リアリティショー化する社会 最終回

リアリティショーに組み込まれていく私たち

霜田明寛

〝アテンション・エコノミー〟の中で〝セルフ・リアリティショー〟を行うインフルエンサーたち

前回、リアリティショーの出演者は「悪名は無名に勝る=多少の好感度よりも知名度が大事」という感覚を持っていることに触れた。彼ら彼女らと同じ感覚を持っている職業が、インフルエンサーである。

インフルエンサーたちは、番組に出る代わりに自らSNS上で発信を行う。自らが被写体となり、自らを撮影し、編集してアップする彼らは〝セルフ・リアリティショー〟を行っているとも言える。

そしてインフルエンサーが生きるのは、番組の中ではなく、〝アテンション・エコノミー〟が成立しているネット空間の中だ。

アテンション・エコノミーとは、人々の関心や注目を得ることが経済的価値を持つ社会のことであり、「関心経済」とも呼ばれる。ネット社会における人々の関心は、SNSのインプレッション(表示数)や、WEBメディアのページビュー数といった形で可視化され、それ自体が価値を持ち、交換材として経済的価値を持って取引きされる。つまり、PV数の多いWEBメディアや、フォロワー数の多いインフルエンサーの方が広告的価値が高くなる。端的に言うと、人々の関心を集められれば集められるほど、お金が儲かる仕組みになっているのである。

〝セルフ・リアリティショー〟を遂行する原資になっているのは、私たち一般のユーザーの時間や関心なのだ。

ネット上の空間では必ずしも、正しさや善良さのあるコンテンツが関心を集めるとは限らない。むしろ、フェイクニュースや悪意・嫉妬を源泉とした発信やエロ・グロなどの過激なコンテンツの方が関心を集めることもある。注目を集めれば集めるほどお金が儲かる仕組みの中では、正しさや善良さが負けることがあるのだ。現状、メディア企業でさえ、倫理観をもって、このアテンション・エコノミーの仕組みに打ち克っているとは言えない中、個人のインフルエンサー全員がそれをできているとはお世辞にも言えない状況である。

〝オールドメディア〟への嫌悪と〝リアル〟と〝リアリティ〟の混同

とはいえ、インフルエンサーの影響力は侮れない。2013年には既にYouTuberがレビュー動画を上げた商品が売れるという現象が起き始めており、インフルエンサーが物を紹介したり、もしくは身につけたりするだけで売れるといった状況は2015年には一般化していた。テレビのCMや雑誌の記事などではなく、SNSを見て購買を決めているという20代前半の女性は、その消費行動の理由をこう説明してくれた。

「インスタグラマーが発信している情報のほうが、マスメディアの紹介よりもリアルだから」

この一言には現代の若者の感覚が集約されており、インフルエンサーや消費に限らない、メディアの接し方があらわれている。

いつから、そしてなぜこのような発言が当たり前に流通する状況になってしまったのだろうか。その理由の根底には〝オールドメディア〟への嫌悪と、〝リアル〟と〝リアリティ〟の混同があるのではないだろうか。

一般的に、個人がネット上にメディアを持ち始めた走りはブログで、ブログ元年は2004年と言われている。当時、筆者は大学生だったが、周囲の友人がブログやmixi日記に自分の生活や考えを綴り始めていたのを記憶している。

2004年当時の筆者には、「テレビや雑誌といったマスメディアを通じて流れてくる情報は、多くの人の目を通って精査され、整理された重要なもの」という暗黙の認識があった。だからこそ、ネット空間を通じて流れてくる情報の質の差に混乱し、友人のブログを見て「お前がどこでどんなチャーハン食ったとかどうでもいいんだよ!」と憤っていた。その情報を得る時間が無駄とすら感じていた。

