1. 睡眠欲望――フロイトの睡眠論(1)
19世紀末に至り、哲学者たちは目覚めた状態を中心として人間を理解することの不十分さを明確に認識するようになる。もちろん、モンテーニュのように早くから睡眠とも覚醒ともつかない状態に注目していた者もいたが、前回見たように、19世紀の哲学者たちは動物磁気説の傍らで活動することにより、目覚め中心主義という枠組みを大きく失効させてゆくこととなった。
この動物磁気説と密接な関係をもっているのがフロイトの精神分析だ。ごく簡単にまとめてしまえば、動物磁気療法のなかから紆余曲折を経て催眠療法だけが切り離され、その延長線上に催眠状態とヒステリーをめぐるフロイトの初期の仕事が現れたのである。フロイトにとって、〈覚醒/睡眠〉という二分法に収まらない催眠状態は非常に大きな意味をもっていた。なぜなら、催眠状態とは自分でも意識できない領域が存在するということであり、つまりは無意識の存在を示すものだったからだ。
精神分析がはじまるにあたって催眠がこのように重要な位置を占めていたのだとすれば、ではフロイトは催眠にとどまらない睡眠一般についてはどのように考えていたのだろうか。フロイトの代表作といえば『夢解釈』だが、1900年というまさに20世紀へのとば口において刊行されたこの著作において、フロイトは夢と睡眠の関係について次のように語っている。
眠り続けたいという欲望は、夢形成のための動機の一つとして、どんな場合でも、勘定に入れておかねばならない。そして、うまく行った夢はどれもみな、この欲望の成就である。
(『夢解釈』新宮一成 訳、『フロイト全集4』、岩波書店、2007年、引用箇所全体が原文強調のため強調省略)
なぜ私たちは夢を見るのか。フロイトによれば、それは眠りつづけたいからにほかならない。人間は目覚めたくないから夢を見ているというのである。どういうことだろうか。
たとえば、眠っているあいだにトイレに行きたくなったとしよう。トイレに行くためには目覚めてベッドから出なければならないが、このとき私たちの心は眠りつづけていたいという睡眠欲望を満たすために夢を生み出す。つまり、トイレに行くという夢を見るのである。トイレに行きたいという欲望を夢のなかで満たすことによって、目覚めてトイレに行くという実際の行為は先延ばしにされ、そのぶん眠りが引き延ばされることとなる。フロイトはこのような夢を「不精の夢」と呼んでいるが、おそらくこのタイプの夢は誰しも経験したことがあるだろう。現実でしたいと思っていることが代わりに夢のなかでおこなわれることで、いわば睡眠が覚醒から守られるのである。
2. 外界からの撤退―フロイトの睡眠論(2)
このように夢が睡眠を持続させるためのものだとすれば、ではそもそも人間はなぜ眠るのだろうか。「睡眠とは何か」というこの問いに対するフロイトの答えはとても興味深い点を指摘している。1915年から1917年にかけておこなわれた講義をもとにした『精神分析入門講義』から引用しよう。
睡眠とは、そこに入っていると、私が外界についてはもう何も知りたくないと思うようになり、私の関心が外界から撤収されてしまうような、そんな状態のことです。私は、外界から引きこもり、外界の刺激が我が身に届かないようにしながら、眠りに就くのです。私はまた、外界のために疲れ切った時にも、眠ることになります。眠りに就くにあたり、私は外界に向ってこう言うのです。「私を放っておいてくれ、私は眠りたいのだから」。
(フロイト『精神分析入門講義(上)』高田珠樹ほか 訳、岩波文庫、2023年)
「睡眠と何か」という問いには複数の答え方がある。たとえば、脳波を測定することによって生理学的に答えることがひとつの方法だろう。実際、ハンス・ベルガーが脳波をはじめて記録したのは1925年のことであり、フロイトが活動していたのとほぼ同時代の出来事だった。現在も睡眠の状態を知るためには脳波の測定が欠かせないことを考えれば、「睡眠とは何か」という問いに対する生理学的なアプローチは非常に有効なものだといえるだろう。しかし、フロイトの答えはそれとはまったく異なる。フロイトは、あくまで心の問題として睡眠を定義しようとする。
