対談

第3回 人を傷つける言葉、社会を変える言葉。どうすれば共に生きられるのか?

「バラバラな世界で共に生きるための公共訴訟」
亀石倫子×朱喜哲

言葉は人を傷つけるだけでなく、ときに社会そのものを分断し、暴力へと導くことがある。一方で、言葉によって人は理解し合い、共に生きるための道を探ることもできる。『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』の著者で哲学者の朱喜哲氏と、『はじめての公共訴訟 社会を動かす、私たちのツール』の著者のひとりで弁護士の亀石倫子氏が、司法と言葉、被害者と加害者、そして「普通の人として生きること」の意味について語り合った対談、全3回の最終回。

構成:稲垣收 写真:CALL4、集英社新書編集部

亀石倫子氏と朱喜哲氏

言葉がジェノサイドを生むこともある

 『バラバラな世界で共に生きる』の中では、非-人間化の事例として、言葉遣いの変遷が虐殺、ジェノサイドのような極限状況にまで導いてしまうことがあるんだ、という話を紹介しています。

 今、実際イスラエルがガザでやっていることもまさにそうですが、歴史上、いろんな場所で起きたジェノサイド、民族浄化とか大量虐殺という場合は、ほとんど絶対というか、いつも「被害者たちのことを人間扱いしない」レトリックがあるんです。

 この本で紹介した1994年のルワンダで起きたジェノサイド(*1)においては、少数派のツチ族のことをフツ族の間で「ゴキブリ」と呼ぶということが実際行われていました。だから、「○○さんを殺しなさい」じゃなくて、「ゴキブリを駆除しよう」と呼びかけたんです。

 あるいは第二次大戦中の日本軍でも、731部隊(*2)で、生きたまま人体実験に使う被験者のことを「マルタ(丸太)」と呼んでいました。

 そして今、ガザ地区においてイスラエル軍の政府高官がパレスチナ人のことを「あいつらはヒューマン・アニマルだ」と言ったことが報じられていました。

 そういうふうに、「非-人間化」、相手を人間扱いしないレトリックというのが、虐殺のような場面があるときには必ず行われている。「虐殺には、非-人間化が伴っている」と言っていいでしょう。

 逆に言えば、「私たちは人間相手にそんな残酷なことができるほど野蛮ではない」と思いたいわけで、言葉をもって、そこを操作するわけです。

 だから、「たかが言葉」ではあるけれど、実は言葉がいかに大事かという話を、私も論じているんです。そういう言葉の問題というのは、確かにすごく身近にあるわけですね。

亀石 そうなんですよ。ローティは、「言葉遣いということをケアすることによって、人々が会話を続けられるようにする」と言っていて、「会話を続けていく上でどういう言葉を使うかは本当に大事だ」ということが、この朱さんの本を読むと分かるんです。

 同じ言葉遣いをするとか、彼らが使っている言葉遣いを学ぶ、というか、理解するというか、それが会話を続けていく上で、まず取っかかりになる、と思いました。

 すごく大事ですね。

 でも、やっぱりさっきの「被告」とか「身柄」という言い方(第2回参照)はマスコミ用語で、非常に危なっかしい言葉だと思いました。また、刑務所では収監されている人が、名前でなく番号で呼ばれていた、という話も。

*1 アフリカ東部のルワンダで1994年4月から約100日間続いた大量虐殺。フツ族によって、ツチ族が殺害され、犠牲者数は80万人~100万人と推計されている。

*2 正式名称は「関東軍防疫給水部」。満洲国(現・中国東北部)で軍医・石井四郎中将が率いた陸軍の研究機関で、兵士の感染症予防のため、給水を目的とした研究が行われていたが、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発もしており、中国人捕虜を生きたまま人体実験に使うなどした。

罪を犯した人に「罰を与える」だけでなく
「いかに再犯を防ぐか」「更生させるか」も大事

 しかし、何のために司法ってあるんだろうと思います。特に刑事司法。「罪に対して、罰を与える」という発想があったわけですけど、今、司法の世界でも、その議論はだいぶ変わりつつありますよね。

亀石 はい、そうですね。

 昔の、それこそ古代のハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」みたいな、いわゆる「応報的正義」とか「応報的司法」という「やったことに対し、同じことをやりかえす形で償わせる」みたいな発想、つまり「罰としての司法」という発想がかつてあったわけですけど。

