■ 僕たちが世界に臨む「スタイル」について
前回は、僕たちが記憶について抱いているイメージをいちど解体し、脳科学的な知見も参照しながら再構築してみた。その作業のなかで見えてきたのは、記憶とは、脳というハードディスクに保存されたデータではないということだ。脳は単なる容器なのではないし、記憶されるものも容量という考え方では捉えられない。現在の脳科学的な知見によれば、僕たちの記憶は概念のネットワークとして組織されているため、新しく何かを覚えるときには覚えるものの情報量よりもその人が持つ概念ネットワークとの親和性が効いてくる。
だから僕たちは、なにか定量的な仕方で測定することのできる「記憶力」をそれぞれが備えているのではない。各々がどんなふうに概念ネットワークを形成してきたかに応じて、馴染み深い(記憶しやすい)おもむきで現れてくるものと、疎遠な(記憶しにくい)おもむきで現れてくるものとに世界が分節化されているのだ。馴染み深さの疎密に応じて現れてきた世界が僕たちの記憶のネットワークを変化させ、それによって世界の現れ方もまた変化していく。勉強して何かを新たに知っていくことは、僕たちがあらかじめ持っていた世界との結びつきに制約を受けながら、新たな結びつき方、新たな馴染み深さを獲得するための営みなのだ。そのことを、前回の連載では『群れから逸れて生きるための自学自習法』のなかで柳原浩紀が述べた「リアリティ」という言葉を借りて論じた。
ここまで述べてきたような意味で、記憶は、僕たちと世界が互いに結びつきあう「スタイル」[1]の一側面を成している。実は、このようなスタイルについての理解を深めていくことが、連載のテーマである「知ること」についての理解を深めていくことになると僕は考えている。というのも、僕たちが何かを知るということは、当然ながら僕たちと世界がその瞬間なんらかの仕方で結びついたということであって、そんな結びつきが新たに生まれる瞬間は、それまで僕たちと世界がどんなふうに結びついてきたか(どんなスタイルが形成されてきたか)によって決まってくるからだ。僕たちは、自分たちの持つスタイルによって知ることを動機づけられていて、そして何かを知ることによって僕たちのスタイルは微妙に変化を被る。変化を被ったスタイルが、再び新たな知へと僕たちを動機づける。何かを知ることはこのようなサイクルで成り立っている。だから、「知ることはあなたの世界をどう変えるのか」という問いは、「僕たちはどんなスタイルで世界に臨んでいるのか」という問いに言い換えることもできるだろう。これまで論じてきたいくつかのトピックも、僕たちがどんなスタイルで世界に臨んでいるのかという大きなテーマにそれぞれ別な仕方で光を当てるものだった。
■ 世界との馴染み深さを演出するもうひとつの契機
僕たちが世界に臨むスタイルを規定しているのは、もちろん記憶だけではない。僕たちが何かを見聞きしているとき、すなわち知覚しているとき、その内実を大きく左右しているのはまずもって僕たちの身体だ。ある大きさ、ある形状、ある組織、ある能力、ある習慣、ある具合、ある姿勢——日々変化するそれらのパラメータを備えたこの身体で、僕たちは世界をしかと受け止めている。いま、ここにある身体の状態によって、物事は異なるリアリティをともなって現れてくる。
たとえば、歩いているときにはまったく気にならない高さにある街路樹の枝も、車を運転しているときにはかすってしまうんじゃないかと心配になる。僕たちはまるで車と同じ大きさになったかのように世界に注意を払い、車の屋根が何かにぶつかりそうになると、とっさにハンドルを切るばかりか、それが自分の頭をかすめそうになったかのように身をかがめてしまう。
あるいは、体調がひどくすぐれないとき、ちょっとした段差や階段、手すりといった自分の歩行を妨げたり支えたりするものたちは圧倒的なリアリティをもって迫ってくる。体調がすぐれているときであれば、そうした歩行環境を意識の外側に締め出して、スマートフォンでSNSのタイムラインを眺めているうち、気づいたら家に辿り着いている(とはいえ、歩きスマホにはご注意を)。それに対して、発熱でぼーっとしているときには、(ややこしい言い方になるが)画面に表示された記号的な世界が縁遠いものになって、ふだんはあまり意識することのない身体の重々しさやままならなさがせり出してくる。背筋を伸ばすためには力を入れる必要があること、通い慣れた道に段差がたくさんあることに初めて気づく。自分がまずもってフィジカルな世界に生きているのだということを実感する。僕たちが生きる世界のどんな側面がその人にとっていまリアリティを持つのかは、このように身体のコンディションによっても変わっていくのだ。
