社会を変える営みは、どこから始まるのだろうか。『はじめての公共訴訟 社会を動かす、私たちのツール』刊行記念対談の第2回では、谷口太規氏が弁護士を志した原点を振り返りながら、公共訴訟が持つ意味を社会学者、大澤真幸氏と掘り下げていく。議論はやがて、夫婦別姓訴訟にも通じる「名前」の問題へ。なぜ人は名前を失うことに深い痛みを感じるのか。個人の固有性や尊厳とは何か――。〈ひとり〉の経験が社会的な課題として立ち現れるプロセスを、法と社会思想の両面から考える。
*本記事は2026年5月29日、隣町珈琲(東京・中延)で行われたトークを編集し採録したものです。
構成:稲垣收 写真:伊吹早織

アメリカ同時多発テロの後に書いた卒論
谷口 大澤先生が扱われているのは、ある種抽象的な概念や理論ですが、そういうものを学んでいた私が、なぜ弁護士とか司法の方に行ったのかという話をさせていただきたいです。
実は私が通っていた京都大学って、なかなか学生たちが卒業しないんですよ。4年で誰かを見送って、5年で誰かを見送って、みたいな感じで少しずつは卒業していくんですけど(笑)。自分も5年を過ぎたあたりでやっと「そろそろ就職しないとな」と思って就職活動を始めて、就職説明会とかに行ったんです。社会学系の学科なので、当時は全然、法律方面なんて考えてもいなくて。
でも例えば「谷口くんはバックパッカーとして世界を旅してたんだね」とか、「こういうユニークなところがあるね」とか、当時は個性とかがすごく評価される時代で、何と言うか、それを「資本に回収されていく」ような感じに思えたんです。
それで、「ここで今行われていることは、大澤先生の話していた資本主義ってやつだな」と感じて、何だか自分の固有性が失われるように思って。「それなら、むしろテストで合格する仕事のほうがいいな」と思って司法試験を受けることにしたんです。
大澤 なるほど。
谷口 で、「1回受けてダメだったらもうやめよう」と思って受けたんですが、ダメだったんですよ(苦笑)。それで「もう、卒論を書いて卒業しよう」ということで、大澤先生のところで卒論を書いていたんです。私が大学生を送っていた時期には2001年9・11、アメリカ同時多発テロ(*1)があって、翌日「何か起きているだろう」と思って大学のキャンパスに行ったんですが、何も起きていなかったんです。その後、アフガニスタン戦争(*2)が始まっても、やっぱり何も起きていなくて。
そのとき、市民集会とかで高齢の方が「今の若者たちは怒ることをしない」とおっしゃっていたんですけど、それにも「ちょっと違うんだよな」と感じて。問題意識としては、「なぜ怒れないのか」とか「なぜ怒りが途中でつまずいてしまうんだろう?」というような「不可能性」みたいなことを感じたんです。それでそのことを卒論で書こうと思ったんです。
⋆1 2001年9月11日、米国でイスラム過激派テロ組織アルカイダのメンバーによって4機の旅客機がハイジャックされ、NYのワールドトレードセンター、ワシントンDCの国防省などに突っ込み、大勢の犠牲者を出したテロ事件。約3000人が死亡した。
⋆2 アメリカ同時多発テロ事件を起こしたアルカイダの首謀者オサマ・ビン・ラディンらはアフガニスタンに逃亡、米政府はアフガニスタンのタリバン政権に彼らの引き渡しを求めたが、1980年代のソ連との戦争の際にビンラディンらのイスラム義勇兵に助けられたことのあるアフガニスタン側はこれを拒否。米国と同盟国軍は2001年10月にアフガニスタンに侵攻、2021年まで続く、米国の軍事史上最も長い戦争となった。
大澤 第1章がそういう話だったね。
谷口 はい。それで「政治的アクティビズムの可能性」みたいな卒論を書いたんです。
大澤先生の講義や著書などを参照しながら理論のところを書いて、アクティビズムの不可能性的なものを書いているうちに「でも、実際に今活動している人たちがいるよな」と思って、NPOやNGOの人たちにインタビューしに行ってみると、確かに何かを信じてやっている人たちが、そこにはいて。
それで「結論は分からないけれども、みんながしゃべって、人の意見も聞いて、議論して、というようなプロセスが保障されれば、きっと何かいい結果が得られるんじゃないか」みたいな、結論にたどり着いて。「じゃあ、うまくしゃべれない人、うまく聞いてもらえない人には代理人が必要だ」ということで弁護士になろう、と。それでもう1回司法試験を受けたんです。
そういう経緯があって、さらにさっきお話ししたようなこと(第1回参照)があって今、公共訴訟にたどり着いている、ということなんです。
公共訴訟から結果的に社会が利益を得る
谷口 この本はふだん大澤先生が読まれないような実務解説本みたいな本だと思うんですが、公共訴訟がどんな意義があるかとか、エピソードとか、歴史とか、今後の未来とかということを分かりやすく書いたんですけど、お読みになっていかがでした?
