なぜ極右の躍進は止まらないのか フランスから考える 最終回

なぜ極右は矛盾だらけなのか

森野咲

フランス在住の森野咲が、現地での最新の研究や報道の成果をもとに、極右の成長、定着の背景やメカニズムを明らかにする連載の最終回。
これまで取り上げたように、矛盾にあふれた存在である極右。この「矛盾」こそが極右の強さでもあり、弱さでもある。
なぜ極右の躍進は止まらないのか。止められるとしたらどのような方法があるのか――。歴史研究や哲学研究の蓄積も参照しながら、大きな問いに挑む。

極右は矛盾だらけ

 極右とは矛盾のかたまりである。「極右」と呼ばれるのを嫌う割に、過激さを完全に脱ぎ捨てることはしない。政権を担える普通の政党になりたいが、既成政党と同じにはなりたくない。「エリート」に反発するが、「弱者」にもなりたくない。極右は、国家に対しても、相反する要求を突きつける。減税や規制緩和を訴えながら、自国の産業や労働者をもっと保護せよと迫る。官僚や公務員には不信感を抱きながら、警察や国境管理は強く支持する。高速道路の国有化を求めながら、公共放送の民営化を提案する。主流メディアを批判しながら、そのメディアを自分たちのものにしたいと考えている。

 極右はときに自由と寛容を掲げながらその自由と寛容の名の下に他者を排除する。文化の多様性を尊重すると言いながら、多文化共生は拒絶する。女性の活躍を望みながら、女性を従属させるジェンダー秩序は守りたい。自然や土地に根ざした暮らしを称える一方で、気候変動対策には反対し、大規模農業や化石燃料産業を支持している。

 つまり、極右の思想は、右足でアクセルを踏み込みながら、左手でサイドブレーキを引いているようなものである。自由を掲げながら規律や権威を求め、最新技術に憧れながら過去への回帰を夢見ている。極右の正体を突き止めようとしても、その姿は変幻自在だ。人々はそこに、それぞれが見たいものを見たいように見いだすことができるのである。

 では、極右の思想の矛盾をひとつずつ指摘し、「正しい思想」を人々に説いて回れば、極右の台頭は止めることができるのだろうか。極右の思想を、「ご都合主義」と笑うことは簡単である。しかし「一貫していない」「合理的ではない」と批判するだけでは、なお肝心な問いが残る。なぜ、これほど矛盾に満ちた主張が一つの政治運動としてまとまり、人々を引きつけているのか。

 この問いを考える手がかりになるのが、イタリアの初期ファシズムである。イタリアのファシズムは、はじめから確固たる教義を持っていたわけではなく、その教義は二転三転していった。しかも、興味深いことに、こうした「矛盾」を欠点ではなく強みとして語っていたのは、ほかならぬファシズムの指導者自身であったのだ。

矛盾こそがファシズムの強み

 時計の針を百年前に戻そう。ムッソリーニは1921年の論考「相対主義とファシズム」で、ファシズムとは「貴族政治でも民主主義でもあり、革命派でも反動派でもあり、プロレタリアでも反プロレタリアでもあり、平和主義者でも反平和主義者でもある」と書いていた。ムッソリーニにとって、ファシズムとは究極の相対主義であり、通常なら両立しない立場を取れることこそが、その特徴であり、強みであった。

 その言葉通り、イタリアの初期ファシズムの綱領は、擬似社会主義から擬似自由主義へ、そして国家主義へと旋回していった。ファシズムは「国民=ネーション」を拠り所に、矛盾する立場を横断する。このように自由自在に姿を変えるファシズムを「カメレオン」になぞらえていたのは、イタリア共産党の指導者トリアッティである。彼は『ファシズム講義』のなかで、「ファシスト・イデオロギーは、一連の異質な要素を含んでいる」と指摘し、それを「堅固に形成され、完成された、均質なものとみなす傾向」に警鐘を鳴らしていた。

