被爆者の子どもに生まれて ルポ 被爆二世 第12回

被爆二世の「継承」とは

戦後史⑧・完
小山 美砂(こやま みさ)

 被爆者の子どもとしてうまれた「被爆二世」が、どのように戦後を生き抜いてきたかを見つめる本連載。シリーズで伝えてきた「戦後史」は、今回で最終回とする。

 前回は、1970年代後半になって国が唐突に公表した調査・研究の不可解さと、「幻」となった報告書について検討した。時計の針はさらに進み、年長の被爆二世たちは30代、40代と大人になってゆく。親である被爆者たちも高齢化する中で、被爆体験や平和運動をいかに次世代へ引き継いでいくべきか、現代とも通ずるテーマに注目が集まるようになる。被爆者の子どもたちが担う「継承」のかたちを考えたい。

職場や労働組合が活動の場に

 1980年、「被爆者」の人数はピークの37万2264人に達していた。少しずつではありつつも、当事者の要求に応じるかたちで対象範囲が広がり、制度が浸透してきた結果だろう。もちろん、広島の「黒い雨」や長崎の「被爆体験者」制度など、現在にまで残された課題もある。しかし、原爆の放射線にさらされて不安を抱える被害者が、1人でも多く国家による保障を受けることは、戦争被害を見つめる上でも重要なことだと思われた。

 反核を訴える声も、ますます大きくなりつつあった。1982年の国連軍縮特別総会では、日本原水爆被害者団体協議会の山口仙二代表委員が、自分のケロイドの写真を掲げて「ノーモア ヒバクシャ」と訴えた姿は、多くの人の胸を打った。翌年には、北大西洋条約機構(NATO)がアメリカの核ミサイルを配備することに反対して、世界の各都市で数十万人規模のデモが起こる。その前後には、野党五会派が共同で「被爆者援護法案」を衆院に提出し、日本被団協は「原爆被害者の基本要求」を発表。国内外での動きが活発化する中、被爆二世による運動もますます大きなうねりになっていく。

 追って紹介する全国被爆二世団体連絡協議会(全国二世協)と、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が2008年に編集・発行した『第五の被爆者 再びヒバクシャをつくらないために』の年表によると、1980年代に結成された被爆二世団体の数は11。年長の被爆二世たちは30~40代の働き盛りといえる年齢に達し、職場や労働組合をベースとした団体が多かった。

 この理由について、当時から運動に関わり、国会議員を経て現在は原水禁共同議長を務める金子哲夫さんは、次のように解説する。

「労働組合の中に被爆者組織が結成され、被爆者自身の問題だけでなく、被爆二世の健康不安にも関心が向けられるようになりました。労働運動に携わる人々は、権利意識が高く、権力に立ち向かっていく下地も備わっていたため、職域で運動が広がったのだと思います。労働環境の改善を巡って政治的な意識を高く持っていたことも、背景にあるでしょう」

 金子さんに紹介してもらった『被爆動員学徒の生きた時代 広島の被爆者運動』(小畑弘道、たけしま出版、2007年)を開くと、「六〇年代後半、原水禁運動がマンネリ化し停滞していた時期に、職域における被爆者組織が作られ原水爆禁止・被爆者救援運動が日常的な労働組合活動の一環として取り組まれるようになる」とある。

 全電通(現NTT労組)を例にとると、被爆後の体調不良が続き、入退院を繰り返していた被爆者の夏季手当が異常に低いことなど、「被爆労働者」の問題が明らかになりつつあった。広島や長崎ではどの職場にも被爆者がいた時代に、彼らの権利を守るための運動が広がっていったようだった。

 労働組合による被爆二世組織がつくられていったのも、この流れの延長にあると金子さんは見る。親世代に対する実態調査で、彼らが子どもたちの健康に不安を抱えていることが、まず明らかになった。こうした結果を受けて被爆二世に関する調査も実施され、「被爆二世問題」の存在が顕在化してゆく。さらに、親世代の権利を守る運動に参加することで、彼ら自身の権利意識が育まれ、組合員にアンケート調査をするなどのアイデアも引き継がれていった。

 親世代からのバックアップという意味でも、労働組合は頼もしく思われた。金子さん曰く、「地域発の被爆者運動は自分たちの苦悩や体験が出発点にあります。被爆二世問題となると、自分に引き付けて『差別を受ける』『触れてほしくない』などと敬遠してしまいがちですが、労働組合はそうではない。親世代も交えて取り組んでいくことができたのでしょう」。