亀石 でも、「罰を与える」だけでは、すまないですからね。やっぱり、更生のための部分も大事で。

 まさにそこですよね。これが1970年代とかから芽生えてきた、いわゆる「修復的司法」という考え方で。「正義」という言葉がありますが、「司法」は英語でjustice、ジャスティス、「正義」と同じ言葉だ、という話をしましたが、「司法とは、ジャスティスとは何だ?」というときに、単に「罰を与える」ということじゃなくて、元に戻るわけではないんだけれども、どうやって、せめてバランスを取っていって、また日常に帰っていくことができるようにするか。起きた事件をなかったことには、できないけれども……。

亀石 そうですね。それと、再犯防止ですよね。社会のためには、「どうしたら、こういう犯罪を減らしていけるか」「どうしたら、この人がもう犯罪をしないでいられるか」ということも考えていかなくてはいけないし。

 罪を犯して服役した人も、無期刑や死刑以外、いつかは刑期を終えて社会に戻るわけですから、「この人が更生して社会に戻るために、どうしたらいいか」を考える必要があります。だから「罰を与えるだけではない」という発想も大事です。

 そこですよね。逆に、被害者目線に立ったときに、「修復的司法」というのは、ある種、「和解」とか「修復」を目指す、という司法のプロセスですから、それだけを聞くと、「なんで被害者が加害者を許さなきゃいけないんだ?」と思ってしまうこともあり得ます。でも、これは非常に大事な話で。

 さっきおっしゃったように、「被告」もそうですが、「被害者」とか「当事者」というふうに呼ばれている人が、未来永劫その立場に置かれなきゃいけないわけではないですよね。

亀石 確かに。

 本当は、司法の場を離れれば、いつまでも「原告」である必要はないわけですし、そうやってその人に、「被害者らしくない」とか「原告らしく振る舞っていない」というような非難が行われたりすることがありますが、そういう状態はよくないわけであって。

「修復的司法」には、「どうやって被害者が被害者でなくなれるのか」という話も含まれているんだと思うと、本当に深いというか、大事なコンセプトだと私は思うんです。

 それはやっぱり公共訴訟、それが一番分かりやすいというか、大事な例だと思います。

 公共訴訟の原告が訴えているのは、「私は大変な目に遭っている、私は被害者だ、私を特別扱いしなさい」ということじゃ全くなくて、タトゥーの彫り師の方とか、クラブもそうですし、あるいはコロナ禍の持続化給付金をもらえない話もそうですけど、「普通に扱ってくれ」と言っているだけです。

「なんで私は、この私であるだけで、あるいはこういう仕事をしているだけで、みんなと同じように扱ってもらえないんですか?」ということを言っていて、それを是正するために原告として名のりを上げているんで。

 目指しているゴールは「普通の人として扱ってください」ということだと思うんですよね。そこで「被害者じゃなくなれる、当事者じゃなくなれる」、つまり「普通の人になれる」ということが、ゴールとして目指されているわけで。

 だからこそ、「一部の少数者のためだけでなく、普通の人、みんな、マジョリティーのための訴訟でもあるんだ」というのが、公共訴訟のすごく大事な役割だと思います。

 ですから、「修復的司法」のコンセプトは、一見、「加害者を許す」ことのように見えて、「そんなことは許せない」と思うかもしれませんが、逆からすれば、被害者がいつまでもそこにとらわれなくてもいいし、もちろん、自分の選択で、とらわれてもいいし、こだわってもいい。「だけど、日常に帰ってもいいんだ」ということが入っている、ということが、すごく大事なメッセージで。

 こうした新しい司法観が、公共訴訟には象徴的に表れている、と思いました。

 これは、実は思想的にも大きな意味があって。政治哲学とか、哲学の観点からも、非常に興味深いことをやっている、というのが、私自身がこれだけ公共訴訟に関心を持っている理由のひとつなんです。

犯罪被害者も、「被害者ではない自分」としての人生を生きていいはず

亀石 なるほど。そういうことなんですね。

「公共的なものと私的なものというのは一人の人間の中に同時に存在し得る」というのが『バラバラな世界で共に生きる』に出てくるんですけど、ずっと公的な場所で、たとえば被害者としてとか、原告としてい続けるのって本当にしんどいと思うんですよね。

 私は、犯罪の被害で大切なお子さんを亡くされたお母さんと交流していて、1年に1回ごはんを食べに行くことにしているんです。

 そうすると、会うたびにちょっとずつ、そのお母さんも変わって、もちろん亡くされた息子さんのことをずっと思っているし、息子さんの話になると絶対泣いてしまうんですけど……。

