リアリティショー化する社会 第9回

リアリティショー感覚で動く社会―不祥事、学生、政治、『恋愛病院』

霜田明寛

芸能人の不倫・企業の不祥事……様々な〝リアル〟をSNS上で〝ショー〟として消費する人たち

リアリティショーの視聴者は、そうでない視聴者よりもソーシャルネットワークに費やす時間が多い――アメリカでそんな研究結果がある(Stefanone, M. A., Lackaff, D., & Rosen, D. (2010). The relationship between traditional mass media and “social media”: Reality television as a model for social network site behavior. Journal of Broadcasting & Electronic Media, 54(3), 508–525)。

リアリティショー自体は90年代から存在するものの、近年はSNSでの熱狂と融合することでまた別の様相を呈してきている。視聴者が感想を投稿することはもちろん、出演者本人が投稿をすることもあって、親和性は高い。

そして、近年の日本では、メディアを通して、多くの人が様々な現実をリアリティショーのように見ている。様々な〝リアル〟の〝視聴者〟になっているのである。

もちろん、ワイド〝ショー〟というくらいで、情報番組が報じたものに多くの人々が反応するのは今に始まったことではない。だが、近年はSNSや動画メディアの発達・浸透によって、よりその傾向は強まっている。流れてくる〝リアル〟に対して、観客たちはリアリティショーを見るように、SNS上で同時に言葉を共有しながら盛り上がることができるようになったのだ。大衆が同時にひとつのものを見つめ、そのショー自体や、その〝登場人物〟に対して感情をあらわにし、応援の声や、罵倒の声を発信する。

こうしたリアリティショー化とも呼べる変化は、2020年以降に急速に起きてきている。自らにその意志はなくてもショーにされてしまう〝リアル〟もあれば、ショーを自ら仕掛けにいく者もいる。

ただ、ここで言うショーとは、お金を払った観客が、ステージ上のきらびやかに演出されたものを仰ぎ見るというよりも、通りがかりの通行人たちが偶然目にする無料の見世物小屋に近いニュアンスである。

人々はどんな〝リアル〟をリアリティショーのように見てきたのか。この流れが進んだ2020年以降の象徴的な出来事を眺めながら、考えていきたい。

不倫も性加害も殺人もリアリティショー的に消費される

見世物としての面の強い〝リアル〟の筆頭は、芸能人の不祥事である。中でも、自分の実生活には直接的な影響がないにもかかわらず、関心を持つ者が多いのが不倫だ。

2020年、杏と婚姻関係にあった俳優の東出昌大に唐田えりかとの熱愛報道が出た。3月、東出がナレーションを務める映画の記者発表時に、リポーターが東出に「杏さんと唐田さんのどちらが好きなんですか?」と質問。東出は、すぐに言葉を継がずに、約11秒間の沈黙をし、その様子は様々なメディアで繰り返し流された。

不謹慎な言い方ではあるが、とても恋リア的なワンシーンである。「選べない」も「言葉にできない」も恋リアではよく見られるシチュエーションだ。「言葉にできない」感情を映像が代弁する側面が恋リアにはある。11秒間は、今泉作品の間と言ってもいい。

「杏」と答えたほうが場が収束したことは想像に難くないが、東出は言葉で安易にその場を収めようとしなかった。それゆえに、本人の苦悩が浮かび上がる11秒。その沈黙の際の感情は本人にしかわからないが、そこに大衆は妻よりも若い不倫相手に恋をしている男の姿を読み取り、SNSは東出への罵倒の声で溢れた。東出は、所属事務所の社長に「全部失ったな」と言われたという。とはいえ、東出はCMや民放のテレビドラマなど大衆の支持を気にする媒体からは仕事を失うが、その後も映画などのオファーは絶えず、俳優活動は継続している。

東出は、スキャンダルの渦中にいた時期をこう振り返っている。

「メディアも僕の悪いところを是正しようという意図だけではなく、発行部数やページビュー数、視聴率のために嘘も交えて報道する。自分で本当の自分がわからなくなりました」

(『文藝春秋』2024年3月号)

大衆的な支持が復活したのは、ABEMAの『世界の果てに、東出・ひろゆき置いてきた』だったり、東出が山村での自給自足生活を公開するYouTubeだったのも興味深い。リアリティショー的に大衆の支持を失った俳優が、実際のリアリティショーや自身のドキュメンタリーのような動画をきっかけに支持を取り戻したのである。それくらい、大衆の心は移ろいやすいということでもあるし、大衆の空気を変えるのに映像という〝リアリティ〟が持つ力はとんでもないものがあるとも言えるだろう。

同じようなことは、アイドルにも適応できる。     突然だが、旧・ジャニーズ事務所を辞めたタレントの中でYouTubeチャンネルの登録者数が一番多いのは、誰だろうか。     元SMAPの香取慎吾や草なぎ剛でも、山下智久や赤西仁でも、Number_iでもない。元・NEWSの手越祐也だ(2026年6月末日現在)。

