睡眠を哲学する 第8回

動物磁気説の傍らで―19世紀の哲学者たちによる睡眠論

伊藤潤一郎

1.フィヒテ、シェリングの一風変わった睡眠論

 19世紀の哲学は、ほぼドイツの世紀だったと言ってよいだろう。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルが活躍し、つづいてショーペンハウアーやフォイエルバッハやマルクスが現れ、ニーチェの死によって幕が下りる世紀、それが19世紀である。この一世紀のあいだに現れた重要な哲学書は、ほぼドイツ語で書かれていると言っても過言ではない。同じ時期にイギリスではミルやスペンサーが登場し、フランスではコントやデュルケムが活躍するが、ドイツ語圏と比べるとマイナーな印象は否めない。その後も20世紀半ばにフランスへと哲学の中心が移動するまで、ドイツ語の覇権はつづくこととなる。

 そのドイツの世紀のはじめに活躍したフィヒテ、シェリング、ヘーゲルは、これまで「ドイツ観念論」と呼ばれ一括りにされることが多く、日本でも「ドイツ観念論」というタイトルを冠した入門書や研究書が数多く出版されてきた。ちなみに、近年の研究ではこの呼称は徐々に使われなくなっており、代わりに「ドイツ古典哲学」という呼び名が用いられるようになってきている。三人の哲学者の思想の内実をよく見てみると「観念論」というラベルからはみ出てしまう部分が多いから、というのが大きな理由だが、ここでは哲学史研究の細かな議論はひとまず措いておき、睡眠というトピックに焦点を絞って哲学者たちの言葉を読み解いていこう。

 まずは、フィヒテとシェリングから見ていきたいが、この二人が眠りを論じているテクストを読んでみてわかるのは、両者ともいささか変わった側面から眠りにアプローチしているということだ。前回の最後にメーヌ・ド・ビランの『睡眠、夢想、夢遊病についての新考察』について見たが、フィヒテもまた「夢遊病」に注目しながら睡眠を論じている。人間の日常的な睡眠を論じるというよりも、ある種の非日常的な眠りのあり方から睡眠に迫ろうとしているのである。シェリングのほうはどうかと言えば、これまた一風変わった「催眠術」という側面から眠りについて考察しており、これまで見てきた哲学者たちとは明らかに異なるアプローチが見て取れる。なぜこのような睡眠論がこの時期に相次いで現れたのだろうか。その背景を探っていこう。

2.メスマーの動物磁気説

 19世紀前半にフィヒテやシェリングが夢遊病や催眠術に関心を抱いていたのには明確な理由がある。それは「動物磁気説」、カタカナで「メスメリズム」とも呼ばれるフランツ・アントン・メスマー(1734‐1815)が唱えた学説が広まっていたからだ。動物磁気説は、現在ではまともに取り合う者のいない理論であり、科学としては早々に無効の烙印を押されたものだが、18世紀末から19世紀にかけてパリを中心に大流行し、精神分析をはじめ後世にも多大な影響を及ぼしたとされる学説である。モーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』(初演1790年)には動物磁気療法の施術場面が出てくるし、映画好きであれば、黒沢清の『CURE』(1997年)で萩原聖人演じる間宮邦彦の部屋に大量の動物磁気説とメスマー関連の文献があったことが思い浮かぶかもしれない。作中で間宮は他人を操って殺人を犯させる人物として描かれているが、この間宮が体現するように、動物磁気説とは何よりも「催眠術」とみなされてきた。いまでも英語の“mesmerism”が「催眠術」という意味になるところにその名残が見て取れる。

 では、メスマーそのひとが唱えた動物磁気説とはいったいどのような理論を提唱するものだったのだろうか。メスマー自身の『動物磁気の発見に関する覚書』(1779年)をもとに、まとめてみよう。

