宇都宮直子 スケートを語る 第16回

唯一無二

宇都宮直子

 さて、私の見た「全日本選手権での羽生結弦」だが、別の次元で生きている人のようだった。

 羽生は、

「自分が出場したことで、ちょっとでも何かの活力になれば。なんかの気持ちの変わるきっかけになれば」

 と語っているが、私は、あらためて彼が唯一無二の選手なのを感じる。

 羽生の発するエネルギーは、独特だ。人の心を束にして、一瞬で持って行く。人々はそれに抗えないのである。

 私は一昨年、心臓に不調を抱え、試合に行けなかった。ために、羽生を見るのは久しぶりだった。

 演技中は、何も思えなかった。過去、タチアナ・タラソワコーチが話していた状態だったのだと思う。

 曰く、

「私は完全に、羽生に魅了されています。まるで麻酔をかけられたように、身動きが取れないのです。

 食い入るように見つめるしかない。私にとって、彼はそんな存在です」

「天と地と」の演技後、私は隣席に座る編集者に言った。

「今日はとても幸せ」

 ほんとうに、そんな気分だった。羽生結弦のいるリンクのなんと豪華なことか。

 

 ビッグハットは、新型コロナ感染症の対策が成されていた。個人的には、NHK杯(大阪)よりもきちんとしていた気がする。消毒液が至る所に置かれていた。

 会場は集客が抑えられていたが、雰囲気がよかった。優しかったと思う。

 登場するすべての選手に、惜しみない拍手が贈られた。バナー掲出は許されていなかったが、客席のあらゆるところで静かに、思いを込めて振られていた。

 ショートの6分間練習の際、羽生が何かを短く言うのが聞こえた。

 普段耳にする、あの柔らかい声ではなくて、腹の底から出たとでも言うのだろうか。野太い声だった。

 フリーの6分間練習のときもそうだ。

 手を顔に近づけて、指先を見ながら小さく笑った。それから何かを言った。野太い声ではなく、普段の声で、である。

 私には聞き取れなかったが、編集者によれば、

「『鼻血が出た』って言っていませんでした?」

 ということだった。

 確認は取れていないが、そういう場面がたしかにあった。

 私は会場で、いつもと同じようにメモを取った。長い歳月、ずっとそうしてきた。でも今回、初めてのこともした。

 ノートに、私はこう綴っている。少し乱れた字で、

「高山さん、あなたの愛した羽生はこんなにも綺麗です」。

 

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宇都宮直子 スケートを語る

ノンフィクション作家、エッセイストの宇都宮直子が、フィギュアスケートにまつわる様々な問題を取材する。

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プロフィール

宇都宮直子
ノンフィクション作家、エッセイスト。医療、人物、教育、スポーツ、ペットと人間の関わりなど、幅広いジャンルで活動。フィギュアスケートの取材・執筆は20年以上におよび、スポーツ誌、文芸誌などでルポルタージュ、エッセイを発表している。著書に『人間らしい死を迎えるために』『ペットと日本人』『別れの何が悲しいのですかと、三國連太郎は言った』『羽生結弦が生まれるまで 日本男子フィギュアスケート挑戦の歴史』『スケートは人生だ!』『三國連太郎、彷徨う魂へ』ほか多数。2020年1月に『羽生結弦を生んだ男 都築章一郎の道程』を、また2022年12月には『アイスダンスを踊る』(ともに集英社新書)を刊行。
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