 それでも、そのお母さんはお母さんで、自分の人生を生きていて、少しずつ前に進んでいるんです。新しい趣味を見つけて、たとえば「今、推し活をしている」とか言うんですよね。そうやって楽しんだりしているんですが、「時々、こんなふうに楽しんだりしていいのかな、と思っちゃったりするんです」「息子が亡くなっているのに、私、こんな楽しい時間を過ごしたり、笑ったりしていいのかなって時々思っちゃう」と。

 だから、「いいんですよ」って私は言うんです。「いいんですよ、そのほうが絶対お子さんも喜んでいるはずです」って。

 ずっと「犯罪被害でお子さんを亡くしたお母さん」でい続けなくても、いいんです。自分の人生を生きて、推し活を楽しんで、笑って、おいしいものを食べてほしいと、私は思うわけです。ずっとその立場でい続けるというのは、絶対しんどいですから。

 だから、公共と私的なものとが、たぶんお母さんの中にずっとあり続けるんだけど、「どっちでもある」ということが、すごく大事、というか……。

 本当にそうですね。それはすごく大事で、そのためにも私たちも、たとえば、この公共訴訟の方法について、「みんなのために法に働きかけていいんだ」とか、「原告は役回りを引き受けてくれているんだ」というふうに思えたら、当事者を過度に特別視しなくていいと思うんですよね。

「あの人は被害の当事者だから」とかということじゃなくて、「たまたまこういう状況になって、ある意味、私たちみんなを代表してやってくれているんだ」というふうに思えたら、きっと、そのほうがお互いにとっていいように思うんです。

亀石 そうですよね。

 それは公共訴訟から私たちが学べることだと思います。そして、これはちょっと公共訴訟の話と離れてしまいますし、もっとずっと難しいですが、「加害者についても、そうかもしれない」と思うんですよね。

 罪を償って社会に帰るということは、もちろんやったことをなかったことにはできないんですけど、その人も日常を送っていいかもしれないし、犯した罪ということは、ずっと残り続けるんだけど、「それだけの存在」じゃなくても、いいかもしれない、と。

 司法というときに、古代みたいな「罰するんだ」ということだけでなくて、「私たちの社会で、みんなが何とかやっていくためのルールとか秩序なんだ」と考えたときに、つい私たちが持ちがちな「被害者を特別扱いしてしまう」とか、あるいは「加害者に罰を与えなくては、と思ってしまう」みたいなことから、ちょっとでも自由になるためのチャンスがあるんじゃないかと思うんです。

亀石 刑事司法のことでいうと、たとえば袴田事件()の袴田巌さんのお姉さんの袴田ひで子さんが、再審法改正(*4)の問題とかでも、ずっとテレビに出られたり、街頭集会とか、いろんな場面で見るじゃないですか。93歳なのに全国を飛び回っていらして、もうあちこちで「ひで子さん、ひで子さん」って、すごく引っ張りだこで、国会で議員を前に話をしたり。ひで子さんはすごくお元気で、毎日体操とかをされていて。

 えっ、90歳を超えられてるのに? すごい!

亀石 そう。元気でいるために体操したりとか、発声練習をしたりして。ひで子さんって、おばあちゃんっぽくないんですよね。お話しするときも、すごくしっかり話されるし。ちゃんとしゃべれるように大きい声を出してしゃべる練習をしているらしいです。だけどひで子さんもずっと「公共の存在」というか、公共の役割をすごく担わされ続けていて。

 だから私は、ひで子さんが本当に心穏やかに、私的な自分の時間をゆっくり過ごせるように、早くなってほしいなと思います。再審法がちゃんと改正されて。

 まさにそうですね。

亀石 本当に公共の存在であり続ける、公共の場、「バザール」にずっとい続けるって、しんどいだろうなと思います。

 本当にそうですよね。でも、それは私たちみんなに、ある種、突きつけられていて。つい私たちは「この人、遺族らしくない」とか「被害者っぽくない」などと思ってしまうことがあるので。

 それから、たとえば車椅子の当事者が、何かしてもらった際に「感謝していない」とか言われることがあります。私たちの気持ちの話としてそうなりがちなんですけど、司法では、気持ちと違うことで、「どんな人であっても等しく扱われるんだ」というコンセプトが、ちゃんとあるはずなので。

「同情に値する」とか、さっきおっしゃったように「情理を尽くす」ということもあるんですが、私たち市民一人ひとりは、つい情だけに流されやすい面があるので、そういうことにもストップをかけなきゃいけないところがあると思います。

 そうやって私たちの言葉遣いを少しずつ訂正しながら、「みんなにとってなるべく生きやすくしていく」ということをやる必要がある、と思うので。

 そのためにも、公共訴訟の話はすごく、みんなにとって大事なんだということを改めて思いました。この『はじめての公共訴訟』が、ぜひ多くの人に届いてほしいと改めて思っています。

