さて、私の見た「全日本選手権での羽生結弦」だが、別の次元で生きている人のようだった。
羽生は、
「自分が出場したことで、ちょっとでも何かの活力になれば。なんかの気持ちの変わるきっかけになれば」
と語っているが、私は、あらためて彼が唯一無二の選手なのを感じる。
羽生の発するエネルギーは、独特だ。人の心を束にして、一瞬で持って行く。人々はそれに抗えないのである。
私は一昨年、心臓に不調を抱え、試合に行けなかった。ために、羽生を見るのは久しぶりだった。
演技中は、何も思えなかった。過去、タチアナ・タラソワコーチが話していた状態だったのだと思う。
曰く、
「私は完全に、羽生に魅了されています。まるで麻酔をかけられたように、身動きが取れないのです。
食い入るように見つめるしかない。私にとって、彼はそんな存在です」
「天と地と」の演技後、私は隣席に座る編集者に言った。
「今日はとても幸せ」
ほんとうに、そんな気分だった。羽生結弦のいるリンクのなんと豪華なことか。
ビッグハットは、新型コロナ感染症の対策が成されていた。個人的には、NHK杯(大阪)よりもきちんとしていた気がする。消毒液が至る所に置かれていた。
会場は集客が抑えられていたが、雰囲気がよかった。優しかったと思う。
登場するすべての選手に、惜しみない拍手が贈られた。バナー掲出は許されていなかったが、客席のあらゆるところで静かに、思いを込めて振られていた。
ショートの6分間練習の際、羽生が何かを短く言うのが聞こえた。
普段耳にする、あの柔らかい声ではなくて、腹の底から出たとでも言うのだろうか。野太い声だった。
フリーの6分間練習のときもそうだ。
手を顔に近づけて、指先を見ながら小さく笑った。それから何かを言った。野太い声ではなく、普段の声で、である。
私には聞き取れなかったが、編集者によれば、
「『鼻血が出た』って言っていませんでした?」
ということだった。
確認は取れていないが、そういう場面がたしかにあった。
私は会場で、いつもと同じようにメモを取った。長い歳月、ずっとそうしてきた。でも今回、初めてのこともした。
ノートに、私はこう綴っている。少し乱れた字で、
「高山さん、あなたの愛した羽生はこんなにも綺麗です」。
ノンフィクション作家、エッセイストの宇都宮直子が、フィギュアスケートにまつわる様々な問題を取材する。