新しい能力やスキルを獲得することによっても、世界との馴染み深さは変わっていく。たとえば僕にとって、森や林は、「森」や「林」でしかない。友人とキャンプをしたときに森のなかで過ごすことはあるが、それがどの地域のどんな森かなんて識別できない。馴染みの薄い対象の特徴は、いま自分に見聞きできるものがすべてで、表層的なものでしかないところにある。それに対して、森のなかで生きる能力を持っている人にとっては、いま見えているものがすべてなんてことにはならない。いま見えている景色はつねに、自分がこれまで経験してきたほかの森や林に対してこんな特徴を持っている、という比較のなかで把握されていたり、手前の落ち葉や土の雰囲気がさっきまでここにいたイノシシやシカの存在を暗示していたりする。なにかが僕たちにとって馴染み深いということは、それがいま見聞きしているものの範囲にとどまらない広がりや存在感とともに受け取られているということだ。そして、僕たちは新たな能力を獲得することによって、世界のさらなる広がりや存在感を受け取ることができるようになる。
このような身体的な在り方をより深く理解するために、キーワードをひとつ導入しよう。それは「エナクティヴィズム」だ。哲学と認知科学が交差する場所で使われるようになったこの言葉は、僕たちが世界に臨むスタイルを解明していくうえで重要なモデルを提供してくれる。
■ 柵の向こうにネコがいる?—エナクティヴィズムへの招待
エナクティヴィズム(enactivism)とは、僕たちがさまざまな物事を知覚したり認知したりする過程についてのある考え方のことだ。この考え方が最初に批判するのは、僕たちの心が自然の姿を映す鏡である、という考え方だ。つまり、すでに世界はある定まったものとして存在していて、僕たちの心は、身体に与えられた物理的な刺激(光・音・圧力等々)をもとに、世界のイメージを正確に作り上げる。世界を知覚したり認知したりする場面において、僕たちが徹底的に受け身な、そして不完全な鏡であると考えるこのような捉え方を、エナクティヴィズムは現象学や神経科学の知見に基づきながら批判していく。
エナクティヴィストたちは、知覚や認知を、外側から受け取った物理的な刺激(光・音・圧力等々)をもとに頭のなかで世界のイメージを作り上げることだとは考えない。エナクティヴィズムの嚆矢となった『身体化された心』によれば、認知とは「所与の心による所与の世界の表象ではなく、むしろ世界の存在体が演じる様々な行為の歴史に基づいて世界と心を行為から産出すること」[2]なのだと語られている。認知という出来事の中心にあるのは、世界でも心でもなく行為である。世界と心(私)はあらかじめ出来上がった別々の装置ではなく、行為という相互作用のなかでお互いをかたちづくっている。世界と私は、どちらかが一方的にどちらかを作りだしているのではなく、相互作用しながらお互いの輪郭を徐々に明確にし、分節化させていくような複雑な関係を持っているのだ。このような考え方に基づいてまとめるなら、知覚や認知は、世界と私の相互作用(行為)のなかでお互いの輪郭が明瞭になっていく出来事であると言うことができる。
だとすれば、次に問われるのは、相互作用の場である行為あるいは行為の歴史がどのようなものであるか、ということだろう。哲学的な立場としてのエナクティヴ・アプローチを精緻に展開したアルヴァ・ノエは、知覚の位置づけを次のように述べている。
エナクティヴ・アプローチに従うならば、知覚経験とは、感覚-運動的依存性に関する知識を活用しながら、環境を探索する活動である。[3][4]
