時代は平成から令和へと移り変わり、今、日本のプロレス界は群雄割拠の時代を迎えている。数え切れないほどの団体が存在し、自称プロレスラーを含めると、何百人という男たちが夜な夜なリングに舞っている。
プロレスといえば、日本プロレス。レスラーといえば力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木……そして屈強・凶悪・個性的であり、大人のファンタジーに彩られた外国人レスラーたちとの死闘がその原点である。
そんなモノクロームに包まれた昭和プロレス草創期の世界を、徳光和夫は実況アナウンサーとして間近で体験、血しぶきが飛ぶ、その激しい闘いの数々を目撃してきた。果たして徳光はリング上、リング外で何を見てきたのだろう。
その血と汗と涙が詰まった、徳光のプロレス実況アナウンサー時代を、プロレスに関することだけはやたらと詳しいライター佐々木徹が根掘り葉掘り訊き出し、これまでプロレスマスコミなどが描き忘れていた昭和プロレスの裏面史を後世に残そうというのがこの企画、「徳光和夫の昭和プロレス夜話」である。
さあ、昭和の親父たちがしていたように、テーブルにビールでも置き、あえて部屋の電気を消し、ブラウン管の中の馬場と猪木のBI砲の熱き闘いを見守っていたように、パソコンなどの液晶画面に喰らいついていただきたい!
さて、どうやら月も満ちてきたようだ。そろそろ徳光さんとの夜話も幕を下ろす時間が迫ってきている。
となると、最後を飾る夜話は、昭和の日本マットを彩ってきた外国人レスラーたちとの素敵なエピソードにしたい。徳光さんといえば、白覆面の魔王ザ・デストロイヤー。バラエティ番組を通じてのデストロイヤーとの関わり合いで、徳光和夫はそれまでのアナウンサーのイメージを、よい意味で壊すことができたといってもよい。
本人はデストロイヤーとの四の字固めの攻防により茶の間の笑いを誘ったことで「ニュースを読めないアナウンサーになってしまった」と自虐的に振り返るけども、なんのなんの、先輩たちが成し遂げることができなかった、アナウンサーの可能性をガバッと切り開いたことは評価されるべき。そんな2人の間に、どんな夜話が秘められているか、今宵も胸が高まる。
ところで、プロレスファンなら、ザ・デストロイヤーの正体がディック・ベイヤーという名のアメリカ人であることは先刻ご承知のはず。しかしながら、そのディック・ベイヤーなる男が、いかにしてザ・デストロイヤーに変身したかについては、あまりよく知られていない。
そこでまたしても恐縮なのだが、6夜でも記した拙書『マスクマン伝説』(ワニブックス刊)で、そこらへんのところを訊き出しているので、追悼の意味も込め再録させていただく。
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グリーン・ボーイ時代は、素顔でファイトしていたのですか。
「そうだな、じゃあまずはデビュー戦の話から始めようか。1954年10月にオハイオ州のコロンバスで、素顔のディック・ベイヤーとしてデビューしたんだ。対戦相手もまだ4戦目のエド・ミラーでね、45分3本勝負だったんだけど、ふたりともスタミナの配分なんてわからなかったからな。1本ずつ取り合った後は、ただフラフラしていただけだよ」
それがどうして、マスクマンに変身したのですか。何かきっかけでも?
「1962年1月にロスのWWAでやらないか、と誘われて行ったんだ。で、もうブッキングしてあるというので対戦カード表を見せてもらったんだけど、どこにも私の名前がなかったのさ」
忘れられちゃったのかな。
「違うよ(笑)。その対戦カード表には私の名前の代わりに『ザ・デストロイヤー』と書かれていたんだ。で、サンディエゴでデストロイヤーとしてファイトしたのさ。それがザ・デストロイヤーの始まりなわけだ」
最初から、今のようなマスクでファイトしていたのですか。
「いや、毛糸でできたマスクとランニング、そしてタイツがドレッシング・ルームに用意されていたんだ。かぶると、カユくてカユくて(笑)。口にも鼻にも穴が開いてなかったしね」
それじゃオバケですよ。
「そのとおり(笑)。しかも、だ。タイツはキツくて股が締めつけられるし、オマケにそこらじゅう虫食いの穴ができてたんだ。“おい、これがデストロイヤーかよ。これじゃプアーマンじゃないか”って頭を抱えたよ」
プロフィール
1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。