 確かに、1974年に結成された「大阪被爆二世の会」では、地域の被爆者組織に「遺伝の問題には触れるな」といなされていた。ところが、電電公社(現・NTT)に就職し、労働運動を通じて被爆者運動を率いた近藤幸四郎さん(2002年、69歳で死去)は、「親が被爆して生活もしんどい中でうまれてくる子どもが、普通と一緒のはずがないじゃろう」と言って活動に共感し、励ましてくれたそうだ。向き合い方に、鮮明な違いがある。

継承の担い手は二世・三世だけではない

 この頃、特に熱心に活動していたのは教職員となった被爆二世たちだった。平和教育の重要性も認識されていく中で、「被爆教師」の先輩から、「二世の会をつくってはどうか」と、声がかかることもあったという。1982年には「広高教組被爆二世の会」、1986年には「長崎県被爆二世教職員の会」が相次いで発足し、1988年3月5日、「全国被爆二世教職員の会」が結成される。現在も精力的に活動を続ける全国二世協が発足する半年以上前に、被爆二世の教職員による、地域を超えたつながりがつくりだされていたのだ。

 全国被爆二世教職員の会の結成大会は、広島市内で開かれた。当時の大会資料には、会の結成趣旨について、こう書かれてある。

「被爆後四三年を経て、被爆者の平均年令は六一才を超え被爆教職員も退職年齢を迎えるに至り、運動の継承者として『被爆二世教職員』に対する期待が高まってきました」

 1970年代の運動は、自分たちの健康や権利を守ることに主眼が置かれていたが、ここでは「継承者」という風に自らを位置付けている。

 被爆者健康手帳の所持者数は、冒頭に述べた1980年をピークに、以降は右肩下がりに減り続けていた。いかに被爆体験を伝え、特に教職員としては平和教育をどう展開してゆくべきか――被爆者の高齢化が進む中で、重要な課題として認識され始めていたようだ。

 被爆体験の伝承や平和教育や運動の担い手として、被爆二世や三世の役割を期待する声は大きい。2025年3月末現在、手帳所持者の平均年齢は86・16歳だ。報道でも、被爆者運動の担い手が被爆二世をはじめとする次の世代に移行していることが伝えられ、彼らに期待を寄せる記事もたびたび目にする。

 しかし私は、運動や伝承は彼らだけが担うものではないとも考えている。核も「平和」も、無関係でいられる人は誰一人としていない。大阪出身で親族に原爆被害者がいない私も、ライフテーマの1つと思って核問題に取り組んでいる。

 核兵器は今も世界中に1万2000発以上あり、その性能はどんどん上がっている。1945年末までに「14万人プラスマイナス1万人」の犠牲者を出した広島型の原爆は、今となっては「超小型」だ。核実験はこの80年間に2000回以上繰り返された。核が人類を滅亡させるリスクは、常に私たちの隣にある。

 だから、体験の伝承や運動を引き継ぐ担い手として、被爆二世や三世だけにスポットを当てることは、率直に言えば反対だ。輪は大きく広げていくべきなのに、かえって狭めてしまうことになる。

 とはいえ、被爆者の子や孫としてうまれた人にしか、語りえないこともある。それは、被爆二世や三世としてうまれてきた当事者としての思いであり、その半生だ。

「ヒバクシャ」の役割を引き継ぐ者

 全国被爆二世教職員の会の結成大会の資料に、「―遺産の継承者たちへ―あいさつにかえて」と題した文章があった。筆者は、石田明さん。米軍が広島に原爆を投下した1945年8月6日、爆心地から約750メートルの路面電車の中で被爆し、「全国被爆教職員の会」を結成して会長を務めた。2003年に75歳で死去するまで、反核運動を率いた人である。

 その文章は、「わたしは、『被爆二世』ということばに大変な抵抗感をもちつづけてきた」という一文から始まる。遺伝的影響への不安に襲われ、「明日へ生きる気さえ失」い、「目をおおいかくそうと」してしまうのだと、そこでは率直につづっていた。だが、彼はその不安から逃げなかった。こんな問題提起へとつなげている。

 しかし、その不安から解放されることはない。被害の子孫への持続性の有無について、何らそれをうらづけて被爆者を安堵させてくれる努力もない。不確実のなかに生きる被爆二世、三世も実は「被爆者」そのものなのである。

