■ 知ることと記憶すること
僕たちは日々、いろんなことを新たに知る。自分の目と耳で直に見聞きして知るものもあれば、誰かに教えてもらったり、SNSに流れてきたニュースを読んで知ったりするものもある。それら無数の経路からもたらされた情報を僕たちは記憶しておいて、必要なときにアウトプットできるようにしている。知る、記憶する、思い出して出力する。僕たちはふつう、知ることをこのようなプロセスのなかに位置づけて考えている。
だが、そこでいったいどんなことが起こっているのかについて、あまり深く考えることはない。他方で、知ることよりもそれを記憶することについて人々は大きな関心を持っている。どうやったら記憶を定着させられるか、どうやったらすばやく記憶の「引き出し」を開けることができるか。そうしたテーマはいたるところで議論されている。要するに、情報がどのように「保存」されているのかということだ。しかし、人々はそもそもどうやって物事を知るのか、外界にアクセスしているのか、記憶しているものを思い出すとはどういうことなのか。それらのトピックが日常的な場面で問題になることはあまりない。それはものすごく自明なことに思えるからだ。
外界はあらかじめ定まった情報でできていて、僕たちは感覚器官を通じてそれを受け取るだけ。思い出すときにも、記憶の引き出しから適切なものを取り出すだけ。問題になるのはそれを受け取った後にどうやって保存するかのプロセスだけで、受け取る瞬間や思い出す瞬間にどんなことが起きているのかはあまり議論されない。
もちろん、あなたが受け取った情報の出所については日常的な場面でもしばしば問題になる。マスメディアの報道で知ったのか、専門家が書いた本に書いてあったのか、インフルエンサーが「#PR」ハッシュタグをつけた投稿で見たのかなど、出所を踏まえて情報の信頼性をはかるリテラシーは必要だ。しかし、いま考えたいのはそういったことではない。あなたがまさに外界との接触から知識を得る「知覚」の場面、そして、それを「思い出す」場面。この二つをもう少し複雑な仕方で捉えられるようになりたいのだ。ふつう、この二つのプロセスは脳という容れ物のなかに外から情報を取り込んで、そしてそれを再生するという、パソコンのデータを扱うようなイメージで捉えられている。ところが、僕たちの身体はたしかにいろんなことを記憶しているが、記憶媒体と同じようなあり方はしていない。入力するときも出力するときも、単なる入出力に留まらないことが起きてしまっている。そしてそうしたことが起きていることこそ、「知る」という活動の非常に興味深いところなのだ。
まずは、僕たちが抱きがちな記憶のモデルについて確認するところから始めるとしよう。
■ 歪められた「記憶」のモデル
何かを知る、覚えるという活動の典型として、学校での勉強を思い浮かべるものも多いだろう。教科書に書かれた内容を覚えて、ペーパーテストで適切に書き出していく。覚えた内容を歪めず、そのままアウトプットするための「記憶」という能力のイメージは、典型であるだけでなく、僕たちに取り憑いてもいる。
ひとつ例を挙げてみよう。『パプリカ』(二〇〇六年)で知られるアニメーション監督の今敏(こん・さとし)が手掛けたテレビシリーズに『妄想代理人』(二〇〇四年)という作品がある。鬱屈した生活のなかでさまざまな事情に取り憑かれた人々と、そんな彼らに「癒やし」を与える存在をテーマにしている。あらすじは次のようなものだ。
疲れた人々に癒やしをあたえるマスコットキャラクター「マロミ」をデザインした月子は、次回作を期待する周囲からのプレッシャーに押し潰されそうになっていた。そんな折、彼女は通り魔事件の被害者になる。負傷した月子が警察に伝えた犯人の特徴は、ローラーブレードで滑りながら襲いかかってくる、折れた金属バットを持った少年というものだった。この犯人はその特徴から「少年バット」と呼ばれることになり、その後も次々と少年バットの被害者が現れる。人々が少年バットを恐れ、次々と周囲に現れる被害者についてウワサするようになる一方で、警察は難航する捜査のなか少しずつ手がかりのようなものを掴んでいく。
第九話では、メインストーリーをいったん脇において、少年バットによって引き起こされたさまざまな事件のエピソードがオムニバス形式で繰り広げられる。それらのエピソードを通じて垣間見えてくるのは、少年バットは追い詰められた人々に対するある種の「癒やし」として現れる通り魔だということだ。