しかし、20年の時が流れ、現在の筆者はSNS上に溢れる個人の発信を見ることに、ある程度の時間を溶かしている。友人がInstagramにあげていた飲食店を保存して足を運んだり、レシピを保存して再現を試みたりすることもある。今や〝どこかで誰かがチャーハンを食べた〟が別の誰かを動かす可能性を持ってしまったのである。大げさに言えば、個人の発信が世界を動かす可能性を持つようになったのだ。

この20年の間にブログだけではなく、YouTube、TwitterやInstagram、TikTokなど様々なSNSが登場し、個人が簡単に発信できる場が増え、マスメディアに登場せずとも強い影響力を持つ個人も誕生した。

個人の影響力が強まっていく―それは喜ばしい側面もあれば、怖い側面も併せ持っている。

“真実”という言葉への欲求の高まりと「オールドメディアは信じられない」言説

一方、「オールドメディア」という言葉は、2010年代には既にネットスラングのように使われていたが、急激に使われるようになったのは2024年の11月。一旦は辞職した斎藤元彦が再選されることになる兵庫県知事選が行われたタイミングである。

選挙期間中から「オールドメディアは真実を報じていない」などとSNS上で騒がれ、斎藤の不祥事を報じるテレビや新聞といったマスメディアに対して、ネット上では、斎藤は悪くないといった論調が多く拡散された。結果、斎藤が再選されたことで「マスメディアがネットに負けた」といった文脈で語られることになる。その後も前橋市長の再選など、マスメディアで叩かれた人物が、ネットで擁護されて支持を失わないケースは珍しくなくなり、マスメディアのことをオールドメディアと呼ぶ感覚は定着し始めている。

先の「インスタグラマーが発信している情報のほうが、マスメディアの紹介よりもリアルだから」という発言と、このオールドメディア呼びに通底するのは、以下のような感覚なのではないだろうか。

「マスメディアを通して流れてくるのは、誰かの意図によって編集され、加工され、切り取られた情報なのでリアルではない。一方で、ネットには、編集されていない生の情報が流れてくるのでリアルだ」

もちろん、マスメディアを通して情報がやってくるのは、多くの人の主観のフィルターを通った後だ。そして、カメラを通して映像になっている時点でそれは〝リアル〟ではなく〝リアリティ〟であるというのは、この連載の第3回でも伝えたとおりである。しかし、ネットに流れる情報も、誰かの視点を通り、取捨選択され、編集された情報であることに変わりはない。

すなわち、マスメディアだろうがネットだろうがメディアを通じて流れてくる情報は全て〝リアル〟ではなく〝リアリティ〟である。現実(リアル)を誰かが取捨選択し、他の誰かに伝えた時点で、その情報は〝リアル〟とは似て非なる〝リアリティ〟に変化しているのである。

SNSは、マスメディアよりもむしろ発信した個人の視点を通っていることがわかりやすい作りであると言える。また、インフルエンサーの商品の紹介には、企業が彼らに金銭を払って紹介をお願いするPR投稿も存在する。多くのインフルエンサーが取り上げているから流行っているのかと思いきや、その実、企業が大金を投じて仕掛けて、流行っている空気を醸成させているだけなんてことはよくある話だ。

それでも「ネットがリアルで、オールドメディアはリアルじゃない」という感覚は広がり続けている。中には陰謀論のようなものでもネット上では支持を得てしまい、「オールドメディアは真実を報じない!」というかけ声をもとに、その支持の裾野が広がる始末である。

真実は「信じたいものが信じられなくなる」ノイズ?