その登録者数の多さのきっかけとなったのは2020年6月の手越のジャニーズ事務所(当時)退所時に、彼がチャンネルを立ち上げて行った緊急記者会見の生配信だ。冒頭に「自分の口から真実を」「僕は嘘がつけない」と強調してから、約2時間の間、持論を展開し、質問に答えた。この配信は、最大同時接続数132万人という当時の日本のYouTube1位の記録を打ち立てた。

彼は自身のコロナ禍での不祥事がもとで当時の事務所で活動を休止中だったが、突如退所し、所属グループ・NEWSも脱退することに。その不祥事と事務所退所劇を自らショーとして仕掛け、大きな注目を浴びることに成功したのである。チャンネル登録者数は一気に70万人近くになり、数日後にはこの会見のメイキング映像まで公開する用意周到さだ。

これは、日本の中で記者会見をネット上の生中継ショーにした、大きな分岐点とも言えるだろう。

ちなみに、翌年、手越はその自分のチャンネル内で、高校生が登場する恋リア『君が決めた恋をした。』を開始した。ラランド・サーヤや、さらば青春の光・森田など、現在の恋リアのスタジオ席の常連とも言えるようなメンバーをいち早く起用している。

東出も手越も同じ時期の、芸能人自身が起こしてしまった不祥事ではあるが、ショーにされてしまった東出に対し、自らショーをしかけていった手越という点で対照的な事例でもある。また、東出も言及しているようにメディアはPVや視聴率など自らの数字のために東出の件を扱っており、コントロールもきかない上に数字はメディアのものだ。一方で、手越は自分の数字にできているという差もある。

この2020年以降、記者会見の生配信をショーのように見る流れは浸透していき、今では企業の不祥事やその説明も〝リアリティショーを見るように〟接する対象だ。特にジャニーズ事務所やフジテレビなど、登場人物が著名な場合には、おおいに盛り上がる。会見をテレビ各局も中継するようなときは、それは格好の〝生放送のリアリティショー〟である。

映像が伝えるのは答弁の文字情報だけではない。2025年1月に、フジテレビが中居正広に関連する問題で記者会見を開いた。SNS上ではもともと「上納」という言葉に反応したユーザーからの批判が目立っていた。会見ではフジテレビ側から、事前に報道されていた情報に比べて新しい情報がそう多く出たわけではなかったが、60代・70代の経営陣たちが10時間以上の長丁場で質問に答え続ける姿に「おじいちゃん頑張れ」「トイレ行かせてあげて」といった投稿が見られ、「フジテレビかわいそう」「トイレ休憩」がXのトレンド入り。SNS上のフジテレビを取り巻く雰囲気が少し変わったのを感じた。

テレビの中継が入ると、自分の売名タイミングかのように捉えて質問する記者も散見され、彼らもショーの登場人物に加わってくる。記者会見場の様子などをSNS投稿したり、質問したのは自分だとSNS上でアピールしたりして自分の数字を獲得しようとする記者もいる。もちろん、聴衆の鋭い視線は記者側にも向けられ、話がまとまっていなかったり、的を外した質問をしたりすると、それに対しても批判の声が上がる。

2026年に起きた京都の少年の殺害事件では、失踪後すぐに、少年の父親の国籍や、以前働いていた場所、家族の状況などがSNS上に晒された。情報を足して勝手に事件を〝考察〟する様も、やはりリアリティショーを見ているかのような態度である。

芸能人の不倫や事務所の退所、企業の不祥事、果ては殺人事件に至るまで……社会で起こる様々な〝リアル〟を、多くの人が、〝リアリティーショーを見るように〟接し、消費している。視聴者の側が変質すれば、リアルの方も呼応するように変質していき、社会全体がリアリティショー化していく。もう少し他の〝リアル〟も見ていこう。

リアリティショー化するミスコン    

リアリティショーを〝見る者〟がいれば、そこに〝見られにいく者〟もいる。リアリティショー化した〝リアル〟の例として次に挙げたいのがミスキャンパスコンテストである。

ミスキャンパスコンテンストとは1970年代から80年代にかけて多くの大学で開催されるようになった、大学内での美人を決める催しである。最初は、村の美人が「◯◯小町」と呼ばれていたような延長で、あくまで大学という〝ムラ〟の中の美人を文化祭での投票で決めるような閉じられたイベントだった。数人が候補者として立候補し、グランプリを決めるのが通例だ。

ミスキャンパスコンテストは定着するにつれ、出身者がアナウンサーになる傾向が強くなっていく。キー局に入社したミスキャンパス出身の女性アナウンサーは1980年代には3人、1990年代には7人なのに対し、2000年代の最初の10年だけで20人を越えるなど、一気に増加。それに伴い雑誌やテレビの情報番組といったメディアの注目度も高まっていく。

そこに、ネットによる外部との接続が行われたことでその様相は変化していく。

2006年頃からブログを始めるなど、候補者がネット上で自己アピールをする流れができていった。2012年頃になると、候補者がTwitterを始めるように。SNSの普及とともにその流れは加速し、2015年のミス青学コンテストに出場した山賀琴子は、候補者としてアカウントを開設すると、すぐにフォロワーが2万人を突破した。