最初に披露されるエピソードは、受験ノイローゼになった浪人生のもとに少年バットが現れた、というものだ。大事な模試の前日も深夜まで勉強に励んでいるオサムは、机の下になにかを落としてしまう。拾おうと思ってしゃがむと、そこには「πr2」が落ちていた。半径rの円の面積を求める公式——それを落っことしてしまったのだ。
シーンは翌日に切り替わり、オサムはハチマキを巻いて模試に挑んでいる。試験中に思わずくしゃみをすると、解答用紙のうえにはふたたび「F(x)」「sin(90°-x)=cos x」といった、公式のようなものがばらばらと落ちていく。あわててトイレに駆け込み、自分の身体から漏れ出たそれらをもういちど口の中に放りこむ。「覚えたのに……!」と涙を浮かべながら嘆く彼の身体からは、それでもたくさんの「それ」があふれ出てくる。こらえきれずに「助けてくれ!!!」と叫んだオサムの個室を、誰かがノックする。オサムが見上げると、折れた金属バットに赤いキャップの「少年バット」が覗きこんでいた[1]。
このエピソードは、僕たちの生きる社会のなかで、学ぶことや知ることのイメージが二重に歪められていることを示している。ひとつは、学ぶことや知ることは、どこまでいっても社会的な地位を向上させるための手段でしかなく、それ自体が目的とされることはない、というイメージだ。それを引き起こしているのは、学歴を獲得しなければ共同体や社会でつまはじきものにされるかもしれない、と人々を過酷な受験勉強へと駆り立てるプレッシャーであり、それを全身で受け止める(浪人生になり、受験ノイローゼになってもその土俵に留まり続ける)ことが余計に周囲からの孤立を際立たせてしまうという状況だ。そのような環境において、学ぶことや知ることは苦しみながら向き合わねばならない困難であり、自分の欲望を犠牲にして耐え忍ばれなければならないものとして扱われるようになる。
そしてもうひとつは、僕たちが何かを学ぶことは、自分という容器のなかに情報を収納していくことだと捉える「器」と「中身」のイメージだ。より僕たちの情報環境に近い言い方をするなら、「容量」と「データ」のイメージと言ってもいい。いずれにせよ、そのようなメタファーが流通しているところには、僕たちと外界の関わりを、即物的なものとして捉える傾向を見出すことができる。
『妄想代理人』のオサムは、このような仕方で二重に歪められた学習イメージのなかに囚われてしまっている。志望した大学に合格するための勉強に囚われ、そして自分という器のなかにひたすら学習内容を詰め込んでいくことに囚われている。だから、限界を迎えたオサムの口や耳から、それらが漏れ出していくのを止めることができない。ペーパーテストによって争われる大学の定員という枠から自分が漏れてしまうことと、自分の身体という器から学習内容が漏れ出していくこと。二つのイメージはパラレルになって、僕たちの「知ること」を囲い込んでいる。
しかしながら、学ぶこと、知ることにはこれらのイメージに決して還元されない側面がある。学ぶこと、知ることにかけられた二重の呪いについて、もう少しだけ展開してみよう。
■ 生き抜くために学ぶこと/学ぶために学ぶこと
まずは、学ぶことが社会的な地位の向上のような目的ともっぱら結びつけられ、手段としてしか顧みられていないことについて考えてみよう。某大学の一年生向けの授業にゲスト講師として参加させてもらったとき、学生のAI利用について話すことがあった。その大学のガイドラインでは、レポートなどにAIを活用することそれ自体は禁じられていない。それゆえ学生たちは、つねにAIを使うかどうかを判断しながら目の前の課題に向き合っていかねばならない。これは僕が大学生だった頃には決してありえなかった状況で、だからこそ彼らは心理的に難しい状況に置かれていると思った。
そんな学生たちに、僕は次のようなことを言った。「それが生き抜くためならば、AIでもなんでも使ったらいい。でも自分が学ぶためならば、使って意味があるのかを考えないとだめだ」。要するに、手段としての学びと目的としての学びをしっかり区別しようと、と呼びかけたかったのだ。