さらに、真実より物語性のあるフィクションのほうが受け入れられやすいという現象が、事態をより深刻なものにしている。

『サピエンス全史』や『NEXUS 情報の人類史』といった著書で知られる歴史家のユヴァル・ノア・ハラリは、「真実は高価で、フィクションは安価」であり、「複雑で苦痛を伴う真実と、安上がりで単純で心地よいフィクションとの競争では、フィクションが勝つ傾向にある」という見方を提示する(NHK『トランプ時代への警鐘 〜歴史家 ユヴァル・ノア・ハラリ〜』2025年5月19日放送)。

信頼できる情報と信頼できない情報をどうやって見分けるのか。真実を見出すのはお金も時間もかかることなのです。(中略)真実は複雑怪奇ですが、フィクションは思う存分、シンプルに書くことができます。(中略)真相は実に複雑きわまりないものであり、いくつもの要因も絡んできます。それに対し、フィクションなら好きなだけ単純化してもかまわない。

ハラリは真実を「複雑怪奇」だからこそ、たどり着くまでに高いコストがかかると指摘する。何かが起きる原因はひとつではなく、複雑に絡まっているからこそ、わかりづらく、真実にたどり着くのは困難なことなのだ。一方で、単純化できるフィクションはわかりやすい。ハラリは真実を「美しくないことがあり」「ともすると受け入れ難いもの」だとした上で、フィクションを「好きなだけ心地よいものに美化」できると対比し、以下のように結論づける。

高価で複雑で美しくない情報と、安価で単純で心地いい情報が競い合った場合、どちらが勝つのかは明らかです。世界を情報で氾濫させたら、真実は必ず負けます。

(ハラリの警告「世界を情報で氾濫させたら、真実は必ず誤情報に敗れる」 社会の団結には真実より、秩序を作る物語のほうが重要2025年1月1日配信)

真実は必ず負ける―この指摘を踏まえた上で、「オールドメディアは真実を報じない!」と合唱している日本のネット社会を見てみよう。リアルを求めるフリをしながら、その実、彼らが求めているのはリアリティがあって信じやすく、心地よいフィクションなのではないだろうか。ここでのフィクションは、フェイクと言い替えてもいいだろう。

残酷で目を背けたくなる真実よりも、自分が気持ちよくなれるフェイクには、たとえそれが陰謀論であろうとハマっていく。むしろ、信じたいものがある彼らにとっては、真実は〝信じたいものが信じられなくなるノイズ〟ですらあるのだろう。

流れる情報の量が格段に増えた中で、自分で情報を精査し、真実にたどり着くには時間もお金もかかる。かわりに顔の知らない誰かが発信した〝リアリティのあるフィクション〟をネット上で無料で受け取り、それを盲信して満足している―。

正直、食べるチャーハンが変わるぐらいならまだいい。しかし、政治信条や、その他の自分の大事な信念や行動が変質させられてしまったとき――その先には何が待っているのだろうか。

リアリティショーに組み込まれていく私たち

実は〝リアリティのあるフィクション〟であるのはリアリティショーも本質的には同じだ。もともとはリアルだがそれが変質して〝リアリティのあるフィクション〟になったものも、もともとは根拠のないフェイクだがそれが〝リアリティ〟をまとって〝リアリティのあるフィクション〟になったものも、同じような顔をしてこの世界に溢れているのだ。

だからこそ、もとはリアルでそれが変質したものも、ときに完全なフェイクに負けてしまうということである。

とはいえ、この連載の中盤で様々なリアリティショーの見方を学んだあなたは〝視聴者〟として〝リアリティ〟の中に潜む〝リアル〟を見抜く訓練ができているはずだ。この社会の情報の受け手として、大事なものが変質させられてしまうことはないと信じている。

一方で、〝出演者〟として変質させられてしまう可能性はまだ残っている。

ここまで、このリアリティショー化する社会の中で生きる人々の話をしてきたが〝出演者〟になるのは政治家や芸能人にインフルエンサーなど、特殊な世界を生きる一部の人たちだった。

10年前に、僕自身が〝出演者〟として巻き込まれることによって、リアリティショーと現実の境界線の融解を感じたという話は初回に書いた通りである。それ自体も、ある程度は、東京のインフルエンサーに関わる会社だからこそ起きた話かもしれない。しかし、それから10年が経ち、この話は決して特定の環境だけで起きる話ではなくなったと感じている。