 しかし、ファシズムには異質な要素が混在しているのにもかかわらず、なぜ運動はばらばらにならないのか。フランスで活動したマルクス主義者プーランツァスは、ファシズム特有の矛盾する主張の混合が、むしろ異なる階級を動員するうえで重要な機能を果たすことを指摘している。労働者、農民、中小企業の経営者、大資本家では、不満の対象も望む救済も異なり、それぞれの要求はしばしば対立する。そこでファシズムは、階級に応じてその言説を変調させ、同じ言葉に異なる意味を持たせながら、それぞれに異なる約束をするのである。

 たとえば、「コーポラティズム(協同主義)」という言葉一つとっても、相手によってその意味合いを変えることができる。労働者にとってそれは経営者を従わせることのできる「労働者による管理」であり、農民にとっては都市による農村の搾取に対抗する共同体である。小ブルジョワジーにとってそれは、ギルドや職人組織の時代への郷愁を呼び起こさせる。同じ「コーポラティズム」を支持していても、そこに託すビジョンはこれだけ異なっているのである。このようにしてファシズムは「民衆の根深い願望」を歪めながら回収していくのである。

 このように考えると、ファシズムの矛盾した思想は、単なる「未熟さ」ではなく、むしろ、それは異なる願望を取り込むための「構造化された不整合」である。もちろん、矛盾していればそれだけで有利になるわけではない。しかし、異なる願望を一つの運動へと結びつけるかぎり、非一貫性は政治的な資源となり、支持を動員する力になる。

 しかも、ファシズムが取り込む矛盾は、異なる階級のあいだだけに存在するわけではない。「大資本には反発するが、自分の財産や経営者としての地位は守りたい。競争に苦しみながら、その競争を通じて成功することも望んでいる。」――こうした相反する願望は、一人ひとりのなかにも共存しているからである。

現状維持的資本主義

 たとえば、大企業との競争にさらされる小商店主や、小さな工房を営む職人を考えてみよう。大資本の力は抑えてほしい。しかし、自分の店や仕事場を手放し、雇われる側になることは望まない。競争に苦しみながらも、公正な競争であれば、自分も成功できるはずだと考えている。

 資本主義を変えたいが、そのなかで手にしてきたものは失いたくない――プーランツァスは、小商店主や職人などの小ブルジョワジーにしばしば見られるこの志向を、「現状維持的反資本主義」と捉えた。そこで目指されているのは、私有財産や競争の廃止ではなく、独占によって損なわれた「公正な競争」や「平等な機会」の回復である。

 彼らは既存のエリートを批判しても、社会の上下関係そのものをなくしたいわけではない。自分たちにも上へ進む道が開かれ、有能な者が現在のエリートに取って代わることを望んでいるからだ。プーランツァスは、こうした上昇への期待を「橋の神話」と呼んだ。自らもエリートの側へ渡る「橋」を求めるからこそ、反エリート感情とエリート主義は奇妙に両立するのである。

 大資本に圧迫されながら、労働者へと転落することも恐れる小ブルジョワジーにとって、国家はそのどちらにも偏らない中立的な仲裁者として映る。国家が介入して大資本の力を抑えてくれれば、没落を食い止められるのではないか。そんな期待が、やがて国家そのものへの崇拝へと転じる。

 ファシズムは、こうした大資本への反発と国家への期待を取り込み、銀行やチェーン店などの「悪い資本」への攻撃へと向ける。しかしプーランツァスによれば、そこで起きているのは、小ブルジョワジーの思想を前面に押し出しながら、その背後で大資本の論理を支配的なものにすることである。小商店主たちが支持しているのは、あくまで自分たちを守ってくれると信じた国家である。だが、その国家が大資本の利益を支えるなら、国家への支持を通じて、大資本への反発さえも結果的にはその支配を支える力へと組み込まれていく。

 このような現状維持的資本主義を支える「地位への執着」と「転落への不安」は、戦後の極右を考えるうえでも重要である。ドイツの哲学者アドルノが、1960年代の西ドイツにおける極右台頭の背景として指摘したのは、人々を覆う慢性的な不安であった。ナチ体制が崩壊しても、ファシズムを可能にした社会的条件まで消えたわけではなかった。資本の集中は、一定の社会層に地位の低下という恒常的な不安をもたらし、人々はその地位や特権を守ろうとするからだ。