そんなやり取りをしていると、学生のひとりからこんな話が出た。「自分は生き抜くためにレポートでAIを積極的に使った。そうすると、自分の力で頑張ったときよりも成績が上がってしまって、がっかりした」。その日の僕の講義のテーマのなかに「がっかりする」という論点を盛り込んでいたので、それを受けての発言であることを割り引いても、ここには僕たちの生活がAIによって浸食されていくことへの抗いがたさが表れている。生き抜くためのその場しのぎが、自分で真摯に取り組んだ成果よりも評価を得てしまう。成績が上がってしまう。お金が稼げてしまう。自分でやったほうが上手くできているうちは良かったのだ。気が進まなくても着手できるとか、心理的・身体的負担を少しでも和らげてくれるとかいった副次的なメリットにとどまっているうちは、「AIなんかに頼っても、その場しのぎになるだけで自分のためにならない」と胸を張って言えた。しかしながら、いまはもう、あらゆる場面ではないにしても少なくない場面で、結果を出すためにはAIを使ったほうがいい、という状況になっている。しかも、彼らが大学を卒業して就職し、会社への売上に貢献することを求められるようになれば、「結果が出るのであればAIを使ったほうがいい」というプレッシャーはより決定的なものとなる。
このような状況でなおも、自分のなかで生じる手応え、自己を変化させながら学ぶ喜びに目を向けろというのは彼らにとって過酷な要求だ。カンニングをしたら自分のためにならない、というのは、自分自身の能力を高めることが社会に貢献し評価されるのと直結しているからこそ正論でありえた。だが、いつでもカンニングができるツールが開発され、カンニングをし続けるほうが自分で頑張るよりも活躍できるとしたら? それでも、学ぶために学ぶのだ。無責任なのを承知で何度でも繰り返す。自分自身の満足を追究し、そのために学ぶことこそ、決してAIには代替されない最後の領域だからだ。成果に直結しているからといってすべてを代替させることは、その最後の領域さえも譲り渡してしまうことになる。
学ぶことはいま、AIによって梯子を外されつつある。人類のほうが本当は知的に優れているのだとか、あいつらは記号接地してないんじゃないか、なんて気休めを言っていてもしょうがない。一部の天才にとってはまだ自分の頭脳を磨くほうが人類に貢献できると感じられるかもしれないが、もはやほとんどの人類にとっては、自分がいっぱしの人間になるために学ぶよりも、AIを使ったほうがいいという感覚のほうがリアルになっているかもしれない。
つまり、僕たちが自ら進んで行う学びは、もはや目的とは結びつきえない。社会的評価とすら結びつかないかもしれない。それでも、僕たちは自分の満足のために学ぶことをずっと続けてきたし、今後もその領域は残り続けるはずだ。というよりもむしろ、その領域を残し続けられるかどうかだけが、これからの人類にとって重要なことだとさえ思える。だからこの状況を逆手にとって、なんらかの目的と結びつけなければ学ぶことを肯定できなかった呪いには、AIに道を譲ることでおさらばしよう。肝心なのはその後なのだから。
■ 記憶は再創造される
次に、知ることとは、容器(自分)に中身(情報)を詰めていくことだ、というイメージについて考えてみよう。『妄想代理人』を出すまでもなく、藤子・F・不二雄のマンガ『ドラえもん』に登場するひみつ道具「アンキパン」がこのイメージの普及に一役買っている代表例ではないだろうか。
アンキパンは食べることができるトーストのようなかたちをしたひみつ道具だ。覚えたいことが書かれたノートに貼り付けると、その内容が転写される。それを食べると、転写された内容をばっちり記憶していていつでも答えることができるようになる[2]。マンガでは、明日のテスト勉強がまったくできていないと泣きついてくるのび太にドラえもんがアンキパンを与える。これでテストも乗り切ることができると思いきや、アンキパンと関係のないおやつや夕ご飯まで食べてしまい、食べ過ぎでお腹を壊してしまう。テストを控えた翌日の朝、のび太は案の定お腹を壊し、覚えたことまですべてトイレで流してしまった[3]。もういちど大量のアンキパンを食べながら「一ページめから食べなおしだ。 勉強はつらいなあ。」とぼやくというオチになっている[4]。
