「国民的娯楽」の黄昏
「06年、再就任してからの目標は当然『優勝』だったが、その前に『再建』の二文字が立ちはだかっていた。驚いたことに、とにかく選手がいなかった。先にも書いたが、主力選手が開幕直後から相次いで故障し、それは年間を通じて絶えなかった。それをフォローすべき控え選手は、まだ独り立ちしていなかった。誰かいないのか。もうどうしようもないから、誰かスターティングメンバーを決めてくれ、と。そのぐらいのメンバーで戦っていた」
(原点 勝ち続ける組織作り/原辰徳/中央公論新社)
前年の2005年シーズンの巨人は球団史上初の80敗を喫し、26年ぶりのリーグ5位と低迷していた。チーム打率.260、防御率4.80はともにリーグワーストで、堀内恒夫監督はわずか2シーズンで辞任し、監督との確執が報じられた清原和博、タフィ・ローズ、元木大介らベテラン陣が追われるようにチームを去った。そして、傷だらけの巨人軍の再建を託されたのは、二度目の監督就任となる47歳の原辰徳である。
だが、夏場に巨人の次期監督の有力候補として、名前が挙がったのは阪神の星野仙一シニアディレクターだった。巨人の渡邉恒雄会長は、星野SDのことを聞かれると、「立派な監督さんだよ、何度も言うけど」と褒め称え、メディアも「“新生”巨人の人事はこうなる 星野仙一G軍監督へ『原辰徳が助監督!』」(週刊現代2005年9月3日号)と騒ぎ立てた。しかし、伝統の生え抜き監督を望む巨人OB陣からの猛烈な反対もあり、星野は9月10日に大阪市内のホテルで会見を開き、来季の阪神残留を表明した。「あなたたちがしっかりしないから、よそもんの星野の名前が挙がるんじゃないの」と巨人OB陣を激しく非難した58歳の星野はこの騒動の直後に、巨人頼みの球界の古い体質にも苦言を呈している。
「そもそも、Jリーグができたときに『これは大変だ』となって、いろんなことを考えだした。その危機感をずっと持てばいいのに、プロ野球も『平和ボケ』してた。『巨人ボケ』してた。巨人は老舗中の老舗、プロ野球の創設者。これはよく分かります。だけども、あまりにも他の球団が巨人に頼りすぎた。巨人が案を出せば、みんな黙ってそれに従っておった。その“ツケ”が来てるんですよ」
(週刊ベースボール別冊冬季号 2005プロ野球総決算)
実際に、その巨人ブランドの威光にも翳りが見え始めていた。2005年は、首位阪神と20ゲーム差以上も離されて早々に優勝争いから脱落したため、日本テレビは10月の巨人戦の地上波中継を他番組に差し替えた。優勝チーム決定前の地上波中継打ち切りは、日本テレビとしては初めてのことだった。1999年に年間平均視聴率20.3%を記録していた巨人戦中継は、長嶋監督が退任した2001年は15.1%にまで落ち込むが、原監督の就任即Vの2002年には16.2%とやや回復。しかし、堀内体制の2004年は12.2%、2005年には10.2%と急激に悪化していく。かろうじて二桁を維持していたが、地上波ゴールデンタイムからの完全撤退も囁かれた。なお、サッカードイツW杯のアジア最終予選の日本対北朝鮮は、2月9日の埼玉スタジアムの一戦が視聴率47.2%を記録。6月8日に3大会連続のW杯出場を決めた北朝鮮戦も視聴率40%超えと、スポーツ中継の視聴率ランキングはサッカー日本代表戦が上位を独占した。
この頃、個人的に忘れられない出来事がある。当時26歳の私はサッカーDVD制作会社で駆け出しのデザイナーをしていたが、日本代表の試合をまとめた作品や、中田英寿や中村俊輔ら中心選手のDVDが大量にリリースされて仕事が途切れず、毎日終電帰りの激務だった。ある日、いつものように深夜に帰宅し、なんとなくテレビをつけると、ブラウン管テレビの中ではなんと巨人戦が放送されていた。視聴率低迷が続き、ゴールデンタイムから深夜の録画中継に急遽差し替えられたのだ。昭和や平成前半の“ジャイアンツ・アズ・ナンバーワン時代”を知るオールドファンにとって、それは事件だった。平日の深夜に静かに流れる巨人戦中継は、2005年を象徴する風景として、いまだに鮮明に覚えている。
21世紀の初頭、巨人戦が「国民的娯楽」だったプロ野球黄金時代が、ついに終焉しつつあった。そんな時代の変わり目に巨人再建を託されたのが、原辰徳だったのである。
再建を任された若大将
前回の第一次政権時、青年監督の原はコーチ人事を巡りフロントと対立し、その座を自ら辞していたが、2005年10月5日の二度目の就任会見では、「この2年間という月日が自分の視野を広げてくれました。原ジャイアンツの色をしっかり出せる、という気持ちが前回より大きい」と前向きな決意を語った。2年前の辞任会見時、渡邉恒雄会長の“読売グループ内の人事異動”という台詞が物議を醸したが、「渡邉会長とのわだかまりはないよ。オレにとってジャイアンツが故郷みたいなもの」とチームの危機にカムバックを決意した若大将をファンも好意的に迎え入れる。11月23日のファンフェスタでは、東京ドームで「ファンの皆様、どうか力を貸してください」と指揮官は頭を下げた。
