“台湾有事”で米軍が介入して戦争になったら、自衛隊がそこに参戦する必要が本当にあるのか?

太平洋戦争末期、激烈な地上戦が行われ20万人以上が犠牲になった沖縄戦から、今年で80年。
「台湾有事」が取りざたされる今、沖縄を含む南西諸島では自衛隊基地が新・増設され、ミサイル配備も進んでいる。その一方で一部の政治家による沖縄戦での日本軍の行動を正当化する発言も物議を醸した。
そんな中、4月に刊行された『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書)が反響を呼んでいる。
本書の著者で沖縄戦研究の第一人者である林博史氏と、昨年(2024年)『従属の代償 日米軍事一体化の真実』(講談社現代新書)を上梓し、長年、自衛隊問題を調査しているジャーナリスト布施祐仁氏が、沖縄戦と自衛隊、米軍、そして「台湾有事」について語り合った。その模様を3回にわたりお届けする。今回は第2回。
構成=稲垣收
「国を守る」とは「国体・国の機構を守る」ことであって
「国民を守る」ことではない
布施 沖縄戦の歴史認識の問題も、基地問題と同じように、「沖縄の問題」と片付けられてしまいがちですが、本当は、日本という国のあり方そのものを問わなければならない問題だと思います。一言でいうと、「この国の権力者は国民を守ろうとはしていない」という問題が、戦前から今日までずっと連なっている。
林 そうだと思います。先ほども話題に出た牛島の辞世の句(*1)ですが、もともと彼が大本営に送った電報では「御国」という字を使っているんです。しかし沖縄の陸自第15旅団が最初にホームページに載せたのでは、「皇国」つまり「天皇の国」になっている。
これがいつから「皇国」になったのかを見ると、1945年6月26日の朝日新聞や読売新聞で、もう「皇国」になっていました。たぶん軍が発表するときに「御国」を「皇国」に書き換えて、それをそのまま自衛隊が使っていたようです。だから、この辞世の句自体が、ある意味、改ざんされていたわけです。
布施 もともと「御」という字になっていたのを、軍が発表するときに変えたんですね。
林 ええ。電報の原文をアジア歴史資料センターで見ると、「御国」になっている。軍が発表するときに、「御国」を「皇国」にしちゃっている。それをずっと自衛隊が使ってきて、今回、批判されて、もう一度原文を見たのかもしれません。それで「御国」に書き換えたようですね。
*1 原文「秋を待たで 枯れゆく島の青草は 御国の春に よみがえらなむ」
表記の異なるバージョン「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ」

布施 それはすごく大事なポイントだと思います。
よく沖縄戦を表現する言葉として、「本土防衛の捨て石にした」というのがありますよね。でも1945年1月20日の帝国陸海軍作戦大綱などでも、「皇土」という言葉を使っています。つまり、「天皇の領地」や「国体(天皇制)」を守るということだった。本土に住む日本国民を守るのではなく、「国体を守る」のが主眼にあったというのが、あの戦争の大きなポイントだった。
ですから最近、参政党の神谷宗幣党首が「日本軍も沖縄県民を守るために戦ったんだ」というふうに主張しましたが、決してそうではなく、当時日本軍が守ろうとしたものは「国体」であって、それが最優先だったのです。「そのために沖縄県民が犠牲になるのは仕方がない」という認識だったのではないか。そう考えると、先ほど先生がおっしゃったように、もし米軍が本土にも上陸して地上戦になっていたら、沖縄戦で起きたのと同じことが起きていたのではないかと思います。
もちろん、沖縄戦での日本軍兵士による住民虐殺に「沖縄県民に対する差別意識」という要因があったことは否定できません。同時に、もし仮に米軍が九州に上陸したり、他の地域に上陸していれば、けっきょく目の前の国民を守ることよりも、「国体」を守ることを最優先にしたでしょう。
これは今でもそうで、「国防のため」という言葉がよく使われますが、その「国」というのが何を指しているのか? 戦前は決して「国民」のことでなくて「国体」であった。じゃあ今は何なのか? ということを考えていかなきゃいけない。
林 「国を守る、というのはどういうことなのか?」というのは、昔からずいぶん議論されたと思いますが、「国を守る」と言うと、一般の国民は「自分たちを守ってくれるんだ」と思ってしまう。でも実は「国を守る」ことと「人々を守る」こととは、次元が違うのです。沖縄戦では「天皇制国家」を守るために沖縄の人々が、そして日本軍の兵士も、降伏することも捕虜になることも許されず、死を強いられた。「民が死ぬことによって、大日本帝国という天皇制国家が守られる」と。