このアンキパンや『妄想代理人』のオサムのエピソードの前提となっている記憶観は、容器と中身の記憶観である。自分という容器があって、そこにモノのように情報を詰め込んでいく。容器には容量があって、それを超えれば情報は流れ出てしまうし、容器に穴が空いたらそこから情報が漏れ出ていってしまう。そんな即物的なイメージで記憶が捉えられている。このような「記憶の容量モデル」は僕たちの生活のなかにも染み込んでいる。僕たちが記憶できる力をコンピュータの記憶容量と比べたりすることもある。そのようなイメージを勉強法に反映させれば、なるべく余計な情報は省いて必要なものだけをひたすら覚えるのが最適な勉強法だ、という考え方になるだろう。
ところが、記憶というのは即物的なイメージでは捉えきれない特徴を持っている。このことは、覚える場面よりも思い出す場面を想起するとわかりやすいだろう。僕たちは、覚えている内容を机の引き出しやパソコンのフォルダのように、順を追って手際よく取り出すことはできない。思い出したいことの輪郭やコアとなるキーワードをなんとかなぞっていくうちに、一挙に全容が思い出される。そういうことがしばしばある[5]。
また、僕たちが覚えているのは「織田信長」とか「サンフランシスコ平和条約」のような単語ばかりではない。タウンゼンド諸法の発布からボストン茶会事件を経てアメリカの独立にいたるまでのストーリーとか、今年のコナン映画のあらすじとか、そういった一連の流れとでもいうものもまた記憶している。このようなストーリーを思い出すとき、僕たちは全体をそのまま記憶しているというよりも、キーワードやキャラクターなどの点(ノード)と、それらの結びつき方(リンク)のパターンに圧縮したようなかたちで記憶し、思い出すときにその場でストーリーを再創造しているような感覚を持っている。僕にとって、アメリカが独立にいたるまでの理路を思い出すことは、「代表なくして課税なし」というキーワードとそれがイギリス、アメリカ、ボストンといった名詞にどう結びついているかを再構成するような作業であるし、コナン映画のあらすじを説明するときには、まず今年の映画でフィーチャーされていたキャラクター(白バイ隊員の萩原千速)を想起して、そこから他のキャラクターとの繫がりをたどっていくような作業になる。
脳科学的な知見も、僕たちが何かを思い出すことがもういちど記憶を創造するような作業であることを示唆している。神経科学者の櫻井芳雄によれば、僕たちは認知した物事を概念ネットワークのようなものに変形して記憶している。しかし、僕たちはなにかを思い出すときにはつねに概念のかたちで思い出すのではなく、景色なら景色、匂いなら匂い、概念なら概念といった記憶されたときの様相で思い出している。櫻井は次のように述べている。
どうやら記憶は概念ネットワークとして存在しているらしいのですが、私たちがある刺激や経験を思い出すとき、それらをつくっている個々の概念を思い出すわけではありませんね。その刺激や経験そのものを思い出すはずです。ということは、何かを思い出すとき、それを概念ネットワークから再構成していることになります[…]。皆さんもよく経験するように、思い出した記憶がしばしば実際の刺激や経験と微妙に違っているのは、つまりゆがんでいたり変容していたりするのは、その都度脳がつくっているからなのです。[6]
僕らはパソコンのようにデータを保存し、それをそのままアウトプットしているのではない。記憶とは、外界の経験がそのまま映像や音声として保存されているのではなく、いちど概念ネットワークへと変形されて保存される。櫻井によれば、この概念ネットワークのあり方(どんな概念とどんな概念が繫がっていて、それらの結びつきがどれくらい強いのか)はひとりひとりまったく異なっている。このような知見を踏まえるなら、ときに僕たちが喉から手が出るほど欲する記憶力というものは、ハードディスクの空き容量やコンピュータの処理速度のようなものではなく、記憶したいものと自分の持つ概念ネットワークの類似度によって決まる「記憶しやすさ」なのではないだろうか。