今や、市井に生きる私たちにとっても、このリアリティショー化する社会は無縁ではない。〝視聴者〟としてではない。〝出演者〟としてである。

たとえ鍵アカウントであっても、SNSに何かを投稿した瞬間に、それは〝セルフ・リアリティショー〟の始まりである。特に若年層にとっては〝出演者〟になるきっかけはそこかしこに落ちていて、その誘惑を断ち切るのは並大抵のことではない。大人になっても〝同意していない出演者〟になってしまう可能性はおおいにある。

〝リアリティショー化〟がどんどんと進んでいく社会の中で、私たちはどう自分を防御し、そしてときに攻撃に転じればいいのだろうか?

日常でも意識するべき〝視聴者〟という第三者の目線

まず、リアリティショー化する社会の中で生きる感覚として、意識しておかねばならないのが〝視聴者という第三者の目線〟が存在するということである。

第6回で取り上げたオーディション番組『timelesz project -AUDITION-』では、同じチームの候補者の篠塚大輝と前田大輔の会話に、審査員であるtimeleszオリジナルメンバーの佐藤勝利が不快感を示す場面がある。

前田が「酔狂してる感じ」に踊るようにダンス経験の少ない篠塚にアドバイスすると、一橋大学在学中の篠塚が「そんな難しい単語知ってんの」と返し、前田が「おいお前馬鹿にすんなよ」と笑って応じるというものだ。一瞬、和気あいあいとしたチームとも捉えられる場面だが、佐藤はそれを見て顔をしかめる。彼は国立大学生の篠塚が、前田を馬鹿にしているかのように見えるようなコミュニケーションをカメラの前で無邪気にしていることに対して、危機感を抱いたのである。

佐藤が怒ったということを聞きつけた菊池風磨は、「俺らの仕事ってどこまでいっても見られてるっていうとこなんだよね」として、その意味を彼らにこう解説する。

「自分がどう見えるかっていう……この関係値だったらいいけども、それがいっこ外から見られてるよっていうことを意識した方がいいかもな」

仲間同士の関係値だったら成立しているコミュニケーションが〝いっこ外〟から見られたときにどう見えるかを意識する――つまり、自分たちの中だけのコミュニケーションを、第三者が見たらとう思うのかという視聴者の視点を持つように諭しているのである。アイドルという常に人に見られる職業を10代の頃から続け、外から見たときに自分がどう見えるのかという視点を持ち続けてきた佐藤と菊池ならではの指摘である。

本来は相手がどう思うかを気にすればいいのかを考えるのが、1対1のコミュニケーションのはずである。しかし、リアリティショー化する社会の中では、「相手以外の第三者(視聴者)がどう思うか」というもうひとつの視点を持つことが重要なのである。そして、これはもはやアイドルという特殊な職業だけの話ではなくなってきている。

それが日常に侵食してきているひとつの例がZOOMである。筆者は会社で、新卒採用の人事面接の面接官を担当している。その際に行われるZOOM面接は全て録音・録画されており、それを自分の上司を含む採用の関係者が後から見ることができる。つまり、この面接でのコミュニケーションは、面接の相手である就活生に対して適切なものである必要があることはもちろん、後から上司をはじめとする〝視聴者〟が観ても適切なものである必要性があるのである。たとえば就活生に会社のネガティブなことを聞かれたとして、密室だったら就活生に伝えられた話も、伝えづらくなる。

視聴の仕方は制限できないため、一部分をいわゆる〝切り抜き動画〟のように視聴される可能性もある。就活生との信頼関係ができた後に軽はずみに発したひとことが「距離感が近すぎる」と判断されかないなど、目の前の相手だけではなく、〝視聴者〟の存在を意識することで、配慮するべき点は一気に増える。

ちなみに、自分自身、とても謙虚で礼儀正しいと思っていた後輩が、面接で就活生に対してはイケイケで尊大な態度だったのを録画で発見してしまい、その後輩への見方が変わってしまったことがある。

