それはどんな「対話」を生むか? ──伊藤詩織監督『Black Box Diaries』を考察する〈前編〉

蓮実里菜

それは「シスターフッドを描いた映画」か

ところで、伊藤監督作品は、「日本の社会に立ち向かう女性とそのシスターフッドを描いている」のだろうか。海外の映画評ではそのようなものも見られたが、伊藤作品がそのような側面を描く映画だとは、私は思わなかった。なぜなら、事件や裁判のディティールが不在なように、性暴力被害者の告発者としての伊藤詩織さんを取り巻く“文脈”も、そこにはごく断片的なものしか存在しないからだ。

映画では、当時の日本の刑法が110年変わっていないという「漠然とした古さ」が物語的に表現されるが、110年ぶりの刑法改正につながる契機となったのは、伊藤詩織さんの事件の1年前に松島みどり議員が法務大臣に就任し、就任記者会見で性犯罪に関する刑法の見直しの必要性を訴えたことであったこと。その実現のため、国会で刑法改正のために参考人として意見陳述をした性被害者がいたこと。その山本潤氏をはじめとし、性被害に遭った被害者が実名でする著書の出版は、『BlackBox』の数年前から続いていたこと(いずれの著者も、性暴力の根絶や被害者支援のため、それぞれに社会啓蒙や被害者救済支援活動をしている)。伊藤詩織さんが告発記者会見をしたのは、それらの機運が高まり刑法改正の法案が国会に出されていた渦中であったこと……など、「伊藤詩織につながった系譜」や社会の歩みを、映画から知ることはできない。

伊藤さんの著書の編集者は女性であり、また彼女の告発に共鳴し、寄り添う女性らの姿が後半の集会映像を通して一瞬描かれるが、それはどこか実感のない、添え物のようなものに見える。なぜなら伊藤監督が切り取る彼女らの言葉は、「詩織さんは時代の申し子」「詩織さんの著書を読み、自らを猛省しました」などと伊藤さんを讃える言葉が目立ち、共通の信念や大義の元に手を取り合う、という関係性にはあまり見えないためだ。

伊藤氏の姉のような存在として、事件が起こった当初から伊藤氏を自宅に寝かせ、何かとケアをしてきた年上の女友達の姿は映画を通して印象的だが、彼女は「元からの友だち」であり、共通の信念や大義の元に手を取り合った相手、とは少し違うだろう(彼女は最後、全てが終わって荷を降ろした伊藤氏が、真っ白なシャツ姿で解放されるカタルシスを体現するシーンでも、揃いの白いTシャツを着て、「よく頑張りました」「時代がいくね」と、作中における時間の流れを整える自然なナレーターとして非常に重要な役割を果たしているが)。

これも、「そこしか見なかったら、シスターフッド映画に見えそうなあしらい」ではあるが、「描かれたもの」に対して「端折られたもの(の大きさ)」を知っていると、「到底シスターフッドの映画には見えない」というあれである。では、そこに描かれているのは何か? 私は、日本社会でもなく、日本の司法でもなく、「伊藤詩織自伝」なのだと思う。

事件としてのディティールや司法解釈は徹底的に省略し、「〝暗殺されるような総理〟と最も懇意だったジャーナリストのレイプ事件とその隠蔽」という構図上に落ち得るドットだけでストーリーを構築し、性暴力への理解が乏しい社会で性暴力とその国家的な隠蔽に立ち向かうヒロインとして、自らをグローバルなステージに押し上げる手法には、思わず物語研究者のこんな言葉を思い出す。

“信者の多い陰謀物語はほぼすべて、ハリウッド映画として大ヒットするはずだ。それに対して、陰謀物語の嘘を暴く検証記事のほとんどは、公共放送PBSのまあまあ悪くないドキュメンタリーにしかならないだろう。”(『ストーリーが世界を滅ぼす』ジョナサン・ゴットシャル著)

皮肉なことに、アメリカでのドキュメンタリーの現状を憂う、ハリウッドレポーター誌の記事内で、国際的に活躍するベテラン・ドキュメンタリープログラマーのトム・パワーズ氏は、以下のように語っている。