感覚-運動的依存性というのは、僕たちがいま見聞きしている世界が自分の身体の運動によってどんなふうに変化するのか(感覚の変化が身体の運動にどう依存しているのか)、ということだ。柵の向こう側にネコがいるとしよう(イヌでもいい)。ほんの一瞬でもそちらの方向を見れば、僕たちは柵の向こう側にネコがいると認識することができる。このとき、柵によって隠された部分が見えていないからといって、ネコのからだがぶつ切りになっているとは思わないだろう。ネコの手前にある柵によってネコのからだの一部が見えていないにもかかわらず、僕たちはそこにひとつなぎのからだを持ったネコがいるのを「見る」ことができる。つまり、僕たちはいまこの瞬間目に見えているものよりも多くのものを見ているのだ。それが可能なのは、ちょっと目線や身体を動かせばネコと柵と自分の位置関係が変わって隠されていた部分も見えるだろう—といったかたちで、自分の運動が感覚に及ぼす変化を僕たちが熟知しているからだ。このような熟知によって、僕たちは柵の向こう側にいる、ひとつなぎのからだを持ったネコにアクセスすることが可能になっている。このアクセス可能性が、いまこの瞬間に、断続的にしか見えていないネコの全体を知覚することを可能にしているのだ。そのような意味で、ノエは知覚されている対象が「ヴァーチャルに現前している」と表現する[5]。
言葉遣いがややこしくて申し訳ないが、記憶の議論のなかで引用した柳原の「リアリティ」と、ノエがここで用いた「ヴァーチャル」という言葉は僕のなかでほぼダイレクトに繫がっている。自分が持っている記憶のネットワークとの親和性が高いからこそ、いろんな物事が覚えやすいものとして、わかりやすいものとしてリアリティを持って感じられることと、自分の感覚-運動的依存性についての知識に基づいて、ちゃんとは見えていないものがそれでもヴァーチャルに全体として現前していることは、ほとんど同じ事態を別の言葉で言い当てている。感覚-運動的依存性についての熟知がまったくない人間にとっては、柵の向こう側にいるネコはもはや一匹のネコではなく、柵の隙間を埋める模様のようなものでしかない。それらの模様が繫がっているものなのか、別々のものなのかもよくわからない。そんな把握しかできなければ、「あのときあそこにネコがいたんだよね」といったエピソード的な記憶に置き換えることにも困難をともなうだろう。
■ アクセスできる世界の深度は、スキルを得るたび広がっていく
柵の向こう側にいるネコを認知できる理由を、エナクティヴィズムの考え方に基づいて説明してみた。もちろん、この話はここで終わらない。ちょっと視線や身体を動かせばネコの全体を見ることができる、という感覚-運動的な知識は多くの人が持ち合わせているだろうからあまりピンとこないかもしれないが、もっと別の場面では、一部の人たちにはネコが見えているのに、別の人たちにはネコ状のなんだかよくわからない模様が見えているだけ、ということがいくらでもあるのだ。そしてその人たちの認知ギャップは、より高度な感覚-運動的な熟知や概念ネットワークを形成することによって埋めることができる。
さきほども出した例で言えば、いまの僕にとって、友人とキャンプをするために足を踏み入れた森はあまりにも見たまんまの森である。森状の模様といってもいいのかもしれない。知識も経験もなさすぎて、何もヴァーチャルに現前してくれない。僕が見ている森はあまりにも表層にとどまっていて、いかなる深さも欠いている。しかし、一緒にキャンプをする友人が高度な認知能力を備えていたとしよう。彼女には、樹木の種類や配置の雰囲気からさまざまなものがヴァーチャルに(そしてリアリティをもって)現前している。キャンプをするなかで、僕は彼女からこの森についてたくさんのことを学び、そして自分で探索してみることができる。帰る日になって、僕が名残惜しく振り返って見たときのその森は、キャンプ初日に見た森の様相とはあまりにも違っているだろう。それはもはや森状の模様ではなく、いろんな深さを備えたヴァーチャルな森として現前している。立ち並ぶ樹木の向こう側に、いろんなものを見て取ることができるようになっている。
流れで自然っぽい話が続いてしまったが、この例はあらゆるものに置き換えることができる。長い時間を過ごした家族や友人であれば、呼びかけるときの声の抑揚だけで僕たちはその意図を聴き取ることができるかもしれないし、あなたが何らかのFPS(ファースト・パーソン・シューティング)ゲームの上級プレイヤーだったら、レーダーに映った点の集合だけで敵の動きや狙いが手に取るように見えるかもしれない。それぞれ難易度はあるにしても、訓練や時間の積み重ねによってアクセスすることができるようなものだ。
エナクティヴィズムが僕たちに教えてくれるのは、僕たちは決して目の前に見えているものだけを見て、耳に入ってきた音だけを聴いているのではないということだ。部分的にしか見えていないのに、柵の向こうにネコがいるのを見て取ることができるように、僕たちは自分たちの持つ感覚-運動的な熟知や記憶のネットワークに応じて、ヴァーチャルな世界をリアリティを持ったものとして知覚することができる。すなわち、なにかスキルを獲得したり物事の繫がりについての理解を深めたりすることは、知覚のなかで一度にアクセスできる世界をより深くしていくことなのだ。