これは何も録画されるZOOMのケースだけで起こることではない。例えばX上で特定の相手に向けて会話のように行ったリプライが、第三者の目に触れて不適切と判断されて炎上するといったように、「コミュニケーションの相手にとっては適切でも第三者にとっては不適切」というケースは頻発する。

リアリティショー化する社会の中では、コミュニケーションする相手のことを慮るだけではなく、常に〝視聴者目線〟を持って、俯瞰する視点を自分に向けなければならないのである。

プラットフォームに自分のかたちを変えられてしまう危険性

この〝視聴者意識〟は持たないと大事故を引き起こす可能性がある。一方で、矛盾することを言うようだが、〝視聴者意識〟を持ちすぎても自分が変質してしまう危険性をはらんでいる。

リアリティショー化する社会の〝出演者〟になることで自分そのものが変質してしまう可能性とはどのようなものだろうか。

そもそも、自分が〝出演者〟になる可能性は極めて低いと思っている人も多いだろう。

だが、特に若年層をSNSと無関係の環境で生かすのは相当にハードルの高いことである。小学生の将来なりたい職業としてYouTuberがランクインしたのは2017年頃のことだ。最近ではTikTok部がある学校もあるし、TikTokでバズる生徒が多い学校を指す「TikTok強豪校」という言葉まで生まれている。広告やPRを学ぶという名目で授業の一環でTikTokアカウントを運営させる大学もある。2026年の春にはBeRealで、大企業の新入社員が立て続けに機密情報を流出させるという事件が起きた。こういった事象は10年前のおでんツンツン男の時代だったら「ネットでバカが見つかった」文脈だったが、今や企業側がリスク管理として教育しなければいけないという捉え方をされている。もはや、こういったネットを通じた〝出演者の不祥事〟は珍しいことではなく、大人が管理する必要性があるほど頻発する出来事なのである。

そして、こういった様々なSNSのプラットフォームを〝出演者〟として使用する際に、意識しなければならないのは〝自分のかたちが変えられてしまう危険性〟である。

わかりやすい事象で言えば、Instagramのフィルターなどを使って自分の顔を加工するのも、自分のかたちを変える一例だが、これはまだ事後的なものだ。

例えば、Xにはバズりやすい文体、TikTokにもバズりやすいフォーマットなどが存在する。バズることを目的として、自分の文体を変えたり、やりたくもないダンスや表情をし始めたら、それは、外面ではなく内面が、すなわち〝自分そのもののかたち〟が変わってしまう第一歩である。

結果的にバズったケースを否定するつもりは毛頭ないが、バズることを目的としたときに、そのプラットフォームに合わせて自分を変質させようとしてしまうことがある。たとえば、Xでバズるような文体で物事を考えてしまったり、TikTokを撮るのに適した場所に遊びに行こうとしてしまったりする。それが日常化すると、プラットフォームに自分を変えられてしまう危険性が生まれるのである。

新たなプラットフォームが生まれるたびにその構造をハックし、フォロワーを多く獲得する〝プラットフォーム有名人〟が生まれるが、その後、その他の場所でも活躍する例をあまり聞かないのは、特定のプラットフォームに最適化しすぎてしまった末路なのかもしれない。

そして、これはバズることを目的としていなくても、SNSで第三者の視点が入ることによって多かれ少なかれ起こる現象でもある。リアリティショーの出演者がカメラがあることで行動が変質してしまうように、SNSでの自分の発信に〝視聴者〟が存在することで、自らが変質してしまうのである。

僕自身、はあちゅうさんに私服の撮影をされる際、最初はそのままを面白がってもらっていたはずなのに、だんだんと「面白い私服を着なければ」というよこしまな心が芽生えてしまった時期があった。