亀石 ありがとうございます。本当に、この2冊は接続するところがすごくあるんです。私も、新たに気づかされたことや、自分が日々あまり何も考えずに取り組んでいることが実は「こういうことだったのか」と思うところがたくさんあるので、ぜひ2冊、一遍に読んでほしいなと思います。

 そうですね。私もまた、トークイベントをさせていただいたりします。

亀石 はい。朱さんのイベント、すごく面白くて、いろんな方とコラボできるんですよね。クラブ側の酒場でのトークとかもあるし、こういう公共側のことも話せるし、いろんな展開があり得て、面白いんですよ。

 だから、この本を読んだ上で、そういういろんなトークを聞くと、さらに広がりがあって。酒場トークも面白い。

 ありがとうございます。まさにクラブの「暗がり」みたいなことが今、無いことにされがちだったりしますし。

 リチャード・ローティという人は2007年に亡くなっているんですけど、彼の死後、何が起こったかというと、トランプ現象もそうなんですが、ソーシャルメディアがこれだけ広がった時代はなかったわけで。ソーシャルメディアって、まさにそこに体がない状態で、いろんな人の言葉だけが流通してしまう。「そこに相手がいないから書けちゃう」ような、ひどい言葉がたくさん飛び交ってしまって、しかも、それがみんなの目にさらされてしまうわけだから、ある種バザール的な、公共的な正しさで全部ジャッジされるわけですよね。

 だから、10年前に書いたつぶやきについて「これは、どうなんだ?」と批判されてしまうとか、みんなの言葉がバザール的な、公共的なものにさらされがちで、そういう意味ではちょっとビクビクしながら言葉を使わなくてはいけなくなった、というのが現代社会のような感じもします。

亀石 確かに。

 だから今、クラブ的な場所をどうやって作って、クラブ的なモードの言葉遣い、さっきの公共モードのバザールからちょっと降りて、自分としてちょっと気を抜いたり、ちょっと危ういかもしれないことも言えたりしてしまうという、そういう場所を作ることが、どんどん難しくなっていると思うんです。

*3 1966年に静岡県清水市で発生した強盗殺人・放火事件。味噌製造会社専務の一家4人が殺害され金品を奪われ、家に放火された。同社従業員だった元ボクサーの袴田巌(はかまた いわお)氏が捜査機関や裁判所から犯人とみなされ死刑判決が確定したが、後に再審で無罪が確定した冤罪事件。30歳で逮捕された袴田氏は、取り調べ中の拷問により自白を強要された。45年以上収監・拘束され、釈放されたときは78歳になっていた。

*4 裁判のやり直しを求める「再審」に関する刑事訴訟法の改正が6月12日、衆議院の法務委員会で可決した。再審を拒否しようとする検察による、根拠のない「機械的抗告」がこれまでは認められてきたため、再審はなかなか行われず、行われる場合も、再審開始まで何年もかかったが、改正案では再審審理を迅速化するため、検察官の不服申し立てを原則禁止に。裁判所が当事者の請求を受け、検察に証拠の開示命令を出すことも義務化した。ただし、まだいくつかの重要な不備をはらんでおり、冤罪事件で苦しめられた袴田巌氏の姉・ひで子さんは、「50%だけ進んだ」と感想を述べている。

他人と一緒にいる際の緊張をどう緩和するか?

亀石 大阪だったら、まだ大丈夫かもしれませんね。

 そうそう。大阪の酒場とか。それが、私が大阪のことを好きな理由かもしれません。

亀石 そうそう。大阪だったらまだ許してもらえそうな気がします。東京だと、たぶんちょっと無理(苦笑)。

 大阪の外ではできないようなよさもありますね。それゆえの危うさも、もちろんあるかもしれないですが。そのバランスをうまく乗りこなせたりするのも、大阪の大事な良さかなという気がしますし。

亀石 大阪はいろんな人を取りあえず受け入れてくれる器の大きさみたいな、優しさとか、温かさとかあると思いますね。

 なるほど。手前みそかもしれないですけど、亀石さんといい、僕といい、今、大阪に根を張って長い人が、最近東京に呼ばれがちだったりするのも、東京だとそういう閉塞感があるからかもしれないですね。

亀石 東京に行くと、閉塞感感じません? 