これ以降、出場者がインフルエンサー化する流れが強まり、企業も彼女たちにPR案件を託したりするようになっていく。

出場者としてアカウントを開設するだけである程度のフォロワーが見込めるため、当時は「正直グランプリは狙っていないけど、フォロワーが多くいたほうが今後の人生に有利だと思って」と真の出場理由を明かしてくれた候補者もいた。また、出るだけでフォロワーがつくのは恋リアの出演者とも近い状況である。

一方、注目度が高まればSNS上で標的にされるリスクも高まる。例えばミス東大であれば、出場してすぐに出身高校が話題にされ、格付けされるのは当たり前。出場者が院生だった場合は、大学も東大がどうかのジャッジがなされ、そうでなければ「学歴ロンダリング」と揶揄される。他大でも、過去の写真が晒されたり、未成年飲酒疑惑が沸いたりすることは日常茶飯事である。コンテストに出て未来の人生を変えようとしている人たちに、タワマン文学的な過去の変えられないものを突きつける価値観が襲うのだ。

生配信と投票の連動

2017年頃には、SHOWROOMをはじめとした動画配信サービスで候補者がアピールをする流れも定着する。毎日のように生配信をし、視聴者に対しネット投票を乞うことになる。視聴者数や課金された量で候補者がランキングづけされる様子は、さながらオーディション番組のようでもある。牧歌的なムラのイベントは、いつの間にかネットを通してムラの外ともしっかりと接続され、観客の多いショーになってしまったのである。

その外部との接続されたショーとしての側面が極まったのが、2020年からのコロナ禍である。多くの大学のミスキャンパスコンテンストが無観客での配信による開催となった結果、ネット投票の重要性が増すことに。いかにネット上で注目を集めるかが勝敗を分けることになってしまった。

2020年のミス東大の神谷明采は候補者だった際に、コンテストを運営する団体のセクハラや不正疑惑などを告発する生配信を行った。注目度も高まり、告発後にグランプリを受賞する流れまで含めてすべてがリアリティショーのようだった。

このような仕組みの中に、一般の大学生が巻き込まれるわけだから、当然、疲弊する者も多く、出場後にSNSアカウントを削除するなど、メディアとの関わりを断とうとする者もいる。

だが、大方はその後、芸能活動をしなくても、インフルエンサーとして一度身につけた影響力を行使し続けようとする。山賀琴子はグランプリ受賞後に芸能事務所に所属し『逃げるは恥だが役に立つ』などのドラマに出演するもすぐに辞め、インフルエンサーとして活動を続けている。

また、神谷明采はグランプリ受賞後もSNSを騒がせ続ける炎上の常連に。2026年には後述するABEMAの恋愛リアリティショー『恋愛病院』に出演した。

他にもコンテスト出場後に恋リアに出演する例はある。2015年度ミス実践コンテストのファイナリストの福田莉千は、その7年後にリチとして『水曜日のダウンタウン』内の企画「モンスターラブ」に出演。安田大サーカスのクロちゃんと付き合うことになり、破局するまでの流れも放送された。注目度も高まり、リチは10万人以上のフォロワーを擁している。

やはり世に出たい・自分の名前を売りたいという意志をもつ若者にとって、ミスキャンパスコンテストのようなリアリティショー性の持つもの、そしてリアリティショー自体は相性がいい。共通するのは、特にその時点で何者かではなくても、一定度合いの衆目を集めることができるという点である。その注目度は、すぐにフォロワー数という数で可視化される。そしてそのフォロワー数の多さはSNSが台頭している社会においては、ある種の武器となり、先の出場者の予言通り、人生を有利に進めやすくなっていく。とはいえ、それは、彼女たちにとって有名になることが手段ではなく目的化しているとも言える。

実は、筆者は15年以上にわたり、300人以上のミスキャンパス出場者を取材してきた。彼女たちのマインドは、リアリティショーの出演者、なかでも恋リアの出演者と重なるものがある。オーディション番組の出演者は「アイドルになりたい」といった共通の目標がああり、それに必要な努力などをし、苦労してでも成長する覚悟でのぞんでいる。一方で、ミスキャンパス出場者や恋リアの出演者は、明確な目標がある人は少数派で、おしなべて「自分が現状持ち合わせているものを使って有名になれないだろうか」という意識なのである。

そこには、出演によって努力や成長が伴うかどうかという明らかな線があるように思う。極論して分類すれば、成長を見せるのがオーディション番組で、キャラクターを見せるのが恋リアと言ってもいい。

オーディション番組という門をくぐり抜けて、その実力を認められた者が本格的にタレントとしてテレビの世界に入るというイメージだ。テレビタレントの世界が基本的には何かに秀でた者が有名になれる世界だとすると、恋リアとSNSが幅をきかせる現代は、特に秀でたものを持ち合わせていなくても、有名になること自体はできる世界なのである。

ミスキャンパスや恋リアという仕組み自体に注目が集まっていて、そこに固定客がいる以上、その仕組みに乗れば、さしたる努力がなくても知名度を上げることができる。ある意味で、必要な努力と得られる知名度の〝コスパ〟がいいのだ。そのリアリティショー的な仕組みに若者たちが自ら飛び込んでいくのは、彼らにとっては理にかなっている話なのである。