 重要なのは、必ずしもすでに「転落」した人々が極右に引きつけられるわけではないということだ。経済繁栄や完全雇用のもとでも、「自分はいずれ機械に取って代わられて不要になるかもしれない」という不安は残り続ける。いま現在仕事を持っている人でさえ、自分を「潜在的な失業者」のように感じうるのだ。アドルノによれば、 極右が躍進するのは、こうした「恐怖の先取り」をするからである。極右は、危機が起きた後に現れるだけではない。むしろ、「このままでは自分たちの地位や生活が失われる」という予感を取り込み、それに秩序や安定を取り戻すという約束を与えることで力を得るのである。

矛盾しているのは、ファシズムだけではない

 ファシズムを支える人々の矛盾した願望は、単なる意識の混乱から生まれるのではない。人々は資本主義のなかで財産や地位を獲得しながらも、まさにその資本主義によって生活基盤を脅かされてもいる。現状への反発と、その現状を維持しようとする欲望は、私たちが置かれているこうした社会的な立場に根ざしているのである。

「資本主義について語ろうとしない者は、ファシズムについても沈黙すべきである」――これはドイツの哲学者ホルクハイマーの有名な言葉である。私たちはついつい、「個人の自由」といったようなものをファシズムの唯一の対抗馬であるかのように考えがちである。しかし、ファシズムが取り込む不満や救済への願望が、自由主義的な資本主義の内部から生まれるのなら、ファシズムに対する問いは、資本主義自体にも向けられるべきではないか。

 デヴィッド・ハーヴェイが「資本の17の矛盾」を論じたように、そもそも資本の循環と蓄積という運動そのものが矛盾だらけである。資本主義は生産力を拡大させる一方で、その発展を利潤が得られるかどうかという基準に従わせる。そのため、資本が増えることと、人々の暮らしが維持されることは、必ずしも一致しない。利潤を増やすための行動が、かえって自らを成り立たせている条件を損なうことにもなるのである。

 たとえば、企業は賃金を下げようとするが、賃金が下がりすぎれば、商品を買う人々の購買力も弱まる。企業は競争に勝つために技術革新によって労働者を減らそうとするが、その労働者は価値を生み出す担い手であり、消費者でもある。資本は場所に縛られることなく自由に移動しようとするが、その循環を支えるためには、工場や道路といった、特定の場所に固定された巨大な設備が必要になる。こうした矛盾が危機として表面化するたびに、資本主義は制度や技術、経済政策を変えることで危機を乗り越えようとしてきた。しかし、その解決もまた、新たな矛盾を生み出していく。

 こうした資本主義の矛盾から生まれる不満や不安は、ファシズムのエンジンとなる。では、なぜこうした不満や不安は、しばしば民族や伝統的な家族への強い帰属願望や、それらを理想化する神話への傾倒と結びつくのだろうか。古い共同体や社会関係を解体していく資本主義のただなかで、それらの「復活」を掲げる政治が力を持つのはなぜだろうか。

資本主義の矛盾した時空間

 ファシズムは、しばしば民族的・神話的な過去への回帰や伝統の復活を掲げながらも、他方で戦争、技術革新、国家機構の再編成などを通じて、急進的な近代化を推し進める。つまり、古い秩序を取り戻そうとする運動が、同時に社会を新しく作り替えようとする運動にもなるのである。したがって、ファシズムを単純に「反動的」とも「進歩的」とも分類できない。ファシズムとは、いわば「過去へと突進する未来」であり、同時に「未来を装った過去への逃走」でもあるのだ。

 こうしたねじれを考える手がかりとなるのが、ドゥルーズとガタリによる資本主義の分析である。彼らによれば、資本主義とは、既存の秩序を絶えず解体しながら、同時に新たな秩序を作り出す運動である。資本主義は、一方で土地や血縁、身分に基づく古い結びつきを解体し、人間や資本、労働力を流動化させる。しかし、そうして解き放たれた流れは、再び新たな所有関係や制度、国家や国民といった枠組みのなかに組み込まれていく。ドゥルーズガタリはこうした古い結びつきを解体する運動を「脱領土化」、それを別の仕方で結び直す運動を「再領土化」と呼んだ。