 感じます。できれば早く帰りたいと思います(苦笑)。

亀石 まず、笑いが全然ないんですよね。たとえば会議とか打合せが1時間あっても、その間1度も笑いが起きないときがあるんです。大阪だったら絶対ないと思う。

 あと、東京はやっぱり「人を役割で見がち」みたいな部分もあって。

 それこそ大阪から来たと言ったら、「面白いキャラ」枠をあてがわれたり、「おもろいこと言うんでしょ」なんて言われたり。それは結構困るし、腹立ちますよね(笑)。

 でも大阪の面白って別に、個人が単体で面白いというよりも、コミュニケーションの中でチームで実現する面白さであって、ツッコミ役で周囲を光らせる人とか、いろんな人がいて、みんなで場を回して、なるべくその場の緊張感を緩和するという文化だと思うんですよね。そして、その感じがたぶん今、大事なのかもしれません。

亀石 そうですね、本当に。

 良し悪しあるんですけどね。ローティは「会話が大事」と言っていますが、ここでの「会話」って英語でconversation「カンバセーション」で、これは「対話」とかとは使い分けているんです。

 対話は英語でdialogue「ダイアローグ」ですけど、このlogueって古代ギリシャ語のlogos「ロゴス」ですから、「論理」とか「国語」とか「言葉」です。「言葉を介した営み」がダイアローグだとすると、カンバセーションは、ラテン語のconversari「コンベルサーリ」が語源なんですけど、「一緒にいる」くらいの意味しかないんです。だから、「言葉で説得する」とか「意思疎通する」とかよりもっと手前、「単に一緒にいる」ということ。

 それをどうするかが大事だ、とローティは言っているんですね。

亀石 そうなんですか。へえ。

 やっぱり誰かと一緒にいるって、緊張感がありますよね。肉体を持った人が2人もいたら、ちょっとお互いに緊張感があるわけで。「この緊張をどう緩和するのか」という流儀とか作法が、カンバセーションの一つ大事なポイントなんだ、とローティは言っているんです。大阪の人はそれがうまい気がするんですよね。

亀石 だって、関西人って、たとえば3人いても3人全員が違う話をしていたりすることがあるじゃないですか。全員それぞれ好きなこと言っていて。一見、会話が成り立っているように見えるけど、実はみんな全然違うことを言ってるみたいな(笑)。

 だから、良し悪しもあるんですけど、関西の人のほうが、ちょっとボディータッチがうまかったりとか、ツッコミとかも気負わずにできたりとか、緊張を緩和する技術自体があるような気もします。

亀石 すごいですよね、会話の技術というか。

 でも、今こそ、そういうものが求められる時代なのかな、という気がします。私は「身体性」とかもすごく大事だと思うので。

 そういうのはやっぱり、亀石さんは刑事弁護人として実際にリアルにやられていますよね。当たり前ですけど、刑事弁護人って、リモートでなんか、できないわけじゃないですか。

亀石 そうですね。

 実際に接見に行って、足を、体を運んで、顔を合わせて、そこで相手と目を合わせながらやる、ということの経験値が、たぶん今の亀石さんを作っていらっしゃる面もあるはずで。それはカンバセーション、会話の技法なんだなと、今改めて思わされました。

亀石 そうですね。私は本当にもう大阪の人から「おもんないねん」と言われないように心がけています。それを言われるのが一番怖いです(笑)。

 まあ、でも、「おもんないねん」と言われる役みたいなのもありますからね。そう言ってもらえるだけで、既に成り立っていて。たぶん「本当におもんない人」は、直接そんなことも言われずに、いなくなった後で「あいつ、おもんなかったなあ」と言われるパターンかと(笑)。

亀石 それが、一番つらいです(苦笑)。
(了)

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関連書籍

プロフィール

亀石倫子

(かめいし みちこ)
弁護士。2009年大阪弁護士会に登録。刑事事件を中心に研鑽を積み、ダンス規制法の無罪判決(2016年)、令状なし GPS捜査の違法判決(2017年)、タトゥー事件無罪判決(2020年)をいずれも最高裁で勝ち取る。公共訴訟を 支える専門家集団『LEDGE』代表理事。共著に『刑事弁護人』(講談社現代新書)。2026年5月、共著『はじめての公共訴訟 社会を動かす、私たちのツール』(集英社新書)を刊行。

朱喜哲

(ちゅ ひちょる)
哲学者。1985年大阪生まれ。大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授。博士(文学)。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。著書に『人類の会話のための哲学』(よはく舎)、『〈公正(フェアネス)〉 を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス)。2026年5月、好評を博した『100分de名著 ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」』のテキストを大幅改稿した初の新書『バラバラな世界で共に生きる――リチャード・ローティの哲学』(NHK出版新書)を刊行。

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