選挙ドキュメンタリー映画が現実を変えていく―『なぜ君は総理大臣になれないのか』

様々なリアリティショー化する現実の例を見てきたが、最後にあげるのは選挙、そして政治である。

そもそも、劇場型政治という言葉があるくらいで、劇的に大衆の感情を動かすことと政治はもとから無縁ではない。

小泉劇場とも呼ばれた2005年の衆院選の際に中曽根康弘は「ショーを見ているようなもので、テレビの力が政局を支配するだけのものを持ってきた」(朝日新聞2005年9月29日朝刊)と語っていた。

また、小沢一郎は「政権の支持率なんてタレントの人気投票のように移ろいやすいもの」とも持論を述べる。(『週刊SPA!』2026年6月2日・9日合併号)

政権の支持率がタレントの人気投票なら、〝タレント〟を選ぶことになる選挙はオーディション番組といったところだろうか。街頭演説や政見放送など、その期間はメディアや街中に一気に候補者のアピールが溢れ、そこに大衆が反応する。国政選挙ともなれば、有権者全員に投票権のある一大ショーである。

選挙は、何より勝ち負けがはっきりしているため、オーディション番組の結果発表のように見ることができてしまう。候補者のキャラクターを伝え、過程を描いた上で結果発表があるという描き方をメディアがすれば、オーディション番組と構造は同じと言ってもいいかもしれない。

新興の政党にはその構造を見抜いて知名度・支持率をあげる人物も多いが、自民党、中道改革連合、国民民主党といった党もリアリティショー的手法と無縁ではない。劇場型政治からリアリティショー型政治になっていると言ってもいいだろう。だが、その手法は三者三様で、よくよく見ると異なっている。

2020年に公開された『なぜ君は総理大臣になれないのか』というドキュメンタリー映画がある。32歳で初出馬し、その後、2005年に民主党の衆議院議員として議員生活をスタートした政治家・小川淳也。監督がもともとは発表するあてもなく撮りためた映像も使用した、17年分の小川と家族の人生のドキュメンタリーである。

小川は、香川の美容院を営む家庭の息子で、盤石な基盤があるわけではない。さらに選挙区では、対立候補に、四国新聞や西日本放送を傘下に持つ一族の出身で「香川のメディア王」とも称され、後に初代デジタル大臣となった自民党の平井卓也という強力な敵がいて、なかなか勝つことができない。選挙区で負けて、比例区で復活当選するというのが基本のパターンだった。

その勝ち方だと、党内でも要職につくことはできない。撮影時点では決して知名度も高くない、いち議員だったと言っていいだろう。作品の中では、衆議院議員と聞いて一般的にイメージするのとはかけ離れた姿が映し出される。

例えば、街中では、娘と一緒に選挙活動をしている最中に、通りがかりの高齢男性に「イケメンみたいな顔しやがって、お前」という罵倒の声を投げかけられる。「イケメンのくせに」だったらよくある言葉だし、自分としても「イケメンなんだからいいか」と納得することもできるかもしれない。だが、これはなんとも咀嚼しがたい、脚本ではなかなか出てこない絶妙なラインのセリフである。しかも隣には娘がいる。選挙に負けた際には、小川だけではなく、実の両親、妻、娘たちと家族の顔も映し出されるのが印象的だ。

小川が家族と暮らすのは、自身が「猫のひたいみたいなところに住んでます」と称する広さの、家賃4万7000円の集合住宅だ。権力への飽くなき欲求のようなものが薄いことを本人も自覚している。

総理大臣に「なりたい」といった自己実現や自分本位のニュアンスの言葉で自分を飾られることを拒否し、「ならなければならない」という社会のための責任感で行動する実直な小川の姿は2時間をかけると、しっかりと伝わってくる。

小川の父は「政治家に向いてないんと違うかな……ああいうゲテモノばっかりがいっぱいいる世界は……」と息子を慮る。

作品を通して、実直で狡猾さを持ち合わせていない小川の人格が伝わるにつれて、タイトルである「なぜ君は総理大臣になれないのか」の理由が逆説的に浮かび上がってくるのである。

映画の公開後、小川のもとにはボランティアを志願するスタッフが県外からも集まってくるなど、草の根の支持が強まっていく。続編とも呼べる、2021年の選挙戦を色濃く描くドキュメンタリー『香川1区』が作られたり、小川を取材した書籍などの関連本も多く出版されたりするなど、注目度も高まっていった。そして、選挙結果にも変化が見られた。

それまで小選挙区で平井に勝ったのは計6回中1回のみだった小川が、映画の公開の翌年の選挙は12年ぶりに勝利。2026年現在、映画公開後には3回選挙が行われているが、すべて平井に勝利している。そしてついには、中道改革連合という野党第一党の党首となったのである。

総理大臣に「なれない」と銘打たれたドキュメンタリーが、結果的に小川の総理大臣という場所への距離を縮めているようにも見える。逆説的にショーとして作用したのかもしれない。とはいえ、この後述べるような、政治家のキャラクターを切り取って注目を集める手法とはまた、少し違うものでもある。