 メスマーによれば、天体、大地、生物のあいだには相互に影響関係が存在している。火星や土星のような宇宙の星と地上の人間は無関係に独立して動いているわけではなく、何らかの影響をお互いに及ぼし合っているということだ。そして、このような遠くかけ離れたもの同士が結びつくことを可能にしているものを、メスマーは「流体」と呼ぶ。この宇宙には、流体が充満しており、この流体を通じてあらゆるものは影響を与えたり被ったりするというわけだ。むろん、この影響関係は無秩序なものではなく、機械的な法則に従っており、とりわけ人間をはじめとする動物の身体に対して流体の作用が及ぶとき、それは磁石に似た性質を呈するという。それゆえにメスマーは、動物の体内を流れる流体を「動物磁気」と呼び、これをコントロールして「分利」と呼ばれる一種の発作を引き起こすことによって、神経に関する病を治療できると主張することとなる。

 以上が動物磁気説の概略だが、最初の〈天体-大地-生物〉の相互影響関係という前提のところからすでに、スピリチュアルな雰囲気が満ち満ちているように思える。少なくとも、現代の感覚からすれば、科学とはみなせない理論であることはまちがいない。しかし重要なのは、メスマー自身は動物磁気を物理的に存在するものだと考えていたことだ。『動物磁気の発見に関する覚書』では、動物磁気と引力が同列に並べられているが、少し立ち止まって考えてみれば、たしかにどちらも離れたところにあるもの同士の影響関係という点では同じである。つまり、ニュートンが万有引力を発見したように、メスマーは動物磁気を発見したと思っていたのだ。ニュートンは科学者でメスマーは似非科学者だという見方は、あくまで二世紀後に生きる人間の眼から見た評価にすぎない。たとえば、『猫の大虐殺』で有名な歴史家ロバート・ダーントンの『パリのメスマー:大革命と動物磁気催眠術』(稲生永 訳、平凡社、1987年)を読んでみると、動物磁気説が18世紀末の「科学」のなかから現れたことがとてもよくわかる。18世紀の科学は、虚構と背中合わせだったのである。

3.動物磁気説から催眠術へ

 メスマーによる実際の治療は、鉄を含む薬を服用させて磁石を身体に当てる、患部に手をかざすなど、さまざまなかたちでおこなわれたが、とはいえ先ほどの理論を見てもわかるとおり、メスマー自身の学説や治療は「眠り」に主眼を置くものではなかった。動物磁気説が催眠術と等しくなるためには、もうひとりの人物が登場してこなければならない。それが、メスマーの弟子であるピュイゼギュール侯爵(1751‐1825)である。アンリ・エレンベルガー『無意識の発見:力動精神医学発達史』(木村敏・中井久夫 監訳、弘文堂、1980年)をもとに、動物磁気説が催眠術へと変貌していく過程を簡単に振り返っておこう。

 動物磁気説にもとづく施術をおこなっていたピュイゼギュールは、あるとき奇妙な事態に出くわす。使用人のヴィクトル・ラースに治療を施した際、ヴィクトルが不可思議な睡眠状態に入っていったのである。ふつうメスマーの理論では、患者が「分利」を起こして痙攣状態になり、その後に症状が治癒していくとされていたが、それとはまったく異なる出来事が起きたのだ。催眠という現象を考えるうえで非常に重要なところなので、エレンベルガーの説明を引いておきたい。

ヴィクトルは軽症の呼吸器疾患に罹っていたが、簡単に磁化され、磁化された状態できわめて不思議な形の分利をみせた。他の患者と違って痙攣も運動錯乱もなく、逆に、一種奇妙な睡眠に入るのだが、この状態は通常の覚醒状態よりさらに覚醒しているようにみえ、事実、通常の覚醒状態よりも意識が明晰だった。声を出してしゃべり、色々の質問に答え、普段よりずっと頭の回転がよくなった。〔…〕分利が終わった後のヴィクトルは分利の時の記憶を失っていた。

(エレンベルガー『無意識の発見』)

 ピュイゼギュールの施術によって、ヴィクトルは痙攣状態ではなく催眠状態に入っていった。この違いはきわめて大きい。横隔膜の痙攣である「しゃっくり」を思い出してもわかるように、痙攣というのは人間の意志とは関係なく発生する不随意運動である。止めようと思っても意志の力ではどうすることもできない類いのものだ。それに対し、ヴィクトルが呈した催眠状態は、覚醒状態に似ている。ヴィクトルは話をしたり質問に答えたり、さらにはピュイゼギュールに合わせて歌を歌ったりしたという。このような状態は、明らかに人間の意志が働いているように思える。

