『トランスジェンダー入門』 周司あきら、高井ゆと里著

立ち去るために質問するな

桜庭一樹

これまで女性を物語の主軸に据えた人気作品を多く生み出し、『私の男』では直木賞を受賞した桜庭一樹さんは、周司あきらさんと高井ゆと里さんの共著『トランスジェンダー入門』(集英社新書)をどう読んだのでしょうか。


 まず架空の〝わたし〟がどのようにこの『トランスジェンダー入門』を読んだかを書いていきたいと思います。どうか、しばらくお付き合いください。

 わたしは差別をするような悪い人間ではありません。トランスジェンダーの人たちには平和に暮らしてほしいと、もちろん、心から思っています。ただ、だからといって女性の安全が脅かされるのも間違っているため、悩ましいところです。平成時代のネットミームで「半年ROMれ」というのがあったのですが、現在のトランス差別問題は、へたにROMっていると、トランス女性は危険な存在だというニュースが流れてきて、それはフェイクニュースだとも流れてきて、いつまでも詳しくなることができず、ただ混乱するばかりです。そもそもわたしは当事者じゃない。自分には関係ないからよく知らないというだけなんです。でも、うっかり無知ゆえの素朴な疑問をちょっと口にしただけで、差別に加担する悪い人だと決めつけられ、大勢から責められ、人柄も誤解されて叩かれたあげく、差別者のレッテルを貼られてしまう。ねぇ、そうでしょう……? だから考えることさえ正直怖く、遠巻きにしてきました。

 先日のことです。職場でそれは女性差別だという件があり、問題になったのですが、ある男性社員が後で笑ってこう言ったんです。「そんな問題があるなんて知らなかったなー。自分は女じゃないから」と。妙に腹が立ったのですが、「え、でも知らなかったのは僕の責任じゃないでしょ?」と言われ、つい黙ってしまいました。

 電車に揺られて帰宅する途中、遅れて、はっと気づきました。

 問題のあるこの社会は、より立場の強い男性が中心になって作ってきたものなのに、その本人たちが、知らなかっただけ、責任ない、ってどういうこと? あー、戻ってそう言いたい。あの人、まちがってない?

 駅から歩き、家に着くころ、もう一つのことに気づいて足が止まりました。わたしだって同じようなことを言い続けてたんじゃないか、って。「知らなかったなー。自分はトランスジェンダーじゃないから」「え、でも知らなかったのはわたしの責任じゃないでしょ?」と。

 人のまちがいは指摘できるのに、自分のしてることには気づけないんだな……。

 と、そんなことを思っていたタイミングで、この本がちょうど出ました。職場近くの駅ナカ書店でめっちゃくちゃ売れてて、朝は平積みだったのに夜には残り一冊になってて、わたしも買わなきゃと最後の一冊をつかんであわててレジに。

 帰宅してご飯を食べ、お風呂に入る前に、読み始めました。

 著者のお二人は、これまでたくさんの人からトランスジェンダーの定義について質問され続けてきたようです。一言ではとても説明できないような多様なあり方を、丁寧に解きほぐして教えてくれます。……あ。この本は、「半年ROMれ」の方法が通用せず、知りたいと思いつつどうしたらいいかわからず途方に暮れていた、まさにわたしみたいな人にも基本的な知識を授けてくれているんだな。

 そうだ、自分に引き寄せて考えると理解しやすいかも。わたしもさいきん職場でいろいろあったし。女としてこの社会で生きること、女らしさを強制されることにはすごく息苦しさを感じているし。女らしくとか男らしくとか、そんな規範を強制されることから自由になりたい人がいるのはわからなくもない……と思って読み進めると、1章で実はそこから勘違いしていたことがわかりました。わたしたちは生まれた時に割り振られた性別から、「女として/男として」生きろ、「女らしく/男らしく」振る舞え、という二つの課題を与えられています。わたしの場合、一つめの課題は納得できるけど、二つめの課題には疑問と辛さがあります。でもトランスジェンダーとは、あなたは女、あなたは男、という一つめの課題をクリアできない人たちのことなのです。自分に引き寄せて共感できるピースを探して手軽に理解っぽいものをしようとすると、そんな根本を誤解したまま、ついちがう道を突き進んでしまうようです。

 続く2章は性別移行について。「半年ROMれ」時代に聞き齧った噂話では、まるである日とつぜん男(女)から女(男)に変わるかのように表現されていましたが、実際は少しずつ精神の移行が進んだり、進学や就職や戸籍変更などの幾つもの段階を経て社会での移行が行われたり。医学的な移行も、人により、ホルモン療法や手術など、何年もかけて行われると書かれています。だからトイレや更衣室を利用するときも、その時々で自然に使いやすいものを選ぶのだ、と。あぁ、現実はネット上の不安な噂話とはずいぶん違ったんだな……。

 3章は差別について。子供時代の家庭や学校での無理解。就職に伴う困難の数々と、そのせいで陥る貧困。悪環境に誘発されるメンタルヘルスの問題。卑劣な性暴力被害。映画や小説などのフィクションが非現実的で差別的な表現をし、世間の偏見を助長し続けている問題。この章はとくに辛く、自分がのうのうと生きているこの社会が、ある人にとってはここまで地獄なのだということそのものに衝撃を受けます。