「記憶しやすさ」について、有名な研究を紹介しよう[7]。オランダの心理学者デ・フロートは、チェス盤に置かれた駒の配置を記憶するという課題に対して、達人たちがアマチュアのプレイヤーたちよりもはるかに高いスコアを示すことを実験で確認した。この先行研究を踏まえ、サイモンとチェイスはさらなる実験を行った。彼らはチェスプレイヤーたちに、実際の対局のなかで登場する盤面だけではなく、駒を無造作に配置したでたらめな盤面を記憶する課題も課したのだ。そうすると、プレイヤーの実力と盤面の記憶の相関性は、ランダムな盤面のほうがゲームに登場する盤面よりもはるかに低くなるという結果が出た。この結果は、チェスの達人とそうでないプレイヤーのスコアの差は、純粋な記憶力によるものではなく、実際の対局のなかで意味を持つ盤面のパターンにどれだけ親しんでいるか、という点から説明する可能性を示唆している。つまり、チェスの達人たちはゲームに頻出の盤面をパターン化し、それらを関係付けた概念ネットワークをすでに持っているからこそ、与えられた盤面を容易に記憶し再現することができるのである。サイモンとチェイスは、チェスプレイヤーたちにとって親しみ深い、ひとまとまりで意味を持つ駒の配置のパターンを「チャンク」という言葉を使って説明した。僕たちの記憶の特徴を「チャンク」という塊で捉える見方は、いまでは英語の学習参考書でもよく見かけるほど浸透している。
また、記憶はそれが作られた文脈にも大きく依存している。たとえば、駅のコインロッカーを使ったとき、どのロッカーなのかを友人に電話で説明しようとして何も思い出せなかったとしても、友人と一緒に駅にいたら「あっちのロッカーだよ」と難なく案内することができる。ロッカーの正確な場所を俯瞰して覚えているのではなく、身体的な感覚を伴った道筋や周囲の景色のなかでロッカーの位置を覚えているということなのだろう。このような文脈依存性は、覚えている内容と本質的にかかわりのないもののあいだでも生じる。それゆえ、学習内容にとっては偶発的な文脈であっても、それは後で思い出すときの潜在的な手がかりにもなりうる[8]。
自分が慣れ親しんだ物事は、ひとつひとつが分かれることなくあるパターンや塊(チャンク)として認識される。そのように認知コストが下がることによって、記憶することも容易になる。だから、学習を進めていくうえでは、頻出するチャンクに慣れ親しんでいくことが効果的だ。向坂くじらと柳原浩紀の『群れから逸れて生きるための自学自習法』は、チャンクという言葉こそ使っていないけれども、あらゆる教科の学習において、その基本的な構成要素をしっかりと見極め、それに親しむことがその後の発展的な学習にとって重要だと説いている。この本のなかで非常に興味深いのは、基礎的な学習によってまとまりを上手く捉えられるようになっていくことを「リアリティ」を獲得することと解釈している点だ。柳原が執筆を担当した第四章では、次のように述べられている。個人的に非常に感銘を受けた箇所なので、少し長めに引用しよう。
BGMやページの中の位置のような現実世界での周辺情報をついつい覚えてしまうのは、誰でも最初は現実世界の情報のほうがリアリティがあるからだろう。「関係ないことばかり気になって、全然覚えられないよ?」というときは、その学習内容の中に、リアリティを持って感じられるものが少なすぎて、現実世界の周辺情報の持つリアリティばかりがあなたの感覚に強く訴えかけてくる、ということでもある。
情報を絞って定着させていくことで、学習内容の中に、現実世界であなたの気を逸らすものと同じ、あるいはそれ以上のリアリティを獲得していくことになる。それを一気に大量に定着させることなんかできない。学習内容がリアリティを競う相手は、わたしたちの生活するこの現実なのだから、とても手強い相手だ。だからこそ、それが定着するまでは記憶対象を徹底的に絞り、それらについてぶらぶらしながら楽しむこと、馴染んできたらくりかえすことで、それらを少しずつ、この現実と同じようにリアルなものにしていくことが大切だ。[9]
これまで論じてきた記憶の性質と柳原の議論を結びつけるならば、物事を上手く記憶するために、それらをパターンや塊としてひとまとまりにした「チャンク」に親しんでいくことは、その領域が自分にとってリアリティを持つようになるということなのだ。この連載のテーマに無理矢理引きつけるならば、何かについてよく知ること、学ぶことは、それらが自分の世界のなかでリアリティを獲得していくことであって、リアリティを獲得したものと自分は、いまよりも活き活きと関わることができるようになる。たとえ抽象的な学問であっても、慣れ親しんでいく過程でそれは現実世界と同等のリアリティを獲得することがあるのだ。
■ リアリティを持った知覚はどのようにかたちづくられるのか?