大澤 非常に面白かったです。広く報道されている問題もあるし、全然知らなかった問題もあって、いろいろな例が載っているんですが、まず、この公共訴訟というもののフォーマットというか、基本の考え方は、「ある個人的に深刻な問題から、いかにたくさんのものを引き出せるか」ということですよね。
当局は大体「それは、これだけの問題でしょう?」というふうに言ってくる。でも「これだけじゃないんです」ということで、どこまで拡大していけるかが大切だと思うんです。それを法という形できっちりとやると、公共訴訟という形になるんだなということが、よく分かった。
そしてこの本には個別的、具体的なこともたくさん書いてある。何か訴訟を起こそうとする場合に「誰に頼めばいいの」「いくらかかるの」「どのぐらい時間がかかるの」とか、そういうことがすごく具体的に分かって、とてもためになる。
世の中で何も問題を抱えていない人は、おそらくほとんどいないですよね。その問題の多くが、本当の根っこまで行くと、自分の家族とか個人だけの問題じゃなくて、実は公共的な問題だということを発見する人がたくさんいる気がします。そういう人たちが、また事を起こす。
だから、この公共訴訟というものは、一見、「私」のためにやっているように見えるけれども、実は社会のためにやってくれているんですよね。つまり公共訴訟からは、結果的に社会が利益を得ることになる。でも、まだまだ日本で公共訴訟をする際に、負担を負うのは、その個人と、ほとんどタダ働きをする弁護士だけ、ということになっている。
そういう公共訴訟自体を、社会的にどうやって支援しなきゃいけないか、というようなことを考えることもできるし、非常にいい本だと思いました。
司法にたどり着けない人たち
谷口 ありがとうございます。私が弁護士になってから最初の10年は、本当に司法アクセスの問題というか、弁護士とか司法にたどり着けない人たちの問題をやっていたんです。
たとえば弁護士になって数か月で出会った人は、15年ぐらい借金から逃げ続けていた人で、もう自殺する手前で「ムダだと思うけど、法律相談に来た」と言っていました。
でも、調べてみると、その借金は10年以上前に時効になっていたんです。なので、ただ内容証明郵便を1本だけ送れば、実は10年間逃げ続ける生活はなかった。そういうケースだったんですね。この人はそれで借金苦から解放されて、見違えるようになったんですけれども。でも世の中には、そういう司法手続きにたどり着けないで死んでいった人たちも大勢いるわけです。
法律の勉強というのは、基本は法の解釈適用を学ぶわけです。「この法律はこういうときに適用される」とか。でも、その手前で多くの人たちが、ほとんど法にたどり着けないまま終わっていて、そこに圧倒的な不平等がある。法の手前に不平等があるということをすごく実感したんです。
公共訴訟も実は同じで、訴訟を起こすにしても全くお金がないし、どこにそれを受けてくれる弁護士がいるかも分からないし、という感じで、たとえば「夫婦別姓と、夫婦同姓、どっちが正しいのか」などという手前に、社会システム自身が排除している問題があるんだなと思ったので「そのハードルをどうにかして別のシステムによって解消しよう」というのがCALL4やLEDGEの試みなのかなと思っています。
名前というものの重要性

谷口 実際に、こういう本当に地を這うような弁護活動をしていたり公共訴訟をやっていたりする中で、「これはもしや先生が言っていた、あれじゃないか」みたいなことを思う場面が結構あります。ひとつは、先生が『<自由>の条件』という本を書かれていた時に、名前のことについて講義でお話されてたんです。「フレデリックとアルマン」というエピソードを題材に挙げて。当時は「ちょっとよく分からない話だな」と思っていたんですが、最近、LEDGEという団体で夫婦別姓訴訟に携わるようになって、「あ、これは」と感じるところがありました。
夫婦別姓訴訟は今これだけ主要な社会的トピックになっていて、去年の自民党総裁選でもひとつの大きな論点になりましたし、社会的には多くの人たちが「何で別姓じゃダメなの?」という発想になっていると思うんですが、裁判では2回負けているんです。最高裁で。