フロイトによれば、眠っているということは、人間の心が外界から撤退しているということにほかならない。とても簡潔かつ明晰な答えだろう。目覚めているとき、私たちは否が応でも外界に関心を向けざるをえず、外の世界で起きる出来事に反応したり応答したりする必要に迫られる。震度1の地震は眠っていれば気づかないだろうが、椅子に座って静かに本を読んでいるときであれば感じるかもしれない。このような外界に対する覚醒時の関心を中断して、外界から放っておかれる状態が睡眠なのである。
さらに詳しくフロイトの理論を追っていけば、外界から遮断された睡眠状態は、子宮の内部にいる胎児を原型とする「一次的ナルシシズム」として特徴づけられる。ただし、そのような詳細には踏み込まずとも、フロイトが眠りを外界からの撤退と考えていたことを押さえられればここでは十分だろう。睡眠を自己への引きこもりとみなすこのような考え方は、本連載の結論へと向かううえできわめて重要なものなのだが、フロイトのほかにも20世紀の思想家たちは興味深い睡眠論をいくつも展開しているので、しばらくはそちらへと目を向けたい。次に見るのは、フロイトの同時代人ベルクソンである。
3. 睡眠中の知覚――ベルクソンの睡眠論(1)
フロイトとベルクソンがほぼ同年齢であり(正確に言うとベルクソンのほうが3歳年下)、多くの似た問題を扱いながらも、生前に直接の交流がなかったことはよく知られている。たとえば、渡辺哲夫の『フロイトとベルクソン』(講談社学術文庫、2025年)を開けば、この二人の思想家の関心がいかに近いものであったかがわかる。とりわけ、渡辺の本でも取り上げられている「夢」は両者を結びつける最も中心的なテーマだと言ってもよいだろう。先ほど見たように、フロイトにとって夢とは眠りつづけたいという欲望を満たすためのものだった。では、ベルクソンにとって夢とは、そして眠りとはいったいどのようなものなのだろうか。
『精神のエネルギー』という論文集に収められたその名も「夢」という短い講演記録を読んでみよう。冒頭部分からとても具体的でおもしろい現象が夢と結びつけられている。ベルクソンがそこで取り上げているのは、目を閉じたときに瞼の裏に映る像である。
たとえば、真っ暗な部屋のなかでベッドに寝転んで目を閉じてみてほしい。おそらく、形の定まらない光る像が見えてくるはずだ。瞼の上から目をこすったり押してみたりすれば、色々な模様が浮かび上がってくるだろう。子どもの頃にこの現象に魅了されたひとは少なくないと思うが、「フォスフェン」と呼ばれるこの像は、当然のことながら外界に対応物をもっていない。目を閉じているのだから、そのときに見えているものは私の外に広がっている世界を映し出したものではないということだ。ベルクソンは、この像が夢を見る原因のひとつだと考える。人間が目を閉じて眠っているあいだに夢を見るのは、瞼の裏にしか現れないこのきわめて主観的な像が記憶を呼び起こすからなのである。なかなかおもしろい考え方ではないだろうか。
もちろん目覚めて活動しているときには、このような主観的な像には目が向かない。覚醒している人間は、注意のほとんどを外界に向けており、瞼の裏に現れる自分にしか見えない像に見とれてなどいられないからだ。しかし、ベルクソンの言葉を借りれば、「眠りによって私たちは自分自身に戻る」。つまり、覚醒時には外へと向けられていた注意が自分自身へと向けられ、起きているときとは異なったかたちで感覚が鋭敏になるのである。たとえばカーテンの隙間から入ってくる稲妻の明滅や窓を叩く雨の音などは、目覚めているあいだは無視してしまうかもしれないが、眠っているときには瞼の裏の像と同じくらい鋭くそれらを知覚している。ベルクソンは、睡眠中のこうしたさまざまな刺激を知覚することによって夢が生まれてくると考える。
