それはどんな「対話」を生むか? ──伊藤詩織監督『Black Box Diaries』を考察する〈前編〉

蓮実里菜

『Black Box Diaries』は何を描き、何を描かなかったのか

「描かれたもの」は、その夜伊藤さんと山口氏をホテルまで乗せたタクシー運転手が、タクシーを運転しながら「まさか事件になるとは思わなかったからね」と、伊藤さんは駅で降ろしてくれと言っていたことを答える映像、また伊藤氏と山口氏がホテルに到着し、車寄せでタクシーを降りてからエレベーターホールを歩く姿を映している防犯カメラの映像を中心としてつながれていく、「その夜のこと」。伊藤映画は、事件に対する主張をめぐって対立する当事者双方の解釈が投げかけられ、観客に問いを委ねていく──というような作品ではなく、伊藤氏側の主張がメモリーレーンを辿る形で「唯一の真実」であるかのように、見せられていくものであるためだ。一方、「描かれなかったもの」とは、それらの証拠がありながら、刑事事件としてなぜ訴追されなかったのかという解説、である。

刑事事件としてなぜ不起訴判断に終わったかは伊藤詩織さんが民事訴訟の資料として提出した検事の説明音声(隠し録音音声)にて詳細に説明がなされているが、かいつまんで言えば、防犯カメラの映像が証拠として嫌疑を立証するのに十分と判断されなかった理由は、カメラ映像から、伊藤氏が申告した行為の時間までに6時間が経過しているという点が理由であった(検事は、同じ状況でも、入室すぐに姦淫行為が行われ、1時間で被害者が部屋を飛び出してきたという状況であれば、入室時の酩酊状態というカメラ映像は起訴する材料になると説明している)。また、タクシー運転手の証言は、その証言全体からは、起訴に有利・不利な要素の両方を含むものであることが理由であった(映画には起訴に有利な証言だけが使われているが)。

しかし、それらがそのように論争的・多義的な解釈の存在する「証拠」であったという点は、映画からはわからない。タクシー運転手の証言は、「帰宅したがっていた」という部分のみの活用であり、また防犯カメラの映像が不同意性交の立証として弱いのは入室後の時間の経過が関係しているという検事の解説も、映画に出てくることはないためだ。

ところで、伊藤詩織さんの訴えに対して、「証拠がない」という見解を述べているのは検事および民事訴訟の裁判官ともに共通するものであるが、その「証拠がないという事実」がどう扱われたかは、刑事手続と民事訴訟では実に対照的なものであることが、二つの資料(検事の説明音声と、民事訴訟の高裁の判決文)を読み比べるとわかり、その対比はとても興味深い。検事は、「犯罪の構成要件を満たすだけの客観的な証拠がない」から、刑事訴追できないと説明をしており、たとえば、以下のような言葉がある。

「この事件だと、検察側が立証するハードルがいくつかあって、それ(相手の反論)を今、つぶせるだけの証拠がね、どれもないっていう状態になってる。証拠上ね、これは、あくまで。真実が何かっていうのは多分、そこまではね、どの刑事事件でも証明できないの。だから、女性が悔しい思いをするのは、そこなの。真実はこうだったのよ。でも、証拠がないからね、起訴もできないし、あるいは、起訴してもね、その後、それは崩れちゃう。」

「でも、どうしてもわれわれは、裁判所から証拠で証明しろっていうふうに言われるから、もう証拠を出すしかないの、どんどん。で、刑事事件って、仮に弁護人がこう言ってきたら、じゃあ、どういうふうにそれをつぶすか。こう言ってきたら、どうつぶすか。こう言ってきたら、どうつぶすか。武器がないと、われわれももう、なかなか、こう、それを切り札として使えない。で、この事件だとね、そういうの(相手方の反論)が多分、三つ、四つぐらい出てきちゃうっていう。率直な話するとね。そうすると、仮に法廷に持っていって、伊藤さんの証人尋問をやってもね、要するに、前と後ろだけでね、尋問できるのって。精神的なダメージがかなりあった。それはもちろん、カルテとかで証明できる。でも、そこの部分(どのように性行為がはじまったのか)のところが何一つ証拠として(ない)。」

(甲第64号証より抜粋)

一方、民事訴訟では、「どちらの供述も、核心的な部分については『客観的な証拠』がそもそも乏しいので、それぞれの主張を聞いて、相対的に信頼性が高い方を信じますよ」という趣旨の方針で行われたことが、判決文に記されている(「本件行為の状況及びその前後の経緯等については,その裏付けとなる客観的証拠等に乏しく,被控訴人又は控訴人の供述が事実認定の重要な根拠となるものであるから,まず,両名の供述の信用性について検討する。」)