今、第3次夫婦別姓訴訟をやっているんですけど、第1次でも第2次でも敗訴した際の反対論には、ほぼ合理性がないんですよ。「合理性がないのに何で負けるんだろう」と考えたときに、やっぱり裁判官が「大したことじゃない」と思っていることがある。「名字が変わるということ自体、そんなに重要なことじゃない」と。
憲法13条(⋆3)の保障が及ばない、という判決文の中に、「名前というのは確かに重要です」とあって。氏というのは個人の識別機能にとって大切だ、他の人と自分を識別するのに、と。
「でも、まあそれぐらいのものだろう」というような感じで、重視していない。結局「失われているものが何なのか」ということが、十分に司法の判断に乗ってないと思ったんです。
でも、大澤先生がフレデリックとアルマンの話をしている時に、「名前というものは非常に謎めいた存在で、そこにとても大きな転換のキーがあるんだ」というお話をされていたと思います。
*3 憲法13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と書かれている。
大澤 そうですね。言語哲学では「名前とは何か」ということについて、けっこううるさい議論があって面白いんですよ、本当に。言語哲学というのは、オタクっぽいところがあって、「哲学者はそんなことを気にしてるけど、俺たちはどっちでもいい」みたいに思ったりもするんだけど、すごく議論としてエレガントで面白いんです。特に、人間にとってギリギリの問題を考えていった時に僕は、名前というのがすごく重要だ、と思うようになったんです。
名前って、すごく大きいんです。名前というものに対する違和感というのは、この世界における違和感の一番根源にあるんですよね。
名前を失った少年アルマン
大澤 それで、フレデリックとアルマンというのは、フランソワーズ・ドルトというフランスの女性精神分析学者が報告している症例で、僕はそれを本当に自由の問題として考えることがあって、本に書いたり講義でも話しました。
どういう話かというと、幼い頃に養子になったフレデリックという少年がいて、養父母たちは彼を一生懸命育てて十分愛情も注ぐんだけど、小学校に入るか入らないかぐらいの年齢になっても、非常に発達に遅れがある。それで子供の精神分析で有名なドルト先生のところに行って、ある程度症状が良くなるのですが、まだ、文字を書くことができなくて。
それでドルト先生はいろいろやっているうちに、この子が絵を描く時に、絵の中にしょっちゅうアルファベットのAという字を書くんですよ。実はこの子は、養子にもらわれる前の名前がアルマンだった。親が誰か分からないけど、孤児院でアルマンと名付けられたんです。でも養父母はその名前を変えて、フレデリックという名前をつけた。
ドルト先生は「この子は、もしかすると、アルマンじゃなくてフレデリックと名前を変えられてしまった時に、何か根本的なつらさを感じたんじゃないか」と直感したんです。それでその子に、呼びかけてみるんです。「フレデリック、あなたはアルマンからフレデリックに名前が変わった時、つらい思いしたんじゃないの?」みたいなことを。でも、そのときは何の反応もない。
ここから後がドルトという精神分析学者の非常に臨床家としての腕のいいところなんだけど、そこでわざと裏声を使って「アルマン、アルマン」って呼びかけてみる。画面の外からやってくるオフの声というか、ナレーションの声のような感じで。その声に急にフレデリックは強く反応した。その後、また「アルマン、アルマン」って、どこかからくる天の声のようにしていって、だんだんだんだんそれを降ろしていって、「アルマン」って呼びかけたら、急に反応するようになったんです。それから急に、それまで学習を拒否していたのが、いろんな学習をするようになった。
だから孤児院で最初に「アルマン」という名前を与えられた時に、言わばこの世界における自分の存在自体が与えられて、存在として肯定されていたのが、「フレデリック」という名前になった時に、その存在の否定みたいのを含んでしまったんでしょうね。実際、養父母の中でそういう気持ちがあったと思うんです。
