対談

第1回 「スパイを見つけろ!」が社会を変えた

誰が「スパイ」とされるのか?思想統制と防諜体制、沖縄戦、そして現代日本
荻野富士夫×林博史

治安維持法と防諜法令の違い

 現在、スパイ防止法は「現代版の治安維持法である」という形での反対論があります。たしかにそういう言い方は「人々に届く」という点で、間違いではありません。特定秘密保護法とか共謀罪法などの法案が出た時に、「これは治安維持法の再来だ」というアピールが多くの人に届き、国会を取り巻く大規模デモが起こったわけですから、意味がありました。

 ただし厳密に考えると、治安維持法と防諜法令は、目的というか法益(法の利益)という点において、少しズレがあるのです。

 防諜法令というのは軍機保護法や国防保安法などを指しますが、これら防諜法令は「治安維持法体制を補強、補完するもの」だったと考えるべきです。そして、一般国民にとっては治安維持法より防諜法令の方が身近で日常的なもので、むしろこちらの方が脅威だったと言えるでしょう。

 治安維持法が廃止になるのは1945年10月4日、GHQ(連合国軍最高司令部)の「人権指令」によってです(正式の廃止は10月15日)。「特別高等警察(特高)を解体し、特高の警察官を罷免しろ」「治安維持法などを廃止しろ」と日本政府に厳命したのです。この「人権指令」では廃止すべき15の法律が例示されていて、最上位が治安維持法ですが、実は15法令のうち7つを防諜法令が占めていました。国防保安法、軍機保護法などです。

 日本が軍国主義の道をたどり、帝国主義の戦争を進めていく上で、国民を抑え込んでいくために、治安維持法だけでなく、防諜法令も大きな役割を果たしていたという認識を、GHQも持っていたのです。

 治安維持法が適用された例を見ると、1935年の大本教の弾圧(*6)や1942年の横浜事件(*7)などもありますが、多くの場合は組織性の高いものや、30人とか50人といった集団に襲いかかっています。また、活動が2~3年の継続性があるものが対象になっていることが多い。

 多くの場合は、まったく何もないところに襲いかかったという完全なフレームアップ(でっちあげ)ではなくて、当局にとって目ざわりなもの、つまり戦争に反対したり、現状への不平不満を俳句などの形で表現したりといった「抵抗の芯」、核がそれぞれありました。あるいは宗教心であったり……。特高や思想検事はそれらに嗅覚鋭く襲いかかりました。

 こういう治安維持法に対して、防諜法令の方は流言飛語(噂話やデマ)とか人心惑乱を監視し取り締っていった。戦争遂行がもたらす日常的な苦難などへの不平不満やグチなどですね。これは組織性があるわけではなく、個人が知り合いに、あるいは初めて会った人にでも、ポロッと話したことが対象になった。たとえば北海道旭川の銭湯で行商人が「東京の大空襲はこんなにひどかった」と言ったら、警察に通報されて処罰された事例もあります。意図的なものや組織的なものでなく、非常に個人的で偶発的なものだし、「抵抗の芯」というにはふさわしくないようなグチ、不満が取り締まりの対象になった。それがむしろ多くの人々にとっては脅威でした。

 警察や憲兵がこれを監視し、検挙するわけですが、大半は検挙された警察署での「説諭」や「厳諭」(警察などの資料での表現)をされて、釈放されました。

 その中で重大なもの、作為的、悪質なものとみなされると、起訴され有罪になりましたが、全体から見ると少数でした。罰金刑で100円前後、あるいは懲役1年前後、しかも大体、執行猶予がついています。

 例外的に重罰であったのが国防保安法・軍機保護法・治安維持法違反などのゾルゲ事件(*8)の死刑(量刑は国防保安法の適用)。そして北海道の軍機保護法違反冤罪事件である宮澤・レーン事件(*9)、これは二人が懲役15年という破格に重い判決を受けました。

 ただし、これらは例外的なものと見るべきで、多くは警察署で釈放されたり、処罰されてもそれほど重いわけではなかった。治安維持法とは異なり拷問もなかったわけですが、国民の日々の生活や言動において、防諜法令が非常に脅威となって恐怖をもたらしたのは確かです。もちろん治安維持法も、脅威として厳然としてあるわけですが、それとはちょっと別の次元のものとして考えておくべきだと思います。