4. 覚醒と睡眠は同じメカニズムに従う――ベルクソンの睡眠論(2)
そうであれば、覚醒も睡眠も何かを知覚しているという点では同じということになるのだろうか。ベルクソン自身の説明を見てみよう。
夢と目覚めとの本質的な違いはどこにあるのでしょうか。私たちは次のように要約したいと思います。夢を見るにせよ目覚めているにせよ、どちらにおいても同じ機能が働いているのですが、しかし一方においてはそれが緊張し、他方においてはそれが弛緩しているのです。夢は心的生活の全体から集中の努力を引いたものです。
(アンリ・ベルクソン『精神のエネルギー』原章二 訳、平凡社ライブラリー、2012年)
覚醒においても睡眠においても心の働き方は同じである。知覚があり、それが記憶と結びつく。この作用に関しては、覚醒と睡眠のあいだに変わりはまったくない。
ただし、知覚と記憶の関係性は大きく異なる。一方で、目覚めているときの知覚は、いままさに注意を向けていること対処するために記憶を呼び起こす。どういうことかといえば、それはいま読んだばかりの一文の脱字に気づかないような場合を考えてみるとよいだろう。もし脱字に気づかなかったとすれば、そのひとはディスプレイに表示されている文字ではなく、記憶から呼び出された意味の通る文字列を読んでいたのである。このように、覚醒時の知覚は現在おこなっている行為を遂行するために記憶を利用するのに対し、眠って夢を見ているときは、知覚と思い出される記憶のあいだの結びつきはより自由なものとなる。寝ていて布団が重いと感じたときに見るのは、冷蔵庫が倒れてくる夢かもしれないし、曙にボディプレスをされる夢かもしれない。夢においては、知覚と記憶を適合させる緊張関係が緩み、その結果として夢は不安定で無意味なものとなるのだ。
このように述べるベルクソンの睡眠論の重要性は、何といっても覚醒と睡眠を同じ平面で捉えているところにある。覚醒を上位に、睡眠を下位に置くという西洋哲学の伝統(「目覚め中心主義」とここまで呼んできた伝統)を、ベルクソンは鮮やかにひっくり返している。ひっくり返すといっても、覚醒と睡眠の優劣を逆転させるのではなく、どちらもが同じメカニズムに従っていると指摘することで、目覚め中心の思考を無効にしているのだ。さらに、〈覚醒/睡眠〉を〈緊張/弛緩〉と対応させているところも注目すべきところだろう。ここには、のちにジャン゠リュック・ナンシーが語ることになるような覚醒と睡眠のリズムという問題を見て取ることもできる。講演「夢」がおこなわれたのは1901年のことだったが、まさにベルクソンの議論は、目覚め中心主義の失効という20世紀の睡眠論の枠組みを定めるものだったのである。
5. 睡眠と覚醒のあいだに広がる無限のグラデーション――ベンヤミンの睡眠論(1)
さて、フロイトとベルクソンによって形づくられた枠組みは、一世代ほど後の哲学者たちにも引き継がれてゆく。今回は、ベンヤミンとアドルノといういわゆるフランクフルト学派第一世代に属する二人を取り上げてみたい。先取り的に述べておけば、この二人の睡眠論のポイントは、眠りを個人の生理・心理的な問題としてのみ扱うのではなく、眠りのうちに社会・政治的な問題との接点をも見出したところにある。その点で、本連載の初回と第二回で述べたような睡眠と資本主義をめぐる現在の状況と地続きの問題意識の気配が感じられるにちがいない。早速、ベンヤミンのほうから見ていこう。
ベンヤミンの著作のなかで眠りがくりかえし論じられているのは、未刊の大作『パサージュ論』である。そこでベンヤミンは、フロイトとベルクソンの睡眠論を当然の前提とするかのように、次のように述べている。