 重要なのは、脱領土化と再領土化が、単純に前後する二つの段階ではないということだ。資本主義が古い秩序や慣習を壊した後で反動として秩序の回復が求められるのではなく、解体と再編成は、むしろ同じ過程のなかで進んでいる。 したがって、グローバルな生産やコミュニケーションの拡大と、民族や国境をめぐる排他的な分断の強化は、相反する現象ではない。

 ドゥルーズは、ファシズムを「ある種の大衆の再領土化の過程」と表現している。資本主義が従来の共同体や帰属関係を解体するなかで、ファシズムは民族、国家、人種、権威といった新たな帰属先のもとに大衆を組織し直す。ただし、それは資本主義の運動を止め、かつての共同体を復元することではない。その運動のただなかで、大衆を新たな帰属へと結び直す「恐るべき」再領土化なのである。ファシズムは近代化の外からやってくる単なる反動ではない。過去への回帰と近代化は、お互いを打ち消しているのではなく、むしろ同じ運動の両面なのである。

 近代化と復古主義が、別々の動きではなく同じプロセスであることについては、日本の哲学者・戸坂潤も鋭い分析を残している。戸坂が着目したのは、都市化や人口移動、資本主義の発展によって旧来の家族制度が解体されていく一方で、かえって国家を一つの巨大な家族に見立てる「家族主義」が、政治的なイデオロギーとして強調されるという逆説であった。

 戸坂は、当時の家族主義イデオロギーが、現実に失われつつある家族制度をそのまま復活させようとするものではなかったということを指摘している。日本主義者たちは、どれほど古代への回帰を唱えても、近代的な工業技術や自然科学、生産機構まで古代に戻そうとはしなかった。現実の経済や国家機構では、むしろ近代化が推し進められ、原始化されるのは主として思想や道徳、文化、政治理念の領域に止まっていた。

 つまり、復古主義は近代化に取り残された「古いもの」がそのまま生き残った結果ではない。むしろ近代的な社会を維持し、再編するためにこそ、祖先や血族、共同体、神話といった古来の観念が新たな意味を与えられて呼び戻されるのだ。現実の社会は未来へ進みながら、その秩序の正当性を過去に求める。この現実と観念のねじれにこそ、戸坂は反動的復古主義の本質を見いだした。つまり、復古主義とは、単に前近代的な思想や価値観が近代社会のなかに生き残ったものではない。それは、発達した近代資本主義が、現代的な政治目的のために新たに作り出した、それ自体がきわめて近代的なイデオロギーなのである。

同じ時代に、異なる時間を生きる

 近代化によって古い社会関係が解体されているにもかかわらず、なぜ「過去」はこれほど強い政治的な力を持ちうるのか。これを、資本主義社会に固有の「時間」の問題として考えたのが、ドイツの哲学者エルンスト・ブロッホである。

 資本主義の発展は決して均一ではない。近代的な生産関係や生活様式が広がっても、それ以前の社会に由来する慣習や価値観、意識がすべて消滅するわけではない。ブロッホは、このように同じ社会のなかに異なる歴史的時間が重なり合う状態を「非同時性」と呼んだ。つまり、同じ時代を生きる人々が、必ずしも同じ歴史的時間を生きているわけではないのである。

 ブロッホが注目したのは、農民や中間層、小ブルジョワジーなど、資本主義の発展によって従来の生活基盤や社会的地位を脅かされた人々であった。彼らの不安や不満は、現在の経済的困難だけに対してあるのではなく、かつての共同体や生活様式への愛着や郷愁にも由来していた。ファシズムは、こうした「非同時的」な感情を民族や祖国の「再生」という物語へと組み込み、政治的な動員の力へと変えていった。

 ただし、ブロッホの議論で重要なのは、非同時性を単なる「近代化の遅れ」や反動的な意識として切り捨てなかったことである。過去に結びついた欲望のなかには、現在の社会では満たされていない希望や、いまだ実現されていないユートピア的な可能性も含まれている。したがって、非同時的な欲望は反動的な方向へ動員されることもあれば、現在とは異なる社会を求める革命的な力へと組み替えられる可能性もあるのだ。