あまりにも無頓着なドキュメンタリー

小川の家族は『なぜ君は総理大臣になれないのか』を見て、「面白くない」といった感想を述べたという。それは、あまりに小川の普段そのまますぎるから、という理由だ(2025年7月25日『選挙と鬱』青柳拓監督・水道橋博士・小川淳也上映後トークショー)。

リアリティショーでは、ときに、被写体の側から突発的に出てしまった一言や場面が印象的に使われることがある。いわば、その個人のキャラクターのいち部分が誇張されるという描き方である。それがその人の普段の姿や印象からかけ離れることも、おおいにあり得る。逆に、被写体の側がカメラがまわっていることを過度に意識して、みずから普段の姿と離れた振る舞いをすることもあるだろう。見せたい自分に、自分を寄せていく現象だ。

一方で、この作品の小川は、もともとは、その映像がどうなるかもわからない状態で撮影されている。それが結果的に家族が「そのまま」と称するほどに、小川の実像を映し出しているのだろう。公開されても、小川本人は劇場での上映最終日まで映画自体を見てもいなかったようで、自身の「こう見せたい」という意識が極端に反映されていない、作品として稀有な性質のものと言ってもいいだろう。〝映り方〟に無頓着という珍しい〝ショーの出演者〟なのだ。

テレビの世界で注目を集めるには、短い時間でも印象に残るような強いキャラクターが必要だ。わかりやすいキャラクターは10秒のショート動画でも伝わってくる。

だからこそ小川は、映画公開までの約20年の議員人生の中で、注目を浴びてこなかったのかもしれない。小川は実直だが、それはわかりやすいキャラクターではない。

だが、逆に言えば、この映画の中では政界という特殊な世界の中にいながらも実直であり続けたことの稀少性が伝わってくる。小川の父の言葉を借りれば、〝ゲテモノ〟だらけの世界の中で生きる、珍しい〝人間〟であることが露わになったのだ。

そういった実直さは10秒では伝わらないが、20年を2時間に濃縮したドキュメンタリーを通すと、じっくりと伝わってきて、観た者の中に深く残るのだ。

『香川1区』の中に、2021年の衆議院議員選挙での12年ぶりの小川の小選挙区での勝利の際に、小川の娘が涙ながらに語るシーンがある。

小さい頃から、お父さんが負ける度に「社会に出たら〝正直者が馬鹿を見る〟っていう現実に立ち向かわないといかんのかなぁ」ってずっと思ってたんですけど……でも正直者の気持ちは、いつかみんなに届くんじゃないかっていうのを今日初めて感じました

正直さや、人間の深さは〝いつか〟届く。

しかし、この〝いつか〟という言葉が象徴するように、すぐには届かない。

一方で、〝すぐに〟〝わかりやすく〟伝えようとするのがマスメディアの構造上の問題でもある。こうして考えると、逆にメディアを通して政治家を眺めるときに警戒しなければならないのは、〝すぐに〟〝わかりやすく〟するためにキャラクターが誇張されたり、演出されたりしている可能性だろう。

石丸伸二の「続きはウェブ」街頭演説

先に紹介した中曽根の「ショーを見ているようなもので、テレビの力が政局を支配する」という発言は20年前のものだが、当時の劇場型政治のショーが催される劇場はマスメディア、とりわけテレビだった。だが、20年経った現在はネットをはじめ、マスメディア以外からも有権者は大量の情報を摂取している。そんな中で、候補者や政党自らが、主にネットを戦場にショーをしかけていくケースも生まれ始めている。

近年は少しずつ改善の兆しが見られるものの、一旦選挙が公示され、選挙戦が始まると、テレビでの選挙報道は「政治的に公平であること」という名目で、おとなしくなる。公平でなくなることを恐れて自粛気味になるのだ。

だがこれは実は解釈が逆だ。「政治的に公平であること」は放送法4条の規定だが、1条は公権力が放送へ介入して「放送の公平さ」を奪うことを禁じている。不偏不党であることは放送局に課せられた義務ではない。放送法では、戦前のようにならないように、公権力が放送事業者に不偏不党を〝保障している〟のであって〝義務づけている〟わけではないのだ(「みんなTVが嫌いなのかな?」 映画監督・是枝裕和&元官僚・古賀茂明が語るメディア圧力の真相 誰が何を誤解しているのか?~放送と公権力の関係についての私見②~ 2015年11月17日)

マスメディアからは具体的な候補者の情報が流れてきづらい代わりに、情報源となっているのはネットの世界だ。候補者が揃うYouTube番組などで、候補者それぞれのキャラクターを知る人も多い。ReHacQ(リハック)などはその筆頭で、テレビに比べて長い時間の討論があることで、政策などへの見解の浅さが露呈してしまう候補者も後を絶たない。