 しかし、引用箇所の最後に述べられているように、ヴィクトルは催眠中の記憶をもっていなかった。施術者と会話をしていたとはいえ、その記憶がないということは、やはり眠っていたとも言えるだろう。いわば、ヴィクトルは「起きているのに眠っている」という状態になっていたのである。この覚醒とも睡眠とも言えない不思議な状態は「磁気睡眠」と呼ばれたが、これが夢遊病に似ていることは誰の目にも明らかだった。すでにヴォルテールの『哲学辞典』に「夢遊病」の項目が立てられていたように、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、睡眠時に起き上がって行動する「夢遊病」の存在はよく知られていたが、ピュイゼギュールはこうした夢遊病を動物磁気説にもとづいて人為的に引き起こす可能性を見出したのである。これにより、メスマーの理論は一種の「催眠術」へと変貌を遂げることとなる。

4.空白の自己と眠りの支配―フィヒテ

 ここまでをふまえてフィヒテの睡眠論を見てみよう。タイトルはその名も『動物磁気療法にかんする日誌』(木村博 訳、『フィヒテ全集第18巻:超越論的論理学・自然哲学』、晢書房、2009年所収)である。

 フィヒテといえば、生涯にわたって「自我」を問いつづけた哲学者として知られている。その試みは「知識学」と呼ばれ、51歳での早すぎる死を迎えるまで深化の一途をたどることとなる。もちろん、フィヒテが論じる「自我」とは、いまこの文章を書いている「私」のような個別の自我(個体としての自我)ではなく、普遍的な「絶対的自我」とも言えるものなのだが、そのあたりの細かい議論は本筋から外れるので措いておきたい。ここでは、あくまで動物磁気説にもとづいて引き起こされる夢遊病をフィヒテがどのように捉えていたかに焦点を絞ろう。

 『動物磁気療法にかんする日誌』は、1813年9月14日にメスマーの支持者であるヴォルファート医師の治療を見学に行くところからはじまる(ちなみにフィヒテは翌1814年1月にチフスに感染した妻の看病をしている際にみずからも感染し亡くなっているので、これは最晩年の日誌である)。冒頭に書き留められているように、ヴォルファートのところでは「磁気桶」を使った治療がおこなわれていた。動物磁気説とその効果が評判を呼ぶようになると、詰めかける患者に対して施術者が一対一で磁化する治療法では対応することできなくなり、そこでメスマーが考案したのが「磁気桶」だった。「バケ」とも呼ばれるこの桶は集団治療用の道具であり、磁化された水を張った桶の周りに患者を集め、桶から伸びる管を患者ひとりひとりが握ったり、管を握っている患者と手をつないだりすることで、動物磁気が患者に流れ込んで一度に多人数の「分利」を引き起こすという仕組みだった。いかにも怪しいこの集団治療が一因となって、メスマーの動物磁気説に対してフランスの王立科学アカデミーと王立医学アカデミーが調査委員会を立ち上げ、動物磁気の存在を否定したのは1784年のことだった。それから約30年の歳月が経ちながらも、いまだに動物磁気療法は実践されており、哲学者フィヒテは施術現場に足を運ぶほど強い関心を抱いていたのである。

 フィヒテは、ヴォルファートのところの四人の患者について書き留めているが、なかでも胸に膿瘍を患ったひとりの女性患者にとりわけ関心を向けている。フィヒテの日誌を読んでみよう。

かのじょは反応が鈍く、返事をするのにしばしば長い時間を要した。かのじょは返事に至るまでのプロセスをつぎのように説明した。「わたしには自分の内面、つまり自分の膿瘍や自分の脳が見えます。磁気療法士がわたしの頭に手を置くと、わたしの脳は波のようにうごめきます。わたしには、磁気療法士のことばもわたし個人のことばも、もともと聞こえていません。わたしが発する返事は、そっくりそのままわたしに到来したものにほかなりません」と。(それはまるで、かのじょが返事をするのではなく、かのじょのなかにある別の力が返事をしているかのようである。この事態を適確に分明にせよ! その場合、研究に値するのはつぎの点であろう。すなわち、かのじょは、もともと自分から意欲しうるのかどうか、ある目的を自分で定めて、それを追い求めることができる、そうした自由をもっているのかどうか、を研究することである。)