 ファシズムの大衆的な魅力を理解するためには、それが人々の恐怖だけでなく、いまだ実現されていない未来への欲望をも取り込んでいることを見なければならない。しかし問題は、その欲望がどのような未来へと組織されるのかである。ファシズムは「再生」を約束する。しかし、その再生によって、人々の不安を生み出してきた社会の仕組みそのものは変わるのだろうか。それとも、別のものを変革しながら、その仕組み自体は生き延びるのだろうか。

資本主義が、資本主義を、資本主義から救う

 ファシズムは資本主義の生み出した危機を、資本主義そのものを変革することなく乗り越えようとする。これを哲学者アルベルト・トスカーノは、ファシズムを「資本主義が、資本主義を、資本主義から救う」ことの極限的な事例として捉えている。

 資本主義は格差や貧困、社会的不安定、生活基盤の解体などの危機を生み出す。そこでファシズムは、その根本にある生産や支配の関係を変革することなく、あくまで社会的な秩序を再編することによって、資本主義を存続させようとするのである。資本主義的な生産や競争は維持したいが、それらが生み出す不安定さや社会的な解体だけは取り除きたい。ここにあるのは、いわば「資本主義なき資本主義」を求める欲望である。

 そのためにファシズムが行うのが、資本主義の生み出す危機の原因を、特定の「敵」へと転嫁することである。市場や貨幣、資本蓄積といった仕組みは、人々の生活に現実の影響を及ぼしているにもかかわらず、その支配のあり方は匿名的で、捉えどころがない。ファシズムは、こうした顔の見えない関係を、「特定の集団が社会を操っている」という説明へと置き換える。

 生活の困窮や社会的不安に対する怒りは、資本主義の構造そのものではなく、移民やユダヤ人、「グローバリスト」、フェミニスト、左翼などへと向けられる。歴史的な反ユダヤ主義はその典型であり、資本の匿名的な働きが、人種化された特定の集団の意図や陰謀へと帰責された結果である。こうして資本主義に対する不満を動員しながら、その根本的な変革は回避される。むしろそれらを根本的に問い直す社会主義や共産主義の側が、秩序を脅かす敵として位置づけられるのである。 したがって、ファシズムの「反体制」的な性格を、既存の支配関係への挑戦とみなすべきではない。ファシズムは既存の政治エリートや社会秩序を激しく攻撃し、根本的な変革を約束する。しかし、政治的な秩序を作り替えることと、経済的な支配関係を変革することは同じではない。問うべきなのは、何を破壊しようとしているのかだけではなく、その変革のなかで何を犠牲にし、何を温存しようとしているのかということである。

ファシズム化する共食い資本主義

 ファシズムが資本主義を「延命」させるとき、その矛盾や危機の負担はどこへ向かうのだろうか。ここで手がかりとなるのが、ナンシー・フレイザーの『共食い資本主義』である。

 フレイザーによれば、資本主義は市場や賃労働だけで成り立っているのではない。資本主義が依存しているのは、家事や育児、介護といった社会的再生産、人種化された人々からの収奪、資源を供給する自然、そして経済活動を支える公的・政治的権力という四つの領域である。資本主義は、それらに支えられているにもかかわらず、同時にそれらを食い荒らし、自らの存続条件を掘り崩していく。

 この観点から見ると、ケアの危機、人種化された収奪、環境危機、民主主義の危機といった問題は、ばらばらのものではない。それらはいずれも、資本主義が自らを支える条件を食い潰していく「共食い」の異なる現れである。では、ファシズム的な政治は、こうした自己破壊的な矛盾をどのように処理するのだろうか。

 まず、社会的再生産である。資本主義は家事や育児、介護などの再生産労働に依存しながら、こうした無償労働の多くを家庭や女性に押しつけることで「ただ乗り」してきた。さらに、緊縮政策による公共サービスの縮小や家計債務の増大は、生活の基盤をいっそう不安定にする。ベロニカ・ガーゴが「社会的再生産のファシズム化」と呼ぶのは、こうした危機への対応が、フェミニズムやジェンダー平等への攻撃と結びついていくことである。ファシズムは生活を支える条件を社会的に整える代わりに、「伝統的な家族」の回復を掲げ、ケアや扶養の責任を再び家庭、とりわけ女性へと押し戻すことで、搾取をいっそう強めるのである。