第一次原政権時に日本一を勝ち取った2002年から、3年しか経っていなかったが、チームは様変わりしていた。松井秀喜はメジャーリーグへ去るも、それに代わる新たな軸となれる大黒柱は不在で、ベテラン陣が衰え、中堅組は停滞し、若手は伸び悩んだ。いわば、“長嶋政権の遺産”が尽きたのである。巨人の滝鼻貞雄オーナーも原監督の就任会見で、「エースと四番打者という中軸をしっかり作って、バランスいいチーム作りをしてもらいたい」と異例の注文を出していた。
帰ってきた原監督はオフからチーム再建へ精力的に動く。新たなチームの柱には、2005年に119試合で四番に座った小久保裕紀を新キャプテンに抜擢した。堀内前監督は正捕手・阿部慎之助の打撃を生かすため三塁コンバートを考え、一時は阿部本人も守備の負担が減る一塁転向に前向きだったという。だが、原監督との電話会談に臨み、捕手一本でプレーすることを決意した。新四番候補には、ロッテからイ・スンヨプの補強に成功する。FAでは交渉の席で原監督自ら選手に直電を入れ、中日から先発強化の野口茂樹、西武からも抑え投手の豊田清を獲得。2005年のチーム最多勝が42歳・工藤公康の11勝ということもあり、世代交代が急務の投手陣において、ドラフトでは指名10選手中、8名がピッチャーだった。さらに7年間に渡りソフトバンクの投手コーチを務めていた尾花高夫が、家庭の事情で東京に戻り、巨人二軍投手コーチ就任が決まっていると知るや、原は大胆な行動に出る。当時のソフトバンク監督の王貞治へ自ら電話をかけて了承を得ると、尾花を直々に説得して一軍投手総合コーチを任せるのである。
残酷な結果と監督としての成長
復帰1年目の2006年シーズン、原巨人は開幕4試合目に2年ぶりの単独首位に立つと、4月末まで8連勝を含む18勝6敗2分けと理想的なスタートを切る。5月22日には最多貯金14と快調に首位を走るが、順調なのはここまでだった。エースの上原浩治が右太もも肉離れ、主力野手陣の高橋由伸が左肩腱板損傷、小久保裕紀も右手親指内側側副じん帯剥離骨折と代えの効かない中軸に故障者が続出して、交流戦にチームは急失速してしまう。6月6日から14日まで8連敗、さらに18日から30日まで球団では31年ぶりの泥沼の10連敗を喫して、4位に転落すると、それ以降Bクラスから浮上することはなかった。7月4日から14日にも再び9連敗で、早くも自力優勝が消滅する。この時期、緊急補強により巨人に来た元阪神のジョージ・アリアスは、チームの体質を厳しく批判した。
「首脳陣も保身の事しか考えてないから冒険はしないし、選手にペナルティーを課す事によって責任の所在を明らかにする。だから、一目で分かるんだ。選手がね、みんな小さくまとまってるんだよ。ミスを犯さないように、失策しないようにってね。ただでさえ野球は難しいスポーツなのに、本来のプレー以外の事にみんな気を取られてるから全然ダメ」
(スポーツ・ヤァ!No.150)
渡邉恒雄会長は、「今年はもういいよ。来年、再来年勝てるチームの育成を頼んだ」と早々に終戦宣言。滝鼻オーナーも、「長い巨人の歴史の中でこういうこともあるのかな。悪い時にオーナーになったと思うよ」と記者に愚痴った。8月4日に最下位転落したチームを率いながら、原は怒りすら感じていた。ひ弱な選手に対して、さらにこの状況を引き起こした自分に対してである。
2003年9月、原は球団代表に就任した三山秀昭との確執もあり、自ら監督を辞めることを決断した。要は、怒りの辞任だ。監督やコーチがミーティングをしていると、いきなり代表が部屋に入ってきて、翌日の先発投手を名指しで指定してきたこともあったという。フロントのいきすぎた現場介入が、青年監督には我慢がならなかった。このとき、いわば経営陣に反旗を翻した原の行動は巨人ファンだけでなく、敵地・甲子園の阪神ファンから異例の「原コール」が送られるなど多くの野球ファンから支持された。だが、2001年に長嶋茂雄監督が退任し、2002年には四番打者の松井秀喜がニューヨーク・ヤンキースへ去り、2003年に原までもが監督を電撃辞任したことで、結果的にチームは揺らぎ、迷走することになる。
「前任の堀内さんが非常に苦労をされていたのは、外から見ても分かっていた。しかし、実際にまたユニフォームを着てみて、思った以上にチームは荒廃していた。その瞬間に自分に対する怒りが湧いてきたんです」
(ジャイアンツ80年史PART.4/ベースボール・マガジン社)