養父母はもちろん愛情のない人じゃないけど、「この子は捨てられてきた子だ。かわいそうだから、むしろアルマンとしての過去を捨ててフレデリックに変えてあげよう」と思った。けれども子供にとっては、既にアルマンとして自分はこの世界にいる、その存在を否定されたみたいになってしまった。それをアルマンに戻すことで、存在がつながっていった。
だから人間にとって名前で呼ぶということは「何かに役立つ」とかいう以前に「この世界で自分がはっきりと場所を持つ」ということと、ものすごく関係があるんですよ。夫婦別姓問題というのも、本当はそういう問題なんだけれども、それをなかなか法律のベースで説明するのが難しいんでしょうね。
谷口 原告の意見陳述というのが法廷であるんです。なぜ自分たちが提訴したのか述べるもので。ある原告の方が「自分が自分の名前を意識したのは幼稚園に入った時のことでした」と。「お母さんが自分の名前を洋服に縫いつけてくれて、服が風にひるがえってその名前が見えた時に、私は初めて自分の人生がそこで、この名前の下で始まった気がしたんだ」という話をしたんです。
たとえば「谷口太規が『はじめての公共訴訟』を書いても書いてなくても、谷口太規は谷口太規である」というように、存在自身の固有性みたいなものを肯定するのが名前なんだ、と。いろんな機能の集合ではなくて。
フレデリックとアルマンのエピソードで「名前というものによって、その人の存在自体が最初に肯定される」という場面を見て、「ああ、この部分が伝われば通じるんじゃないか」ということを、夫婦別姓訴訟をしていて思ったんです。
だからこそ、たとえば日本が朝鮮半島を植民地にしていた時に、創氏改名(*4)ということも行われたわけで。それは名前を奪うということが、その人の固有性やアイデンティティにとって決定的な意味を持つから、そういう政策を行った。
しかし「識別機能としての名前」くらいのところまでしかまだ伝えきれていないことが、この訴訟の困難性と結びついているのかもしれない、と思いました。
⋆4 朝鮮半島を日本が統治していた1940年に、朝鮮の人々に日本式の苗字を作らせ、名前も日本式に変えさせた。
合理的なことに反対する人々の思いとは?

大澤 あと、ちょっとそれとは別の水準のことだけど、いくつかの問題に関して、たとえば選択的夫婦別姓に関しては、おそらく「夫婦別姓で構わない」という人のほうが多いと思うんです。だって「選択的」なんだから、別姓であることを強制されるわけではないんで、合理性もあるし。
また、この本の中で丸山央里絵さんが書かれている同性婚の問題も「結婚の自由をすべての人に」訴訟の話も、合理的だと思うんです。「あなたは誰と結婚してもいいんだ」ということで、「同性と結婚したい」という人がいた時に、それを阻んでしまうことには何の意味もないじゃないですか。それなのに、それを通させるのは非常な苦労をしたりする。
このように、「なぜ抵抗されるのか分からない」という問題ってありますよね。しかも、既に多数派じゃないかと思われるものでさえも苦労することがある。
どうしてそういうことになるかは個々のケースごとに違いますが、普通、「相手がバカだからじゃないか」と、つい思ってしまいがちです(笑)。でも、そういうふうに考えてしまうとダメな場合が多くて。こっちが言っていることが筋も通っているし、合理性もあるのに、抵抗勢力はハンパじゃなく強かったりする。それはどうしてか、というのを考える必要がある。
分かりやすくするために別の例を出します。アフリカとか第三世界で、僕らから見るととんでもない法律とか憲法が作られることがある。よく話題になるのは、アフガニスタンで女性が教育を受けられないとか、アフリカの某国では「同性愛は死刑」というような法律が作られたりする。「とんでもないな、なんて遅れているんだろう」って、普通考えてしまうし、実際そういうふうに報道されています。