ですからその場合、「国を守る」というのは、「国家の機構が守られる」ということです。そこは改めてきちんと議論、説明をしないといけない。「国を守る」とは「国を動かしている人々と、その仕組みを守る」ことなのです。じゃあ、そのとき一般の人々が、はたして守られるのか? そこは違うだろう、と。実際それが違ったのが沖縄戦だった。「国体を守るためならば、沖縄の人々は、みんな死んでもいい」とされたのです。
「軍と民が一体となって戦った」ということを自衛隊は盛んに言うわけですが、民が死ぬことによって何を守ろうとしたのか? 「民と、日本という国家は違う」ということが、明らかに沖縄戦では示されています。
それは今後、仮に戦争になったら、日本の中でも「沖縄の民は死んでも日本の現在の国家体制は残る」、あるいは「九州の民は死んでも、東京にある政府の機構は残る」ということになります。それでいいのか? 九州だけじゃなくて、本土の他の地域でも、そうですけれども。
だから「国の仕組みを守る」ことと「一人ひとりの生命、安全を守る」ことは違う、ということを認識して「民を守る」ことをきちんと考えないと、とんでもないことになる。
布施 戦後の自衛隊は、戦前の大日本帝国陸海軍と違って、民主主義国家になった日本の実力組織なので、決して「国体を守る」とか「天皇のために」ではなくて、「この国の主権者である国民をしっかり守る」というのを最優先に考えなきゃいけないはずです。しかし実際に自衛隊の中でやっている教育はどうか? 陸上自衛隊幹部学校で行っているような、旧日本軍を美化し、旧日本軍兵士のように「お国のために命をかける」ことを「軍人精神」として教え込もうとする教育は、今の自衛隊にはふさわしくありません。二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、日本軍兵士による住民虐殺や住民の「集団自決」という惨事を招いてしまった歴史こそきちんと教えるべきだと思います。

「自衛隊が必要だ」と考えるなら、
「いかに市民が攻撃されないようにするか」まで考える必要がある
林 これまで布施さんも私も言ったことは、自衛隊に反対しているから言っているわけでもないんですよね。「自衛隊が必要である」という考え方も当然あるし、むしろ今の日本社会ではそちらのほうが圧倒的多数派です。
でも「自衛隊を必要と考える」「できれば避けたいけれども、自衛隊が軍事力を行使することもあり得る」と考えるのであれば、そこで自衛隊が「いかにそこに住んでいる人々の生命を守ろうとするのか」を考える必要があります。少なくとも軍事作戦を行う場合には。
自衛隊がこれまで出した沖縄戦史の研究は膨大にありますが、それを読むと、そこに一般の人々が住んでいないかのように、日本軍と米軍だけがいて、陣地を構えて戦争をしているかのようなものしかない。しかし実際は、そこに人々がたくさんいるわけです。だから、人々をどう守りながら、少なくとも人々がいるところが攻撃されないような状況を作りながら、どうやって戦闘をするのかが問われます。
少なくとも現在の日本国憲法の下の組織であれば、「何よりも人々の生命を救う」「可能な限り最大限、犠牲を少なくする」という発想が最大原則として貫かれている必要がある。これは自衛隊を肯定する人々にとっても、たぶん共通の認識になり得ることだと思います。
だから自衛隊を肯定するか否定するかという議論とは別に、政治的立場を超えて議論できるし、そういうふうに「まず人々の安全、生命を大事にする」というのであれば、たぶん圧倒的多数の保守派の人々にとっても同意できることでしょうから、そこで議論すべきだと思います。もちろん自衛隊を否定する人が批判をするのは構わないけれども、そういう議論をやっぱり日本全体できちんとやる必要があるんじゃないか、と。
その大前提として、「ともかく戦争を起こさないための外交努力を、今ちゃんとしているのか?」ということが、まずあります。「戦争を起こさないための前提となる努力」と同時に、少なくとも自衛隊が存在する以上、それが人々の生命、安全を第一に考えるような組織にしていく必要がある。これは本当に党派を超えて、幅広い層の人々がみんなで議論して、そういう改革を一歩一歩やっていく必要があると思います。