世界の見え方が浅すぎると、●●状の模様といったよくわからないものが見えるだけで、つまらない。これが、向坂くじらと柳原浩紀が『群れから逸れて生きるための自学自習法』のなかで、一見すると退屈に思える基礎的な概念の積み上げ型学習を薦めていた理由だと僕は思う。森に入る前に、森をより深く見るための訓練をしておきましょう、じゃないと見えるものだけを見るだけになってしまってつまらないよ、ということだ。誰か自分よりも高度なスキルを備えた人と一緒ならともかく、ひとりでは世界がなかなか深まらない[6]。
■ ひとりひとりが生きる世界の、異なったリアリティ
僕たちは、似通ったDNAに基づいて生成された似通った身体に基づいて世界を認知している。したがってその認知の在り方もかなり似通っているが、よりミクロに見ていけば各々が持つスキルや経験に応じて、それぞれが生きる世界のギャップも表れてくる。そこには層や深さの違いと言えるようなものもあれば、グラデーションと言えるようなものもある。
ミュラー゠リヤー錯視というものを見たことがあるだろうか。同じ長さの二本の線分に、異なった向きの矢羽がつけられたものだ。二本の線分はまったく同じ長さで引かれているにもかかわらず、矢羽の向きによって一方が長く、もう一方が短く見える。
このような錯視が面白いのは、それが訂正不可能な点だ。現に僕たちは、それが錯視であるということを知ったあとでも、この「見え」を修正することができない。これはハンガーに掛かったシャツが人影に見えたとか、夜道で風に吹かれた落ち葉がネズミに見えたとか、日常的な錯覚とは性格が異なっている。人影やネズミは、僕たちが近づいてよく見ても人影やネズミであり続けたりはせず、すぐにハンガーや落ち葉であることがわかって、その後はもうハンガーであり落ち葉であるという立場に落ち着いてくれる。
ところが、ミュラー゠リヤー錯視は、定規をあてて同じ長さであることを確かめても、角度を変えても、穴の空くほど見つめ続けても、ずっとそのままだ。つまり、この錯視に関する感覚-運動的な熟知は、書き換えられないほどに僕たちの身体の根本的なところをかたちづくっている。だから哲学者のメルロ゠ポンティは、ミュラー゠リヤー錯視の二本の線分が「等しいわけでも、等しくないわけでもない」[7]なんて謎めいたことを言っている。このような言い方は確かに謎めいているが、さきほど確認したエナクティヴィズムの考え方における「世界と心(私)が相互作用のなかで分節化されてくる」という主張に沿って理解することができる。というのも、ミュラー゠リヤー錯視を認識する僕たちを抜きにして、二本の線分の長さが実は等しい、なんてことを言えるだろうか(言う意味があるだろうか)、という疑問が生じるからである。それが等しいということも、あるいは等しくないということも、世界とそれを知覚する僕たちの関係のなかで初めて意味を持つことではないだろうか。線分の長さも、それを等しいとか等しくないとか言う僕たちも、相互作用のなかでしか捉えられない[8]。
少し話がそれたが、言いたかったのは次のようなことだ。一方で、ミュラー゠リヤー錯視に代表されるように、僕たちは決して訂正することのできない、強い制約としての感覚-運動的な熟知を備えている。そしてそうした熟知を土台として、個々人が積み重ねてきた経験に応じてまったく異なる深さで世界を見ることを可能にする感覚-運動的な熟知や記憶のネットワークを作り上げていくのだ。僕たちは、同じ世界のなかで生きながら、それぞれ異なった仕方で世界の深みにアクセスしている。そしてその深みは、僕たちがなにかを面白そうだ、馴染みやすそうだ、知りたいと感じる動機付けを提供してくれるのである。
ここまで、エナクティヴィズムという観点から僕たちが世界の細部にどうやってアクセスし、知っていくのかについて論じてきた。感覚-運動的な熟知や記憶のネットワークを育てあげていくことで、僕たちは世界の深みにアクセスすることができるようになる。そのアクセス可能性が、いまこの瞬間の知覚のなかに、リアリティをもったヴァーチャルな現前を招き入れる。そうやって僕たちは、いちどに見て取ることできるもの、聴き取ることができるものを豊かにしていくことができるのだ。