ただ、そういう法律が作られるのは、彼らがバカで遅れているからではないんです。彼らが不信感を持っているのは、簡単に言うと、西側の近代であり、リベラルな思想なんです。普通に考えればリベラルな思想が正しいことも知っているし、世界ではそれが通用することも知っている。でも、なぜ彼らが不信感を持っているかというと、西洋はアフガニスタンとかアフリカに対して、ロクなことやってこなかったからです。なので、「西洋風に見ていいもの」をやるということに抵抗する。つまり本当は、彼らは女性の教育とか、同性愛に対して抵抗しているんじゃなくて、西洋の近代に対して抵抗しているんです。
そこで我が国のことを考えると、日本はアフリカの某国やアフガニスタンほどには、西洋に対して敵意はないです。それでも「女性が天皇になれるかどうか」みたいな問題には強烈に抵抗する人たちがいる。普通にリベラルに見て正しいものにするというのは、「我が国の伝統」というか、「自分たちのちょっと歪んだナショナリスティックな愛情」みたいなものを否定されるように感じるのかもしれません。
夫婦別姓に関しても「いや、我が国は伝統的に、夫婦が同姓になるという形でやってきたんだ」などと言う。明治以前は人口の大多数に姓はなかったんで、本当はそんなことはないわけですが、そういうふうに言いたくなる人たちがいる。世界のスタンダードなもの、あるいはリベラルに見て、明らかに普遍性があるものとか、啓蒙思想から見て十分なものに対して、「自分たちの愛国心を否定された」みたいな気持ちになるんじゃないでしょうか。
ただ、僕はここに日本の問題があると思います。この国はそんなところでしか愛国心が発揮できないようにできているわけで。だから、反対の基になるのは、夫婦別姓や同性婚やLGBTQや性的オリエンテーションに対する無理解ではなく、実は背後にあるのは、ある種のナショナリスティックな執着ですね。その物語が歪んでしまっているんだと思うんです。
プロフィール

(おおさわ まさち)
1958年、長野県松本市生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程を単位取得満期退学後、社会学博士を取得。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授などを歴任し、現代社会の構造や思想をめぐる研究を牽引。主著『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞、『自由という牢獄』で河合隼雄学芸賞を受賞。ほかにも『〈世界史〉の哲学 現代篇2 アメリカというなぞ』『不可能性の時代』『〈自由〉の条件』『社会学史』『経済の起原』『資本主義の〈その先〉へ』など、思想と社会を横断する著作を多数発表している。共著に『ふしぎなキリスト教』『おどろきの中国』『おどろきのウクライナ』など。現在は個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』を刊行するほか、2009年から文芸誌「群像」にて評論「〈世界史〉の哲学」を連載し、長期的な思索プロジェクトとして展開している。大澤真幸オフィシャルサイト。

(たにぐち もとき)
1978年、神奈川県横浜市生まれ。弁護士、ソーシャルワーカー、アクティビスト。認定NPO法人CALL4共同代表、公共訴訟の専門家集団LEDGEディレクター。京都大学総合人間学部卒業後、2005年に弁護士登録。都市型公設事務所や法テラス等で貧困、高齢、障害、移民分野の案件や刑事弁護など、公益性の高い領域を中心に活動。2015年からはアメリカ・ミシガン大学ソーシャルワーク大学院にてコミュニティ・オーガナイジングを学び、その後ソーシャルワーカーとしてデトロイトにある公設弁護人事務所にて少年終身刑者の地域復帰支援に携わる。日本帰国後の2019年、社会課題の解決を目指す訴訟(公共訴訟)を支援するウェブプラットフォーム「CALL4」を立ち上げ、共同代表として活動。2023年には、公共訴訟に特化した専門家集団「LEDGE」を設立し、ディレクターを務める。
大澤真幸×谷口太規









速水健朗×福尾匠
アレックス・カー