人ひとりにはそれぞれの睡眠リズムがあるはずだ。そのリズムは規則的なものである必要はなく、科学的に正しいとされているものである必要もない。社会のなかで生きている以上、社会的なリズムはどこかで課されてくるし、身体をもっている以上、概日リズムの影響を受けている。しかし、社会と自然の双方のリズムの影響を被りながらも、私たちは自分自身の睡眠リズムを試行錯誤しながら刻んでいるはずである。私は寝られるときには10時間以上たっぷり眠るし、社会的なリズムの強制がある場合は3時間しか眠らないときも多い。科学的には最低の眠り方かもしれないが、さまざまな睡眠パターンを試みたうえで私にとってはこれが最も生きやすく眠りやすいリズムとなっている。つまり、私たち各人は自分自身のリズムを形づくり、そのリズムに従って眠っているはずなのだ。自然のリズムと社会のリズムの境界面で、私たち一人ひとりはそれぞれのリズムを刻んでいる。

 とはいえ、長年かけて確立してきた自分のリズムだとしても、寝つきを完璧に制御することは不可能である。ちょっとした体調の異変、ささいな環境の変化によって、すぐにリズムは崩れてしまう。眠られぬ夜を一度も経験したことのない人間などいないはずだ。人間が眠るということは、このような制御不可能なリズムとともに生きるということに尽きると言ってもよいだろう。人間を総体として理解しようとするならば、人間の内にコントロールしえないものがあることを認めなければならない。睡眠とは、そのような制御不可能なものの代表である。

 しかし、現代社会では制御しえないものをどこまでも管理することが求められている。あたかも制御しえないものなど存在しないかのように、睡眠アプリや各種のスリープテックによって、科学的な知見にもとづく「いい睡眠」をコントロール下に置くことが目指されている。そのようにして自己管理の徹底を目指す社会は、制御不可能なものを隠蔽しているという点で、人間も睡眠も適切に理解することができていないといえよう。

 それゆえ、睡眠を完全にコントロールできるという幻想を捨て、言うことをきかない睡眠とともに生きる術を編み出さなければならない。よく眠るとは、制御不可能なものとともによく生きることなのだ。最終回となる次回は、現代においてよく眠るとはいかなることなのかをより踏み込んで考えてみよう。手がかりはルソーとヘラクレイトスにあるはずだ。

(次回へつづく)

 第10回
睡眠を哲学する

私たちの睡眠は、完全な休息とは切り離されはじめている? 哲学者の伊藤潤一郎が、さまざまな睡眠にまつわるトピックスを、哲学を通して分解する。

プロフィール

伊藤潤一郎

いとう じゅんいちろう

哲学者。1989年生まれ、千葉県出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、新潟県立大学国際地域学部講師。専門はフランス哲学。著書に『「誰でもよいあなた」へ:投壜通信』(講談社)、『ジャン゠リュック・ナンシーと不定の二人称』(人文書院)、翻訳にカトリーヌ・マラブー『泥棒!:アナキズムと哲学』(共訳、青土社)、ジャン゠リュック・ナンシー『アイデンティティ:断片、率直さ』(水声社)、同『あまりに人間的なウイルス:COVID-19の哲学』(勁草書房)、ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で:黙示録的理性批判』(共訳、法政大学出版局)など。

プラスをSNSでも