(次回へつづく)
[1] ここで僕は、メルロ゠ポンティという哲学者が使った「スタイル」という概念の用法を踏まえながら、さらにそれを拡張して用いている。メルロ゠ポンティは、僕たちが知覚する対象が、具体的な細部やまだ見えていない内側や裏側を顕わにするよりも前に、それぞれの対象に特有の存在様式で与えられているのだと考え、この存在様式のことをスタイルと呼んだ(cf. モーリス・メルロ゠ポンティ(一九八一)『メルロ゠ポンティは語る——知覚の優位性とその哲学的帰結——』菊川忠夫訳、御茶の水書房、一二—一三)。このスタイルという言葉は、事物や他者の現れ方が知覚者によって一方的に決められてしまうのではなく、客体側に存在論的な意味での自律性があることを強調するために使われている(というのが僕の解釈だ)。なので僕はここで、それぞれのものが備えている自律性を「世界との結びつき方」と捉えてスタイルという言葉の用法を拡張している。つまり、事物や他者の側に(それを知覚している者に対して)こんなふうに一貫した現れ方をするのだ、というスタイルが備わっているのならば、知覚する者の側にも、あるものを馴染み深い仕方で出現させ、またあるものは疎遠な仕方で出現させる世界との結びつき方、すなわちスタイルが備わっているであろうと。こうしたスタイル概念の用法がメルロ゠ポンティのテクストから導かれるかどうかについて、いまはこだわらない。
[2] フランシスコ・ヴァレラ+エヴァン・トンプソン+エレノア・ロッシュ(二〇〇一)『身体化された心——仏教思想からのエナクティヴ・アプローチ』田中靖夫訳、三一。
[3] アルヴァ・ノエ(二〇一〇)『知覚のなかの行為』門脇俊介+石原孝二監訳、三七三。
[4] 細かい話になるが、さきに引用したヴァレラ、トンプソン、ロッシュによる『身体化された心』で述べられていたような「行為から世界と心が産出される」といった言い方をノエは避けているように思われる。ノエはあくまで、僕たちが世界(環境)を探索するとき、知覚がどんな内容を持つことになるのかをきめ細かく論じるのにとどめており、エナクティヴィズムに分類される研究者のなかでも、どこまで哲学的なコミットメントをするのかにはグラデーションがあることがわかる。
[5] アルヴァ・ノエ(二〇一〇)『知覚のなかの行為』門脇俊介+石原孝二監訳、九六。
[6] ショーン・ギャラガー『身体性認知とは何か』(田中彰吾訳、東京大学出版会)や吉田正俊+田口茂『行為する意識:エナクティヴィズム入門』(青土社)など、エナクティヴィズムを扱った日本語の書籍がここ最近立て続けに出版されている。吉田と田口の本では、今回の議論のなかで世界の「深さ」として考えてきたものを「予測」、また世界と私の相互作用の在り方を「オートポイエーシス」といういずれも理論的に整備された言葉で精緻に論じている。
[7] モーリス・メルロ゠ポンティ(二〇〇九)『知覚の現象学』中島盛夫訳、三三。ただし、翻訳を田村のほうで変更している。
[8] メルロ゠ポンティによるミュラー゠リヤー錯視へのコメントから、僕たちと世界の関係をどのように考えたらよいのかという議論は、かつて拙著『問いが世界をつくりだす』(青土社)の第一一章第二節で行った。

生成AIの登場によって、人類はより情報や知識にアクセスしやすくなった。それゆえ、「知識があるだけの人間は意味がない」「いっぱいものを知っていることより、創造的なアイデアを持っている人のほうがいい」といった言説も流通し始めている。人間にとって「知る」ことの意味とは何か。そして、現代の「知る」ことの困難とは何か。 哲学・批評・クイズ・ビジネスの領域で活動し続ける田村正資氏が、さまざまな分野を横断しながら、「知る」ことの過程をひもといていく。
プロフィール

たむら ただし 哲学者。1992年生まれ。東京都出身。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は現象学とモーリス・メルロ゠ポンティ。著書に『問いが世界をつくりだす メルロ゠ポンティ 曖昧な世界の存在論』(青土社)、『独自性のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)など。
田村正資




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