布施 そうですね。私もいろんな自衛官の方に取材してきましたが、「天皇のために」なんて言う人は一人もいなかったし、やはり多くの方が「国民のために働きたい」という思いをお持ちでした。特に最近は災害派遣で活躍する自衛隊の姿を見て入隊する若者も多いので、彼らは本当に「いざというときに国民を守るために自分たちは働くんだ」と思っています。
自衛官が入隊のときに必ず行う服務の宣誓文でも、「危険を顧みず身をもって任務の完遂に努め、もって国民の負託(ふたく)に応えます」と宣誓しています。彼らが危険を顧みず任務を行うのも、「国民の負託に応える」という目的があるので、本来それが自衛隊のあり方だと思うんです。
実際に今、「台湾有事」という戦争が想定されていて、先生も本の最後に書かれていますが、そうなった時に自衛隊は米軍の作戦に組み込まれ、事実上その指揮下で動く形になります。
そのときに、米軍から与えられた任務を遂行するのと、目の前の危険にさらされた国民を守るのと、どちらを優先するのか? そういう局面は必ず来る。米軍に与えられた任務を優先し、国民の犠牲を仕方がないと考えるのであれば、かつての日本軍と同じになってしまう。そうならないよう、今の自衛隊にふさわしい教育をしっかりやるようにしないといけないと思います。
“台湾有事”で自衛隊と米軍が想定している作戦とは?
布施 今、自衛隊と米インド太平洋軍が想定しているのが、中国が台湾に侵攻した際に、アメリカ本土から米軍の増援部隊が着くのに3週間ぐらいかかるので、その間何とか持ちこたえて「中国による“占領”の既成事実化を許さない」という作戦です。
具体的には、中国の台湾侵攻の可能性が高まった段階で、南西諸島の島々に自衛隊と米軍の地対艦ミサイルを分散展開して、台湾海峡や東シナ海を航行する中国軍艦船を四方八方から攻撃できる態勢をとる構想です。そうすると、中国はこれらのミサイルを叩いて無力化しなければ、台湾への上陸作戦を敢行できなくなります。南西諸島が攻撃されるのを前提に、アメリカ本土から米軍の増援部隊が到着するまでの「時間稼ぎ」をするというのです。まさに、南西諸島を「捨て石」にする作戦です。
こういう作戦構想を前提にして、日本政府は台湾有事の際、南西諸島の中でも台湾に近い先島諸島の住民を九州に全員避難させようとしています。
「沖縄戦で軍民混在してしまったのと同じ状況にしないためにも住民の避難が必要」と言う人もいますが、それは住民を守るためというより、先島諸島全体を米軍と自衛隊の作戦拠点として活用できるようにするという思惑が中心じゃないかと私は見ています。
国民の避難計画の実行は政府が「武力攻撃予測事態」の認定が前提だが、
それは事実上の“宣戦布告”になってしまう
布施 あと実行可能性という点では、これは自衛隊の元将官の方も指摘しているんですが、国民保護というのは日本政府が事態認定しないと動き出さないんです。でも、日本政府が「武力攻撃予測事態」を認定すれば、自衛隊に「防衛出動待機命令」が出される、つまり戦闘準備を始めるわけです。つまり日本政府として「我々はこれから戦いますよ」という意思表示にもなってしまう。
そうなると、中国は自衛隊の介入を止めるために、先制的に攻撃してくるかもしれない。避難のために空港や港に住民が集まっているところにミサイルが飛んでくる可能性もあるわけです。そんなリスクがある中で、はたして本当に安全に移動できるのか。しかも民間の航空機やフェリーをチャーターして行くわけですから、業者は社員をそんな危険なところに送れるのか、という問題もある。つまりハッキリ言って今の状況だと、国民保護とか避難計画というのは、「絵に描いた餅」だと思います。
林 そうですね。たとえば戦争が始まる前に疎開をやるということは、事実上の宣戦布告になりますね。だから逆に、戦争の緊張を高めてしまう。もちろん戦争が始まってから疎開するというのは、危険きわまりないし非常に難しいのですが……。
ですから、本当にこの計画を真面目にやろうとしているんだったら、その時点で大変怖い話です。
米軍が日本の市民を犠牲にするような作戦をやろうとした際、
「そういうやり方は容認できない」と言える政府や自衛隊じゃないといけない
林 けっきょく米軍は、この間の動きを見ていると、日本の自衛隊の基地も使うし、民間の飛行場や港湾施設もどんどん使っていく。それはもともと米軍が日米安保体制で想定したやり方でもあるわけです。日米安保条約を結んだ当時の国家安全保障会議の文書に「日本の必要と思われる場所に、必要と思われる期間、必要と思われる規模の軍隊を保持する権利」とあります。