(『動物磁気療法にかんする日誌』、強調原文)

 フィヒテが考えたいのは丸括弧のなかの部分だ。つまり、磁気療法士によって磁化されて夢遊病のような状態になった患者は、自分自身で主体的に言葉を発しているのだろうかとフィヒテは疑問を抱いている。むしろ、磁化された患者はみずからの意志ではない力、患者の外側にある別の力によって言葉を話しているのではないか。別の言い方をすれば、磁気療法士の催眠術によって、患者は自己がなくなった状態にされ、いわば空白になっているのではないかとフィヒテは考える。この空白になった自己に、磁気療法士の意志が入り込み、その結果として通常の覚醒時には口にしないような言葉を発するようになる。フィヒテが動物磁気療法による夢遊状態に見出したのは、外部から誘導された自己の放棄とでも言うべき事態だった。

 なぜフィヒテがこのような自己のあり方に興味をもっていたかを理解するには、晩年のフィヒテの知識学との関係(とりわけ「像」をめぐる議論との関係)を明確にしなければならないが、むやみに複雑になってしまうので、ここでは睡眠というテーマに絞ってフィヒテの日誌の意義を考えよう。フィヒテの議論を敷衍すれば、動物磁気説による催眠術とは、眠らせることによって人間をコントロールする技術だったといえる。催眠術は、被術者の自己を空白にすることと、そこに施術者の意志を注入することという二つの側面をもっている。これを〈自律/他律〉という概念を使って言い換えれば、自律した自己の中身を透明にし、そこに他者を侵入させて他律状態にするということだ。

 フィヒテは日誌のなかで動物磁気療法を教育と比較しているが、人間の文化のなかには「自己を空虚にして他者を迎え入れる」という構造がさまざまな場面で見られる。教師と生徒の関係も、ある意味では生徒が教師の言葉を自分のなかに詰めこんでいく過程であるし、ほかにも巫女をはじめとする霊媒師は神の言葉をみずからの口をとおして語る空虚な自己である。教師が生徒をコントロールし、神が霊媒師より必ず優位にあるように、この構造は支配関係に容易に転じてしまうが、それは催眠術においてもまったく同様である。催眠術とは、眠りが他者によって支配されコントロールされてゆく歴史の一齣なのだ。それが、照明の発明によって睡眠への制御が強まってゆくのと同じ時代の現象であることは、照明と催眠術のあいだに直接的なつながりがなくとも大変興味深いところだろう。やはり18世紀末から19世紀にかけて、睡眠は大きな曲がり角にあったのだ。フィヒテが日誌に書き留めたのは、現代にまでつながる睡眠を支配せんとする意志だといえるだろう。

5.催眠術と夢―シェリング

 つづいてシェリングについて見ていこう。先にも述べたように、フィヒテの『動物磁気療法にかんする日誌』が書かれたのは1813年のことだったが、ほぼ同時期の1811年から1815年にかけて、シェリングのほうは『諸世界時代』(山口和子 訳、『新装版シェリング著作集第4b巻:歴史の哲学』、文屋秋栄、2018年所収)という草稿群を残している。この草稿は、世界の創造から現在を経て未来に至る時間を物語として語るという壮大な計画にもとづいて書かれたものだが、その途中で動物磁気説による催眠術がいささか唐突に現われる。その部分をここでは見ておこう。シェリングは催眠術に対していったいどのような態度を取っていたのだろうか。フィヒテとのちがいはあるのだろうか。

生の日常的な経過においては、あの外的な引きつける力は、規則的に交替しながら、ある時は弛緩し、またある時は一層破壊的に現れるが、いわゆる動物磁気の周知の現象によれば、引きつける力の異常な中断、あるいは弱体化が可能であるように見える。実際、他者に対して、あの外的なポテンツを克服し、かれを自由な内的な生の関係へと連れ戻す力がある者に与えられるなら、そこでは、なるほど外的には死んだように見えるが、内的には、最深のものから至高のものに到るまで一切の力の一層安定した、自由な連関が生じるのである。