ここまで、『妄想代理人』や『ドラえもん』のエピソードに典型的な、歪められた記憶モデルから話を始め、記憶の興味深い特徴について論じてきた。最後の議論では、記憶のしやすさというものは、僕たちが外界を認識する仕方そのものと強く関わっているのではないか、という論点が示唆されている。つまり、記憶の創造は、僕たちがリアリティを持ったものとして世界を認識するというその瞬間に始まっているのだ。
では、僕たちがリアリティを持って世界を認識するその瞬間にはどのようなことが起こっているのか。僕たちの世界認識は、どのようにかたちづくられているのか。このような論点について、次回以降では認知科学と哲学の合流地点に生まれた「エナクティヴ・アプローチ」という理論を参照しながら論じてみたいと思う。
(次回へつづく)
[1] 劇中では、このエピソードがあくまで団地の主婦たちによるウワサ話のひとつであると補足されている。本当にこんなことがあったのかはもちろんわからない。オサムは自殺してしまったと聞いたが、真相は「少年バット」による襲撃だったのだ、と。
[2] ちなみに、「タイムパトロール」などの設定やキャラクターの一部を『ドラえもん』と共有している『T・Pぼん』では、任務で赴く時代の基礎知識をいっぺんに脳に記憶させられる装置が出てくる。
[3] 覚えたことがトイレですべて流れ出ていってしまう、という描写には『妄想代理人』との類似を指摘することができる。
[4] アンキパンのエピソードは、てんとう虫コミックス版の『ドラえもん』第2巻に収録されている。
[5] そのような意味で、僕たちが何かを思い出すあり方はパソコンのフォルダよりも、Googleドライブに近いあり方をしていると思っている。Googleドライブの特徴は、必要なファイルを呼び出すときに整理されたフォルダを辿るのではなく、検索によってそこへアクセスすることを想定した並列的な設計だ。もちろんフォルダによって整理することはできるのだが、ファイルがどんどん増えていったときにはフォルダ単位で検索したり、ファイル単位で検索したり、ファイルの中身に含まれる文字列で検索したりといったかたちで、ファイルを発見するためのトリガーをさまざまな異なるアプローチで見つけていくことになる(これは僕がGoogleドライブを上手く使えていないから、という可能性もあるのだが)。このような、Googleドライブにおいてファイルを見つけるためのトリガーを探るプロセスは、思い出したい情報を思い出すときのプロセスに非常に似ているように思われる。
[6] 櫻井芳雄(二〇二六)『記憶と脳の探究』、岩波書店、八—九。
[7] 以下で紹介するチェスプレイヤーの研究についての記述は、P. E. ロス(二〇〇六)「チェス名人に隠された才能の秘密」、『日経サイエンス』二〇〇六年一一月号、四六—五四 に依拠している。
[8] cf. カタジーナ・ザワヅカ+マチェイ・ハンザコウスキー(二〇二二)「知ることの文脈依存錯覚」 、二三二—二三三(所収:アン・M・クリアリー+ベネット・L・シュワルツ編『記憶現象の心理学』清水寛之+山本晃輔+槙洋一+瀧川真也訳、北大路書房)。
[9] 向坂くじら+柳原浩紀(二〇二五)『群れから逸れて生きるための自学自習法』、明石書店、五五。

生成AIの登場によって、人類はより情報や知識にアクセスしやすくなった。それゆえ、「知識があるだけの人間は意味がない」「いっぱいものを知っていることより、創造的なアイデアを持っている人のほうがいい」といった言説も流通し始めている。人間にとって「知る」ことの意味とは何か。そして、現代の「知る」ことの困難とは何か。 哲学・批評・クイズ・ビジネスの領域で活動し続ける田村正資氏が、さまざまな分野を横断しながら、「知る」ことの過程をひもといていく。
プロフィール

たむら ただし 哲学者。1992年生まれ。東京都出身。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は現象学とモーリス・メルロ゠ポンティ。著書に『問いが世界をつくりだす メルロ゠ポンティ 曖昧な世界の存在論』(青土社)、『独自性のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)など。
田村正資




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