 次に、人種化された収奪である。ルース・ウィルソン・ギルモアの人種資本主義(レイシャル・キャピタリズム)の議論が示すように、人種主義は単なる偏見ではなく、物質的な収奪や支配を支える仕組みでもある。ファシズムは移民や人種化された集団を社会的危機の原因として攻撃し、彼らからの搾取を強めることで「国民の生活を守る」と主張する。つまり、誰が保護され、誰が収奪や排除の対象となるのかを人種的な境界によって区別し、特定の集団にだけ「平等の幻影」を与えることで、既存の経済的支配関係を維持しようとするのである。

 第三に、自然である。資本主義は自然を生産の不可欠な条件として利用しながら、その再生能力を損なっていく。アンドレアス・マルムが「化石ファシズム」という言葉で捉えるのは、気候危機が深刻化するなかでも、化石燃料に依存した蓄積や生活様式を手放すのではなく、それを極右的な政治によって防衛しようとする動きである。そこでは、気候変動に伴う移住や資源不足への不安が、国境管理の強化や排外主義に変換される。危機を生み出す経済構造は温存され、そのコストが移民やグローバル・サウスへと転嫁されるのである。

 最後に、公的・政治的権力である。カール・ポランニーが注目したのは、発達した資本主義のもとで、経済を支配する財産所有者と、普通選挙を通じて政治的な力を持つ多数者とのあいだに緊張が生じることであった。労働者は失業や賃下げから生活を守るため、民主主義を通じて市場への介入を求める。一方、財産所有者にとって、そうした介入は経済的な支配への制約となる。ポランニーは、この行き詰まりに対するファシズムの「革命的解決」を、資本主義を残すために民主主義を犠牲にすることだと捉えた。労働者の組織化や政治参加を抑え、経済的な支配関係を民主的な決定から切り離すことで、政治秩序を根本から作り替えながら、資本主義そのものの変革を阻止するのである。

 こうして見ると、四つの領域のファシズム化に共通しているのは、危機そのものを解消する代わりに、誰を内側に置き、誰を外側へ押し出し、その負担を負わせるのかという境界を引き直すことである。こうした「境界のファシズム」は、国境だけでなく、国民と移民、さらには家族のあり方やジェンダー、身体をめぐる区分にまで及ぶ。ファシズムが掲げる「革命」や「再生」は、資本主義の矛盾を解決するのではなく、その矛盾やコストを、再編された境界の外側へと押しつけることで資本主義を救済しているのである。

ファシズムと極右は違うのか

 ただし、現代の極右を理解するには、戦間期のファシズムとの類似点を列挙するだけでは不十分である。「ファシズム」という言葉の意味を広げすぎれば、それぞれの政治現象の違いが見えなくなり、かえって分析として弱くなりかねない。一方で、現代の極右が戦間期のファシズムと同じ姿をしていないからといって、歴史的な連続性や、形を変えて受け継がれてきた政治の仕組みまで無視することもできない。

 戦間期のファシズムと現代の極右は、どちらも資本主義の危機が生み出す不満や救済への願いが、人種的な排除や平等への敵意と結びつき、既存の支配関係を支える力へと組織されていくプロセスであるという点で共通している。歴史上のファシズムと現代の極右の連続性は、単に同じものが繰り返されているかではなく、こうした構造がそれぞれの時代にどのような形で現れるのかという点から考える必要があるだろう。

 現代の極右は、ファシズムに歴史的なルーツを持ちながらも、そこから一定の距離を取り、共和主義、民主主義、国家主権、社会保障、女性の権利といった理念を新たに取り込みつつある。こうした「ポストファシズム」は、過去と完全に断絶したものでも、その単純な再来でもない。それは古いファシズム的な遺産と新しい思想的要素が不安定に共存する形態であり、政治的危機や急進化のなかで、再び戦間期のファシズムのような方向へ転じる可能性も残されている。

 また、戦間期のファシズムが現実として起こりうる共産主義革命への対抗という性格を強く持っていたのに対し、今日の極右の前に、資本主義を直接脅かす革命勢力が存在しているわけでもない。それでもトランプが「共産主義の脅威」を煽るように、極右はリベラルな改革や人種・ジェンダー平等の要求までをも、既存秩序を破壊する革命的な脅威として描き出す。かつての「予防的反革命」は、今日では改革の可能性そのものを封じる「予防的反改革」へと姿を変えているのである。