(『諸世界時代』)

 シェリングによれば、睡眠と覚醒を分けるのは「外的な引きつける力」や「外的なポテンツ」と言われるものである。目覚めている人間は、ボーっとしている場合などを除いて、みずからの外に存在する対象へと注意を向けている。たとえば、いま私はパソコンに向かってこの文章を書いているが、パソコンの画面という自分の外にあるものと関係しているからこそ、私はいま目覚めているということだ。目を開けていれば何かが目に入り、聞きたくなくても耳に音が飛び込んできて意識を奪われるように、目覚めている私は、私の外部のさまざまなものに支配されている。それとは反対に、眠っている人間は瞼を閉じて何も見ず、よほど大きな音でない限り眠りが乱されることもない。いわば、眠っているあいだの人間は外との関係を断っており、外部から解放されているのである。

 眠りのメカニズムをこのように考えるシェリングにとって、動物磁気説にもとづく催眠術とは、睡眠と覚醒の境界線を人為的にコントロールする技術だった。催眠術は外部との関係を強制的に断ち切ることで、睡眠状態を意図的に作り出せるということだ。ここまでであれば、シェリングとフィヒテは同じ方向を向いているように思える。どちらも睡眠を制御するテクニックとして催眠術を捉えており、この点に関しては両者の動物磁気説に対する見方はほぼ一致している。

 しかし、フィヒテの場合、眠った人間のなかに催眠術師という他者が侵入してくると考えていたのに対し、シェリングはそのような他者の存在をほとんど気にしていない。むしろシェリングは、睡眠をコントロールすることによって、人間の内面を探究することができるようになると考えていた。催眠術によって外部から解放された人間においては、いわば人間の内部で作用している力が純粋なかたちで現れてくるというのだ。そう、シェリングは夢を解明する鍵として催眠術を捉えていたのである。

 メスマーの動物磁気説は、しばしばフロイトの精神分析の源流とみなされてきた。実際、動物磁気説が催眠術へと変貌を遂げながら「無意識の発見」へと至ることはまちがいないが、それはシェリングの催眠術に対する態度を見てもわかるだろう。催眠状態において現れる夢へと向けられたシェリングの関心は、明らかにフロイトの『夢解釈』に通じている。もちろんシェリングにとって夢は神と切り離せないものであり、夢を無意識の表現と考えたフロイトとは異なる部分もあるが、夢をとおして人間の内側の一段深い層へと向かうという点で両者は軌を一にしているし、何よりも人間の内面を複数の力が作用する場とみなす点でもシェリングとフロイトは似ている。メスマーからフロイトへと至る歴史、専門的には「力動精神医学」と呼ばれる歴史のなかに、シェリングも立っていたと言えるだろう。シェリングにとって動物磁気説にもとづく催眠術とは、内面の奥深くへと通じる扉を開ける鍵だったのである。

6.目覚め中心主義の失効

 フィヒテとシェリングをそれぞれのかたちで魅了した動物磁気説は、その後も19世紀の哲学書に頻繁に登場する。たとえば、ヘーゲルの『エンツュクロペディー』(1830年)でも動物磁気による夢遊病が言及されているし、磁気術師がどのように施術するかが事細かに書き留められてもいる。こう見ると、睡眠という点でいえば、ドイツ観念論とは動物磁気説と並走した哲学だったとさえ言えるかもしれない(ただし、ヘーゲルの睡眠論は動物磁気説との関係だけでは済まない広がりをもっているので、また後の回で戻ってくることにしたい)。

 ヘーゲルの『エンツュクロペディー』からさらに20年ほど後には、ショーペンハウアーが「視霊とこれに関連するものについての研究」(『余録と補遺』、1851年所収)のなかで、やはり動物磁気について次のように語っている。

動物磁気は、それももちろん経済的ならびに技術的観点からでなく、哲学的観点から見た場合には、これまでなされてきたすべての発見のなかで最も内容が充実している。動物磁気の謎はこれまでは解答されるよりも放棄された場合のほうが多い。〔…〕動物磁気は実際に実用的形而上学である。これはいわば実験的形而上学である。それというのも、自然の最初のしかも最も一般的な法則がこれによってご破算になるからだ。したがってこれはア・プリオリに、不可能と考えられていたものを可能にする。