 この章の最後に〝トランスジェンダーの人々が不利益を被るように、すでにこの社会ができあがってしまっているのです〟〝差別は、制度的・構造的な問題であり、それを作り上げてきて存置し続けてきたシスジェンダーの人々に、その解決の責任は存在しています〟とあります。わたしは、あぁ、ここまで読み進めたらもう後戻りはできない、長年この社会を作ってきた、立場の強い側の人(マジョリティー)としての責任があるんだ、とわかりました。無知をいいわけにして知らないふりをするのはもうやめなきゃ、と。

 4章では医療を受けることの様々な困難、5章では特列法や差別禁止法などの法律について解説されています。最後の6章はフェミニズムや男性学などについて。暴力、ハラスメント、教育や職業選択の不平等など、トランスジェンダーの人たちを取り巻く問題はフェミニズムとも親和性が高いこと。わたしも悩む「女らしく/男らしく」という規範の息苦しさには、トランスジェンダーの人たちもひどく苦しめられてきたこと。

 わたしたちは最初から敵対する立場じゃなく、すでにともにあり、手を取り合って社会を変えていかなくちゃいけないんだな。自分たちの、そして未来を生きる次世代のために……。


 ……ここまで読んでくださり、ありがとうございます。この文章は、ここ数年で私自身が感じたことや、変化した気持ちをもとに書いた架空のものです。

 私の職業は小説家なので、この本を読みながら考えたことの一つに、「校閲者にもぜひ読んでほしい」ということがあります。私たちの書いた文章は校閲のチェックを受けて発表されています。差別的な表現やデータの間違いを指摘されて直したりもします。でもトランスジェンダー差別については、詳しい方とまだ詳しくない方が混在しているのではないでしょうか。だから出版社の校閲部、フリーランスの校閲者の机の上、そしてもちろん小説家を含む書き手の机に一冊ずつ、必要な資料ではないかと感じました。

 また、私はこの本を読み終わって閉じるとき、「著者のお二人はこんなに丁寧に、あきらめずに対話を続けてくれて、すごいな……」と思いました。それから、理解しないかもしれない、それどころか不誠実かもしれない相手に対して、人間がここまで粘り強く説得を続けられるのは一体どんな時か、と考えました。それは……。

 自分や誰かの命がかかっている時、尊厳が脅かされて危険な状況に陥っている時、つまり……立ち去る自由など微塵もない時だけではないでしょうか。あなたはどう思われますか?

 私自身の人生を振り返っても、そういえばですが、逃げることが可能なら、なるべく逃げて生きてきました。その場に留まって必死で誰かを説得しようとしたのは、もうそれしか方法がない時、あなたの理解に命が、尊厳がかかっているという非常事態の時だけでした。

 この本が著者のお二人によって書かれたのは、いま文字通りの非常事態だからではないでしょうか。激しいバックラッシュの中で命を脅かされている人たちがいるからではないでしょうか。……あなたはどう思われますか?

 人と人との対話って、一体何でしょう? 片方だけに命がかかっていて、もう片方は、相手の話を聞いても聞かなくてもどっちでもいい、そんな不均衡の中で行われる対話の残酷さに気づくと、心からゾッとします。当事者の人たちは、もうずっと長い間、このひどい不均衡の中で質問をされ続けてきたのではないでしょうか。トランスジェンダーって何、と。定義は何、と。そこに何らかの社会問題があるらしいから、とりあえず話は聞いてみるけど、それは手早く片付けるため、長引かせず「要するにこういうことね……」とわかったことにして終わらせるため。つまり、立ち去るために問いかけてくる無数の善良な人たち――かつての私も含まれます――も、当事者の人たちの尊厳を踏みつけ、苦しめ続けてきたのではないでしょうか。人と人との対話って、一体何でしょう? 手軽に問題を把握しようととりあえずROMってみたり、この本を読み終わったらわかるだろうとふと手に取ってみたりと、そんな自分の無邪気さをいま恥ずかしく思っています。

 私は、あなたに提案します。これからは、留まるため、この先も考え続けるために問いを発しませんか、と。問いはスタートの、源の言葉であり、そこから終わらない対話の時間が始まる。今回のこの対話は、著者のお二人にこの本を書かせたほう、つまり問いを発し続けてきた私たち読者のほうから始めたものです。そして誠実で丁寧な返答となるこの本は、私たち読者への新たな問いです。社会の構造が生んできた差別をどう是正していくのか、いま全員が問われています。この問いに、答えなくてはなりません。著者のお二人にこの本を書かせたことで対話を始めた私たち読者には、変化する義務が、答える義務があります。

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プロフィール

桜庭一樹

(さくらば かずき)

1971年島根県生まれ。99年にファミ通エンタテインメント大賞小説部門佳作を受賞し、デビュー。2007年『赤朽葉家の伝説』で日本推理作家協会賞を受賞。同書は直木賞にもノミネートされた。08年『私の男』で第138回直木賞を受賞。著書多数。新刊に『彼女が言わなかったすべてのこと』がある。

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