それは自意識過剰だとしても、スマホのカメラで撮影をされる際に、それが、SNSでアップされるか・されないかを瞬時に察知して、表情が変わってしまうことはないだろうか。また音楽ストリーミングサービスで、多く聞いた曲をSNSでシェアできる機能があることを発見したときに、自分が聞きたい曲ではなく、他人に聞いていると思われたい曲を再生してしまうことはないだろうか。

SNSを通じて、たとえ少数でも自分に視聴者が生まれてしまった瞬間、これらの〝視聴者意識〟を持たないこと、第三者を意識せずにいることは極めて難しくなる。

同意していないのに〝出演者〟―Googleレビューから読める人生

自分でSNSアカウントを持たなければ、〝出演者〟にならなくてすむかといえば、そういう話でもない。このリアリティショー化した社会の中は〝同意していない出演者〟になってしまう可能性に溢れている。

この連載を見て筆者にコンタクトをくれたある女性は、家族ごと暴露系インフルエンサー・滝沢ガレソの標的にされた。。きっかけは、自身が経営するファッションブランドの商品が既製品の転売であるというポストであった。しかし、その内容自体が事実誤認であり、そのことを指摘した半年後にポストは削除されたが、その間に、追従するアンチアカウントが生まれ、元の投稿に連動する形で家族全員の実名、夫の勤務先の会社や子どもの保育園まで名前が明かされ、「子どもは元気かな」という脅迫まがいの文言まであったという。当時、1歳に満たなかった子どもは数ヶ月の間、児童相談所に保護してもらうなど普通の生活がままならない状況が続いたという。

3年が経ってもアンチはやまず、刑事告訴をしたところ、ひとりで約20のアカウントを作って叩いている女性がいたことが判明。書類送検されたその女性は、夫と直接の知人ではないはずだが、同じ大学で、在学期間が被る人物だったという。

ちなみに「学生時代に養子の同級生に孤児をもじって『コジコジ』とあだ名をつけてイジメていた」というエピソードがSNS上で拡散されていたので、真偽を本人に聞いてみたところ「たしかに高校生のときに同じクラスにコジコジというあだ名の子はいたけれど、両親もいたし養子でもなかったです。もちろんイジメてもないです」ということで、なんとも〝リアリティのあるフィクション〟である。

このように家族まで巻き込まれる例だけでなく、もう少し身近なものを見てみよう。たとえば、Uberの配達員をやっていて、雑な置き方をしたら晒されるというのは〝同意していない出演者〟のケースだ。

そして、意外にこういった〝同意していない出演者〟の事象が起こりやすいのがライブの撮影可能時間だ。男性アイドルに、他のファンより少し多めのファンサ―ビスをもらった女性ファンが、他のファンの撮影した動画に映っており、それがアップされて拡散、嫉妬とともに叩かれたケースがあった。一方で、女性アイドルにファンサービスをもらって喜ぶオタク男性の反応が好ましいと拡散された例もあった。正直、好きなアイドルが目の前にやってきたときに、他の第三者の視線まで意識するのは至難の業である。そして、こういった〝同意していない出演者〟のケースは、アップする側が悪意で行っているとは限らず、善意や好意で行っている場合も多いのが事態を複雑にしている。

飛行機の客室乗務員は善意とともにアップされやすい職種である。女性のキャビンアテンダント達と一緒に撮った写真を「長澤まさみ似の◯◯さん、素晴らしいサービスありがとう!」といった文言と共に投稿するおじさんは多く散見される。また、ファーストクラスの座席に乗ってから降りるまでの一部始終を固定カメラで撮影し、Vlogのような形式で「Excellent service!」などといったナレーションとともにアップする外国人客も多い。後者の場合は、機内でのCAの挨拶や食事の説明などもアップされることになる。