(「視霊とこれに関連するものについての研究」金森誠也 訳、『ショーペンハウアー全集11』、白水社、1973年)

 ショーペンハウアーはカントを意識しながら動物磁気について語っている。平たく言ってしまえば、カントの『純粋理性批判』が目指していたのは、普遍的かつ必然的に成り立つ原理、つまり誰にとっても必ずあてはまる原理や法則を解明することだった。それが「ア・プリオリ」ということだが、夢遊状態における行動には明らかにそのような普遍性も必然性もない。それゆえ、ショーペンハウアーによれば、動物磁気はカントの哲学を超えた領域を示しているのである。

 ショーペンハウアーが指摘しているように、動物磁気説と催眠術がもたらしたのは、それまで重視されてこなかった領域、つまり眠りとも覚醒ともつかない状態の重要性だった。19世紀の多くの哲学者が述べているように、催眠状態は通常の睡眠とはどこか異なっており、眠っているようではあっても、ベッドで目を閉じて意識を失うのとはやはり別物だといえる。しかし、それは覚醒状態でもないのだ。夢遊状態の人間は、明晰な意識によって思考し、みずからの意志で行動しているわけではない。それゆえ、睡眠でも覚醒でもない「磁気睡眠」とは、ある意味では本連載のこれまでの回で取り上げてきた覚醒とも睡眠ともつかない「あわい」の領域にあるものだと言えるだろう。動物磁気説に注目した哲学者たちは、人間が覚醒にも睡眠にも割り振ることのできない曖昧な領域を生きられるということをおそらくは予感していたのである。

 むろん、人間は古くからこのような状態の存在を知っていたにちがいない。宗教的儀式やさまざまな魔術は、人間をある種の夢遊状態にするものだったはずだ。それが、神の後ろ盾をもたない医術として現れたのが動物磁気説だった。メスマーによって切り拓かれたこの未知の状態を論じようとしても、古代以来の「目覚め中心主義」の哲学では到底太刀打ちできない。そこで、哲学者たちは試行錯誤をくりかえし、シェリングはそこに夢への通路を見出し、フィヒテは他者による支配の危険を感じ取ったのである。

 たとえ動物磁気説が否定されようとも、もはや目覚めからだけでは人間を十分に理解できないことは哲学者たちにとって明らかだった。19世紀最後の年にこの世を去ったニーチェは、まさにニーチェらしい言い回しで「目覚め中心主義」の無効を宣言している。

夢と責任。――諸君はあらゆることに責任を取ろうとする! ただ数々の夢にだけは責任を取ろうとしない! 何というみじめな弱さなのだろう、首尾一貫した勇気に何と欠けているのだろう! 諸君の夢よりも以上に諸君自身のものであるものはない!

(『ニーチェ全集7 曙光』茅野良男 訳、ちくま学芸文庫、1993年、強調原文)

 睡眠をめぐる20世紀の哲学は、ニーチェのこの言葉とともにはじまらなければならないだろう。

(次回へつづく)

 第7回
睡眠を哲学する

私たちの睡眠は、完全な休息とは切り離されはじめている? 哲学者の伊藤潤一郎が、さまざまな睡眠にまつわるトピックスを、哲学を通して分解する。

プロフィール

伊藤潤一郎

いとう じゅんいちろう

哲学者。1989年生まれ、千葉県出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、新潟県立大学国際地域学部講師。専門はフランス哲学。著書に『「誰でもよいあなた」へ:投壜通信』(講談社)、『ジャン゠リュック・ナンシーと不定の二人称』(人文書院)、翻訳にカトリーヌ・マラブー『泥棒!:アナキズムと哲学』(共訳、青土社)、ジャン゠リュック・ナンシー『アイデンティティ:断片、率直さ』(水声社)、同『あまりに人間的なウイルス:COVID-19の哲学』(勁草書房)、ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で:黙示録的理性批判』(共訳、法政大学出版局)など。

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