だが、ネットでの選挙戦は無法地帯とも言える。業者などに依頼し、自身の主張などを伝えるショート動画を自ら量産する政党や候補も多い。国民民主党の党首の玉木雄一郎は、街頭演説を「著作権フリーなので動画を撮って拡散してほしい」と呼びかけ、聴衆が演説の様子を編集した「切り抜き動画」をSNSで広めることに成功した。

他にも、2024年から2025年にかけては、都知事候補だった石丸伸二や、参政党がショート動画を利用する手法で票を伸ばしたと言われている(衆院選で躍進の国民民主党、ショート動画で若者に「手取り増やす」拡散…石丸伸二氏の手法参考 読売新聞オンライン)。

都知事選の石丸は街頭演説では「政治の見える化」といったキャッチフレーズは掲げるものの具体論は語らず「続きはウェブ」でと切り上げていた(朝日新聞2024年7月8日朝刊)。

もはや、街頭演説そのものより、それがショート動画として拡散されるネット上が主戦場かのような様相だ。

とはいえ、ショート動画は時間が短いがゆえに背景の説明が省かれがちで、仮に根拠が希薄であっても、強い主張や断定が拡散されてしまうという傾向がある。よくよく精査すれば実現の可能性が極めて低い政策でも、強く「できる」と言えば、そう思われて拡散され、支持を広げていく。それはフェイクの情報や耳障りがいいだけの政策も混じった、〝信じやすいリアリティショー〟の世界と言ってもいい。

オールドメディアも政治家のキャラ化に加担している

一方の、テレビの開票特番では、候補者の名前とともに、「◯◯が好き」といったひとこと情報を足すのが、定番になりつつある。もともとはテレビ東京の番組が始めた手法だったが、民放他局にも広がっていった。対象は政治家であるにも関わらず、政策などではなく、キャラクターを押し出す紹介の仕方は、まるでリアリティショーの登場人物紹介のようだ。

新しく総理大臣が誕生したときはその〝キャラクター押し〟の傾向がより顕著だ。2020年に菅義偉が総理大臣になったときに、繰り返し流されたのは「パンケーキが好き」という、その政治家の資質とは関係なさそうな情報だった。

高市早苗は2025年の就任直後から、彼女が使うボールペンやバックが注目され、売り上げ好調に。それを真似したり、応援したりする現象が「サナ活」と名付けられ、情報番組などでピックアップされた。

こういった情報は、彼らの政治的な背景や政策を伝えるよりも、キャッチーでわかりやすい。〝すぐに〟〝わかりやすく〟伝えようとするマスメディアの報道は、首相のキャラクター説明を量産し、彼らのキャラクターを認知させるのに一役買っていくのである。

キャラクターが認知されたとき、政治家も〝リアリティショー〟の登場人物となる。そして、一旦、その人物を認知してしまうと、ときに事実と違う情報だったとしても「◯◯が▲▲した」と断言されると信じてしまいやすい。

その最たる例が、多くの実在する芸能人の名前を出しながら〝暴露〟を行ったガーシー(東谷義和)のYouTubeチャンネルだろう。登場人物が、知っている有名人であれば、想像がしやすく、作られた物語だったとしても視聴者は信じてしまいがちである。事実とは異なる内容であっても、そのキャラクターを脳内で動かして、その情報を信じてしまうのだ。ガーシーはその手法で自身の認知度も高め、参議院議員にまでなっている。

その〝信じやすいリアリティショー〟が芸能界の範囲を越えて、政治・選挙の世界にまで影響を及ぼしている。

2025年の自民党総裁選では、高市陣営が、有力な対立候補だった小泉進次郎・林芳正を中傷する動画を、2026年の衆議院議員選挙では岡田克也や枝野幸男など中道改革連合の重鎮議員を中傷する動画を作成していたと報じられている。小泉に「世襲の操り人形」「日本経済を殺す気か」、枝野を「プロのクレーマー」岡田に「息を吐くように嘘をつく」と強い言葉が並ぶ。中には公職選挙法違反を指摘するような、事実と異なる投稿もあった。ここで挙げたターゲットにされた人物は、それぞれの選挙で全員落選している。

高市陣営の動画キャンペーンを手伝ったとする起業家の男性は「選挙の流れを決めるのは、質より数」として「対立候補へのネガティブな内容のほうが(中略)より効率的」と語っている(週刊文春 2026年5月7日・14日合併号)。

自分のポジティブな面を周知してもらうよりも、対立候補のネガティブな面を周知させる方が、勝つためには効率的ということだろう。「ひとつひとつの動画を練るより、投稿する量を増やすことが大事」として、総裁選時には、男性の会社だけでも、一日におよそ100本から200本のショート動画を投稿したという。作成にはAIも使用されており、多くの動画が量産され、「質より数」を担保することは容易な状況なのだ。

その意味でも、時間をかけてポジティブな面が周知されていった小川淳也のドキュメンタリーと、このSNSでの動画投稿は対極にあるといってもいい。正直者の気持ちが届くのはあくまで〝いつか〟であって〝すぐに〟ではない。

ポジティブなことはじっくりとしか広まらないが、ネガティブなことは一気に広まっていく。仮にそのネガティブなことがフェイクであってもだ。これは、常に大衆によって刺激を求められ、刺激があるほど数字が上がっていくメディアの構造的な問題点と言ってもいい。