“骨太のドキュメンタリーは脇へ追いやられ、セレブ自伝と化したアーティストの音楽ドキュメンタリーが市場を席巻しているのは、現在のドキュメンタリー業界の勢力図が、かつての支配者であったPBSやHBOから、ストリーミングサービス(Netflix・ディズニー・Apple)へと移ったことによる影響が大きい。「PBSやHBOなどに代わって台頭するNetflixやディズニー、Appleという会社は、「成功する確度が高く、世界的に知られた名前」を求めていて、映画の中で何が語られているかは実はそれほど重要視されていない」「いまや、コンテンツの中身や厳密さよりも、“いかにマーケティングしやすいか”が重視されているのです」。この変化が、社会的不正義や気候災害、連邦政府によるセーフティーネットの削減といった危機の時代に起きていることが、さらに悲劇的だとノンフィクション分野の専門家たちは語る。「ドキュメンタリーが最も必要とされている瞬間に、その存在が“手に入らなくなっている”、と。

確かに、『Black Box Diaries』は、登場人物のコントラストが二極的で、世界観としては、hero(勇者)とvillain(悪人)に分かれたシンプルなものである。「悪い総理」は暗殺され、若い女性を犯した当事者と訴えられていたのに(映画上はなぜか)刑罰を免れた加害者には、最後に映画内で「公衆の面前で恥をかかされる」という罰が下される。米国の映像学の教授は、筆者に「基本的に、この作品は啓蒙主義(Enlightenment Philosophy)に基づいたもの」と語るが、その言葉は、確かに映画の終盤のシーンにスパークする。

映画のコアは「啓蒙哲学」

映画の終盤には、判決後、外国人記者クラブで記者会見を開いた山口氏に、白人の外国人記者が、上品で柔らかい物腰で、静かに質問をする。「あの夜にもし戻れるとしたら、違うように行動しますか?」それは啓蒙する側に立つ騎士による「人民裁判」の最終章のようだ。山口氏は、母国語ではない言語に少し苦戦しながら、「Regret(後悔)と言ったら法的な意味合いに取られるかもしれないのでその言葉は使いたくないが、Ethically(倫理的)には間違いだったと思っている」と答え、なぜなら伊藤氏がPTSDに苦しみ傷ついていることは遺憾だし、そして自分も同じだと話す。そこで、飛び出すのが、「me too!」(自分も傷ついている)という言葉で、それは英語的な部分と発話内容の両面で、文脈に最高にそぐわない言葉を使ってしまう山口氏が、なんとも「未熟な男」という心象づけられるシーンだ。アメリカの映画館では、そのシーンでは、観客席から呆れと失意に満ちたブーイングが起こるほどだったという。

その先に、苦境に負けず正義を追求した伊藤氏はトンネルを抜けて光を手にし、職を失うリスクをとっても証言することを選んだ勇敢なドアマンは、実際には冷遇されることなく仕事を続けたというエンディングが描かれる。『Black Box Diaries』とは、「沈黙は幸福を約束するとは限らない」というテーマに反響するように、実に勧善懲悪的な世界観が強い作品だ。一方で、人間の二面性や出来事の解釈の多様性などは捨象される。

わかりやすく、「マーケティングしやすいストーリー」か、あるいは視点の重層性に挑むような、骨太な調査報道か。それは、勇敢で、人間的魅力に溢れるサバイバー兼「ジャーナリスト 伊藤詩織」のブランドマネジメントに効果的な“ドキュメーシャル”なのか。それとも敬遠されがちなテーマにおいて社会的対話を喚起する力のある“公益性の高い”作品か。その両方か。ドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』が投げかけるのは、日本と欧米の「文化背景の違い」──例:欧米では公益性が重視されるけど、日本ではルールが重要である──というような対立だけには決して収斂されきらないものである。

※検事との面談記録は逐語録(書き起こし)に基づいている。原文は口語特有の重複や間投詞(「えーと」「あのー」等)が多く、そのままでは判読しがたい箇所があるため、本稿では趣旨を損なわない範囲で文言を整理した。なお、文脈を端的に理解するために必要な主語や目的語については適宜カッコを用いて補足を行っている。

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プロフィール

蓮実里菜

(はすみ りな)

1988年生まれ。文筆家。22 歳で単身渡米し、コロンビア大学で社会学を専攻。卒業後は外資系の経営コンサルタントを経て、現在は日米のデュアルカルチャー性と社会学的視点を活かし、書籍やコラムを日英二言語で執筆。多文化共生、フェミニズム、教育と格差の流動性、ジャーナリズムなどが主な関心領域。

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