*6 神道系新宗教の大本教に対し、内務省による弾圧が2度行われ、2度目の1935年には治安維持法が適用され教祖夫妻以下1000名近くを検挙し、関連組織も解体された。

*7 1942年に起きた言論弾圧の冤罪事件。雑誌『改造』や『中央公論』の編集者や作家、新聞記者など約60人が治安維持法違反で逮捕され、取調べ中の拷問によって4人が獄死した。

*8 ドイツ人記者リヒャルト・ゾルゲが1933年~41年にかけてソ連のスパイとしてスパイ組織を作り日本で活動していたが、41年に逮捕され治安維持法と国防保安法違反で死刑となった事件。

*9 1941年12月8日の日米開戦の日、北大の学生・宮澤弘幸と、英語教師ハロルド・レーンと妻らが、特高によってスパイ容疑で逮捕され、軍事機密を漏洩したとされて、宮澤とレーンは懲役15年の実刑判決に。戦後、冤罪だったことが判明。ここでは拷問が加えられた。

防諜法令を再び作ることが、ずっと自民党の宿願だった

 戦後まもなく首相となる芦田均は、防諜法令がいかにひどいものであったかを証言しています(「街頭風景に於ても電車に乗ったお客同士が、「近ごろは食糧事情が悪くて欠食児童が学校に何人か出て困る」といったような話でもしようものなら、防諜関係上甚だ不心得であるといって、「ちょっと来い」とすぐ引張られた」)。しかし治安維持法の方は施行100年を超えた今日まで、「悪法」だという認識がそれなりに定着していて、若い人たちにも知識として持たれていますが、防諜法令については、今ほとんど忘れ去られている状況です。

 しかし実は戦後、「再び防諜法令を作ろう」ということが自民党の宿願、党是として立てられていて、防諜法案が何度も浮上してきました。

 1954年の段階では、読売新聞が「あの悪法(軍機保護法)で国民がどれほど苦しめられたか、その記憶はあまりに生々しい」(54年3月6日)と批判しています。まだ敗戦から10年たっていないので多くの人がそういう記憶を持っていた。

 ところがその数年後の58年に、日米安保条約改定(1960年)に関連して、安倍晋三元首相の祖父である岸信介首相が防諜法を作ろうとした時に、反対運動が盛り上がったのですが、当時の朝日新聞の社説(58年9月23日)では、「戦後すでに十数年を経ているから、いまの若い人たちはよく知らないかもしれぬが、軍国時代の日本では軍機密、国家機密ということが国民の言論の自由を抑圧したことはひどいものであった。……はじめはそれほど厳しいものではなかったのだが、次第に取締りを強化し、最後は重要な政治問題については、ほとんど報道と論議を封じられ、その暗黒状態のなかで軍事的冒険が進められたことは、今さらのことではない」と書いています。

 戦後15年ほどしかたっていないにもかかわらず、防諜法令については忘れ去られている状況でした。そしてその後、ますます忘却されていったのです。

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関連書籍

プロフィール

荻野富士夫

(おぎの ふじお)

1953年、埼玉県生まれ。小樽商科大学商学部教授を経て、2018年に定年退官。同大学名誉教授。専門は日本近現代史、とくに治安体制・思想統制史。主な著書に『特高警察』(岩波新書)、『よみがえる戦時体制――治安体制の歴史と現在』(集英社新書)、『検証 治安維持法――なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』(平凡社新書)、『「国体」とは何か――教育勅語から八紘一宇へ』(地平社)、『治安維持法と「国体」』(大月書店)等多数。

林博史

(はやし ひろふみ)

1955年、神戸市生まれ。現代史研究者。関東学院大学名誉教授。主な著書に『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書)、『沖縄戦と民衆』『沖縄戦が問うもの』(大月書店)、『沖縄戦 強制された「集団自決」』『米軍基地の歴史 世界ネットワークの形成と展開』『帝国主義国の軍隊と性 売春規制と軍用性的施設』(吉川弘文館)、『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』(高文研)、『BC級戦犯裁判』(岩波書店)、『日本軍「慰安婦」問題の核心』(花伝社)等多数。

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