件の男性はこうも語っている。

「大事なのは、とにかく量を増やし、SNSのアルゴリズムを変えること。(中略)アルゴリズムを動かし、世論を“作れる”のです」(週刊文春 2026年6月4日号)

ミスキャン・政治家……「好感度が下がっても売名したい」人たちの交差点     『恋愛病院』

これまで、SNS上で様々なゴシップをリアリティショー的に見つめる人の話から、ミスキャンや政治家など、自らショーの世界に飛び込んだり、もしくは自らショーを作り出してしまうような人々の話を見てきた。2026年、それらが交差したような、悪魔合体とも言える恋愛リアリティショーが誕生した。ABEMAの『恋愛病院』で、プロデューサーを務めるのはReHacQの高橋弘樹だ。

この番組が最も耳目を集めたのは、石丸伸二の出演だ。政治の世界で、自らリアリティショー的な手法で注目を集めて票を伸ばし、さらに党を作った際にはYouTube上でオーディション番組のように候補者を決めるショーを主催した張本人。新党がうまくいかず、政治家としての勢いが衰えたところで次に選んだのが、リアリティショーそのものへの出演という3重くらいに反転している話である。

他の出演者も〝一般人〟が出演する恋リアとは一線を画している。まずは、先に紹介した、ミス東大のコンテスト中に、運営を告発する〝リアリティショー〟を行った神谷明采。さらにお世辞にも上品とは言えないYouTubeのビジネス系リアリティショー『令和の虎』で知名度を上げた男性にインフルエンサーに……と、リアリティショー的な手法もしくは、リアリティショーそのもので知名度を上げた人たちがならぶ。

政界からは石丸だけではなく、現役の西東京市の市議会議員の女性も参加する。さらには、ミスFLASH2007で元グラビアアイドルの辰巳奈都子や、『ごくせん(第2シーズン)』に出演した俳優の石黒英雄と、失礼な言い方ではあるが、2026年の時点では「あの人は今」的な立ち位置になっていた芸能人も参加。少し昔のマスメディアで知名度を上げた人物に、近年SNSやYouTube上で知名度を上げた人、そして政治家が参加しているというカオスな恋リアなのだ。

番組は彼ら「本気の恋を忘れたワケあり男女10人」が沖縄で2泊3日を共にするというものだが、結果、カップルが成立するわけでもなく、正直、恋リアとしての面白さには欠ける番組ではある。

だが、ひとつ番組内で重要な言及が行われる。それは出演者同士の「売名なのか」という議論である。

それは、キスシーン後の男性出演者が「フォロワー減るかも、ファン減るかもって不安になってる」と発言したことに端を発する。それを聞いたキスの相手の女性が、翌日出演者が一同に介した場で「みんな、売名なん?」と涙を流す。男性陣は慌てるかのように「(恋愛を)しにきたよ」と次々と否定。そこに石黒秀雄が加わり「僕はちゃんと恋愛しにきた」と自身の売名を否定し、自身とデートを重ねてきた別の女性メンバーに「そっちが売名行為じゃない?」と水を向ける―という泥沼の展開である。恋リア内で「売名のために参加しているのか?」という出演者による議論が行われるという異例の事態だ。

売名目的に恋リアに出演していないか―。

これは、すべての恋リア出演者が突きつけられている問いではある。

参加者は、恋愛をしにきている前提で参加するため、視聴者も没入することができる。出演者の思惑はそれぞれだろうが、あくまで、〝恋愛をしにきている〟前提で出演者は振る舞い、それに視聴者が感情を動かされるのが恋リアである。

恋リアの持つ暗黙の了解を打ち破るタブーに自ら触れ、番組で流す――そのこと自体が視聴者を冷めさせるリスクをはらみながらもメタ的な視点を提供する異例のものである。このメタ視点の提供がプロデューサーの高橋の狙いなのではないかと勘ぐってしまうほどに、この番組自体がメディア論のようだ。

だが、この番組でこのやり取りがより真に迫るのは、ここにいる全員が〝知名度が上がることで得をする人物〟だからである。政治家は票数に、インフルエンサーはフォロワー数に、YouTuberは再生数に……知名度が上がれば数字になって跳ね返ってくる。そしてそれが必要なのは、オールドメディアで注目を浴び、一度は忘れさられた芸能人とて同じなのだということは辰巳や石黒の出演が証明している。知名度が上がることの旨味を知っている人物たちがこの番組の出演者になっているのである。

「知名度があればあるほうがいい」世界を生きる人たち

「悪名は無名に勝る」という言葉がある。

「フォロワー減るかも」発言が象徴的だが、恋リア出演というのは知名度こそ上げてくれるものの、好感度は下がる可能性のある諸刃の刃であるといってもいい。この発言はカットもできたはずのものを番組側があえて公開したものだ。他にも、石丸が「この演出よ……最後の最後まで僕をイラつかせましたね。ほんと見事です。クソみたいな構成でした」と番組スタッフに怒りを露わにするシーンまで使われている。双方ともに、出演者の好感度は下がるはずだ。