当時はソ連に対する戦争を考えていたんですが、一ヵ所にとどまっていると、そこが攻撃されれば潰されるので、「日本列島中をどんどん移動しながら戦う」と。出撃した場所は当然反撃されて破壊されますから、どんどん移動していく。そこに住んでいる人々のことなど何も考えていない。
今の米軍も、比較的小規模のミサイル部隊をどんどん送り込んで、撃ったらまた別のところに行く。まさに「全土基地方式」で、日本列島どこにでも移動しながら戦う。当然そこは攻撃されるけれども、米軍自体はすぐ他のところに移って被害を受けないようにする。でも基地のまわりに住んでいる人々はたくさんいるわけですから。
つまり米軍には、「日本列島に住んでいる人々の被害を防ぐ」という発想自体が全くない。それに自衛隊も乗っかって一緒にやっているということ自体が、非常に危険です。
自衛隊自身が「国民、あるいは市民の生命、安全を守る」ということを考えないといけない。そして同時に、米軍が日本という土地で戦争をする場合に、住民の安全を無視したやり方をするのに、いかに歯止めをかけるか、ということをやらないといけない。
それは本来、日本政府がきちんとアメリカ政府に言うべきだし、先ほど布施さんも言われたように、米軍が市民を犠牲にするような作戦をやろうとした場合、自衛隊がそれに協力するのか?
「いや、自衛隊としてはこれはできない」とか、政府として「そういうやり方は多くの犠牲を生むのでできない」ということをきちんと言える政府じゃないといけないし、言える自衛隊にしないといけない。
そういう意味で、自衛隊のあり方をきちんと考えると同時に、日米安保条約のあり方を、「今のように米軍に言われるままでいいのか」と、国民みんなで議論しないといけない。安保条約に賛成するか反対するかを超えて、少なくとも安保条約が今あるから米軍はいるんだけれど、「米軍の活動の仕方は、もっと日本に住んでいる人々の生命を守るような対策をやらせるべきだ」と。そこはしっかり議論しないといけません。
「安保条約は要らない」という議論も当然やりつつ、「いかにして人々を守るのか」ということを考えていく。ここも先ほどの自衛隊に関する問題と同じように、立場を超えて共通の認識というか、「少なくとも日本列島に住んでいる人々の生命を第一にしましょう、そのために考えよう」というのは、たぶん幅広い人々の間で合意できるはずなんです。
もちろん「そんなことを議論する必要はない、戦争をやらなければいいんだ」というのは大前提なんですが、ただ、この間の事態は「戦争をやらないようにしよう」というだけでは済まないような状況がやはりあるし、たぶん日本の国民の中でも「戦争が起きないのが一番いいんだけれど、でも起きるかもしれない」という危機感というか恐怖というか、そういうものを感じている人もたくさんいる。だからその問題はタブー視せずに考えるべきだと思います。
そのときにやっぱり沖縄戦というのが、過去の経験としてあるので、ここから何を教訓として酌み取るのかというのを冷静に議論すべきでしょう。(後編に続く)
プロフィール

(ふせ ゆうじん)
1976年東京都生まれ。ジャーナリスト。2012年、『ルポ イチエフ 福島第一原発レベル7の現場』(岩波書店)で平和・協同ジャーナリスト基金賞、および日本ジャーナリスト会議によるJCJ賞を受賞。2018年、三浦英之氏との共著『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(集英社)により石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞。その他の著書に『従属の代償 日米軍事一体化の真実』(講談社現代新書)、『自衛隊海外派遣 隠された「戦地」の現実』『経済的徴兵制』(集英社新書)など多数。

(はやし ひろふみ)
1955年、神戸市生まれ。現代史研究者、一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了(社会学博士)。関東学院大学名誉教授。主な著書に『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書)、『沖縄戦と民衆』『沖縄戦が問うもの』(大月書店)、『沖縄戦 強制された「集団自決」』『米軍基地の歴史 世界ネットワークの形成と展開』『帝国主義国の軍隊と性 売春規制と軍用性的施設』(吉川弘文館)、『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』(高文研)、『BC級戦犯裁判』(岩波書店)等多数。