眠りと目覚めを相反するものとして対置するのは人間の経験的な意識形態を問題にしようとする場合には有効ではない、というのが精神分析の暗黙の前提の一つである。むしろこの対立は、無限に多様な具体的意識状態――それは、ありとあらゆる中枢の覚醒度のありとあらゆる多様な段階があることからきているのだが――に席をゆずることになる。眠りと目覚めによってさまざまにかたどられ区切られている意識の状態は、そのまま個人から集団へ転用することができる。いうまでもなく、個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、集団にとっては内的なものである。個人の内面には臓器感覚、つまり体調がいいとか悪いとかという感じがあるように、集団の内面には建築やモード、いやそれどころか、空模様さえも含まれている。
(ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論(3)』今村仁司ほか 訳、岩波文庫、2021年)
長く引用してしまったが、ここでの要点は二つにまとめられる。一つ目は、ベンヤミンもまた眠りと目覚めを対立する状態とはみなしていないということだ。むしろ眠りと覚醒のあいだには無限のグラデーションがあるとされている。たとえば、寝ぼけた状態やボーっとした放心状態、飲酒時の酩酊状態など、眠りとも覚醒ともいえない意識のあり方は多くのひとが経験しているはずだ。また、近年話題の「マインドワンダリング」のように、これまで注目されてこなかった曖昧な意識の状態が科学の発展とともに注目を集めるようになっているが、そのような状態は今後も発見されてゆくにちがいない。睡眠と覚醒のあいだにはどちらともつかない曖昧な領域が広がっているのである。ベンヤミンのこのような考え方は、本連載第6回で見たモンテーニュに近いものだと言えるだろう。モンテーニュは睡眠と覚醒のあいだのちがいを「夜と薄暗がりくらいのちがい」だと述べていたが、ベンヤミンにとっても睡眠と覚醒のあいだに明確な分割線は存在しないのだ。
6. 集団における夢と覚醒――ベンヤミンの睡眠論(2)
ベンヤミンの睡眠論の二つ目の要点は、眠りが集団の問題として語られているところにある。ここまで見てきた哲学者たちのほとんどは、眠りを個人の問題として語っていた。つまり、眠って目覚めるという私たち一人ひとりの行為がもつ意味が問われていたわけだが、ベンヤミンにおいてはむしろ集団としての眠りといういささか奇妙な事態が問われている。
この点を理解するためには、先ほどの引用で「個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、集団にとっては内的なものである」と言われている箇所に注目しよう。眠っているあいだに見る夢や体調の良し悪しといった感覚は、個人にとっては「内的なもの」である。私たち一人ひとりの内側で生じていることだからだ。それに対し、ベンヤミンが例として挙げている建築やモードや空模様は、個々人の外に存在する「外的なもの」だといえる。私たちの身体の外側に家やビルは建ち、私たちの頭上に空模様は広がっているということだ。
それでは、このような個人のレベルで見た〈内的/外的〉という区分を集団のレベルに移すとどうなるだろうか。ベンヤミンによれば、個人にとって「外的なもの」だった建築やモードや空模様は、集団にとっては「内的なもの」になるという。つまり、私たちがふだん目にしている建物やファッションなどは、集団にとっての「夢」や「臓器感覚」に等しいというのだ。私たちが自分の外側にあるものとして目にしている風景は、集団が見ている「夢」なのである。とりわけ19世紀にはそのような集団の「夢」がある場所で繰り広げられていたとベンヤミンは言う。
その舞台となるのが、『パサージュ論』という書名のとおり、19世紀パリに多く造られたパサージュ(ガラス張りの屋根で覆われたアーケード街)である。ベンヤミンは、パサージュを中心に展開された建築や広告などのさまざまな細部にまなざしを向け、19世紀を生きたブルジョワジーたちの「夢」を読み取ってゆくが、結局のところこの「夢」は、第一次世界大戦とロシア革命によって破られることとなる。ここではその点を指摘するベンヤミンの言葉だけを見ておこう。フロイトが語った睡眠欲望が踏まえられているように思えてならない一節である。