 われわれは、被爆者(二世・三世)全体のいのちとからだの不安から解き放されるための援護を先づ最優先させなければならない。被爆者自身子や孫たちのことへの不安をとりのぞくことが存命中の最大緊急の責任と課題である。

※原文ママ、以下同

 だからこそ、被爆者と被爆二世・三世が「強く連帯しなければならない」のだと訴え、こう投げかけた。

 史上最初の核戦争をみた被爆者・被爆教師は、君たちに「ヒバクシャ」の役割を継承したい。

 君たちは被爆者の子や孫たちであるから。

 君たちは被爆者(親)の後姿をみて育ち、ヒバクシャのいたみと心をよくよく知ってくれている人間であることを固く信ずるから――。小さな遺産だが大きく重く、世界平和へとひろげてほしい。世代をこえて「ヒバクシャ」とともに人間の尊厳を守り、それを永久のものにするために余生をかけて、ともに生き抜くことを誓う。

 カタカナで「ヒバクシャ」と書く時、原爆被害者に留まらず、ウラン採掘や核実験、原発事故など核による被害を受けた人々のことも指している。石田さんは、被爆二世や三世も「ヒバクシャ」であると定義した。あの日の閃光や熱線は体験していないものの、被ばくを巡る不安の中で生かされている。石田さんは、「『原爆が人間』におそいかかった恐怖の一つ一つの事実を証言しつづけなければならない」として、同じ「ヒバクシャ」としての役割を受け継いでほしいと、被爆二世たちに呼びかけたのだった。

 不安を抱えさせられること。日々の生活の中でふと、「原爆」が頭によぎること。そして、調査・研究の対象にされ、議論の渦中に放り込まれること――これらも、原爆がうみだした「被害」ではないか? 原爆が人間に襲いかかった、その一つの形だといえないだろうか。

 被爆者の子どもとしてうまれてきた人にしかできない、「継承」活動がある。

 被爆二世や三世を、それ以外の人と切り離して論じたいわけではない。ただ、彼らにしか語りえないことを掘り下げ、耳を傾けていくことは、原爆が人間にもたらした被害の「全体像」を明らかにするための営みだ。核の非人道性に迫る試みである。ここに、被爆二世運動の意義があるとも、私は思うのだ。

 この結成大会から半年後の1988年12月、全国二世協が発足した。各地に散らばっていた被爆二世の団体を束ね、連帯した動きをつくってきたこの組織は、発足以来、遺伝的影響を調べる放射線影響研究所との交渉や、厚労省や議員に対する要請行動、さらに2017年には国に損害賠償を求める裁判を提起するなど、積極的な活動を展開してきた。

 広島と長崎の両地裁で訴えた裁判は、2022年12月に長崎地裁で初めての判決が言い渡されたが、「(遺伝的影響があることは)その可能性を否定できないというにとどまる」と判断されて、被爆二世側が敗訴。広島も含めて一審、二審とも請求は認められず、2026年1月22日に広島の訴訟が最高裁で上告を退けられて終結した。

 その約2週間後、広島市内で開かれた総会で、全国二世協の崎山昇会長は次のように述べた。

「原爆放射線による遺伝的影響を否定できない、『核の被害者』である被爆二世。私たちが被爆者の体験を継承し、自らの体験を踏まえて、被爆二世や将来世代を含む核被害者の人権確立と核廃絶を訴えていくことは、被爆二世の責務です。そして、被爆者のみなさんが高齢化していく中、原水禁運動の先頭に立つのは被爆二世であることを自覚し、活動して参ります」

 この言葉には、自分たちも「核の被害」の当事者なのだというアイデンティティが宿る。単なる「被爆者の子ども」というよりも、遺伝的影響がいまだ否定されていない「被爆二世」として現実と向き合い、未来を変えていこうという姿勢がある。ヒバクシャとしての役割を継承しようとする彼らの訴えに注意深く耳を傾けることは、私たちがより正確に、核がもたらすものを捉えていくためにも必要だ。それは、「原爆被害」が及んだ範囲を、地域という〈横軸〉だけでなく、世代という〈縦軸〉から捉え直す試みにもなるだろう。

■参考文献

日本原水爆被害者団体協議会・日本被団協史編集委員会編『ふたたび被爆者をつくるな 日本被団協50年史』(本巻、あけび書房、2009年)

(次回は3月中旬更新予定)

※放影研のゲノム解析調査について取り上げます

 第11回
被爆者の子どもに生まれて ルポ 被爆二世

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プロフィール

小山 美砂(こやま みさ)

ジャーナリスト

1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。

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