 こうした連続性と変化を踏まえるならば、反ファシズムの課題も、単に歴史的ファシズムの「再来」を阻止することには尽きない。むしろ問われるのは、ファシズム的な政治を繰り返し生み出す社会的条件そのものである。その意味で、反ファシズムを資本主義批判から切り離すべきではない。ファシズムへの対抗を優先するあまり、リベラル派や保守派と「極右防波堤」のもとで資本主義批判を後景化させれば、ファシズムを生み出す根本の原因である資本主義の矛盾や危機は手つかずのまま残される。とりわけ、進歩的新自由主義との連携は、結果として既存の秩序を守る側に立ち、その秩序が生み出す不満の受け皿を極右に独占させてしまうことになりかねない。

 だからこそ、私たちは「最悪の事態」を阻止するための防衛的な闘いにとどまるべきではない。資本主義の危機が生み出す致死的で自滅的な支配や収奪と、このヒエラルキーの中で、わずかでも権力や優越感の分け前にあずかろうとする「小さな株主」になることへの憧れそのものを解体し、別の生き方や社会的関係を集団的につくり出すこと。そして絶望や喪失、不安を極右に明け渡すのではなく、それらを別の社会をつくる創造力へと組織し直すこと。反ファシズムと資本主義そのものの問い直しは、切り離すことのできない一つの闘いなのである。

参考文献

Benito Mussolini, “Relativismo e fascismo,” Il Popolo d’Italia, no. 279, 22 novembre 1921.
Palmiro Togliatti, Lectures on Fascism, International Publishers, 1976.
Nicos Poulantzas, “On the Popular Impact of Fascism,” in James Martin (ed.), The Poulantzas Reader: Marxism, Law and the State, Verso, 2008.
Nicos Poulantzas, Fascisme et dictature, Seuil/Maspero, 1974.
Theodor W. Adorno, Le nouvel extrémisme de droite : une conférence, Climats, 2019.
David Harvey, Seventeen Contradictions and the End of Capitalism, Profile Books, 2014.
Gilles Deleuze, “Cours du 18 janvier 1972,” Sur L’Anti-Œdipe I (1971–1972), WebDeleuze.
戸坂潤『日本イデオロギー論――現代日本に於ける日本主義・ファシズム・自由主義・思想の批判』白揚社、1936年〔増補版〕。
Ernst Bloch, Heritage of Our Times, trans. Neville and Stephen Plaice, Polity Press, 1991.
Alberto Toscano, Fascisme tardif, La Tempête, 2024.
Nancy Fraser, Cannibal Capitalism: How Our System Is Devouring Democracy, Care, and the Planet—and What We Can Do About It, Verso, 2022.
Karl Polanyi, “Fascism and Marxian Terminology,” New Britain, vol. 3, no. 57, 1934.
Enzo Traverso, Les nouveaux visages du fascisme. Conversation avec Régis Meyran, Éditions Textuel, 2017.

「なぜ極右の躍進は止まらないのか フランスから考える」は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。
本連載は加筆のうえ集英社新書より刊行予定です。

 第11回
なぜ極右の躍進は止まらないのか フランスから考える

昨今、日本では排外主義や自国第一主義を掲げる政党が選挙で議席を伸ばしている。ヨーロッパをはじめとする世界各地での極右政党躍進の流れが、いよいよ到来したとの見方もある。では、極右の「先進地」とも呼べるヨーロッパでは、極右はどのように勢力を拡大してきたのだろうか? フランスの大学院で哲学を学ぶ森野咲が、現地での最新の研究や報道の成果をもとに、極右の成長、定着の背景やメカニズムを明らかにする。

プロフィール

森野咲

(もりの さき)

1996年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、大杉栄や石川三四郎に憧れて渡仏。パリ郊外サン=ドニにあるパリ第8大学哲学科の修士課程2年に在籍中。専門はフランス現代哲学。現在、『ふぇみん』に「極右とフェミニズムの不幸な結婚」を連載中のほか、自身のnoteで「極右の傾向と対策」と題したマガジンを発表している。

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なぜ極右は矛盾だらけなのか

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