旅に出るため早起きしなければならないとき、眠りから身を引き離すのが嫌で、もう起きて服を着ている夢を見る、ということがある。そのようにブルジョワジーは、一五年後に歴史がおそろしい物音で彼らを目覚めさせるまで、ユーゲントシュティールのうちで夢見ていたのである。
(ベンヤミン『パサージュ論(3)』)
眠りつづけたいという欲望を満たすために夢を見る。そう述べたフロイトの理論は、ベンヤミンにとっては集団の夢にもあてはまるものだった。ブルジョワ社会は、目覚めたくないがために自分たちが作り上げた夢を見つづけていたが、戦争と革命によってその夢からやっと目覚めたということだ。
もちろん、ベンヤミンが「一五年後」の出来事として指しているのが第一次世界大戦なのかロシア革命なのかは判然とせず、それをよき目覚めであったとみなしていたのかもわからない。しかし、ベンヤミンが集団的な夢のなかにとどまっていればよいと考えていなかったことだけはたしかだ。「私が以下で提供しようとするのは、目覚めの技法についての試論である」(同前)と述べるベンヤミンにとって、19世紀のブルジョワジーたちが見ていた夢は、そこから目覚めるべきものだったのである。
以上のように、個々人の睡眠に関していえば、ベンヤミンは覚醒と睡眠を対立させる伝統的な思考の枠組みを脱し、モンテーニュに通じるようなかたちで眠りを理解している。それゆえ、ベンヤミンの睡眠論はフロイトとベルクソンが先鞭をつけた20世紀の睡眠論に連なるものだといえるだろう。しかし、集団のレベルでの睡眠に関しては、明らかに覚醒に重きが置かれており、またもや目覚め中心主義にはまり込んでしまっているようにも思える。とはいえ、ベンヤミンが語る「目覚め」や「覚醒」が、一般的な意味での目覚めや覚醒なのか(夢や眠りと単純に対立する覚醒なのか)は議論の余地があるところだ。『パサージュ論』を丹念に読めば、少なくとも夢を完全に捨て去って覚醒した状態へと向かうことが目指されているわけではない。そのため、ベンヤミンに「目覚め中心主義」というレッテルを性急に貼ってしまうわけにはいかないだろう。
いずれにしても重要なのは、ベンヤミンが集団のレベルでの眠りという新たな語り方を発明し、それを資本主義と結びつけたことである(ブルジョワ社会が見る集団的な夢とは、簡単に言ってしまえば資本主義社会の夢ということだ)。ベンヤミンのこの発想は、睡眠をめぐる現代の問題を考えるうえでも非常に示唆的だといえる。
本連載の最初に論じたように、いまや私たちの眠りは、睡眠アプリなどをとおして集団が生み出すデータとして扱われている。そして、そのビッグデータにもとづいて開発されたと謳う商品が、私たち一人ひとりの睡眠をよりよいものにすると喧伝されている。ベンヤミンが目論んだこととはいささか異なる牽強付会な解釈かもしれないが、ビッグデータと資本主義によって生じているこのような状況は、まさに21世紀の集団の「夢」のように思えてならない。そう考えたとき、私たちはビッグデータが生み出す集団としての眠りからいかに目覚め、その外へと通じる道を切り開くことができるのだろうか。いまベンヤミンを読むと、このような問いが脳裏に浮かんでくる。
この問いに答えるヒントは、おそらくルソーが語った「自己愛」にあるだろう。「利己愛」と区別される「自己愛」にこそ、資本主義に囲い込まれつつある眠りの外へと向かう糸口があるはずなのだ。しかし、今回は先を急ぎすぎず、眠りと資本主義について考える手がかりとなるもうひとりの哲学者であるアドルノについて簡単に見ておこう。
7. 労働のために眠る――アドルノの睡眠論