航空会社にもよるが、難しいのは、機内での撮影自体はNGではなく、その上「撮ってもいいですか?」と許可をとる乗客も多いということだ。しかし、「アップしてもいいですか?」とまで確認してくる人は少ない。自分だけの思い出として記録している乗客もいるため、乗務員の側がアップするのかどうかまで確認することは乗客の気分を害する可能性もあり、現実問題として難しい。また、サービスが素晴らしかったから感謝したいという乗客の善意によるものだったとしても、航空会社の窓口に伝えてくれればそのCAの社内評価に繋がるが、SNSにアップされても何にもならないので、ありがた迷惑と言ってもいいだろう。

他にも、飲食店を経営していたり、働いていたりすれば、Googleレビューや食べログなどに、その一挙手一投足を書かれる可能性は免れない。ちなみにこの連載はよくデニーズで書いているのだが、連載の途中に「個人情報保護のため」という名目で、店員の名札がなくなるという変化が起きた。リアリティショー化する社会の中での適切な防御である。

特定の店舗の数年以上のGoogleレビューを読み込むと「大将が生きているときは2代目夫婦が萎縮していたが、2代目が継いでからは奥さんもやりやすそうで店全体がいい雰囲気になった」といった、その人や家族の人生が見えてくる場合もある。もちろん、それがフェイクの可能性もあるし、当然のことながら、それは〝リアル〟そのものではなく〝リアリティ〟だ。

2013年にYouTubeで流行したように、さすがに社員全員で『恋するフォーチュンクッキー』を踊ろうという提案をされることはないかもしれないが、この10年で企業・採用広報として社員がTikTokを運用・出演するなど、動画出演する例は一般化した。気が進まなくても、会社や上司の意向で、自分が〝出演者〟になることを同意しなければいけないケースもあるだろう。

大人になっても、至るところに、大小様々なリアリティショーの出演者になってしまうきっかけの罠が落ちているのである。

この連載の初回で、映画『トゥルーマン・ショー』の世界が現実化してきている、と書いた。日常を生きる我々が、知らず知らずのうちに〝出演者〟になって、知らない誰かに見られている、そして見られていることに気づくと、意識して行動を変質させていくというのは、この映画の世界そのものである。私たちは全員が映画『トゥルーマン・ショー』の登場人物なのだ。

だが、この映画は出演者ひとりを皆が視聴者として見ているという世界だ。今やって来ているのは、誰もが出演者で、誰もが視聴者であるという『トゥルーマン・ショー』がさらに複雑になった世界なのかもしれない。

(『リアリティショー化する社会』は今回が最終回です。本連載は大幅な加筆のうえ集英社新書より刊行予定です)

 第9回
リアリティショー化する社会

いま世界中でさまざまなヒットコンテンツが生まれている「リアリティーショー」。恋愛、オーディション、金融、職業体験など、そのジャンルは多岐にわたり、出演者や視聴者層の年齢も20代のみならず50代・60代以上にも開かれつつある。なぜいまリアリティショーが人々に求められているのか。芸能コンテンツの批評やウェブメディアの運営を行ってきた著者が代表的な番組を取り上げながら、21世紀のメディアの変遷を読み解く。

プロフィール

霜田明寛

しもだ あきひろ

エンタメライター、編集者。1985年生まれ、東京都出身。早稲田大学商学部卒業。9歳でSMAPに憧れ、18歳でジャニーズJr.オーディションを受けた「元祖ジャニオタ男子」。大学在学中に執筆活動をはじめ、3冊の就活・キャリア関連の著書を出版した後、タレントの仕事哲学とジャニー喜多川の人材育成術をまとめた4作目の著書『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書・2019)を発売。3万部突破のロングセラーとなり、今も版を重ねている。カルチャーWEBマガジン「チェリー」の編集長を務めるなど、エンターテインメント全般に造詣が深く、テレビ・ラジオをはじめ多くのメディアに出演・寄稿している。また、音声配信サービス・Voicyでの自身の番組『シモダフルデイズ』は累計再生回数250万回・再生時間 20 万時間を突破し、人気パーソナリティとしても活躍中。近刊に『夢物語は終わらない ~影と光の”ジャニーズ”論~』(文藝春秋)。

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