そして、7月に48歳になった原は「どんなことがあっても、一時の自分の感情で動いてはならない」と心に誓うのだ。いわば、第一次政権の2年間と監督復帰直後の2006年シーズンの計3年間が、己の理想を追い求めた青年監督期だった。だが、グラウンド上では、理想を追求してばかりではいられない。残酷なほどの厳しい現実が、3シーズン目の原巨人を打ちのめしたのも事実である。チームはなんとか4位に順位を上げるのがやっとで、首位中日とは23.5ゲームも離され、目の前で落合博満監督の胴上げを見る結末だった。
「10月10日、僕はその現実を突きつけられた。東京ドームの最終戦で、中日に3対9で敗れ、目の前で落合博満監督の胴上げとなった。中日の9点のうち7点はウッズの3ランと延長十二回の満塁弾だった。我々が力尽きたのだ。それならば、誰がどう抜けてもよいチームを作ろうと、と思った。一人ひとりが自立し、どんな敵が来ても先陣を切って、たとえ一人になっても相手と勇猛果敢に戦う人間。そんな強い選手がいるチームを作るのだ。うまいだけの選手、過去の成績にあぐらをかいているような選手はいらなかった」
(原点 勝ち続ける組織作り/原辰徳/中央公論新社)
146試合、65勝79敗2分、勝率.451。リーグワーストのチーム打率.251、球団史上初の4年連続のV逸、2年連続Bクラスの4位低迷という屈辱的な原監督の復帰1年目となった。その不甲斐ない戦いぶりに、テレビの年間平均視聴率は初めての一桁となる9.6%にまで急落する。夏には日本テレビが最大30分間の延長オプション放送を中止。フジテレビは地上波放送を打ち切り、CS放送のみでの中継へと踏み切った。
監督・原辰徳のターニングポイント
人気低迷に加えて、やはり2002年の日本一に貢献したベテラン選手たちの力の衰えは顕著だった。選手・原と現役時代をともにしたプロ21年目の桑田真澄は、わずか3試合の一軍登板とほとんど構想外に近い扱いで、首脳陣に相談することなく、9月23日に自身の公式ホームページで最終登板を告知。翌24日にイースタン・リーグの湘南戦で先発マウンドへ上がり、ジャイアンツ球場最多の3495人を集めて有終の美を飾り、夢のメジャーリーグ挑戦へ踏み切る。少年時代に雑誌の懸賞で当たった原辰徳のサインバットを宝物にしていた35歳の仁志敏久は、巨人でも背番号8を継承したが、この年は自身ワーストとなる64試合の出場に終わるとトレードを志願して、新天地の横浜へ去っていった。
就任1年目は、「プロ野球というのは基本的に『競わせる』世界ではないと思っています。なんと言っても選ばれた人間が集まって構成される世界です。そういった彼らに無用な競争を強いるというのは、極めてレベルの低い指導法ではないでしょうか」(選手たちを動かした勇気の手紙/原辰徳/幻冬舎)と主力陣のプライドを尊重して日本一に導いた原采配だったが、選手たちの怪我や衰えで方向転換を余儀なくされる。通算17年間の監督生活において、ひとつのターニングポイントとなったのが、2006年の惨敗だったのである。
うまい選手より、強い選手が欲しい―。理想を追い求めるよりも、現実を見据えたチーム作りへ。そして、翌2007年、指揮官としての原辰徳は、それまでとはまったく別の顔を見せることになる。
【第6回へつづく】

2002年、現役時代から比較されてきた長嶋茂雄の後を継ぎ、読売巨人軍の15代監督に就任した原辰徳。その後、3期17年に渡って監督を務め9度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた彼は、巨人の伝統を背負いながら大型補強と大胆なベンチワークを独特のマネジメントでまとめ、新しい野球の形を示した。しかし、現役時代から昭和の象徴である長嶋茂雄の後を背負いながら、平成・令和を経て野球という娯楽の在り方の変化に翻弄された。そして、3度目の監督就任時にはファンから多くのバッシングを受けながら監督を退任するに至る。若き改革者は、なぜファンからも嫌われる「ヒール」になったのか?17年の軌跡を追う。
プロフィール

なかみぞやすたか 1979年埼玉県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。ライター兼デザイナー。
2010年より開設したブログ『プロ野球死亡遊戯』が人気を博し、プロ野球ファンのみならず、現役の選手間でも話題になる。『週刊ベースボールONLINE』『Number Web』などのコラム連載の執筆を手掛ける。
主な著書に『プロ野球死亡遊戯』(文春文庫)、『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)、『巨人軍vs.落合博満』(文藝春秋)、『プロ野球1年目の分岐点 25歳の落合、18歳の大谷』(PHP新書)などがある。
中溝康隆





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