ベンヤミンの睡眠論との関係で取り上げたいのは、アドルノの「余暇」という短い講演録である(『批判的モデル集Ⅱ――見出し語』大久保健治 訳、法政大学出版局、1971年所収)。何よりおもしろいのは、この講演の話のマクラだ。「一つの取るに足りない自分の経験」だと言ってアドルノが語りはじめるのは、「趣味は何ですか?」というよくある質問についてである。いまでも初対面のひととの会話に詰まったときなどにしばしば繰り出されるこの手の質問が、意外にも近代社会の構造を規定する大きな問題を含意しているのだとアドルノは指摘する。
その問題とは、〈労働/余暇〉という二分割にほかならない。「趣味は何ですか?」という質問は、労働と余暇を分けるという前提に立ってはじめて生まれてくるものなのである。さらにいえば、この二分法においてはつねに労働のほうが中心であり、余暇は労働に従属するものとみなされている。余暇の時間にきちんと労働ができなくなるほど遊んではならないし、二日酔いになって遅刻するほど深酒をしてもいけないということだ。余暇とは、労働力を再生産するための時間でしかなく、それゆえ趣味とは労働をおこなうための適度なリフレッシュにすぎない。
当然だが、このような構造を批判的に指摘するアドルノ自身は「わたしは無趣味なのです」と宣言する。この宣言の背景には、〈労働/余暇〉という二分法に従う社会に対する批判、つまり労働を中心に組織された社会への批判と、余暇がレジャー産業によって商品化されていることに対する批判(いわゆる文化産業批判)の双方があるのだが、これらの批判は睡眠とも密接に関わっている。
注目すべきは、こうした批判のなかで子どもに対する夜更かしの禁止が例に挙げられているところだ。子どもに早く寝なさいと注意するとき、ふつうは心身の健やかな発達が配慮されているにちがいない。しかし、この注意はそのような配慮にとどまらず、余暇を回復のための時間として位置づけるよう教育することでもある。休日も含めて毎日規則正しく睡眠を管理することによって、子どもは遅刻せずに学校に行くようになるだろうが、それは大人になってきちんと働くための準備なのである。
夜更かしもせず、また昼過ぎまで寝ているといったこともないような生活において、睡眠は労働力の回復以外の意味をもたない。別の言い方をすれば、それは労働のための手段となった睡眠でしかない。そこにおいて決定的に欠けているのは、睡眠のための睡眠であり、資本主義に飲み込まれていない睡眠である。眠っているあいだまで睡眠データを生産するよう促されている現代において、はたしてそのような睡眠は可能なのだろうか。もしそのような睡眠が存在するとすれば、それはどのような眠りなのだろうか。ベンヤミンとアドルノ以降の睡眠論は、このような問いに答えなければならないだろう。
くりかえすが、この問いに対する手がかりはおそらくルソーにあるはずだ。しかし、結論へと向かうためにはもう少しだけ地ならしが必要だろう。次回は現象学の影響を強く受けた20世紀の哲学者たちの睡眠論を追い、ルソーへと至る道筋をより明確にしていきたい。
(次回へつづく)
プロフィール

いとう じゅんいちろう
哲学者。1989年生まれ、千葉県出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、新潟県立大学国際地域学部講師。専門はフランス哲学。著書に『「誰でもよいあなた」へ:投壜通信』(講談社)、『ジャン゠リュック・ナンシーと不定の二人称』(人文書院)、翻訳にカトリーヌ・マラブー『泥棒!:アナキズムと哲学』(共訳、青土社)、ジャン゠リュック・ナンシー『アイデンティティ:断片、率直さ』(水声社)、同『あまりに人間的なウイルス:COVID-19の哲学』(勁草書房)、ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で:黙示録的理性批判』(共訳、法政大学出版局)など。


伊藤潤一郎





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