そうして開かれた民事訴訟の法廷で、伊藤氏の主張したストーリーと山口氏の主張したストーリーは真っ向から対立した。

伊藤氏は、状況認識能力がない状態で意思に反してホテルに連れ込まれ、明け方5時頃性行為の途中に目が覚めてもみ合った末に部屋を飛び出したと主張。他方、山口氏は、伊藤氏が酩酊状態だったため宿泊先に連れ帰り(伊藤氏は会食先の鮨屋から他の客のバッグを間違えて持ち帰ってしまったほど酔っていた)、性行為があったのは事実だが、行為は伊藤さんが一眠りして酔いが覚めた2時〜3時頃で、「私はどうしてここにいるんでしょうか」と尋ねた伊藤氏から、「私は不合格ですか」とお酒の失態を詫びるような言葉で誘われ、同意の上の性交渉があったと主張。その証拠として、ホテルの早朝の防犯カメラには、「身づくろいをし、普通の会話をして先に部屋を出た伊藤氏の姿」が映っており(入室時の伊藤氏は髪を下ろしているが、退室時の伊藤氏は髪をお団子にまとめており、また山口氏から借りたTシャツを着ていると山口氏は主張した)、山口氏とベッドの上で揉み合いになって「ずれた」と伊藤さんが主張する膝を特段かばう様子もなく大股で歩く姿が映っている事や、伊藤氏がアフターピルを処方してもらった病院のカルテには性交時間は明け方の2時〜3時と申告されたと記載があり、「意識が戻ってすぐ」性行為の直後にホテルを飛び出したという伊藤氏の供述とは整合性がつかないことなどを呈示した。

そして、客観証拠の観点からは、当初は山口氏が有利と見られたが、最も核心的かつ、「客観的証拠」のほぼ存在し得ない「ブラックボックス化した部屋の中」において山口氏の供述は不自然に変遷し、一方伊藤氏の供述はその重要部において一貫性があると判断されたため、山口氏による不法行為(不同意性交)を事実として認定した。加害行為に伴う乳首の出血や膝の怪我といった外傷についても、「診断書(甲13)には,症状の具体的内容及び程度については何らの記載もないことから,その傷害の程度を具体的に認定することは困難であるが」、「本件加害行為時に,控訴人から膝をこじ開けようとされたことが原因となって,(中略)傷害を負ったものと認めるのが相当である」と、結論づけた。

つまり、検事が求めた客観的証拠が必ずしもなくとも、弁護団の尋問の工夫と伊藤氏の供述の力による心象形成で性被害を認定させた、裁判。これこそが、終わってしまえば、必ずしも目に見える跡(証拠)が残るとは限らない人権を踏み躙る行為で、「証拠がない」と泣き寝入りをしなくても、勇気を出して被害を訴えれば、被害を法的に認めさせることができるかもしれないと、性被害者への希望となった……のでなければ、その判決になんの画期性があるというのだろう。

しかし、そのようなことは伊藤映画では描かれない。代わりに映画に登場するのは、国会で安倍元首相に山口氏の逮捕状をにぎりつぶしたのかと問う国会議員とそれを否定する安倍首相の答弁シーン、演説中に銃撃された安倍総理がドクターヘリで運ばれるニュース映像と、「同じ日、最高裁は私の勝訴を確定させた」という後日譚、そして山口氏はその訃報を最初に報じた記者であったという表現たちと、監督は、総理に近い男の性加害とその国家的なもみ消し可能性を背景としたストーリーに、作品をまとめていくためだ。

いずれにせよ、裁判の内容からすると、映画で取り上げられること――防犯カメラの映像、タクシー運転手の証言、そしてドアマンの証言――は、そのどれもが「入室前」のカテゴリであり、与えられた「同意の有無の認定」からは遠いことがわかるのだが、映画だけを見ていると、タクシー→ホテル車寄せ→エレベーター前映像、と自然な時系列が流れていくように見えるため、肝心の「部屋の中」についての論争点が何もないことに違和感を覚えない感覚があるが、それは脳の錯覚に巧みに働きかける映像作品の妙だろうか。

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プロフィール

蓮実里菜

(はすみ りな)

1988年生まれ。文筆家。22 歳で単身渡米し、コロンビア大学で社会学を専攻。卒業後は外資系の経営コンサルタントを経て、現在は日米のデュアルカルチャー性と社会学的視点を活かし、書籍やコラムを日英二言語で執筆。多文化共生、フェミニズム、教育と格差の流動性、ジャーナリズムなどが主な関心領域。

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