リアリティショーでは出演者が編集権を握っていない以上、番組出演によって上下する好感度をコントロールすることは不可能と言っていい。

それでもなぜ彼らは番組に出るのか――。仮に自分が得たものが〝悪名〟だったとしても、それは無名に勝るということに自覚的な面々だからではないだろうか。

自分が怒っている場面を他人に見られたいと思う人は一般的にはそう多くはないだろう。それは〝悪名〟に変化する可能性があるからである。一瞬の怒っている瞬間を見られて「あの人は常に怒っている」などと思われて噂を流されては大変――というのが市井を生きる人々の感覚だろう。

だが、石丸には、仮に自分が怒っている場面でさえ、知名度を上げ、支持を得るには有効という感覚がこれまでの選挙戦の中で身についているのではないだろうか。例えば、たまたま怒っている石丸を目にした人の中に、「権力に立ち向かっている人」「珍しく強い意志を持った政治家」といったイメージを自分の中で醸成して支持にまわった人がいるような実感を得ているのかもしれない。番組内での「僕をイラつかせましたね」「こんなひどい演出・構成って考えられるんだな」と怒る発言も、多く拡散されていたが、それを見て、9割方の人が「ヤバい人だな」くらいの感想しか持たなかったとしても、一部には「メディアに物を申せる人」というイメージを持った人もいるだろう。

仮に一部の好感度が下がろうとも、知名度が上がっているほうが自分の人生を展開させるのには有利―そのような感覚が政治の世界・ネットの世界・芸能の世界で生きる彼らには染み付いているのではないだろうか―。

そう考えると、ミス東大の神谷が「最終搭乗案内を聞いてからダッシュして飛行機に乗って間に合った」という〝迷惑かけ自慢〟をXにポストして炎上した件も腑に落ちる。そんな自分の好感度を落とすかもしれない行為をわざわざSNSで公開するなんて理解できないかもしれないが、「悪名は無名に勝る=多少の好感度よりも知名度が大事」という感覚をもってすれば、息を吐くようにできてしまうことなのである。

もちろん、これは特殊な世界に生きる、〝知名度があればあるほどいい人たち〟の話である。

以前、バチェラーシリーズに参加した女性出演者が配信後に番組の編集に対しSNS上で文句を言い、物議を醸したことがあった。彼女は、出演によって知名度は上がったものの、それと引き換えに落ちていく好感度に耐えられなかったのではないだろうか。

知名度が上がることは約束されている。だが、自分の映っている映像の編集権を他人に渡すというのは、大きなリスクを伴うものである。

バチェラーとしての出演オファーがあったものの、悩んだ末に断ったという医師の男性は、その理由をこう語ってくれた。

「僕が自分で開業していたり、経営者だったら、知名度が上がることによるメリットがたくさんあると思うんです。自分の病院に患者さんが殺到したりとか(笑)。でも、僕の場合は、勤務医なので、出演しても青天井に儲かるようになるわけでもない。むしろ周りの医者に色眼鏡で見られてやりづらくなるかな、って」

とても聡明な判断である。彼は〝知名度があればあるほどいい〟世界には生きておらず、それを自覚しており、自分の周囲の好感度が下がるリスクと天秤にかけ出演しない判断をしたと言い換えることもできる。

思えば、バチェラーはほとんど経営者で、唯一の医者は、共立美容外科の御曹司。CM出稿もしている、すなわちお金をかけても認知が欲しい〝知名度があればあるほどいい〟人なのである。

(次回へつづく)

 第8回
リアリティショー化する社会

いま世界中でさまざまなヒットコンテンツが生まれている「リアリティーショー」。恋愛、オーディション、金融、職業体験など、そのジャンルは多岐にわたり、出演者や視聴者層の年齢も20代のみならず50代・60代以上にも開かれつつある。なぜいまリアリティショーが人々に求められているのか。芸能コンテンツの批評やウェブメディアの運営を行ってきた著者が代表的な番組を取り上げながら、21世紀のメディアの変遷を読み解く。

プロフィール

霜田明寛

しもだ あきひろ

エンタメライター、編集者。1985年生まれ、東京都出身。早稲田大学商学部卒業。9歳でSMAPに憧れ、18歳でジャニーズJr.オーディションを受けた「元祖ジャニオタ男子」。大学在学中に執筆活動をはじめ、3冊の就活・キャリア関連の著書を出版した後、タレントの仕事哲学とジャニー喜多川の人材育成術をまとめた4作目の著書『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書・2019)を発売。3万部突破のロングセラーとなり、今も版を重ねている。カルチャーWEBマガジン「チェリー」の編集長を務めるなど、エンターテインメント全般に造詣が深く、テレビ・ラジオをはじめ多くのメディアに出演・寄稿している。また、音声配信サービス・Voicyでの自身の番組『シモダフルデイズ』は累計再生回数250万回・再生時間 20 万時間を突破し、人気パーソナリティとしても活躍中。近刊に『夢物語は終わらない ~影と光の”ジャニーズ”論~』(文藝春秋)。

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